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20160701

何か変ですよ! 46: 様々な脅威 2






*1


今まで、交通事故、銃殺人、戦争勃発、原発事故の脅威について概観しました。
今日は、さらに深刻で避けがたい脅威について考察します。
前者は現実にある脅威なのですが、後者は地球上初めて起こるであろう脅威です。

はじめに
2010年12月に「アラブの春」が起きて、中東アラブは騒乱の渦に巻き込まれました。
この背景にこの地域の困窮や政治腐敗、市民意識や情報網の発達がありました。
しかし、さらには地球規模の穀物の高騰があったのです。

エジプトは必要な小麦の半分を輸入していますが、2010年に小麦価格が6年前の約2倍になっていたのです。
ただでさえ貧困ラインすれすれの生活をしていた若者は、耐えられない状況に追い込まれたのです。

近年、頻発する穀物価格の高騰はなぜ起こるのでしょうか。
地球温暖化による異常気象の頻発で、2010年にはロシアで干ばつが起き、これが上記の価格高騰の理由でした。
しかし米豪でも干ばつが繰り返され、収穫量は低下傾向にあり、高騰は続いています。



< 2. 小麦価格の高騰 >


今、世界で何が進行しているのか?
一つは、地球の限界または自然サイクルの崩壊です。

前述の地球温暖化による穀物収量減はほんの一例に過ぎません。
最近、やっと科学的事実として認知され始め、世界が協力して対策を取り始めた。
しかしまだ、産業界(特に米国)は高コスト化を嫌い、発展途上国も実施には二の足を踏んでいます。
その間、温暖化は進み、再生手段が見つかっていない以上、取返しのつかないことになる可能性が高い。
世界の水産資源も自然の産出では賄えず、養殖の増産で不足をカバーしています。
地下資源の枯渇は目前で、価格の高騰で節約と代替えが進み、なんとか凌いでいます。

今、温暖化ガス排出の制限や食料増産技術の開発、代替えの鉱物資源とエネルギーの開発に本腰を入れることが出来ればまだ間に合うかもしれません。

このまま放置すればどのような事態が起きるのでしょうか?
現在、難民の大量発生が欧州の分裂を生んでいますが、やがて難民の規模は拡大し、さらにアジアや他の大陸でも同様な事が起きるのは間違いありません。
異常気象の連続で食料生産と生活が出来なくなれば、必然でしょう。

今一つ恐れるのは、枯渇資源の獲得を巡って国家や地域が戦端を開くことです。
これは世界的な規模で起こるでしょう。
それこそ各国に自衛権があるのですから(冗談)。
核戦争や原発事故も怖いが、この脅威の方が確実に迫っています。





< 3. 異常気象の影響 >


私達はどうすれば良いのでしょうか?
前述した対策を世界が協力して実施する以外に道はありません。
それこそが、破滅を防ぐ唯一の方法です。
しかし、これが絶望的なのです。

その理由は現在の社会や経済システムにあります。
例えば、穀物価格の高騰は干ばつだけが原因ではないのです、大量の投機資金がそれを煽っているのです。
本来、商品市場で先物が開設されたのは商品(石油や小麦など)を利用する企業が価格の乱高下から経営を守るためのものでした。




< 4. 増加の一方の投機資金額、多くが短期的な売買益を狙う >

しかし、有り余る資金の暗躍は想像を絶する脅威を引き起こしています。
端的な例は、1997年にタイで起きたアジア通貨危機でした。
これは一ファンドが数兆円の利益を得る為に仕掛けた通貨の空売りに始まりました。
こうして、東南アジア各国は大幅な景気後退、大量失業者の発生、それに続く厚生予算などの低減で、多くの底辺の人々が病気を悪化させ、死亡に至りました。
これを救う為に、世界と日本は約1兆円の支援を行いました。

また地球温暖化について言えば、米国は最大の二酸化炭素を排出していながら、京都議定書の批准を拒否し、米国内で盛んに温暖化は虚偽であるとのキャンペーンが行われている。
これは産業界からの政治圧力と支援によるもので、銃保有のキャンペーンも同様です。

