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20200829

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 5: 吉野川から貞光へ 

  













*1

 

これから剣山に向かってドライブします。

途中、吉野川の潜水橋と二層うだつの町並みで知られる貞光を訪れます。

今回は、脇町潜水橋と貞光にある旧庄屋屋敷を紹介します。

 

 

< 2. 訪問地マップ、上が北 >

 

上: 全体図

青の四角印:うだつの町並みの脇町

黒矢印: 脇町潜水橋

赤の四角印: 二層うだつの町並み貞光

地図中央下部の赤字: 剣山

 

下: 拡大図

青の四角印:うだつの町並みの脇町

黒矢印: 脇町潜水橋

赤の四角印: 二層うだつの町並み貞光

赤い矢印: 剣山に向かう道路

 

 

 

< 3.脇町潜水橋 >

 

上: 南側から潜水橋を望む

私が立っているのは大きな中洲の舞中島です。

この橋の幅は車1台分しかありません。

昭和の初めまで、ここは渡しで行き来したそうです。

 

下: 対岸の右手がうだつの町並みがある脇町

 

 

 

 

< 4. 下流側を望む >

 

川幅は広く、底は浅い。

30年ほど前、子供を連れて、この上流の貞光辺りから下流の穴吹辺りまでの吉野川で泳ぎました。

当時、水は透き通り、美しい自然の中で遊ぶことが出来ました。

 

 

 

< 5. 上流側 >

 

 

 

< 6. 貞光に到着 >

 

私は昼食を、直ぐ近くの「道の駅 貞光ゆうゆう館」でとりました。

コロナ騒動の時でしたが、レストランは開いていました。

眺めも良く、居心地の良いレストランでした。

 

街並みを見るのに駐車場が見当たらなかったので、つるぎ町役場に停めました。

 

上: 松尾神社が見える。

役場の駐車場から出て、松尾神社の前で交差点を左に折れると、二層うだつの町並みが見えるはずです。

 

下: 古い商店街は続くが、うだつは見えない。

 

 

 

< 7. やがてうだつが見えて来た >

 

確かに、こちらはうだつが二層になっている。

しかし脇町に比べると、何か雰囲気が違うと言うか、伝統家屋の町並みと言うより寂れた街並みにしか見えない。

 

何が違うのか?

多くの古い家屋がここ半世紀の間に現代の商店に改修されているようだが、既に古くなっている。

この通りは統一された伝統的家屋の保存が出来ていないのか?

 

さらに見て行くとある違いに気が付いた。

通りが広く、通りの向きが吉野川に直行している。

つまり貞光川に並行し、山に向かっている通りと言える。

また家屋の二階の高さが高く、二階は住居として供され普通の窓が見られる。

一方、脇町では二階の天井が低く、漆喰壁に虫籠窓があるのがほとんどでした。

 

この違いは、この通りの出来た由来と時期が、脇町と異なる事が大きい。

 

一宇から剣山に通じる一宇街道(旧街道)がここ貞光から始まった。

ここは山の産物と平野の産物の交易で発展し、その街道沿いに商家が並んだ。

一方脇町は、城下町と撫養街道が交わった近くの川湊に沿って商家が並んだ。

貞光と脇町は、ほぼ同時期(江戸時代、蜂須賀家)から発展したが、貞光の町並みづくりが少し遅れたことにより、貞光の商家は防火目的よりは豪華さを競って二層のうだつにしたようです。

 

 

 

 

 

 

< 8. 通りを右に折れて入る >

 

下:  旧永井家庄屋屋敷が見えた。

江戸中期に建築された庄屋屋敷です。

左手に無料の駐車場(7台ぐらい)があった。

 

 

 

< 9. 門の前に来た >

 

上: 駐車場から写真を撮っている。

 

 

 

 

< 10. 門を入る >

 

上: 入ると、右手に立派な庭園がある。

 

下: 少し進むと正面に玄関らしいものが見えたが、入口は左らしい。

平屋の屋根は茅葺だ。

 

 

 

 

< 11. 倉庫らしき物が見える >

 

上: 左に曲がると、中庭を隔て二階建ての倉庫らしきものが見えた。

 

