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20151201

社会と情報 69: 戦った報道 26 最後に




< 1. 明治時代の新聞売り >

これまで、明治から昭和初期まで、日本の報道が激動の社会とどう関わったかを見ました。
あれほど活躍した報道がいとも簡単に国民を裏切ったこと、またその背景も見てきました。
今日はこのテーマの最後で、まとめになります。

この連載の概要
「戦った報道 1~6」: 明治維新から太平洋戦争までの道のりと報道の役割を概観した。
「戦った報道 7~11」: 具体的に、1920~1930年代の新聞の活躍と転向を追いました。
「戦った報道 12~26」: なぜ新聞が転向したかを、軍事大国化、財政・経済、人々の暮らし、軍事戦略、政治、ファシズムの観点から見ました。
各記事を見るにはカタゴリーかテーマ、ラベルで「社会と情報」を選択するのが便利です(YAHOOはなし)。


    

新聞が転向した理由のまとめ
既に見たように日本はファシズム化し、軍のもとに一丸となって戦争へと進んだ。
このファシズム化は社会を沸騰させ、その過程で起きたのが報道への弾圧であり、新聞の転向でした。
これは、鍋料理を火に掛け、具がぐつぐつと煮えたことに例えられる。
「具が出来たから、鍋は出来た」と言えるが、「具のせいで、スープが熱くなった」とは言わない(具が新聞、スープと火は・・)。

ファシズム化は人類社会の根にあって、民族紛争を悪化させ、社会が戦争に向かう時、今も起こり続けています。
これは、暴力に頼る集団興奮状態で、悪化した社会状況とある組織文化を持った社会におき易い。

戦争は、例えばベトナム戦争のように、いくつものステップを踏み誤り、ついには引き戻せなくなって起きる。
これには数多くの大統領が関わっているが、その発端はトルーマン・ドクトリン(1947年)にあり、その後、徐々に抜け出せなくなり1960年に戦闘が始まった。注釈1.

今まで見てきた戦前の社会変化を「戦争の甘い罠」にかかった状態と言えます。
これは私の連載「戦争の誤謬」「私達の戦争」などで詳しく説明しています。
ある社会が一度戦争で味を占めると、社会の主要な要素(国民感情や経済、軍隊など)が戦争を常態化させる力として働くようになります。
残念ながら、多くの社会は敗戦で徹底的に叩かれるまで気づかないことが多い。
稀に、大失敗しても気づかない社会もあれば、その途中で、その罠から脱する社会もあります。


    


どう理解すれば良いのだろうか
残念ながら、歴史を辿り、日本が戦争に向かう道筋を理解したとしても、あなたの心は晴れないでしょう。
かつて朝日新聞の幹部が、「我々が道を踏み誤ったのは、1918年の米騒動の折、白虹事件で政府に折れた」ことだったかもしれないと記していた(弾圧の初期)。
確かに、新聞が何処で踏みとどまれば良かったのか、また本当にそのようなことが出来たかは難題です。

今、私はファシズム化と太平洋戦争への道を振り返り、あの事件、あの法案、あの人物の誤断がなければ、また公の場で誤りを指摘した人が幾人かでもいたのだから、国民の意識が高ければ防げたのではないかと思うことがある。
しかし、それすら過去の選択や予期せぬ出来事の積み重ね、さらには社会や文化の成熟度により、選択の余地がなかったようにも思える。

例えば、昭和恐慌を手際良く収めた高橋蔵相が次いで行った通貨膨張策によって際限のない軍事費膨張が起きたと批難されることがある。
彼はこれを防ごうとして、軍部の恨みを買い二・二六事件において銃弾に倒れた。
彼が通過膨張策を採用しなかったら軍部の独走が起こらなかったと思うこともあるが、彼は天才が故に誰よりも早く行っただけで、所詮、誰かが似たことを行っただろう。



< 4.言論弾圧 >

私達は何を学ぶべきか

新聞の転向に限れば、一番の罪は当時の朝日と毎日新聞にあっただろう。
なぜならこの両新聞が最大の影響力を持ち、反権力代表としてデモクラシーをリードして来たのだから。

しかし我々がこの過ちを繰り返さない為には、数々の言論弾圧を推し進めた政府・議会、それを国民が看過した誤りに気がつかないといけない。
政府による報道支配は、世界中、ファシズムや戦争開始時には必ず起きているのだから。
かつて米国の上院議員が言った「戦争が起こった時、最初の犠牲者は真実である」と・・・
注釈2.