また、20世紀前半、大戦後の欧米の経済復活の指針となったケインズの総需要喚起政策(労働賃金の上昇など)が盛んに否定されている。
それは、その後のスタグフレーションを解決したフリードマンの貨幣供給管理を信奉する人々が行っているのだが、その実、彼らは現在の金融政策の実りを最も得ている富裕層なのです。
民衆がマスコミを通じて、これら温暖化無視、銃保有、金融政策拡大のキャンペーンを真に受けてしまう可能性は高い。
この扇情を行う人々は圧倒的に政治力と資金を有するのですから。




< 5. 投機資金増加の理由 >
世界の富豪の人数と資産が急増している。
現在、富豪1400人の資産総額は5.4兆ドル(日本のGDPに相当)になった。
またトップ62人の資産は世界の下位50%(36億人)の資産と同額になりました。


つまり、何も無いところから災厄を引き起こすのも人間社会だが、自然災害を最小に出来るのも人間社会なのです。
後者をうまく機能させることが最重要で、これが破壊されつつあることが最大の脅威なのです。


いつの世にも繰り返されて来た事
今、示した脅威は絵空ごとに過ぎないのでしょうか。

その例はローマ帝国やイースター島の末路に象徴されている。
共に、数百年をかけて繁栄を築き、やがて半世紀あまりで滅亡した。
ローマは異民族に滅ぼされたと言うより、これは切っ掛けに過ぎない。
領土拡大で繁栄を築いたが、やがて限界が来て、巨額の軍事費と異民族の軍隊に依存していたことが内部崩壊を招いたと言える。

太平洋上に浮かぶイースター島では、長らく各部族が森林伐採を自由に行っていたが、ついには競争となり、最後には森林資源を枯渇させて島を放棄することになった。

多くの文明はその内に崩壊の要因を抱え、ある時、人々はその兆候に気付くことになるのですが、時は既に遅しで、雪崩を打って崩壊へと向かうようです。


次回に続きます。









20160630

何か変ですよ! 45: 様々な脅威 1


*1

前回、日本は自ら交通事故や銃犯罪を減らし安全を手に入れていることを見ました。
しかし、私たちの世界にはまだまだ脅威が溢れています。
身近なものに天災、原発事故、戦争があり、将来的には資源や食料の枯渇、難民、地球温暖化などが懸念されます。
少し問題点を整理しましょう。


前回に続いて
米国は銃規制が実施出来ずに袋小路に陥っているように見える
島国の日本から見ればこの野放しは理解し難い。
一方で、英米ある州や都市だけで自ら銃規制を実施しているところもある。
厄介なのは、「自衛用の攻撃出来る武器」に矛盾がある。
特に殺傷性が高い武器ほど、例えばナイフよりもマシンガほど被害を増大させることは明らかです。




 
*2


見えて来たもの
ここまで話が進めば、歴史を例に挙げなくても軍備が紛争や戦争を増大させることを理解出来ると思います。
もっとも現実に戦争を回避し侵略防止するには軍備が必要で、その保有方法が重要なのですが。注釈1.

同様に、軍備と軍事同盟を正当化する為に、自衛権や集団的自衛権を持ち出すのも、短絡的と言えます。
自衛権集団的自衛権(軍事同盟について憲法学者に論争がありますが、軍事専門家(戦略研究者)にとっても軍事同盟の評価は難しく意見が別れています。
つまり、これらは戦争を防止する打ち出の小槌ではないのです。

これらは歴史的に当然の事として受け入れられて来たが、2回の大戦を通じて世界はその恐ろしさを自覚しました。
しかし、残念ながら超大国の拒絶にあい国連憲章にその文言を入れることが出来なかった。
そして、また同じ道を突き進んでいる、まるで銃の氾濫と同じように。

核ミサイル攻撃や戦争ともなれば被害甚大です
数万人で済めばよいが、数百万人、いや地球に人類が住めなくなるかもしれません。
くれぐれも注意して事を進めなければなりません。
一度道を踏み外せば、戻れないことを肝に銘じて下さい。



