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20170302

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 35: ワルシャワ5





*1


今日は、ワジェンキ公園の残りを紹介します。
今日で、この旅行の紹介を終わります。
長らくのお付き合い有難うございました。


 

< 2.ワジェンキ宮殿の2階 >



 

< 3.ワジェンキ宮殿 >



 

< 4.ワジェンキ宮殿 >



 

< 5.公園で見かけた動物たち >

上の写真: 孔雀がいる。
下の写真: 左の木の陰リスが走っている。
この公園内で、他にもリスを見ました。



 

< 6.広々とした公園 >



 

< 7. ホワイトハウス >

18世紀に建てられたかつての王族の住居。



 

< 8.かつての温室 >

下の写真: 18世紀に東方の植物として珍重されたオレンジなどの樹木を寒い季節の間、養成するための温室の原型。
太陽光を取り入れる為に窓が大きくなっている。
現在は劇場になっている。


 

< 9.ショパン像 >

下の写真: 毎年夏に、この像の前でショパンコンサートが行われる。


 

< 10.お別れ >

上の写真: 柳の木の下に座り、故郷の自然を眺めるショパンを表現している。

下の写真: ワジェンキ宮殿横の道路。
ここからバスに乗り、空港まで行って、ポーランドを後にしました。


あとがき
異郷の世界を楽しく巡って来ました。

荒涼とした原野、のどかな田園地帯、鬱蒼とした森林を駆け抜けて来ました。
北の広大なバルト海に接した五つの国が交易と戦争で関わり続け、千年の歴史と文化を築きあげて来ました。
旧市街の街並みから、私はロシアとヨーロッパとの関わりを読み解くことが出来ました。

モスクワやサンクトペテルブルグのロシア帝国時代の有名な建物はイタリアの建築家の手になるものが多い。
バルト三国も、訪問前のイメージとは異なり、特に旧市街が非常にヨーロッパ風でした。
ワルシャワの古い建物は当然、ヨーロッパの影響が強い。
一方で、スターリン様式やタマネギ風の屋根の教会に見られるように、ロシアやソ連時代の影響が残っている。

私はそこに暮らす人々と話をする貴重な機会を得ました。
そして今まで疑問に思っていた幾つかの歴史的事件や社会問題について理解を深めることが出来ました。

色々、各地のスーパーに入り、豊富な生活用品や食品などを見ていると経済は発展しているようでした。

ポーランドは東欧の遅れた国とのイメージがあったのですが、戦火からの再建をやり遂げて発展している。
バルト三国も、かつての苦難を乗り越えて順調に発展している。
ロシアの都市部の発展は良いが、車窓から見た地方の暮らしは遅れているようでした。

この地域の歴史やロシアの様子を知ると、やはり不安がよぎる。
石油安でロシアの景気後退が深まると、世界がナショナリズムに突き進んでいるように、ロシアは容易に道を踏み誤る可能性がある。
それは私は数人のロシア人との会話から、ロシアの偏向報道を感じたからです。
翻って、日本の報道もここ数年、自由度が低下して来ているので不安です。


また、旅行の仲間で面白い人がいました。
高齢の女性が一人でツアーに参加しておられたのですが、非常にお喋りで、好奇心旺盛な人でした。
しかし、話をしているうちに、彼女は苦難にあっても、いつも挑戦し続け、道を切り開いて来ました。
その積極性と能力は人並み外れていました。

そして最後にわかったことは、彼女の息子さんが芥川賞を受賞された作家だったことです。
やはりこれぐらいの女性だからこそと感心したものでした。

やはり旅行は面白く、刺激に満ち溢れたものです。


これで終わります。







20170222

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 34: ワルシャワ4



*1


今日から、ワジェンキ公園を紹介します。
陽光に輝く黄葉、湖面、宮殿を見ながら広葉樹林の中を散策しました。
孔雀やリスが晩秋を惜しんでいました。
2017年10月4日に訪れました。



 

< 2. ワルシャワの中心街 >

上の写真: スターリン様式の文化科学宮殿。


 

< 3. いよいよワジェンキ公園 >

下の写真: ワジェンキ公園の北側から入園、無料。
これはクラクフ郊外通りを2kmほど南下した所にある大きな庭園で、ポーランドの最後の王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキによって18世紀に30年をかけて造営された。


 

< 4. ワジェンキ宮殿が見える >

上の写真: ポーランド王ヤン3世ソビェスキの像。
1683年、オスマン帝国15万の軍による第二次ウィーン包囲に対して、彼はわずか3000の騎兵で中央突破し、勝利に導き、ヨーロッパを救った英雄と讃えられた。
この像は、これを記念している。
 
