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20170501

海外旅行のすすめ 5: 初めてのヨーロッパ 4





< 1. ドイツの鉄道 >
おそらくはニュールンベルグからフランクフルトまでの移動に使った鉄道の駅にて撮影。


今日で、私の初めてのヨーロッパ旅行の紹介を終えます。
当時の写真がありましたので掲載します。


写真について
写真は1984年11月18日から25日までの間に撮影したものです。
記入の撮影場所はおぼろげな記憶にもとづいていますので参考程度です。



< 2.いざヨーロッパへ >

上の写真: アンカレッジ空港。
当時はヨーロッパに行くのにアジア大陸(ロシア)上空を飛べ無かったので、ここに寄り北極海上空を飛んだ。

下の写真: コペンハーゲンの駅。
コペンハーゲンで宿泊したホテルの直ぐ近くにあった。



< 3. コペンハーゲン >

上の写真: コペンハーゲンの河口。
ホテルから4km離れている。

下の写真: 街並み。





< 4. コペンハーゲン >

下の写真: おそらくは宮殿の衛兵の交代前後の行進。




< 5.北欧の郊外 >

おそらくはデンマークかスウェーデンの郊外の集合住宅。





< 6.スウェーデン >

上の写真: おそらくはスウェーデンのガブルの駅構内。
自由に入って撮影。

下の写真: おそらくはストックホルムからガブルへの北上途中。




< 7.ドイツ >

おそらくはニュールンベルグかフランクフルトのバスの車窓から撮影か。







< 8.ニュールンベルグ >

中央に見える円柱の建物はニュールンベルグ旧市街を囲む城壁の正門跡。
この門は旧市街の南東にある。




< 9.ニュールンベルグ >

上の写真: ニュールンベルグのマルクト広場に向かっている。
おそらく遠くに見える二つの尖塔は聖ゼーバルドゥス教会で、その手前に広場がある。

下の写真: おそらくニュールンベルグの通り。
写真を見ると、通りを行きかう人の当時の服装がわかって面白い。


私は初めて、ニュールンベルグでヨーロッパのマルクト広場を見ることになった。
中世の建物や荘厳な教会に囲まれた広い広場、そして溢れる賑やかさに私は興奮した。
時折、今でも当時の新鮮な感動を思い出すことがあります。

そこでは、かって市民が集まり決起する歴史的な事件があったことだろう。
この後、数多くのヨーロッパの都市を訪れ、その歴史に触れる度に胸が熱くなることがある。

私にとって海外旅行は、その都市とそこに生きる人々の葛藤や喜びを感じることが
出来ることです。
そこに立ち、歴史を知ることで、その共感はより深まります。

この都市で大戦後、ニュルンベルク裁判が行われた。
この旧市街が大戦時、連合国軍の空爆で完全に破壊された後の再建だとは当時知らなかった。
他のヨーロッパの旧市街を幾つも訪れたが、人々は諦めることなく、私は素晴らしい再建を行ってことに敬服した。




< 10. フランクフルト >

おそらく帰国時の飛行機からの撮影でしょうか。


これで初めてのヨーロッパ旅行の紹介を終えます。
次回から別の旅行を紹介します。




20170425

海外旅行のすすめ 4: 初めてのヨーロッパ 3





*1


今日は、北欧の企業見学でわかった事、また北欧と日本の違いについて書きます。



*2


企業見学
私達はデンマークの2社、スウェーデンの2社を訪問しました。




< 3.デンマークの2社 >

デンマークの2社は先端技術を生かして中規模ながら世界を相手に活躍していました。
Brüel & Kjærは音響計測器メーカーで、Dantec Dynamicsはレーザー測定器メ―カーです。




< 4. ASEA社 >



< 5.Sandvik社 >


スウェーデンの2社は良く知られた大企業でした。
ASEAは電機メーカーでロボットメーカーで知らています。
現在は合弁してABBグループの一員です。
Sandvikは製鋼や建設機械製造を行っているが、超硬の切削工具でよく知られています。


感銘を受けたこと
Dantec Dynamicsについて話します。

従業員は350名ながら、世界相手に自らの販売網を持っているとのことでした。
当時、製造の人員は175名で開発に70名を擁し、先端技術のシーズを追及していくとのことでした。
そして現在も活躍している。