 
*3

原発事故について
今、日本は原発の利用で迷走しています。

一番のネックは原発事故をどう見るかです。
推進する政府や関連団体を信用する人々は事故を無視するだろうし、そうでない人は危険だと思うでしょう。

学者の試算では一基の事故で最悪の場合で数十万人が死に、その地域は永遠に汚染されたままになります。
しかし、現実にそのような大災害は起きていない。
チェルノブイリ原発事故による死者数は、各種団体が数十人から数万人以上と発表しています。
どちらにしても交通事故や殺人による累計死者数と比べると特に大きいわけではない。
経済を優先するなら、既存の原発を捨てるのは惜しいだろう

一つ、事故に対する信頼性を判断するヒントがあります。
原発事故では、被害者は一般国民で、加害者は原発事業体と別れています。
さらに高度な科学技術と巨大産業によって成り立つ事も見逃せません。
このようなケースでは、多くは情報の隠蔽や捏造が起こり問題点国民に届かなくなります。
残念ながら、それを是正する文化は日本は未成熟です。注釈



 
*4

原発が普及するにつれ世界中で想定外の原発事故が起きている。
初期にあれほど楽観的だった米国や日本の関係者や学者は、事故が起こるたびに、安全基準を引き上げ続けて来ました。
これは今までの文明の利器とは異なります。
その違いは、設備の巨大さと放射能事故の異常さに由来します。
初期の安全性は各部品の寿命(確率)でしたが、最近の日本では耐震性で評価されています。
しかし最も恐ろしいのはヒューマンエラーで、他の利器に比べ一瞬のミスが大災害を招きます。注釈3.

今後もヒューマンエラーや地震、さらにはテロによる原発事故が心配です
絶対起きないと言う方が科学的ではない。
そうは言っても、どのぐらいの規模で、何年後に起きるかはわからない
百年前に大噴火を起こした火山島に住む人もいれば、4百年前に津波で村が壊滅しても人はその土地を離れず住むことになるものです。
なかなか、先の心配をすることは難しい。

こう考えればいかがでしょうか
例えば、原発を小型化して各市町村に実施の判断を任せるのです。
仮定として、事故が起きれば最悪1000人の死者出て、永久に村には住めないとする
発生確率は、向こう30年間に10%(でたらめ)。
当然、この場合、補助金や奨励制度が一切無い条件です。

きっと、国民は妥当な判断をすることでしょう。

次回に続きます。


注釈1
連載「私たちの戦争」「人類の歩みと憲法」で少し詳しく説明しています。

注釈
日本は集団への帰属意識が高く、組織内での内部告発が低調です。
また、国境無き記者団が発表しているように日本における報道の公正さの水準は低く、さらに低下傾向にあります
また、報道圧迫の発言が政府高官や議員から出ても、国民の反応低いことにも現れています。
このような状況では、企業や政府に都合の悪い情報は出なくなります。

注釈3.
連載「原発問題の深層」で少し詳しく説明しています。




20160416

何か変ですよ 40: 見たくない、知りたくないこと





< 1.震災を受けた熊本城 >

今日は、日本で起きている不可思議な現象を追います。
それは将来訪れる可能性のある身と経済の危険についてです。
人は往々にして見たくないものにはそっぽを向くようです。


熊本地震との関わり
2016年4月14日に発生した熊本地震は震度7で、非常に強い揺れでした。

気になるのは、この時発生した最大加速度が1580ガルと言うことです。
例えば、この値は鹿児島県川内原発の耐震性基準620ガルの2.5倍です。
この基準は福島事故を受けて372ガルから引き上げられた。

ここで気づいて頂きたいことは、加速度が基準値を超えれば原子炉を破壊することです。
例えば、地震の加速度「ガル」が2.5倍になると原子炉に想定の2.5倍の力が働きます。
これは配管から容器、燃料棒などあらゆる部品を破壊する力が2.5倍になることを意味します。



< 2. 原子炉の破壊 >
左図: 原子炉容器と配管の振動シミュレーション。
赤部が強度的に弱い所で、加速度が増えるとこの部分から破壊が進む。

右図: 福島原発事故。

日本の地震で2008年の宮城岩手内陸地震の4022ガルが最大でした(基準の6.5倍)。
重要なのは、マグニチュードや震度、地震の深さではなく原子炉に作用する加速度なのです。
揺れの時間は瞬間であっても破壊します。