結局、一人ひとりが事の正否、ここでは社会が悪化する要因を知って常日頃からその事を注視するしかありません。

今まで見てきた戦前の社会悪化(ファシズム化)の要因をいくつか挙げます。
項目が左から右にいくほどより深い要因を示しています。

拡大した貧富の差< 逆累進性の苛酷な税(低い所得税)< 膨大な軍事費、工業優先、普通選挙未完。

社会運動弾圧< 治安維持法、不敬罪、憲兵の司法警察権 < 未熟な人権意識が労働運動弾圧に繋がった。
(欧米は20世紀初めに累進課税と労働権擁護を行っていたので、1920年代、労働運動を敵視することがなかった)

言論支配< 検閲、新聞紙条例、軍の情報支配 < 「言論の自由」「公正な報道」の価値認めず。
(島国日本にとって軍部が国内と海外の情報を牛耳ったことは致命傷だった)

腐敗政治< 利権争いと汚職の藩閥政治から金権体質の政党政治へと続いただけだった < 未熟な民主主義、低い政治意識(金や地縁で決まる投票行動)。

軍部の専横< 貧弱な国家戦略、軍の身内に甘い処分、陸軍と海軍の反目、統帥権による文民統制欠如 < 縄張り根性(日本の組織文化)、憲法不備(天皇の大権)と拡大解釈。

これらの要因を当時、取り除くことが出来れば大事に至らなかったかもしれない。
しかし、今も遅れたままの法意識と政治意識の現状で当時どれだけのことが出来ただろうか。

また、これら要因やファシズムについて異なる意見もあります。
中には、人々に心地良い簡単明瞭な答えが準備されています。
残念ながら、これら答えや歴史認識には歪曲され、都合良く解釈され、党利党略で歪められたものがあります。
これらの正否を確認するには、合理的な疑いを持ち、自ら日本の歴史や社会を知る努力が必要です。

結局、行き着く先は、我々が社会の真実を歪められることなく知るにはどうすれば良いか、その為には何が重要かを理解することです。
それがこの連載「社会と情報」のテーマでもあります。


ここで問題です



< 5. NHK受信契約者数と新聞部数の推移 >
凡例: 黄線は満州事変を示しています。
解説: 日本のラジオ放送は国営の放送局が1925年から始めました。
この放送局の初代総裁は後藤新平で、彼は台湾総督府長官、満鉄総裁などを歴任した植民地経営者であり、右翼を使った新聞社妨害の噂もあり、正力が読売を買収する際に多額の資金援助もしていました。

当時、そのような国のラジオ局が放送を始め、人気が出てくると既存の反権力新聞と御用新聞にはどのような影響が出ると思われますか。
ファシズム化が進んでいる状況で、どちらが危機的状況になり、どちらに追い風が吹くでしょうか?
そのことにより何が起きたかは、現実の証拠を挙げなくても、多くは察しが付くはずです。
このように、いくつかの証拠を合理的に疑うことで、真実が見えて来るはずはずです。


今回で、「戦った報道」シリーズを終え、一端休息の後、また別のテーマで始めるつもりです。
皆さま、長らくお読み頂き頂いたことを心から感謝します。


注釈1: 「戦争の誤謬7,8:ベトナム戦争1,2」「社会と情報8~11:**」にてベトナム戦争を説明しています。

注釈2: これは米国が第一次世界大戦の参戦を決めた時に、米国のグラハム上院議員が発言した。










20151130

社会と情報 68: 戦った報道 25




< 1. 現在も繰り返されるファシズム >

前回、軍人が暴走する様子を見ました。
今回は最も重要な「日本はなぜファシズム化したのか?」を検討します。

はじめに
ファシズムを広辞苑より引用します。
「全体主義的あるいは権威主義的で、議会政治の否認、一党独裁、市民的・政治的自由の極度の抑圧、対外的には侵略政策をとることを特色とし、合理的な思想体系を持たず、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を宣伝する」

ファシズム化の三段階を想定します。
A: 人々は社会と政治に絶望していた。
B: 人々は対外的なものに不安を感じ、かつ対外的なものにこそ活路があると信じ始めていた。
C: 人々は、この絶望と不安を解消し、一気に解決してくれるカリスマ的指導者を待望した。

これを同時期のドイツと比べてみます。



    

A: 絶望。
長く続いた元勲や軍閥の政治から政党政治に変わっても政治状況は良くならなかった。
人々が期待した政党政治(2、3党)も金権腐敗(賄賂、癒着、利権)と罵り合いに明け暮れるだけで、社会と経済は良くならなかった(既に見ました)。
1921年から1931年までは日本初の政党政治の開花時期だったが、未成熟なところに運悪く最悪の経済状況が圧し掛かり、うまく対応出来なかったことで混乱に陥った。
1920年代に連続した災厄や恐慌の半分は政府に起因したものではなかった。
また日本は集約農業から一気に重化学工業(資本主義経済、都市化)への転換と巨大な軍事費に喘いでいたので無理からぬものがあった。
私が注視するのは、累進性の無い苛税と貧弱な社会資本投資の為に農民が困窮し続けて、貧富の差が目立ち、やがて蓄積された不満のエネルギーが爆発したことです。