工場内の電子回路ユニットの完成品検査を見て驚いた。
10名ほどが一つのテーブルを囲み座って検査をしており、彼女らはユニフォームを着ておらず、その作業はのんびりしていた。
日本なら、ユニフォームを着て、流れ作業か、各自バラバラに座り、時間に追われるように作業していただろう。

私はこの作業風景に疑問を持ったので質問した。
管理者の返事は、作業者の尊重と完全な検査を最重視しているとのことでした。
この企業は大量生産品を作っていないこともあるが、他の工場見学も併せて考えると、北欧の労働慣習はやはり日本と大きく異なる。
日本には、ここまで労働者を尊重する文化は無い。
一つには、日本は大量生産体制で安価を売りにする企業が主流だからだろう。
最もこれを可能にしているのまた日本の文化(強い帰属意識)だろう。

最後に、外注比率について質すと、驚いたことに、外注比率がゼロだと言うのです。
日本の産業は、大企業と多数の下請けの小企業からなり、二重構造と呼ばれています。
私は北欧全体の産業構造について確認していませんが、様々な観察を総合すれば日本のような二重構造が生まれる余地は無いように思えた。
日本の二重構造は戦時中に作られた軍産一体化に始まるのですが、これが生き残り続けるのは北欧と異なる日本の社会意識(労働者意識)の低さにあるのだろう。

この視察旅行で、私は大いに感銘を受け、また幾つかの疑問を解消し、国の違いについて理解を深めることが出来ました。
しかし残念なことに、この時に知り得たことを企業で利かすことが出来ず、また現在の日本は北欧の水準に近づくどころか差が開いている。
例えば、2015年の一人当たりのGDP(購買力平価ベース)ランキングはスウェーデン9位、デンマーク14位に対して日本21位です。
日本の時間当たりの労働賃金は更にランキング順位を落とす。

当時は北欧と日本の違いに無念さを感じたが、いつかは良くなるとの希望を抱き帰国したものでした。


北欧の視察から学んだこと
私はこの視察旅行に出発する前、スウェーデンに抱いていたイメージは、「フリーセックス」と「福祉国家」ぐらいでした。
当時のマスコミの流す情報がそうでした。

しかし3日間ほど現地を巡っている間に、人々の意識に男女平等と権利の尊重(労働者)が根付いており、それが共稼ぎや家庭重視に表れていると感じた。
このことが一人当たりのGDPの高水準に結びついているのでしょう。

さらに北欧全般について言えると思うのですが、知識や科学を重視しこそ寒冷気候の狭い農地で暮らしていけるのでしょう。
現在、スウェーデンの穀類の自給率は高い生産性により120%ある。

またスウェーデンの福祉政策を知ることが出来ました
当時、高齢者はそれまでの住居を離れ専用の建物の個室に住み、世話を受けるシステムになっていた。
私は一人暮らしの寂しさを少し感じたが、不安のない老後を提供出来る国を羨ましく思った。

「彼らは日本のようにあくせく働いていないのに、この違いはどこから来るのだろうか?」と思ったものでした。

この福祉国家への道は、19世紀末から徐々に労働運動によって盛り上がり、議会制民主主義によって選び取ったものでした。
また第二次世界大戦では、兵力と中立外交で、戦わず他国に侵略されることなく、無傷でいられたことも幸いしている。
彼らは運が良かったわけでもなく、富に恵まれていたわけでもない。

現在、スウェーデンの福祉政策は幾つかの反省から介護サービス主体に変わっているが、介護の主体が家族ではなく地域社会で行う姿勢は変わっていないようです。
日本はこのスウェーデンの介護システムを参考にしたはずです。

残念なこと
北欧二ヵ国を巡って残念に思ったこと、実は日本のことなのですが。
この北欧の体験は、私の励みになり、また反省にもつながりました。

個人的には、男尊女卑ではなく男女平等、会社中心ではなく家族や暮らし重視の姿勢に考えさせられました。
私は団塊の世代に通じる意識から抜け出すことが困難でしたが、時折は反省するようになりました。