日本列島では、いつどこで、どれだけの加速度の地震が発生するか分からないのです。




< 3. 失業率の推移 >

高卒の就職状況との関わり
現在、私は高校で教えており、就職状況の好転は歓迎すべきことです。
しかし、気になることがある。
それは生徒達がアバノミクスのおかげで良くなっていると思い込んでいることです。
事実は、そんな楽天的なものではなく将来に不安がある。

先ず、失業率が低下している理由を見ましょう。




< 4. 日本の人口推移 >

このグラフから厳密な説明は出来ないのですが、その理由は理解しやすい。
15~64歳人口(棒グラフの青色)の低下は14歳以下人口(緑色)の低下よりはるかに急激です。
これは高校から大学までの学卒の就職希望者より、団塊世代の退職の方が多いことに関連しています。
つまり、このギャップが学卒の就職を有利にさせ、失業率の低下になっているのです。

それでは、なぜ今起きたかと言うと、主に改正高年齢者雇用安定法で企業の定年が5年ほど遅れたことによるのです。
つまり今回だけ後回しになっただけなのです。

具体的な数字で確認しましょう。
2010年度で団塊世代人口(61~63才)は669万人です。
退職が4年遅れるとして、2014年度の就職可能な若年人口(20~22才)は373万人です。注釈1
3年間の需給の差は296万人不足、退職者が圧倒的なのです。

2015年の全学卒者(高校、専修学校、高専、短大、大学)232万で、就職希望者92万人です。
2010年度の60歳人口230万人、これが5年後に退職するとしたら、その需給ギャップは138万人不足です。
これが1年間で起きたかもしれないのです。

実際は、他の世代や女性の就労等で、全就業者数はわずかながら増加し、定年延長で日本社会は急場を凌いでいます。
しかし今、人手不足が高齢者の多い中小企業を直撃しているはずです。

実は、問題はこれからなのです。
グラフのような生産年齢人口の減少を食い止めない限り、日本は景気後退を深めるでしょう。
欧米は、主に移民労働者の受け入れでこれを防いで来ました。

理由は簡単で、労働人口が減り、国民所得と需要が減り、総労働人口の減少分に応じて企業は規模の縮小に向かわざるを得ない。
ここで企業の淘汰が起こり、倒産が増えます。
この現象は、一人当たりのGDPが変わらなくても、減少の過渡期において起きます。

今、大事なことは、皆さん一人ひとりが他人任せでなく、社会で起きていることを直視することです。


注釈1: 就職可能な人口の20~22才は、私が目安に設定した年齢で、各種学卒の比で決めました。





20151207

Went around Croatia and Slovenia 15:  The wonder of Dubrovnik 1


クロアチア・スロベニアを巡って 15: ドゥブロブニクの不思議 1



< 1.  The port of Dubrovnik  >
< 1. ドゥロブニクの港 >

How did this small city-state survive between great powers?
It was the history that this city-state had continued demanding freedom.
From today, I will chase the wonder of this rare marine city-state.

この小さな都市国家が如何にして大国の狭間で生き延びることが出来たのだろうか?
それは自由を求め続けた歴史でもありました。
今日から、この希有な海洋都市国家の不思議を追います。

Preface
When I visited this old city, I was first surprised at the huge rampart being disproportionate to the small town.
In the Middle Ages, there were a lot of free cities and seafaring countries, but there quietly was this small marine city-state that enjoyed freedom in a corner of tumultuous Balkan Peninsula.
The activity of Dubrovnik was indirectly connected with European Renaissance and the Age of Discovery.
For over 1000 years, there were various magnificent dramas of the clash of civilizations among Europe, Asia, and Africa, and the trade that extended to the Indian Ocean from the Mediterranean Sea.

I survey Dubrovnik that lived in the Middle Ages
There are romances between people and sea, and a hint to peace here.
 