この状況はドイツの方がひどかった。


B: 対外的なものに抱く不安と活路。
明治維新以来、帝国列強の侵略と、1910年代以降、海外で吹き荒れた共産主義革命への恐れがあった。注釈1.
急激な都市部の発展に連れて盛んになる労働運動(一部過激なテロまで進む)、それを煽る反権力の新聞は政府や軍部にとって邪魔ものでしかなかった。
政府は体制批判に繋がるすべての社会運動と言論の封じ込めを強化していった。
一方、裏で左翼を嫌う右翼(国粋主義者)の利用と容認も進んだ。
こうして議会は国民が待望した普通選挙法を1925年(28年実施)に成立させる一方、同年に治安維持法を成立させた。
この言論弾圧の体制は徐々に進行していて、この治安維持法の前身となる法は議会で一度廃案になっていたが、緊急勅令(23年、天皇許可)で成立していた。
かつて憲政の父、尾崎行雄が、桂首相を罵倒した時も「・・玉座をもって胸壁となし、詔勅(天皇の意思)をもって弾丸に代えて、・・」と指摘したように、天皇の口添えは幾度も繰り返されて来たことでした。
こうして国民は望むはずもない首輪を自らの首にかけることになった。

これにより政府転覆(左翼革命)への恐怖を取り除いたかに見えた。
これを望むのは、概ね体制を維持することで権益を守り発展させることが出来る人々です。ドイツなどでは中間層(保守層)がファシズムを支えたことがわかっています。
当然、このような形で社会への抑圧が進む時、二つのことが起きた。
一つは、底辺の人々の訴えと生活が無視されていくことになった(貧富の差拡大)。
不思議な事に、ファシズムのスローガンとは逆の事が起きて行きます(ドイツも同じで本質的)。
今、一つは敵対者を暴力で排除する社会になったことです。



 
    


一方で、1910年までに日清・日露戦争と朝鮮併合を終え、日本国民は植民地での抗日闘争の激化もあり、異民族への嫌悪を深めていた。
政府は植民地での都合の悪い事実を隠蔽・捏造し、さらに武力による制圧を繰り返す内に益々、両国において憎悪と蔑視が深まることになった。

軍部の考えは世界一を決する日米対立が最大の焦点であり、ソ連の恐怖は二の次とした。注釈2.
ソ連との決戦は満州に出ることにより必然となるが、当時ソ連は革命中で、外征は眼中になかった。
さらに政府は、平和ボケした米国が日本を相手に戦う気は無いと楽観していた。
中国については、相手にもしていなかった。
予測はすべて見事に外れるのだが。
当然、これら情報は必要に応じて針小棒大に喧伝された。

こうして、希望の実現の為に暴力で不安と恐怖を排除する合意が出来上がりファシズム化が始まりました。
人々は、一致団結して海外の不埒な民族を武力で制圧することで、国民は新たな天地を得て絶望から脱せると信じ始めた。
当時、五族共和とか大東亜共栄圏と謳われ、多くの人々が願いまた信じたが、結果は一方的な武力制圧に終始したので侵略に他ならなかった。

この経緯はドイツと日本では多少異なるのですが、暴力と外征に向かう状況は一緒でした。


 
    

C: 立ち上がった軍人達がいた。
ここから日本とドイツのファシズムに大きな違いが出て来ます。
この前段階の「絶望」「対外的な不安と活路」は基本的に同じと言えます。

ドイツと異なるのは、右翼勢力(ナチス)を率いる独裁者(ヒトラー)が日本には存在せず、多数の軍人(文民政治家も)が入れ替わり立ち替わり戦争拡大を担ったことです。
言い方を変えれば、「皆で渡ろう・・・」(集団無責任体制?)に似ている。

ヒトラーは絶望する民衆に「かつての大帝国の復活(領土を取り戻す)、ユダヤ人排斥、反共産主義」を訴えることで国民の絶大なる信認を得た。
日本も「大帝国を築く(満州からアジア全域)、他民族の上に立つ(五族共和)、反共産主義」と、基本的なスローガンは一緒でした。
ドイツでは社会主義革命以降、既に国軍(幹部は貴族出身)が政権を握っていたが、初めヒトラーを信用しておらずファシズムとまでは言えなかった。
ヒトラーは初めこそ労働者の不満を利用したが、政府転覆の為に資本家と国軍トップに擦り寄り、ナチス独裁を成し得た。

日本では長らく軍事大国への道を突き進み、成功体験もあり、さらに未発達な民主主義の下、クーデターの混乱に乗じ軍閥が再度政権をより完璧に掌握することが出来た。
国民の一致団結に必要なカリスマ的指導者に、ここでも天皇が祭り上げられた。
こうして、この象徴の下に一丸となって進むことが出来た。

この軍閥を中堅将校が暴走し牽引する形で、容易に戦争を拡大させ、ここにファシズム体制が完成した。
日本では、右翼の存在は左翼潰しと言論封じ込めに利用され、混乱を招いて軍閥政治移管に利用されただけに見える(ドイツに比べて)。