下: 右手直ぐに平屋建物への入口があった。

そこを入ると、大きな土間のある台所だった。

私が、この土間に入ると、直ぐに女性が出て来て、どうぞ見てく下さいと促された。

ここの入場料は無料でした。

観光客をまったく見なかったが、管理人が居ながら無料とは、少し悪い気がした。

 

写真はこれから座敷に上がる入口を示している。

 

 

 

 

< 12. 座敷に上がる >

 

上: 先ほど紹介した玄関らしき所に、花が生けられていた。

 

下: 立派な庭が見える。

 

 

 

< 13. 立派な構え >

 

槍が掛けられている。

名字帯刀が許されていた。

建物の説明は音声案内で流された。

 

 

 

*14

 

 

 

< 15.一番奥から振り返った >

 

下: 天井の写真

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

20200809

中国の外縁を一周して 48: 雲南民俗村を楽しむ 2

  


*1

 

 

今回も、主に雲南省で暮らす少数民族を紹介します。

少数民族の祝祭の踊り、ショーも紹介します。

 

 

 

< 2.散策ルート、上が北 >

 

Sから始めて、赤線に沿って見学し、Eまで行き、Eの茶色の広場で20分のショーを見ました。

この間の所要時間は約1時間でした。

通った少数民族の村は、傈僳族(リス族)、普米族(プミ族)、独龙族(トールン族)、苗族(ミャオ族)、拉祜族(ラフ族)、基諾族(ジーヌオ族)の順です。

家屋を見たのは独龙族(トールン族)、基諾族(ジーヌオ族)だけです。

 

 

 

< 3. 少数民族が暮らす地域。上が北 >

 

茶色枠が雲南省、赤丸は麗江と昆明で、黄色線が新幹線です。

Li=傈僳族(リス族)、Pu=普米族(プミ族)、Du=独龙族(トールン族)は麗江の西側に集中しています。

Mi=苗族(ミャオ族)は雲南省東南部に広く分布しているが、むしろ他の省や中国外にも多く住んでいます。

La=拉祜族(ラフ族)、Ji=は基諾族(ジーヌオ族)は南部で、プーアル茶の産地よりもさらに南です。

 

 

 

< 4. 六つの民族の服 >

 

略語は地図の表記と同じです。

これらは祝祭儀礼の時に見つける装束でしょう。

当然、老若男女の装束があるのですが、写真は若い女性の姿を選んでいます。

普米族(プミ族)の服は麗江のナシ族の服と似ています。

苗族(ミャオ族)は人口が多く、各地に分散しているので、部族によって祝祭の装束が異なるようなので2種類掲載しました。

 

東南アジアや中国辺境の地で出会う人々の顔を見ていると、時折、日本の役者や芸能人の顔に似ていることに驚かされる。

 

 

 

< 5. 広い通りと大きな池 >

 

 

 

< 6. 傈僳族(リス族)の村 >

 

*傈僳族(リス族)について

 

リス族は中国、ミャンマー、タイ、インドの国境にまたがって分布し、移動しながら焼畑農業を生業とする山地民でした。

総人口は120万人だが、中国では60万人ほどです。

言語はチベット・ビルマ語派に属し、文字を持っていたが、一部でしか使用されていなかった。

唐の時代は四川省南部から麗江に暮らしていたが、ナシ族の支配を逃れて西方に移動した。

宗教は、霊魂不滅と多神教、トーテム崇拝が特徴で、祭祀は村のシャーマンが主宰した。

 

 

 

 

< 7. 刀杆广场 >

 

上: 刀杆广场

 

下: どの民族の住居は不明(失念)

傈僳族と普米族の可能性もあるが、独龙族のものだろう。

 

* 普米族(プミ族)について

 

プミ族は人口3万人ほどで、ほとんど雲南の限られた地域で、農業を主にし、牧畜業を副業として暮らしていた。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、独自の文字を持たない。

社会経済の発展は様々で、宗教は祖先崇拝とアニミズムが主で、一部でチベット族との交流によりラマ教が信仰されている。

 

 

 

< 8. 独龙族(トールン族)の樹上家 >

 

* 独龙族(トールン族)について

 

トールン族は人口7000人ほどと少なく、雲南の限られた地域で、農業を主に、採集や漁労も兼ねた。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、独自の文字を持たない。