はじめに
私がこの旧市街を訪ねて最初に驚いたのは、小さな町に不釣合いな巨大な城壁でした。
中世、自由都市や海洋国家は数多くあったが、この騒乱のバルカン半島の片隅で人知れず、自由を謳歌した小国があった。
ドゥロブニクの活躍はヨーロッパのルネサンスと大航海時代と間接的につながっていました。
そこには、ヨーロッパとアジア、アフリカの文明の衝突、さらに地中海からインド洋に跨る交易の千年に及ぶ壮大なドラマがありました。

これから中世世界に生きたドゥロブニクを概観します。
そこには人々と海を巡るロマン、さらには平和へのヒントがあります。



< 2.  These seafaring countries of Italia were leaders of the Mediterranean Sea in the Middle Ages >
< 2. 中世、地中海の覇者となったイタリアの海洋共和国 >

Explanation 
A fig.:  It shows 8 seafaring countries of Italy and the Adriatic Sea.
Red circles are 3 countries that played an active part in the sea until the last.

B fig.:  The length of Venice main island is about 5 km.
C fig.:  The width of Genoa harbor is about 3 km.
D fig.:  The castle width of Dubrovnik that was capital of Republic of Ragusa is about 500 m.

Dubrovnik was very small compared with two great powers Venice and Genoa.

解説: 
A: イタリアとアドリア海にあった8カ国の海洋共和国を示す。
赤丸は最後まで活躍した三つの共和国です。
B図: ベネチアの本島、その長さ約5km。
C図: ジェノバの港、その巾は約3km。
D図: ラグーサの首都ドゥブロブニクの城砦、その巾は約500m。

ドゥブロブニクは二大強国ベネチアとジェノバに比べて遥かに小さかった。



< 3.  A sailing ship that started to play an active part in the 15th century >
< 3. 15世紀に活躍し始めた帆船 >
 
The history of Dubrovnik
In the about 7th century, this town's history began from a Roman that lived at current seaside across a small canal from Slav of the mountainside.
In the 13th century, both people filled up the canal and merged.

ドゥブロブニクの歴史
7世紀頃、町は、今の旧市街の海側にローマ人、山側にスラブ人が小運河を隔て住み着いたことに始まる。
13世紀、両者は運河を埋め立てて統合した。



< 4.  Around the Adriatic Sea in the middle 14th century 
< 4. 14世紀中頃のアドリア海周辺 >

After being ruled by many peoples, from the 6th century, Dubrovnik was dominated by Byzantine Empire, subsequently Venice (1204-1359), Hungary (1359-1526), and Ottoman Turkey.
From the 12th century, Dubrovnik traded between Italy and Balkan, and carried industrial products from Italy, or raw materials from Balkan.
The large ship appeared from the 13th century, and Dubrovnik had large merchant ships more than 180 in the 16th century.
The last of the 15th century, when Dubrovnik was dominated by Ottoman Turkey, its overland trade in Balkan became more active.
Furthermore, Dubrovnik’s sea trade spread from the Adriatic Sea and the Mediterranean Sea to the Black Sea, the Atlantic, and the Indian Ocean.
And Dubrovnik put the consulates in 50 cities and reached its peak.

幾多の民族に支配された後、6世紀からビザンティン帝国、次いでベネチア(12041359),ハンガリー(13591526)、やがてオスマン・トルコの庇護下にあった。
12世紀から、ドゥブロブニクはイタリアの諸都市とバルカンの交易を担い、イタリアからは工業製品を、バルカンからは原料を運んだ。
13世紀からは大型船が登場し、16世紀には180隻を超える大型商船を持った。
15世紀後半、オスマン・トルコの支配下に入ると、バルカンとの陸上交易が活発になった。
さらに海上交易の範囲はアドリア海や地中海だけでなく,黒海、大西洋、インド洋にも及び、50都市に領事館を置き、全盛期を迎えた。



< 5. Rector's Palace >
< 5.旧総督邸 >

In 1359, since Dubrovnik was dominated by Hungary, it came to reject a governor accredited from the imperial country.
And Dubrovnik nobles mutually elected their governor.
After this, they had been promoting the domestic administration and diplomatic policy as an independent country.
All nobles 18 years or older performed legislation and picked the execution member.
They limited governor's tenure to 1 month and avoided dictatorship.
The commoner who supported the economy wasn’t able to participate in it, but an aristocratic democratic system was performed.
This situation was made possible mainly due to the huge rampart and a large amount of contribution.