次回で最終話になります。

注釈1: 今回のテーマでは一貫して海外列強の脅威を大きく扱っていません。
これは重要なのですが、話が複雑になることもあり割愛しました。
それに変わるとも劣らない大事なことがあります。
日本が日清戦争から太平洋戦争へに至る過程で、敵国が初めから立ちはだかっただけでなく、日本の侵略行為が相手の敵愾心を増大させたことです。
例えば太平洋戦争中盤(1943年)になると、米国は日本の北方領土割譲を餌にソ連の参戦を促しました。
このように自国の軍事行動が戦争拡大を招くる過程はあらゆる戦争、ベトナム戦争、ユーゴ内戦、イラク戦争などで見られます。
もう一つは、戦争が敵国の存在云々よりも自国の内部要因により起こることが多々あります。
その典型がドイツのファシズムです。
したがって国内状況の分析が非常に重要なのです。


注釈2: 1920年代以降の帝国国防方針、石原莞爾の「我が国防方針」、陸軍幕僚による木曜会の満蒙領有論から推察した。






20151129

社会と情報 67: 戦った報道 24


  
< 1. 2・26事件 >

今回から、最後の問題、政治の何が国民を大陸侵攻に向かわせたかを探ります。
いままで日本の軍事大国化と経済の問題、さらに中国の状況を見ました。
社会状況は悪化していましたが、もし軍部や右翼の暴走が無ければ戦争へと進まなかったかもしれません。
なぜ暴走が頻発するようになったかを考察します。

何が問題か?
要点は二つある。
一部の軍人の暴走が次々と戦争を拡大させた。
暴力が常態化する社会になっていた。

日本の政治の何処にこの原因があったのか?
前者は主に軍人組織の問題で、後者は一般的なファシズム化(全体主義、国粋主義)を指します。





< 2. 2・26事件の報道 >


なぜ軍人は暴走したのか?
ここで、国内で起きた主な暗殺事件を振り返り、暴力が蔓延していた状況を見ます。
暗殺は以前もありましたが、第一次世界大戦後の戦後恐慌あたりから急速に増加しました。

1919年の財閥の長に始まり、21年に首相、29年に体制批判の議員、31年に首相、32年の血盟団事件で大蔵大臣と財閥の長、五・一五事件で首相が暗殺された。
34年に体制批判の新聞編集者、35年に陸軍軍務局長(内部抗争で)、36年の二・二六事件で首相と侍従長、元内大臣が狙われ、大蔵大臣、内大臣、陸軍高官(内部抗争で)が暗殺された。
暗殺の標的は、政治・経済政策への不満による内閣の責任者、天皇の御心を妨げたとして天皇側近、体制批判者や財閥関係者、それに陸軍内部の抗争相手だった(注釈1)。

これら暗殺は最初右翼(国粋主義者)の単独犯で始まり、後に集団化し、軍人によるクーデターとなった。
ここで特徴的なのは、彼らは革命政権の具体像を持ってクーデターを起こしたのではなく、憎い者を誅殺し、後は天皇に任せようとしたことでした。
結局、軍の不平を抑える為に軍部に頼らざるを得ず、日本は軍閥時代へと一気に突入し、1937年の日中戦争へと進む。




< 3. 満州事変 >

張作霖爆殺事件や柳条湖事件(満州事件の端緒)では少数の軍人が勝手に戦闘を開始し、後に軍中央が渋々戦闘続行を追認し、戦争は拡大して行きました。
他に、国内で起きた一大尉による市民虐殺の甘粕事件、一司令官が軍中央の方針を無視して上海事変から南京(虐殺事件)へと戦域を拡大したことなど、当時、将校の規律や命令違反は慢性化し戦争拡大の一端となっていた。
ところが不思議なことに、この類の張本人はほぼ罰せられることがなく、長期の禁固刑が確定しても、数年もすればこっそり釈放された。
むしろ、その意気(愛国心)と能力を買われてか、大陸で出世する人も多かった。
一方で、公になった右翼の暗殺者は極刑となった。

こんなことがまかり通れば、勝手に撤退する将校はいないから、戦争が拡大するのは当然でした。
これこそ勇気がいるのだが、無謀なインパール作戦では数少ない例外、一部隊による命令違反の撤退があった。

日中戦争が始まる頃、関東軍参謀の武藤が中央の意向を無視して戦争拡大を画策していたため石原莞爾が止めに出向いた。
しかし、当人は「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論して、石原は絶句せざるを得なかった。
結果はご承知の通りです。

こんな馬鹿げた事がなぜまかり通っていたのか?
軍部内では、彼らが「憂国の士」であるとして咎めるべきではないとの意見が強く、軍は身内が可愛く、甘かったと言うことらしい(世界共通とも言えるが、これは酷い)。
当時、この軍部の幼稚な判断に誰も逆らうことが出来なくなっていた。

一つは、社会全体がファシズム化し軍部独裁が進んだからとも言えるが、軍事は天皇の大権(統帥権)に関わるとして、他からは口出し出来なかったことも大きい。
もう一つは、日本の組織文化に起因している。
これは個人の行動規範が、社会が共有する正義(法の理念)に基づくのはなく、属している組織の意向に沿う形で決まることによる。
このことは戦場でも現代の企業でも、様々に社会の適応を阻害する要因になっている。
もちろん良い面もあります。
これは村意識とも呼ばれ、ダブルスタンダードや本音と立前を生む。