社会的には、日本の遅れを痛感しました。
一部しか見ていませんが、二重構造のない産業、権利擁護、福祉政策でスウェーデンは進んでいました。
そして今も日本は遅れたままです。

さらに加えて残念に思うのは、皆がこのスウェーデンの良さに無関心で誤解さへしていることです。
周囲の人と話していて感じることは、外国の良さを指摘する度に反論されることが多い。

「ここは日本で、日本流のやり方が似合っている。当然、日本の方が素晴らしい。」

海外に行ったことも無く、外国の長所欠点を知らずに思考停止するのは残念です。

外国と日本の違いを知ることで、日本を良くするには何をすべきが見えてくるのです。



< 6.幸福度 >
 
もう一つ気になるのは、行ったことも無いのにスウェーデンを否定的に見ている人がいることです。
私の推測ですが、米国寄りの保守的なマスコミはスウェーデンなどのような社会主義的な国や福祉国家を低く評価し報道しているようです。
こうすれば、幸福度などのあらゆる重要なランキングで日本が日を追って低下し、北欧などに差を開けられることから目を逸らすことが出来ます。

当然、スウェーデンにも欠点はありますが、自ら社会を変革し国民の幸福度を高めて来た経緯とその現実を知ることは重要です。

これが私が海外旅行を薦める理由の一つです。



次回に続きます。





20170412

海外旅行のすすめ 3: 初めてのヨーロッパ 2





< 1.クリスマスの飾りつけ、イメージ >
この記事に使っている写真はすべて借用で、イメージです。


今日は、北欧2カ国で感じた事をお伝えします。
私はここで人々の暮らしや働き方が日本と大きく異なることを実感しました。


私達は3泊4日で、デンマークとスウェーデンの合計4つの会社を訪問しました。
バスの車窓から見た街並み、工場見学、現地の人々の話などから北欧の社会や文化が少し見えて来ました。
古い話になるのですが、当時、衝撃を受けたことを覚えています。


灯りについて
巻頭の写真は、観光バスがコペンハーゲンやストックホルムの郊外住宅地を走っていた時の様子をイメージしています。
訪れたのはクリスマスの1ヵ月前で、都市部ではクリスマスイルミネーションが見られました。
私が素晴らしいと思ったのは、住宅街の個人宅の通りに面した出窓の飾りつけでした。
それは、出窓に飾られた花などが灯りに照らされていて、行き行く人々の眼を楽しませていることでした。
夜に浮かび上がる飾りつけに、人通りが少ないだけに一層、この人々の共に祝う気持ちの強さを感じました。

これから30年後に、日本でも個人宅の外周にクリスマスイルミネーションが普及したようです。



< 2. 曇り空とレストランの灯り、イメージ >

実は8日間の旅行で、晴れ間を少しでも見たのは一度きりの数時間だったと記憶しています。
雨が降るわけではないのですが、ヨーロッパ全体が厚い雲で覆われているのです。
私達がストックホルムからガブルへ向かう途中、一瞬だけ雲間から青空が少し覗きました。
この時、バスのほぼ全員が歓喜の声を挙げました。
もちろんすべて日本人ですが。

多くの日本人にとって、太陽の陽射しは有り触れたものに過ぎない。
しかし、冬の北欧にとって太陽の恵みは少なく、そのありがたみは格別なのでしょう。

食事をしたレストランの照明は、私にとっては何処も薄暗く、赤みを帯びた白熱照明でした。
始めは戸惑ったのですが、慣れていくと、これが味わい深いものに思えて来ました。

私は、また日本に帰ってから半年以上は夕食の際、わざわざ白熱球の下で食事をしました。



 

< 3. 北欧の街並み、イメージ >


町並みから
バスの車窓からウィークデーの繁華街の様子を見ていると、日本と大きく異なっていることに気付きました。
おさらくスウェーデンだったと思うのですが。

日本で言う赤ちょうちんやパチンコ屋などがなく、夕刻なのに勤め帰りの男達がたむろしていない。
仕事を終えた男達は何処に消えてのだろうか?
時たま見かける人達と言えば、カップルでした。
後に、この謎が解けることになりました。