But it began to decline before long.
When the Age of Discovery began on the Atlantic side, the importance of the east Mediterranean Sea decreased.
Dubrovnik took part in two wars of Europe in the 16th and the 17th century and suffered big damage.
Furthermore, it received a crushing blow by a major earthquake of 1667, and the overland trade reduced when the influence of Ottoman Turkey began to drop.
Finally, Dubrovnik’s republic was extinct by the occupation of Napoleon in 1808 and it was dominated by the Austria territory in 1814.

This continues next time.


1359年、ハンガリー庇護下に入ると、それまでの宗主国からの総督派遣を退け、ドゥブロブニクの貴族層が自らの総督を互選するようになった。
これ以降、独立国として内政・外交政策を推進していった。
18歳以上のすべての貴族が立法を行い、執行メンバーを選出した。
彼らは総督の任期は1ヶ月とし独裁を避けた。
経済を支えた平民は参加出来なかったが、貴族的民主制を行った。
これを可能にしたのは、如何なる攻撃にも耐える巨大な城壁と多額の貢納でした。

しかしやがて陰りが見え始める。
大西洋側で大航海時代が始まると、東地中海の重要度は低下していった。
ドゥブロブニクは16、17世紀とヨーロッパの戦争に加担して大きな損害を被った。
さらに、1667年の大地震で壊滅的打撃を受け、陸上交易もオスマン・トルコの勢威が下降し始めると縮小していった。
最後に1808年ナポレオンの占領によって共和国は消滅し、1814年にはオーストリア領となった。

次回に続きます。









20151128

Went around Croatia and Slovenia 13:  Seafaring country Dubrovnik 3


クロアチア・スロベニアを巡って 13: 海洋都市ドゥブロブニク 3




< 1.  A view of Saint Blaise church from Luža Square >
< 1.ルジャ広場から聖ヴラホ教会を望む >

Today, I introduce the inside of Dubrovnik.
This is a small fort city, but I seem to have slipped back in the Middle Ages.

今日は、いよいよ内部を紹介します。
小さな城砦都市ですが、すっかり中世にタイムスリップしたようです。




< 2.  Our sightseeing route >
< 2.私達の観光ルート >
Legend:
A yellow line shows our walking route of the rampart.
Blue lines are sightseeing routes that I introduce this time, and these alphabets indicate approximate photography point.

凡例:
黄色線は城壁の散策ルートです。
青線は今回紹介する散策ルートで、アルファベットは写真の撮影地点を示しています。



< 3.  The inner side of Pila Gate 1 >
< 3.ピレ門を抜けた所1 >

The front side is Placa street of the main street.
Once, this street was a strait, and the Slav lived in left side of it and the Latin lived in the right side.
But it was filled in the 12th century.
The right side is seen Big Onofrio’s fountain.
A church and a tower of Franciscan monastery line up on the left side from the near side.

正面はメイン通りのプラツァ通りです。
昔、ここは海峡で左(山)にスラブ人、右(海)にラテン人が住んでいたが、12世紀に埋め立てられた。
右手にオノフリオの大噴水が見える。
左手に救世主教会とフランシスコ修道院の鐘楼が見える。



< 4.  The inner side of Pila Gate 2 >
< 4.ピレ門を抜けた所2 >

B:  Chrach. Height rampart was seen in the left.
C:  Big Onofrio’s fountain.
Water was valuable in this Dalmatian area, therefore water was higher than wine.
Thus, this water supply installation was built by irrigating from a back mountain being 12 km away from in the 15th century.

B: 救世主教会。左に高い城壁が見える。
C: オノフリオの大噴水。
このダルマチア地方一帯は水が貴重で、ワインよりも高かった。
そこで15世紀に12km離れた山側から水を引きこの水道施設を造った。



< 5. Franciscan monastery >
< 5.フランシスコ会修道院 >
D:  The courtyard side of the corridor. This corridor is Romanesque of the 14th century.
E:  The wall side of the corridor.  The frescoes show a life of St. Francesco.
F:  The courtyard.
Toward this corridor, there is a pharmacy that followed for 700 years, and we visited it.
This is the third oldest in existing pharmacy in Europe, and it indicates Dubrovnik was so advanced city of the welfare.