次回、ファシズム化を検討します。

注釈1: 二・二六事件で殺害された政府高官(内閣)に軍人が多かったのは、当時軍閥政治が始まっていたからで、要職を軍人が占めていたからです。
内部抗争とは陸軍内で、天皇による急進的な革命を望む皇道派と陸軍大臣による政治的な改造を企図した統制派の対立です。
結局、二・二六事件を起こした皇道派を処分する形で、統制派が軍閥政治の中心となった。




20151127

社会と情報 66: 戦った報道 23



    

前回、ファシズムを牽引した右翼と軍人の言説を見ました。
今回は、政府首脳が当初から抱いていた大陸感と中国の状況を見ます。




< 2.桂太郎(左)と大隈重信 >


外征は初めから首脳たちの念頭にあった  
前回見た石原や軍の中堅将校が、なぜ焦ってまで満蒙に火を着けたのだろうか?
その淵源は明治維新の攘夷論まで遡ることも出来るだろうが、ある時期から政府首脳の言説に明確に現れ始めた。

日清戦争後の1896年、桂太郎台湾総督(長州閥、陸軍軍人、後に首相)の提出した「台湾統治意見書」より。
「ロシアの脅威を朝鮮半島、日本海以北に阻止して日本の安全を確保し、台湾を立脚地として清国内部に日本の利益権を扶植し、これが完成すれば、さらに南方群島に発展していく」

日露戦争後の1906年、政界で活躍していた大隈重信(後に首相)の雑誌の特集「戦後経営」への寄稿より。
「日本国民は、これからは航海業、商業、移民業を拡張していかなければならない。商業的に発展していく地域は、東亜から・・南北アメリカである。移民を待ち受けている地域は、人口希薄な南北アメリカ、・・・、満州である。・・日本は戦勝の結果として得た満州における利益を基礎として、大陸に向かって経済的に発展していくべきである」

二つの戦争を勝利してロシアへの脅威が薄れ、また多大な犠牲を払ったことも加わり、首脳達は台湾や満州を手始めに拡大策を公然と訴えるようになっていた。

しかしこれは大きな危険を孕んでいた。
大陸侵攻が拡大すれば、中国やソ連、さらには欧米列強を次々と敵に回すことになる。
そうなれば日本の国力では太刀打ち出来ないことは国防戦略の立案者には明らかだった。
一方で、最強の複数国と戦うにはアジアの資源と商圏も絶対必要だった。
そこで軍の戦略立案者はある制約条件「最大の敵は攻めてこない」と「敵一国だけとの短期決戦」を設けざるを得ず、他は想定外とした。
さらにまずい事に薩長閥以来の遺恨が続く陸軍と海軍で敵国(ソ連か米)の想定が異なった。
こうして軍首脳は現実に目をつむり、勝ちたいとの思いだけで、一貫した戦略なしで右往左往しながら、沼るみに足を取られるように深入りしていった(注釈1)。

私が奇異に思うのは、勝つ可能性がゼロに等しく、莫大な消耗をもたらす敗戦に向かっているのに、最高のエリート集団の作戦本部や軍令部から誰一人として疑問の声が上がらなかったことです。
少なくとも国民には国益の為と公言してはばからなかったのですから。
始まった戦争のブレーキ役を軍人に期待出来ないのかもしれないが、これは異常です。
これは今も続く実に日本らしい精神の原風景で原発産業にも見られる組織文化です。





< 3. 中国の勢力図 >
解説: 上の地図は日露戦争後の中国、下の地図は1910年代の中国の勢力図。
この勢力の変化は、第一次世界大戦と世界恐慌、民族独立運動によって起こったと言える。
 
当時、中国北部(満蒙)は狙い目だった
軍部はなぜ満蒙を真っ先に狙ったのか?
満州事変が始まる前、1930年前後の世界と中国の状況を確認します。

第一次世界大戦と世界恐慌が尾を引き、欧州は国内政策で手一杯、ドイツではヒトラーの大躍進で暗雲が立ち込め始め、欧州勢はあれほど奪い合った中国から手を引いていた。
そこで欧州は日本の満蒙侵略を国連で批難はするが、躍進する共産国家ソ連を東方に釘付けする役割を日本に期待した。
ソ連はまだ革命の混乱が続き、スターリンが体制固めに奔走している時期であり、外には目が向いていなかった。
一方、米国は深刻な経済不況で貿易額を往時の30%に落とし、平和志向に戻り日本との貿易継続を重視した。

日本は日露戦争で南満州鉄道を租借した後、満州の軍閥に肩入れし傀儡政権樹立によって世界の批判をかわしながら権益を拡大して来た。
第一次世界大戦以降、青島(山東省、上地図の青塗り部)を手に入れ、対華21カ条要求により中国全土にも権益(商圏)を拡大していた。

中国は、1911年の孫文による辛亥革命以降、内戦状態に突入にしていた。
北部(満州)では軍閥が割拠し続けていたが、やがて中央で共産党軍と覇権を争っていた国民党軍が北伐を1926年に開始し、北部の軍閥は日本の手から離れようとした。
そこで関東軍は1928年、傀儡軍閥の張作霖を爆殺した。
こうして、満州事変へと繋がっていった。