下の写真: 池の奥にワジェンキ宮殿(水上宮殿)が見える。
ヤン3世ソビェスキの像の前から見ている。


 

< 5. ワジェンキ公園  >

上の写真: ヤン3世ソビェスキの像がある橋。


 

< 6. ワジェンキ宮殿に向かう  >


 

< 7. ワジェンキ宮殿に迫る >

この宮殿は造園を命じた王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキが、夏の宮殿として使用した。
彼は前の所有者が浴場として使用していた建物を改造した。
この建物はポーランド・リトアニア共和国が滅亡した後、ロシアに売却され、第二次世界大戦ではドイツに美術品は盗まれ破壊されたが、修復された。


 

< 8. ワジェンキ宮殿の南側 >


 

< 9.ワジェンキ宮殿の南側の池  >


 

< 10. いよいよワジェンキ宮殿に入る >



 

< 11. ワジェンキ宮殿内 >

上の写真: 宮殿のホールで学習する子供達。

下の写真: 宮殿のホールから池の北側を見る。


あとがき
実は、この時期、例年なら黄葉が美しいのだそうですが、この年の夏が小雨だった為、残念ながら多くの黄葉が茶褐色を帯びていました。
従って、あまり黄葉の写真を撮っていません。
それでも遠目には美しかった。

次回に続きます。


20170217

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 33: ワルシャワ3



 *1


今日は、王宮広場からクラクフ郊外通りを紹介します。
紺碧の空に映える建物や通りを歩き、ショパンの関わりある場所を巡りました。


 
< 2. 王宮広場 >

上の写真: 奥が、既に紹介した旧市街で、右手が旧王宮です。
中央に立っているのはジグムント3世の像です。
この王がポーランド・リトアニア共和国(1569-1795年間、現在のポーランド、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナを含む大国)を継承し、1596年に首都をクラクフからワルシャワに移した。

下の写真: 旧市街を見ています。
建物の間の通りを行くと旧市街広場に戻ります。


 
< 3.旧王宮 >

上の写真: 現在博物館になっている旧王宮。
ジグムント3世の居城だっただけでなく国会などしても使用された。
第二次世界大戦で完全に破壊されたが再建された。

中央の写真: 旧王宮の中庭。

下の写真: 中庭のポスター。
これらは1956年のポーランドのポズナン暴動とハンガリー動乱を扱っているようです。
この事件はソ連でフルシチョフがスターリン批判をしたことに端を発して、両国の民衆がソ連と自国の共産政権への不満から暴動となった。
ポーランドは自国で鎮圧し死傷者は百名ほどであった。
しかしハンガリーはソ連軍によって鎮圧され2万人近くが死に、20万人が難民となった。



 
< 4.王の道を行く >

上の写真: 今回紹介するコース。
Sは王宮広場で、Eは徒歩観光の終点で、この間はクラクフ郊外通りです。
この通りを右側(南)に真っすぐ行くと、中心市街地の新世界通りを抜け、後に紹介するワジェンキ水上宮殿公園に至り、この道は王の道の一部です
Aは大統領官邸、Bは道を挟んでチャプスキ宮殿とワルシャワ大学、Cは聖十字架教会、Hは私達のホテル。

中央の写真: 王宮広場からクラクフ郊外通りを見ている。

下の写真: クラクフ郊外通りから王宮広場の方を見ている。


 
< 5.クラクフ郊外通り  >

上の写真: 王宮広場の方を見ている。

中央の写真: ポーランドの国民的詩人の像。
彼はショパンと同時期に活躍した。

下の写真: Kościół seminaryjny w Warszawie
17世紀に造られ始め18世紀のファサードを持つカトリック教会。 
詩人の像と大統領官邸の間にある。


 
< 6.大統領官邸 >

上の写真: クラクフ郊外通りの中頃から南側を見ている。

中央の写真: 大統領官邸の前に立つポーランドの英雄像。
彼は19世紀始め、ナポレオンに従って祖国ポーランドの為に戦い、戦死した。
彼は池田理代子の漫画『天の涯まで ポーランド秘史』の主人公となっている。