かつては木を刻み結縄して、事柄を記録し、便りとした。

社会経済の発展は遅れていて貧しく、原始共同体の名残りがあり、氏族間の結婚を禁止していた。

かつて顔に刺青を入れる風習があった。

宗教は精霊信仰(アニミズム)です。

シューマンは祭祀儀礼を執り行うだけでなく、病を治癒する為、引き起こしている様々な鬼を調べた。

 

 

 

 

< 9. 独龙族(トールン族)2 >

 

外壁は丸太を組んでいるが、内壁は編んだ樹皮で覆われている。

二階の窓から覗くと、家屋の屋根が板で葺かれていることがわかる。

 

 

 

 

< 10. 苗族(ミャオ族) >

 

上: 苗族の村の入り口

ここには入らなかった。

 

下: 後に訪れる西山風景区の山並みが見える

 

* 苗族(ミャオ族)について

 

ミャオ族は総人口1100万人で、中国国内890万人の内、貴州省に多い。

また東南アジアにも分布し、ラオスから移住し米国(Hmongと称す)に17万人が暮らす。

言語はシナ・チベット語族ミャオ・ヤオ(瑶)語派に属し、三種類の方言があり、互いに通じない。

山間盆地や斜面に暮らす山地民で、焼畑で陸稲や畑作物を作って移動を繰り返してきた人々と、棚田を作って水稲稲作を行う定着した人々がいる。

多くの地区では封建地主制経済段階にあった。

自民族だけで集居するほか、漢民族や他民族と雑居して来た。

宗教は、主に自然崇拝、鬼神崇拝と祖先崇拝で、シャーマンが宗教儀礼を執行した。

 

ミャオ族の歴史は古く、紀元前5千年紀に始まる長江中流域の新石器時代の大渓文化の人骨の多くがミャオ・ヤオ語族に関連されるとしている。

歴史的に確かなのは宋代以降、漢民族の南下に伴って、長江流域から山岳内陸部に移動したと考えられる。

 

 

 

 

< 11. 拉祜族(ラフ族) >

 

上: 拉祜族(ラフ族)の村への入り口

 

下: 入口を入った広場

 

 

< 12. 拉祜族(ラフ族)2 >

 

上: 入口を入った広場

 

下: 家屋

 

* 拉祜族(ラフ族)について

 

ラフ族の総人口は100万人で、多くは雲南省45万人、他は中国と東南アジアに暮らす山岳民族です。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属す。

主に焼畑農業を生活を続けて来ており、封建地主制経済の発展段階に入っていた。

宗教は、原始的な自然崇拝と祖先崇拝です。

 

 

 

 

< 13. 拉祜族(ラフ族)の広場でのショー1 >

 

上: 開幕の挨拶

すべての説明は中国語です。

 

 

< 14. 拉祜族(ラフ族)の広場でのショー2 >

 

上: 新婚に扮した男女が素早く動く竹の棒をかわしながら軽快なステップを行う。

以前、テレビで見たことがある踊りでした。

多くは男女の集団の踊りで、幾つかの踊りや祝祭儀礼のシーンが組み込まれているようです。

ショーは拉祜族のものとは限らないような気がします。

後に、観客から一組の男女が選ばれ、同じように踊らされ、爆笑を誘った。

演者達は表情豊かに一生懸命に踊っていた。

 

言葉が分からなくても楽しいひと時でした。

 

 

* このショーのビデオ映像

12秒と17秒の踊りの映像です。

 


 

 

< 15. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 1 >

 

上: この部屋は長男のものだろう。

入口の上にある木彫りの面が面白い。

他の家族は雑魚寝になるのだろう。

 

下: 大きな広間の真ん中に囲炉裏がある。

囲炉裏は生活の中心のようだ。

 

* 基諾族(ジーヌオ族)について

 

ジーヌオ族の総人口は2万人と少なく、雲南省の山間部にだけ住む。

言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属し、文字はない。

かつて、竹や木を刻んだり、トウモロコシの粒を数えて事柄や数を記録した。

かつては粗末な農具しか持たない焼畑農耕を行い農村共同体を営んでいた。

宗教は、原始宗教の段階に留まっていた。

各村には二種類の異なる役割を担ったシャーマンがいた。

 

 

 

< 16. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 2 >

 

上: 額の写真は竹製の打楽器だが、下の壁に見える竹製の物は口琴のようだ。

 