まとめ
軍の中堅将校の思想で一番重要なのは以下の点です。

最強の国になることが国を災厄から守ることであり、その為に隣国の莫大な資源と商圏を領有し、自給圏と軍需産業を早急に育成しなければならない。
それは同時に国民の窮状を救うことにもなる。
その為に、少ない損害で勝利を確実にする奇襲や謀略による侵攻を当然と考えた。
この考えは、太平洋戦争にも持ち込まれ、これが逆効果になるとは露ほども考えなかったようです。
彼らは欧米や中国の干渉と反感を抑える為に満州に傀儡政権を立て、国内の反戦気運を削ぐために国民には虚偽報道で戦意を煽ることも忘れなかった。

ここに長年の軍事大国化が生んだ弊害を見ることが出来る。
戦争を牽引し、反乱事件を操った当時の陸軍将校はすべて陸大のエリートでした。
満州で謀略を行った板垣、河本、石原らはいずれも1980年代生まれで、日清戦争から日露戦争の間に14歳前後で陸軍地方幼年学校に入校し、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業している。
首相となった東条英機も彼らと同様でしたが、彼の父は軍人(陸軍中将)で、彼は軍人2世でした。
彼らは、小さい時から軍人だけの隔離された学校社会で、また戦争の世界で出世を夢見て来た人々でした。
そう単純ではないが、日本流の組織文化に生きる精神がそうさせたとでも言うべきでしょうか。
軍人としては優れていても、視野狭窄になりやすい。

善意に解釈して、憂国の士であった彼らは現状打開の為に先ず戦端を開くことに賭けた。

次回から、最後の問題、政治の何が国民を大陸侵攻に向かわせたかを探ります。

注釈1: 二つの相反する戦略があり、陸軍は対ソ連戦想定で満州以北への「北進」で、海軍は対米戦想定で東南アジアへの「南進」であった。日本の国力から見ればどちらかに限定すべきだったが、両者の対立に折り合いが着かず両論併記で国防方針が決まっていった。常識的に見て、この時点で国力の違いから戦争続行は不可能であり、軍首脳や戦略立案者の脳裏には「破れかぶれ」が去来したことだろう。

参考文献
「日本を滅ぼした国防方針」黒野耐著、文芸春秋刊、p23、26.
「中国文明史」エーバーハルト著、筑摩書房刊、p319~333。
「近代国際経済要覧」宮崎編、東京大学出版会刊、p116.
「集英社版日本の歴史19」
「集英社版日本の歴史20」p19~59。
「図説日中戦争」河出書房新社刊。
「図説ソ連の歴史」河出書房新社刊。
「アジア太平洋経済圏史1500―2000」川勝平太編、藤原書店刊、p145~164。
「Wikipedia」<石原莞爾><日本改造法案大綱>
「世界大百科事典」<石原莞爾><日本改造法案大綱>




20151125

社会と情報 65: 戦った報道 22



< 1. 憂国の志でありファシズムを牽引した人々 >

今回は、軍部や右翼がなぜ大陸侵攻(満州)を目指したかを見ます。
この地は経済的にも重要だったのですが、それ以上に軍事的な狙いがありました。
この事を当時の軍部と右翼の思想などから探ります。

何がくすぶっていたのか
1931年に満州事変が起こり、国内で1932年の血盟団事件と五・一五事件が発生した。
前者は中堅の将校が国防と自給圏確立を目指した国防方針の刷新だった。
後者2件は国内の窮状を憂い、右翼と急進派青年将校が共同して政府要人を暗殺し、政治の刷新をもくろんだ
1936年の二・二六事件で軍部独裁に拍車がかかり、1937年の日中戦争へと進み、戦争に歯止めがかからなくなった。
これを契機に日本はファシズム一色となって世界大戦へと突き進んだ。



< 2. 北一輝 >

この国内事件の理論的支柱となった北一輝の「日本改造法案大綱」(1919年)は何を目指していたのか。
彼は3年間の憲法停止、戒厳令施行、軍人中心の改造内閣を目指し、政策としては特権的官僚閥・軍閥の追放、労働者の企業経営参加、限度以上の私有財産の国有化などをうたった。
さらに植民地朝鮮や台湾の分離を認めず、「持たざる国」日本は「持てる国」大国に対して戦争によって日本の領土とすることを当然の権利とした。
彼は武力使用について共産主義革命に倣って正当化したが、実施には天皇の大権に頼った。

このファシズムの経典は、社会主義と資本主義、帝国主義の折衷案に見える。



< 3. 「世界最終戦論」を著した石原莞爾 >

一方のファシズムの旗頭、関東軍参謀として満州事変を牽引した石原莞爾は何を目指していたのか。
これを1928年「我が国防方針」、1929年「関東軍満蒙領有計画」から見る。
世界は最終戦争に向かい対米戦争で決着する、その為には満蒙から始め全中国を領有し、この資源をもってすれば20年、30年は戦争を続けられる。
またソ連の脅威を食い止めるべく防衛ラインを北上させる必要がある(海軍とは異なる)。