奥の大統領官邸はかつて貴族の館で、18世紀に一部劇場として開放され、ここでショパンが初めてのピアノ演奏会を行った。

下の写真: 18世紀に建てられた後期バロック様式のヴィジトキ教会。
学生のショパンがこの教会の日曜ミサでオルガニストをしていた。


 
< 7. ワルシャワ大学 >

上二つの写真: ワルシャワ大学。
かつてショパンはこの大学内の中・高等学校で学んだことがあった。

下の写真: クラクフ郊外通りの中頃から北側を見ている



 
< 8.ショパンのゆかりの地 >

上の写真: ユニークな像が入り口を飾る建物。

下左の写真: かつてのチャプスキ宮殿、現在は美術アカデミー。
写真は正面左側の建物で、ショパン一家は1827~1830年までこの3階で暮らした。
1830年、彼がウィーン滞在中にワルシャワでロシアからの独立を求めて「十一月蜂起」が勃発し、帰国を断念し、パリに赴いた。
ショパンにとっては、ポーランドで最後の家となった。

下右の写真: これはショパンのベンで、ショパンゆかりの地に幾つも置かれている。
ベンチには説明が書かれており、ボタンを押すとショパンの曲が流れてくる。


 
< 9.聖十字架教会 >

上の写真: 鐘楼はクラクフ郊外通りのほぼ北の端に建つ聖十字架教会。
下二枚の写真: 聖十字架教会の内部。
ショパンの心臓が右の柱に埋められている。
彼は39歳の若さで肺結核でパリに死すが、彼は埋葬を嫌い、遺言に従いこの教会に眠ることになった。


 
< 10.広場や通りの人々 1 >

 
< 11. 広場や通りの人々 2 >

下の写真: 先ほど紹介した美術アカデミー(チャプスキ宮殿)の奥の建物。


ワルシャワ・ゲットについて
前回紹介した最高裁判所の脇にワルシャワ・ゲットーの境界跡と記念碑がありました。
その位置は下の地図の黒の矢印で、黒の楕円枠は城壁で囲まれた旧市街、黒の四角枠は私達のホテルです。
赤枠が第二次世界大戦中に設置したワルシャワ・ゲットーで、如何に巨大かがわかります。

私達はポーランドがホロコーストの主な舞台だったことを知っています。
一つには悪名高きアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所がポーランドにあったからでしょう。
ナチス・ドイツが殺戮したユダヤ人約600万の内、300万人はポーランドに暮らすユダヤ人でした。


 

< 12.ワルシャワ・ゲットー >

これらの地図と写真は1939年から1945年までのワルシャワ・ゲットーに関するものです。
*当時のワルシャワ・ゲットー赤枠で示されています。
*1942年、ゲットーのユダヤ人の絶滅収容所への移送。
*1940年、ゲットーの壁建設
*1943年、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人が武装蜂起した報復にドイツ軍は街を焼き払い掃討した。
*1943年、ワルシャワ・ゲットー蜂起鎮圧戦の最中に連行される人々。


私はユダヤ人で気になっていたことを、前回のポーランド女性に聞いてみた

質問1:
「映画シンドラーのリストでは、ポーランド人がユダヤ人迫害に同調したように描かれているが、どう思いますか?」

答え:
監督はユダヤ系アメリカ人なので迫害を際立っさせるために、ポーランド人を悪く描いているのでしょう
ポーランド人は、多くのユダヤ人を受け入れた国であり、他の場面ではユダヤ人を助けている」

質問2:
「リトアニアではユダヤ人がソ連の手先になって裏切り、ユダヤ人が嫌われたが、ポーランドではどうだったのか?」

答え:
答えは明瞭ではなかったが、ポーランド人はユダヤ人を嫌っていないと言いたいようでした


ポーランドのユダヤ人 注釈1
ユダヤ人は中世より西欧での迫害を逃れて東欧への移住を進めていた。
西欧では例え住むことが許されても、限られた町で職業と人数に制限があり、多くのユダヤ人の暮らし劣悪で人数も少なかった。

ユダヤ人は15世紀にはすでにワルシャワで暮らしていた。
民族的に寛容なポーランドでは、ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができた。
18世紀末以降、緩和が進み、旧市街にユダヤ人が住むようになった。
19世紀半ばより、キリスト教徒もユダヤ教徒も比較的裕福な人々は近代市街地やその郊外へと居を移していき、旧市街などには貧困層が集中して住むようになった。
この状態は20世紀のはじめまで続いた。
この時代、ワルシャワのユダヤ人人口は急増し、ユダヤ人の自治共同体が急成長した。
第二次世界大戦直前のワルシャワ市には全人口の30%にあたる38万人のユダヤ人が暮らしていた。
ワルシャワは、ニューヨークに次いでユダヤ人人口の多い都市だった。