下: 水を貯める木桶のようだ。

 

 

 

< 17. 基諾族(ジーヌオ族)の大きな家 3 >

 

上: これが部屋を見た家の外観です。

 

下: 庭にトーテムポールが並んでいる。

 

 

* 補足説明

 

民俗村では少数民族の原始的な暮らしを見ているが、現在の暮らしとは異なる。

展示されている暮らしや家屋、家具や道具などは中国の解放政策以前の姿だと思われる。

中国は1950年代から、少数民族の近代化を進め、各民族の自治区を設け、かつ中国政府と一体になる政策を進めて来た。

私の各民族の説明も、開放以前の古い状況だと思ってください。

 

日本にも先住のアイヌ民族がいるが、小国ベトナムでも30を超える少数民族がおり、アジア各国は多くの少数民族を抱えている。

少数民族の文化には興味深いものがあるが、政治的には困難が付き纏う。

 

 

 

次回に続きます。

 

 

 

20200716

中国の外縁を一周して 45: 昆明を訪ねて 1





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最後の訪問地、昆明を2泊3日で巡ります。
訪れたのは2019年10月27日(日)~29日(火)でした。
今回は、昆明中心部の翠湖公園と飲食街・ショッピング街(昆明老街。南屏街)を紹介します。


 
< 2. 昆明の訪問地、上が北 >

上: 私が訪れた所
赤枠A:翠湖公園と昆明老街・南屏街、赤四角B:雲南省博物館、赤枠C:雲南省民俗村と滇池海埂公园、赤枠D:西山風景区の龍門石窟、
S:列車の昆明駅、H:ホテル、黒矢印:昆明空港(ここから直行便で帰国)
昆明へは新幹線(黒線)で来ました。
空港へはホテルの前からのリムジンバス(茶色線)で直行出来ました。

昆明内の移動は全て公共機関のバスと地下鉄を利用しました。
昆明の観光では、一切通訳ガイドを付けず、自ら全てを行うようにしました。
北京もそうでしたが、北京は2回目であったし、開封は狭い範囲の移動でしたので、ほぼ問題無く観光出来ました。
昆明で、帰国日、一度バスを乗り間違いしたが、無事リカバリー出来ました。


下:上記の赤枠Aの部分を拡大
赤枠E:翠湖公園、赤枠F:昆明老街、赤枠G:南屏街
黒矢印:昆明駅、H:ホテル、昆明锦江大酒店


 
< 3. 翠湖公園に向かう >

27日(日曜日)、16時過ぎにホテル近くからバスに乗り、公園の近くの通りで降車した。
高層ビルの住宅街を抜けると、公園の門が見えて来た。


 
< 4. 翠湖公園に入る >

公園の門の周辺には多くの市民がおり、さらに公園から多くの人が出て来た。
ここに来ると急に民族衣装が増えて来た。

私がここを訪問したいと思ったのは、この公園が市民の憩いの場であると知ったからです。
訪れてみると予想以上の光景を見て、得るものがありました。

上: 公園から一団が揃って出て来た。
何かが行われている予感がした。

下: 門を抜けて真直ぐ進む。


 
< 5. 広い公園内は踊り手で一杯でした >

様々な少数民族の衣装を身に纏った人々が、集団で踊りに興じていた。
それを見入る多くの市民が彼らを取り囲んでいた。

衣装の識別が分からないのですが、概ね5から6組の少数民族の違いがあるようでした。
遊牧民族系のシンプルな衣装から、山岳民族の刺繍が凝らされた極彩色の衣装までありました。


 
< 6. イ族のグループ >

頭の冠にぼんぼりを付けたのはイ族と思われます。
このグループは幾つにも分かれて大きな輪になって踊っていた。

私が感動を覚えたのは、老若男女が共に民族衣装に身を正し、公然と誇らしく踊っていることでした。
けっして見世物では無く、自らの出自を恥じることなく、和気あいあいと行っている。

私が中国に「民族差別が中国崩壊の導火線にならないか?」との疑念を抱いてやって来たが、ここには答えが明瞭に示されていた。
開封や蘭州の回族についても、見た限りでは問題を見つけることは出来なかった。
中国政府は少数民族の扱いをうまくやっていると感じた。
もっとも蘭州の西隣り、新疆ウイグル自治区のウイグル族やチベット族については分からなかったが。