スウェーデンでは男女平等と言うか、男女同一賃金でほとんどが共働きなのです。
これがおそらく一人当たりの国民所得が高い理由の一つなのでしょうが。
この為か、男だけが夜な夜な歓楽街に遊びに行くことがなく、出かけるなら夫婦共になるそうです。
こうして日本のように男で賑わう繁華街を見ることが出来なかったようです。

このことがまたライフスタイルに違いを生んだようです。


 

< 4.スウェーデンの家、イメージ >



たしかスウェーデンの大会社だったと思いますが、見学中、急に製造現場の従業員がそわそわしだしました。
そして終業ベルと共に、皆がそそくさと現場を立ち去りました。
日本の工場では考えられません。

次の日、別の工場見学のおり、現地の技術者と談笑する機会がありました。

私は聞きました。
「皆さんは、日頃、休みや余暇では何をしておられるのですか?」

皆さん、色々な趣味やスポーツに励んでおられているようでしたが、一番印象に残ったのは、自分で何年もかけて家を建てる人がいることでした。

日本では考えられないことです。
私達、特に団塊の世代は、がむしゃらに働き、仕事に生きがいを求め、会社に人生を捧げる節がありました。
それに比べ、スウェーデンの人は心豊かに暮らしていると感じました。
この働き方で、時間当たりの労働所得が遥かに日本より高いのですから羨ましいかぎりでした。

当時、日本は高度経済成長を終えて、一人当たりの国民所得が世界に伍するまでにはなっていたのですが、それでも北欧よりは低かった。
さらに時間当たりの労働所得で差が開いた理由は、日本のどこに原因があったのだろうか?
一つ言えることは、サラリーマン(男性)の会社への滅私奉公が所得を向上させてはいたが、一方で、女性の低賃金と機会損失がそれを相殺していたことです。
北欧はこれがなかった。
日本はやっと今頃、動き出した(男女機会均等法、育児休暇制度など)。

他の要因は、後に判明することになりました。



< 5. 本屋と飛び出す絵本、イメージ >


本屋を訪れて
ストックホルムで空いた時間に、一人で中心街を散策しました。
この時、私は生まれて初めてマクドナルドと海外の本屋に入りました。

本屋の中はクリスマスもあってか、心が弾むような飾りつけになっていました。
それでいて、けばけばしくなかったように思います。
この時、私は子供の為に絵本を数冊買いました。
一冊は北欧神話トールが主人公でした。
他は飛び出す絵本で、中世の城が飛び出すものでした。
当時、日本では見かけることのない類の本でした。
スウェーデン語なので理解できないのですが。

これ以降、海外に出ると本屋に寄り、面白い本を探すようになりました。


次回に続きます。








20170329

海外旅行のすすめ 2: 初めてのヨーロッパ 1






< 1.当時の飛行機 >


私は33年前に初めてヨーロッパを訪れました。
この時、私はヨーロッパの街並みに感動し、異文化と接することに興奮しました。
当時の感動と興奮を紹介します。



 

< 2. 旅行の地図 >

上の図: この時、私達はルフトハンザ機に乗って伊丹空港から成田、そしてアンカレッジ経由でフランクフルト空港に辿り着き、やっとヨーロッパに入った。
しかし、すぐさまコペンハーゲンまで飛び、ここでヨーロッパの1泊目となりました。

下の図: ヨ-ロッパ内の移動経路。
1=フランクフルト。 2=コペンハーゲン。 3=ストックホルム。 4=ガブル。 5=ニュールンベルグ。 
この番号順に移動し、番号2から1までの順で宿泊した。
黒線は空路、茶色は鉄道、橙色はバスです。


旅行の概要
これはヨーロッパの優良企業を視察する研修旅行でした。
参加者は多くが中小企業の人で約40名になりました。
期間は、1984年11月18日から8日間でした。
訪問したのはドイツ、デンマーク、スウェーデンの計6社でした。

観光する暇もなく、飛行機とバスで移動を繰り返しました。
しかし、得たものは非常に多かった。
実際に工場を見学し、さらに現地の人と話を出来たことが良かった。
ホテルでの体験やバス移動時の車窓の風景は強く印象に残りました。