この方策は当時の陸軍の中堅エリートがほぼ共有するものだった。
すでに1920年代より日本の国防方針は最大の仮想敵国をそれまでのソ連から米国に替え、弱体化している中国を手始めにアジア全土を掌中に収めてこそ勝機があると考えていた。
この時点では軍上層部と文民の指導者は米国との戦争を望んでおらず、米国は強硬な態度に出ないと踏んでいた。
この軍事戦略の一環としての満蒙侵略で、国民の窮状打開は二の次であり、宣伝文句だった。

ここに当時の情勢判断の甘さが出ているのだが、火付け役の軍事の天才と言われた石原は、後に中国侵攻や対米戦争に強く反対することになり、一時左遷されることになった。
如何にも情報収集や戦略が稚拙だったように思えるが、その真相はもっと根深く、実につまらないものだった。

次回、政府や軍部の首脳が当初から抱いていた大陸領有と中国の状況を検討します。


参考文献
「日本を滅ぼした国防方針」黒野耐著、文芸春秋刊、p23、26.
「中国文明史」エーバーハルト著、筑摩書房刊、p319~333。
「近代国際経済要覧」宮崎編、東京大学出版会刊、p116.
「集英社版日本の歴史19」
「集英社版日本の歴史20」p19~59。
「図説日中戦争」河出書房新社刊。
「アジア太平洋経済圏史1500―2000」川勝平太編、藤原書店刊、p145~164。
「Wikipedia」<石原莞爾><日本改造法案大綱>
「世界大百科事典」<石原莞爾><日本改造法案大綱>



20151123

社会と情報 64: 戦った報道 21



< 1. 天津の居留地、右のドームは日本企業の建物 >

今回は、満州に侵攻しなければならなかった経済的な理由を探ります。
主に満州と中国を中心に見ます。



< 2. 旧満州国 >

はじめに
「戦った報道 20」で見たように、満州事変勃発を受けた民間の主張は概ね「中国での排日行為と干渉を抑えて、移民促進と資源開発を行うこと」でした。
前者は既に中国に居留し商売や産業に従事している人々の安全と経済活動を守ってくれというものです。
後者は、国内の窮状を救う為の貧農と失業者の救済策であり、経済発展と軍需産業に必要な輸出入の促進を意味しています。

当然、政府(軍部)や国民が予想していなかった効果や失敗もあった。



< 3. 日本人の海外移住の推移。(株)ギアリンクスより >

移民と居留民 文献1.
日本人の移民(永住者)は1868年のハワイを皮切りに北米・南米へと増えていった。
さらに二つの戦争で獲得した植民地(朝鮮、台湾、南樺太、南洋諸島)へと移住者が増え、1910年30万人、1930年頃には移民総勢100万人に膨れ上がっていた。
ちなみに在朝日本人は1900年末で1万6千人から日露戦争後の1905年に4万2千人に膨れ上がっていた(移民、居留者)。
敗戦による日本への総海外引揚者数は軍人を除いて320万人に上った。
明治時代から多くの人が海外に移住し、植民地や租借地に居留し、あらゆる仕事に従事していた。



< 4. 拓務省による満州移民の募集 >

満州農業移民は満州事変の翌年に始まり、関東軍主導で敗戦までに約25万人が送り出され、多くは国内の小作貧農や子弟で、原野で農業に従事した。
1938年以降、満蒙開拓青少年義勇軍9万人(15~18才)がさらに送り込まれた。
彼ら移民の敗戦に伴う死亡者は8万人に上った。

これには理由がある。
軍は最初から「屯田兵制移民案要綱」を作成し、移民の5割はソ満国境の最前線、4割は抗日武装部隊が荒れ狂う地に送り込んだ。
つまり軍は、必要とあれば武器を持って盾となり、日常は農業者である屯田兵を目論んでいた。
さらに「満州移民500万人移住計画」を打ち挙げて、これにより満州人口の1割を日本人で占めることを目指した。
強壮な青年を集めて送り込めば満州は安泰になるかもしれないが、国内の農民と兵員が不足するのは明らかだった。
さらに悪いことに、日本移民用の土地は収奪に近く、また多くは地主となって中国人を使役したので現地人の憎しみは増すばかりだった。
こうしてソ連が侵攻してくると悲劇が起こった。

中国への居留民(一時滞在者)は1873年の上海から始まり、日露戦争、第一次世界大戦を経て、奉天などの中国東北部と青島などの都市に居留地が出来ていった。
1913年の中国の居留民総数は約4万人で、その内訳は物品販売業、鉄道などの運輸、工員の順に多く、これで50%を占めた。
つまり一攫千金をねらった中小商人の進出が居留民の代表的な姿だった。