イ族は中国全体で7番目に人口が多く、雲南省最大の少数民族で、雲南省の11%を占める。
もともと雲南省で、漢民族が占めるのは67%にしかすぎず、残りを27%を7つの少数民族で占めている。

彝族(イ族)は、かつて蔑称の「夷」が通称であった。
「夷」は漢民族の中原からみれば古来より蛮族の一つでした。
イ族は中国西部のチベット族、納西族、羌族の先祖古羌の子孫ともいわれる。
彼らは南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住している。
「羌」は成都で紹介した紀元前1千年紀の金沙遺址や三星堆遺跡の住民でした。



 
< 7. 公園内の中央の通りに出た >


 
< 8. 通りを進み橋に出た >

これで公園の中心を南から北にほぼ抜けた。
この公園には幾つもの池があり、幾つもの島を橋と道で結んでいる。


 
< 9. 橋の上から >

周囲は高級住宅街でしょうか。


 
< 10. 公園の北門を出て >

バスに乗るために雲南大学の前の通りに向かう。

上: 公衆トイレ
今回の旅行で始めて使った街中の公衆トイレ、駅や観光施設内のトイレは使っていたが。
事前に日本で、散策ルート上のトイレをチェックしていて、中国のトイレは急速に整備が進んでいることを知ってはいたが、良くなっている。
綺麗で、無料で、数も沢山あるようだ。

昔、奥地の桂林や客家土楼の観光で経験した酷いトイレは今回の旅行ではなかった。


 
< 11. バスに乗って >

繁華街に向かう。


 
<  12.昆明老街周辺 >

昆明老街の一つを北から南に向かって歩いた。
数本ある中で、ここが最も古い佇まいが残っているようでした。
ここで夕食をとることにした。

上: 通り

中央: この店に入る

下: 店の中のテーブル席
開放的で凝った店内でした。


 
< 13. 店の中 >

上: 厨房の様子

中央と下: 頼んだ料理
中華料理と言っても、今回の旅行では私が日本でよく食べる中華料理にはほとんど出くわすことはなかった。
味も見栄えも様々で、けっこう楽しめた。



 
< 14. 店を出ると >

店を出たのは19時前、辺りはもう暗くなっていた。
1kmほど歩いて南屏街まで行く。

下: 繫華街の中心、南屏街。
幾つかのショッピングセンターやデパートを覗く。
出たのは20時頃でした。

ここは歩行者天国になっており、近くのバス停でバスを待つ。
バスは頻繁に来るのですが、思う行先のバスがなかなか来ない。
さすが大都会です。


 
< 15.バスに乗ってホテルへ >

やっとバスに乗り、ホテルに近いバス停を降りて、ホテルに向かう。
ホテルに到着したのは21時頃でした。

下: ホテル
便利で居心地が良く、高くないホテルでした。


公園の踊りのビデオで、約10秒間ほどです。





次回に続きます。



20200628

徳島の海岸と漁村を巡って 8: 鞆浦を訪ねて 1





*1

今回から、2回に分けて鞆浦漁港を紹介します。
小さな漁港ですが、地の利を生かした良い漁港だと思いました。


 
< 2. 宍喰から鞆浦へのルート >

上: 宍喰から鞆浦へのルート、上が北。
赤枠が既に紹介した宍喰の散策範囲です。
オレンジ線がドライブルートです。
黄枠が鞆浦です。

下: 鞆浦、上が南(上図と向きが逆)。
オレンジ線が宍喰からのドライブルート。
黄枠が鞆浦の今回紹介する散策ルート。
赤枠が次回紹介する手倉湾。
黒矢印は漁協、黄矢印は海部川の撮影地(次回)、赤矢印は宍喰浦(那佐湾)の撮影地。
赤四角は海部城跡。


 
< 3.那佐湾と宍喰浦 >

上: 左の宍喰浦に挟まれた那佐湾の向こうに宍喰が見える。

下: 宍喰浦。


 
< 4. 鞆浦漁協 1 >

ここに到着したの9時45分でした。
競りが行われており、様々な魚種が見られました。
訪問した時間が異なるからかもしれませんが、鞆浦の方が由岐、日和佐、宍喰の漁港よりも大きな魚が沢山獲れているようでした。