ワルシャワ・ゲットーの歴史
1939年、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、ワルシャワは占領された。
ユダヤ人居住区でチフスが流行していた為、1940年、隔離の為にゲットーが建設され、その中に45万人が詰め込まれ封鎖された。
このユダヤ人は強制労働に駆り出され、食料配給は必要摂取カロリーの10分の1に過ぎなかった。

1942年7月、ユダヤ人の絶滅収容所への移送が始まるが、この時までに8万人が飢えと病で死亡していた。
これに抵抗してユダヤ人は暗殺を手始めに武装蜂起し、ワルシャワ・ゲットー蜂起を起こした。
しかしドイツ軍による1か月の鎮圧で、全住民は移動させられゲットーは破壊された。
住民は瓦礫で圧死し、捕虜は銃殺され、残りは強制収容所で死んだ。

1945年、ソ連軍が到着するまでにワルシャワで生き残ったユダヤ人は約200人だった。

次回に続く。



注釈1
説明は主にウィキペディアによる。




20170211

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 32: ワルシャワ2





*1


今日は、快晴の旧市街を紹介します。
前回紹介した早朝歩いた場所と幾分重なりますが、ガイドの説明を聞くと印象はがらっと変わりました。


 

< 2. 地図 >

上の地図: 早朝歩いたルートです。上が東側です。
緑線が行きのルートで、青線が行きと異なる帰りのル-トです。
緑字のSはホテルで、赤字のSはツアーの徒歩観光の起点です。
赤字のDは城壁で囲まれた旧市街の中心に位置するマーケット・プレイスです。
上の川はポーランド最長のヴィスワ川です。

中央の地図: ツアーの徒歩観光のルートです。上が東側です。
S:起点。 A:ワルシャワ・ゲットの記念碑。 B: キュリー博物館。 C:城門バルバカン。 D: 旧市街のマーケット・プレイス。 E: 展望台。 F:聖ヨハネ大聖堂

下の地図: ポーランドとワルシャワを示す。上が北側です。


 

< 3. クランシスキ宮殿とワルシャワ蜂起記念碑 >

上の写真: 左にクランシスキ宮殿、右に最高裁判所。

下の写真: 最高裁判所の前のワルシャワ蜂起記念碑。
ワルシャワ蜂起については後で解説します。
地図のS地点から撮影。


 

 

< 4. ワルシャワ・ゲットの記念碑 >

上の写真: 最高裁判所の横。

下の写真: ワルシャワ・ゲットの境界跡と記念碑。
地図のA地点で撮影。
ワルシャワ・ゲットの解説は次回行います。



 

< 5. 新市街 >

上の写真: 北側を見ている。
地図のB地点で撮影。
すぐ右手の白い建物はキュリー博物館です。
彼女は放射能の研究で最初のノーベル賞をもらった。
彼女はここで生まれ、青春時代を過ごし、学業と研究の為にポーランドを出てパリに移り住んだ。
当時、ポーランドは帝政ロシアに併合されており、教育者だった両親ら知識層は行動を制約されていた。

下の写真: 南側を見ている。
ここを真っすぐ行くと旧市街の城に至る。


 

< 6. 旧市街の城門 >

上の写真: 旧市街の城門バルバカン。
最初は16世紀に造られたが、第二次世界大戦で破壊され、1952年に17世紀の様式で再現された。
地図のC地点で撮影。

下の写真: 旧市街の広場に向かう通路。


 

< 7.マーケット・プレイス  >

上下の写真: マーケット・プレイス。
18世紀末までワルシャワの中心でした。
1944年のワルシャワ蜂起に対するドイツ軍の報復で完全に破壊されたが、1950年代に再建された。
地図のD地点で撮影。


 

< 8. 旧市街のたたずまい >

上の写真: ハトが青空に舞い上がる。
この地は幾度も強国ロシアソ連とドイツに交互に、または同時に蹂躙されて来た。
今度こそは平和が長く続きますように祈ります。

下左の写真: これは何の変哲もない古い民家の門に見えるのですが、再建時、瓦礫となった石材や美術記録など頼りに忠実に再現されたものです。
戦火の傷跡が生々しい。

下左の写真: 屋根に取り付けられたドラゴン。


 

< 9. 展望台 >

上の写真: マーケット・プレイスの裏手にある展望台からヴィスワ川を望む。
地図のE地点で撮影。

中央の写真: 展望台から聖ヨハネ大聖堂の裏手に行く途中。
バルコニーの支えの部分に銃弾の跡が見える。
これはワルシャワ蜂起の激戦の痕跡です。

下の写真: 聖ヨハネ大聖堂の裏手。
地図のF地点付近。



 