一番は、当時、疑問に思っていた日本と西欧の違いについて、私なりの答えが得られたことでした。
そして海外旅行が私の最大の楽しみになったことです。

残念ながら、この旅行の写真が残っていませんので、イメージとして借用した写真を使いますのでご了承ください。



 
< 3.ストックホルムからガブルへ >


旅の思い出
この旅で最も印象深い景色はストックホルムからガブルに行く途中のバスからの景色でした。
ストックホルムを北上して3時間ほど走って港町ガブルに着いた時は、既に真っ暗でした。

ガブルに近づくに連れて一面の収穫後のジャガイモ畑から、遠くに非常に背の高い杉の森が現れ始め、やがて一面が雪に覆われる景色へと変わっていきました。
陽が暮れた森の所々に、1軒の尖がり屋根がちらほら見えるようになりました。
暗い森を背景に、雪を被った家の窓から暖かい光がこぼれ、白い雪が少し赤みを帯びていました。

正に、幼い頃に夢見たサンタクロースの世界がそこにはありました。



ホテルでの経験
最初に泊まったのがデンマークの首都コペンハーゲンの中心部のホテルでした。
当時のホテルはシェラトン-コペンハーゲン・ホテルでしたが、今回調べてみると、外観は当時のままですが、スキャンディック・ホテルに変わっていました。

到着が遅かったので、食事して寝るだけになりました。
それでも私にとっては、ヨーロッパ最初のホテルでした。
一番、印象に残ったのはフロント係りの女性の美しさでした。
未だに、私はヨーロッパ各地の人種(ゲルマン、スラブなど)の見分けが定かではないのですが、これは北欧女性の美しさと思いました。



 
< 4. 北欧のホテル >

上左の写真: コペンハーゲンのスキャンディック・ホテル。
上右の写真: 当時のガブルのグランド・セントラル・ホテル。
私達が泊まったこのホテルは2005年に焼失し、現在はスキャンディックCHのホテルに変わっています。

下の写真: グランド・セントラル・ホテルの当時のレストランらしい。


私はこの旅行で幾つかのカルチャーショックを受けたのですが、このグランド・セントラル・ホテルの経験はインパクトのあるものでした。

このホテルは駅前に建つ非常に立派な建物で、大理石がふんだんに使われており、驚いたものです。
三人で写真のような地下のレストランに行き夕食を食べた時のことです。
このレストランは半地下で、上部の小さな窓から月明りが微かに差し込んでいました。
実に趣がありました。

最初の経験を紹介します。

一つ料理を注文したら、出てくるのに30分はかかりました。
2回目も3回目も、同じように時間がかかり、私はいらいらしていました。
私は食事に普通15分以上はかけていませんでしたので。

しかし周りを見ると、現地の様々なカップルが談笑しながら、時間をかけて楽しんでいました。
テーブルの仲間と話し合い、これは料理を作るのが遅いのではなく、歓談の間合いを考えての給仕だという結論に達しました。
この時、大いに私は自分のせっかちに反省したものでした。
日本に帰ってからも半年ぐらいは、食事をゆっくり食べるようにしたものですが、すぐ元に戻ってしまいました。
去年のクルーズの食事でも、始めは1時間半ぐらいかけていたのですが、途中から、時間がもったいなくなり、ブッフェに通うにようになった。

この夕食の後、さらに恥ずかしい経験をしました。
私達同行メンバーはほとんど男性でしたが、夕食後、大挙してこの地下のダンスホールに乗り込もうとしたのです。
ダンスホールでは沢山の西欧人が社交ダンスを踊っていました。

一人では行けないのですが、皆で酒の勢いで突入しました。
ところがボーイが私達を制止し、入れてくれないのです。
誰かが「ここは男女のカップルでないと入場出来ないぞ!」と言い、皆、急に酔いが醒めて引き下がりました。

今、思い起こすと、ロシアからバルト三国の旅行で出くわした集団の中国人観光客
の振る舞いに閉口したもですが、昔の私達もよく似たものだったのかもしれません。

こうして3泊目の夜は更けて行きました。


次回に続きます。