素人の見立てですが、この港は大きな海部川上流の栄養が海に注ぎ沿岸漁業に恵まれ、また大きな河口は上流の材木の切り出しと海上運搬に有利に働いたことでしょう。

 
< 5. 鞆浦漁協 2 >

魚を入れる大きなコンテナや陸揚げ用のコンベヤなどが目立ちました。

下: ブリでしょうか。


 
< 6. 漁協の2階の展示物 >

トイレを借りに2階に上がりました。
漁に関する幾つかの展示がありましたので紹介します。

上: 鞆浦大式、定置網の一種。
元々は富山湾で生まれた定置網で、後にこちらでも使われるようになったらしい。
徳島県内では最大の定置網のようで、全長1300mもある。

下: 定置網漁の写真のようです。

漁協の人に聞きました。
遠方に出る漁としては高知沖まで行っているが、徳島ではこの鞆浦だけが行っているとの答えでした。
大きな船を見ることが出来ませんでしたが、大きな屋根付きのドッグがありました。
漁協の魚を見て、多いですねと聞くと、ここでも「少ない」との返事が返って来た。


 
< 7. 漁協の周辺から散策を始める >

上: 漁協の階段から南西方向を見下ろす。
川が見え、その先に従来の漁村が広がる。

下: 漁協の西側を見る。
この山に海部城跡がある。
山の手前のこの一帯だけは新築の家が多い。
若い漁師に古い町並みの事を聞くと、最近引っ越してきたばかりなので知らなかった。


 
< 8. 川の橋から >

上: 網袋を持った一人の漁師が漁協へ急ぐ。
網袋の中は、さざえかウニのようでした。
重そうなのでさざえかな?
下の写真の船から一人の漁師が下船して、歩き出した所です。
この奥の山が、海部城跡のある山です。

下: 川の上流を見ている。
川の右も海部城跡のある山です。


* 海部城と鞆浦について :

実は海部城が出来た16世紀(室町時代末期)、この山は河口に浮かぶ島だったようです。
ここは海と川を監視し、守るには最適な場所だったでしょう。
後に埋め立てられが進み、今は大きな海部川とこの小さな川に挟まれるようになった。
これを築城したのは海部氏ですが、元々は宍喰を拠点にしていたが、こちらに転居したようです。
海部氏は三好(阿波国と畿内を領有)に属していたが、高知の長曾我部との最前線となり、後に攻められ落城した。

今は、鞆浦を含む海部町と宍喰町が合弁して海陽町となった。
古い時代、海部は海運力と上流の木材業で発展した。
15世紀の兵庫の港(兵庫関)への入港記録「兵庫北関入船納帳」によると、海部船籍は全国10位であった。
阿波(徳島)では海部54隻、宍喰20隻、平島(阿南?)19隻で、海部が圧倒的に優位であった。
また同じ記録によると、当時、海部(鞆浦)と宍喰の木材の扱い量は阿波の約半数であった。
如何に、この地域の海運力が秀でていたかがわかる。
また室町時代から「海部刀」がこの地で生産されていた。



 
< 9. 街歩きを始める >

橋を渡って真直ぐ通りを進むと巨石が右手に見えた。

上: 大岩慶長・宝永地震津波碑
大きな石の表面の二ヵ所に碑文が見える。
左が慶長地震津波碑、右が宝永地震津波碑。

慶長地震津波碑: 1605年、高さ約30mの津波が7回来て、男女百人あまりが海に沈んだ。

宝永地震津波碑: 1707年、高さ約30mの津波が三度来たが、死者は出なかった。

本当に、徳島南部の海岸は幾度も巨大津波の被害に遭っていた。

不思議に思うのは、東北大震災の福島原発事故で、巨大津波を国も電力会社も想定外として平然としていたことです。
おそらく地元の漁港には幾つも巨大津波の碑が建っていたことでしょう。
一部の歴史学者は指摘しても、他に問題視した人はいなかったのでしょうか?


 
*10

 
*11

上: 港に面した広場の中央にあった建物。
民家ではなく、郵便局などの公共の建物のようでした。

下: 日蓮宗 吉祥山 法華寺
上記の建物から東方向に延びる道の奥には寺があった。


 
< 12. 古い民家が軒を並べる >

しかし、東由岐ほどには古い漁村の民家を見なかった。


次回に続きます。