資本進出                  文献2.
植民地の民族資本の割合を見る。
1929年、台湾の工場数で90%、職工数で62%、1928年、朝鮮の工場数で52%、従業者数で29%であった。
つまり残りは概ね日本資本で大企業ほど所有されていることになる。
満州では1932年、工場数の80%が民族資本であった。
しかし中国本土の紡績工場を国別の資本割合で見ると、1925年で中国56%、日本38%、英国6%で、1905年では日本は4%に過ぎなかったのが急速に伸びている。

何が言えるのか
日本が既に如何に経済的、人的に植民地と結びついていたかが分かります。
こうして農民も商工業者も大企業も、日本軍による満州と中国の支配を歓迎したのです。
また満州移民は軍事が優先であり農民の救済は二の次だった。



< 5.殖民地貿易と経済成長http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/06-0j_hori_j.pdf > 
解説: 図―3より、満州事変後(赤枠)、満州は日本からの輸入が40%から85%へと著しく増大している。
図―4より、日本の植民地への輸出が他国への輸出を圧倒するようになって行く。
2-bより、日本と植民地が共に経済成長を遂げている。
(ただし植民地の利益の大半は日本資本が握り、民族による経済格差が酷かったと考えられる)


それでは満州を手に入れたことで日本経済にメリットがあったのか? 文献3.
答えは、満洲を含めて植民地がなければ日本は立ち行かなかった。
そのメカニズムは複雑ですが、要点だけを記します。

A: 1920年代までの貿易体制が崩れ、日本は殖民地内の貿易に依存しなければならなかった。
米国への生糸輸出が世界恐慌と米国の人絹工業の発達によって決定的に縮小し、それまでの輸出超過から逆に輸入超過となった。
これにより外貨が入らずインドや欧州から原料や機械の購入が出来なくなった。
また金融政策変更(高橋蔵相)による円安で輸出が伸びたのだが、ブロック化していた世界各国と軋轢を生んだ。
また育ちつつあった日本の重化学工業も欧米の第一次世界大戦後の立ち直りによって競争力を失っていた。
当然、欧州からの設備購入は円安で手が届かなくなっただろう。
こうして日本の製品と資本の輸出は円ブロック(外貨不要、恣意的な関税で有利)の満洲・朝鮮・台湾に集中していった。



< 6. 朝鮮の日本窒素の肥料工場と満州の撫順炭鉱 >

B: 現地での搾取による高収益
例えば、朝鮮で水力発電を利用した日本の窒素肥料会社が巨額の利益を上げた。
これは土地を奪い安い労賃で朝鮮人をこき使うことで可能になった。
実は、日本では労働運動が盛んになったことで、日本企業は規制の無い朝鮮に行ったのです。
一度は朝鮮にも規制を設けた日本だったが、外して日本企業に便宜を図った。

同様なことは満洲の日本鉱山でも起こった。
中国人の日当は朝鮮半島よりもさらに安く日本人賃金の1~2割で、粗末な食事でこき使われ、1日に40~50人が死んで埋められた。
撫順炭鉱だけでその数は30ヶ所に上った。

結局、植民地への巨額投資は軍事上か、さもなければ日本経済や企業の為であったと言える。





< 7. 軍需産業の躍進、http://www.meijigakuin.ac.jp/~hwakui/newkokusai.html >
解説: 破線が日本、赤枠が満州事変の翌年を示す。日本は満州を手に入れたことで、軍需産業を急速に発展させることが出来たようです。

まとめ
結論として以下のことが言える。

多くの人は、満州を支配することで経済的な恩恵があると漠然と思ったことだろう。
ほとんどの満州移民は満州の実態も農業も知らなかった。
それよりも中国と満州に関わる事業家や商工業者、海外居住者にとっては、現地の安泰は絶対であった。

しかし、それ以上に国防を先取りする人々が、国際関係の空隙を突いて、今しかないと戦端を開き、国策の変更を迫った。
こうして軍の移民政策と民間の期待した移民とは異なったものになった。
一方、満州や中国、東南アジアの支配は貿易悪化から好転へと導き、さらに軍需産業発展をもたらした。

その後の展開
しかしその好転は思わぬ不幸の始まりだった。
やがて、当初軍部が恐れていながらも楽観視していた事が立て続けに現実となり、太平洋戦争へと突き進んだ。
それは自らの侵攻ですべての仮想敵国を敵に回し、予想しうる最大の巨大兵力と戦うことになったからでした。

後追いで歴史を見ると軍部は実に都合の良い想定を繰り返し戦争に突入している。
初めに「最大の敵は攻めてこない」として満州に侵攻し、さらに「敵一国と短期決戦で決着する」とし太平洋戦争に突入したことに驚かされる。
まるで原発の想定外「大きい津波は起こらない」と同じ思考でした。

次回は、この軍部の驚くべき思考(戦略)の背景を追います。


文献1: 「岩波口座 近代日本と植民地 3」「岩波口座 近代日本と植民地 5」岩波書店刊。
文献2: 「日本経済史」石井寛治著、p278.「岩波口座 近代日本と植民地 3」p45.
文献3: 「集英社日本の歴史 20」p42~。