< 10. 聖ヨハネ大聖堂周辺 >

上左の写真: 右のレンガ建築が聖ヨハネ大聖堂の側壁です。
塔の下のトンネルを抜けると聖ヨハネ大聖堂の正面の通路に出ます。
地図のF地点付近。

上右の写真: 指さしているのはポーランド抵抗の印です。
上述のトンネルの中ほどにありました。
至る所に見られます。

下の写真: 上述の聖ヨハネ大聖堂の側壁に埋め込まれた軽戦車のキャタピラ。
ワルシャワ蜂起のものです。


 

< 11. 聖ヨハネ大聖堂の正面 >

すぐ右が聖ヨハネ大聖堂の正面です。
この通路を行くとマーケット・プレイスに出ます。
地図のF地点付近。



ワルシャワ蜂起
第二次大戦末期に起こったポーランド地下軍とワルシャワ市民によるドイツ占領軍に対する蜂起。
ソ連軍によるワルシャワ解放が目前と思われた1944年7月下旬に一斉蜂起した。
8月1日、ほとんどの市民が蜂起に参加し市の中心部が解放された。
ソ連は進軍するかに見えたが、ヴィスワ川対岸で停止して、いっさいの援助をしなかった。
ようやく9月10日以降、ポーランド人部隊の渡河作戦を許したが、蜂起を救うには遅すぎた。
孤立した蜂起軍と市民はドイツ軍によって徹底的に全市を破壊され20万の死者を出した。
ついにワルシャワ蜂起は10月2日の降伏で無惨に終わった。
 
この時のソ連(スターリンがトップ)の行動は、反ソ感情の強いポーランドが衰弱してから占領する方が得策と考えたからでした。            


 

< 12. ワルシャワ蜂起 >

A: 赤枠はポーランド地下軍が蜂起した場所。
四角は私達のホテル、黒円枠は旧市街の城壁。

B: ドイツ軍が占領しているビルを銃撃するポーランド兵士。

C: ワルシャワ蜂起62周年の再現シーン。

D: 当時の若いポーランド兵士。

E: 旧市街で戦うポーランド兵士。
写真9や10で見た戦闘の傷跡はこの時のものです。

F: ドイツ軍によって破壊され炎上する旧市街。

G: 完全に破壊されたワルシャワ。


現在のワルシャワの人はこの蜂起をどのように見ているのだろうか?
直接、一人のポーランド女性と日本語で話すことが出来ましたので、質疑を要約します。

質問1:
「皆さんはドイツとロシアについてどう思っているのでしょうか?」

答え:
ポーランド人にとって両国は長年の侵略国であるが、ロシアを嫌っています
ドイツは戦後、謝罪したが、ロシアはその事実を否定しているからです。」

参考:
<カチンの森事件>不誠実な一例として。
1940年、ソ連軍はポーランド侵攻時、ポーランド将兵らの捕虜を2万人以上銃殺した。
ソ連は事件発覚後もドイツの犯行としていたが、ゴルバチョフが再調査し、1990年、事実を認め遺憾の意を示した。


質問2:
「皆さんはワルシャワ蜂起をどう見ているのですか?」

答え: 
「毎年、議論されているが評価が分かれています。

悪いとする意見
将来ある多くのインテリゲンチャが若死にし生き残った青年では将来を担うには力不足であった
また関係ない多くの人が巻き添えになって死んだ

良いとする意見
戦う伝説が作られた。
人々は、これからも他国の理不尽に対し戦う勇気を持つことが出来るだろう。」


私の感想
リトアニアでも同様でしたが、大国の侵略に対し蜂起したことに自画自賛だけで終わらない姿勢が素晴らしい。

ワルシャワ蜂起は、結局、ソ連に支配され続けただけなので私には無駄死に思える。
しかし、今回巡って来た東欧四ヵ国の異民族支配への強い抵抗に私は想像以上の篤い想いを見た。
だからと言って、私達日本人は経験したことのないこの想いをたやすく理解出来るとは思えない

私達が、この想いを少しでも理解しょうとするなら、他国を戦争で侵略した後に取るべき態度とは何かが自ずと解るはずです。
それはこの女性が言った「謝罪したドイツを許している」からも明白です。

残念ながら日本は島国で平和に暮らして来たことが、他者への理解で災いしているように思える。


次回に続きます。