D: 回廊の中庭側。この回廊は14世紀のロマネスク様式です。
E: 回廊の壁側。壁画は聖フランチェスコの生涯が描かれている。
F: 中庭。
この回廊に面して、700年も続く薬局があり、見学しました。
現存するヨーロッパで三番目に古い薬局であり、如何にドゥブロブニクが福祉の先進都市だったかがわかる。





< 6.  Placa street >
< 6. プラツァ通り >
G:  A bell tower of Luža Square is in the east direction.
H:  A tower of Franciscan monastery is in the west direction.

G: 東方向にルジャ広場の鐘楼を望む。
H: 西方向にフランシスコ会修道院の鐘楼を望む。



< 7.  Luža Square 1 >
< 7.ルジャ広場 1 >
I:  The bell tower.
If go through a gate at the left of the tower, we can go to the old port.

J:  Palaca Sponza.
This was built as a customs house in the 16th century, and valuable documents have been kept since the twelfth century in here.

I: 鐘楼。
鐘楼の左にある門を抜けると旧港に出ます。

J: スポンザ宮殿。
ここは16世紀に建てられた税関で、12世紀からの貴重な文書が保管されている。
著名な歴史家ブローデルはここの資料にヒントを得て「地中海」を書いたと言われている。



< 8.  Luža Square 2 >
< 8.ルジャ広場 2 >
K:  Roland statue and Saint Blaise church.
A knight statue in the center is Roland statue that symbolizes freedom and independence of European city.
The length between the elbow of the right arm and the wrist was the standard of the length of the commercial transaction.
The church to enshrine the saint in the front was damaged by a major earthquake in 1667, and a fire at later, and was rebuilt in the baroque in the 18th century.
An earthquake often hit this place, and the dead of this big earthquake was more than 5000 people.
Many buildings were rebuilt, but the rampart had only suffered slight damage.

L:  I overlook Placa street in the west direction.


K: ローラント像と聖ヴラホ教会。
中央の騎士像が、ヨーロッパ都市の自由と独立を象徴するローラント像です。
右腕の肘から手首の長さが、商取引の長さの基準とされていた。
正面の聖人ブラホを祭る教会は1667年の大地震と火災で損傷し、18世紀にバロック様式で再建された。
この地は度々、地震に見舞われ、この大地震で5000名以上が死亡した。
多くの建物は再建されたが、城壁はわずかな被害にとどまった。

L: 西方向にプラツァ通りを望む。



< 9.  Dubrovnik Cathedral >
< 9.大聖堂 >
N:  The outward appearance.
O of the right side:  The inside.
A picture in the middle is " Assumption of Virgin Mary " of a great master Titian in the golden age of Renaissance.
He is a representative painter of the Venetian School, and there are a lot of pictures in the Prado Museum of Art in Madrid.
El Greco of Toledo learned painting in his youth in Venice.
This Cathedral was Romanesque first, but, after the big earthquake, was rebuilt in the baroque.


N: 外観。
右側O: 内部。
中央の絵は盛期ルネサンスの巨匠ティツィアーノの「聖母被昇天」です。
彼はベネチア派の代表的画家で、スペインのプラド美術館にもたくさん絵があります。
トレドのグレコは若い頃、ベネチアで絵を学んでいました。
この大聖堂は最初ロマネスク様式であったが、大地震後、バロック様式で再建された。



< 10.  in the front of the Cathedral >
< 10.大聖堂の前から >
P:  I overlook Luža Square from the front of the Cathedral. 
Q:  Knezev dvor.
Governor-general lived in this residence, and was the center of the politics of the Republic of Ragusa that Dubrovnik was central of.

P: 大聖堂前からルジャ広場を望
む。
Q: 旧総督邸。
ここは総督が住んだ邸宅で、ドゥブロブニクを中心とするラグーサ共和国の行政府が置かれ、政治の中枢だった。

There were many tourists in here, and groups of tourists of Chinese and Korean were seen, too.
This is an indispensable port of Adriatic Sea cruises.

This continues next time.


ここは、さすがに観光客が多く、中国系や韓国の団体客もいました。
ここはアドリア海クルーズの無くてはならない寄港地です。


次回に続きます。