20151228

桂林を訪れました 12: 龍脊棚田 2



 


< 1. 昼食を取った食堂 >

今日は、棚田を抜けてヤオ族の村まで行きます。



< 2. 駐車場から村に向かって >
駐車場から村まで約1kmの平坦な道を歩きます。

上の写真: 行き先は道の上側の村です。
中央の写真: 頂上を望む。
下の写真: 下を見ている。
稲穂はまだ黄金色になっていませんでした。
また稲穂の背が日本種より低いように思いました。





< 3. 道の途中 >
上の写真: 来た道を振り返っている。
道のかなたに建物が見えるのは駐車場です。

下の写真: 駐車場近くの道端で土産品を売っている。



< 4. 村が見えて来ました >
一番手前の建物で昼食をとりました。



< 5. 途中の景観2 >
上の写真: 急峻な下りの道。
これでは農耕作業はきついでしょうね。
中央の写真: 小川。
特に灌漑用の水路がなく、この小川で代用しているのでしょう。



< 6. 昼食 >
食堂は非常に綺麗な作りで見晴らしも良かった。
非常に観光化が進んでいる。
出されたのは素朴な料理でしたが、私達の舌には合っていた。
特に珍しいものはなかった。

私が、「鳥の骨を棄てる器を下さい」と言うと、「下の犬にやって下さい」と言われた。
ここでは昔から家畜とこのように共生している。




< 7. ヤオ族の民族衣装。Wikipediaより >

瑶(ヤオ)族について
彼らは中国長江以南、ここ広西チワン族自治区や雲南等から東南アジアのベトナム,ラオス,タイなどの山岳地帯にかけて広く分布している。
この村のよう分散しながら、中国だけで約214万人(1990)が暮らしている。
言語的にはミヤオ(苗)族に近い。
彼らは本来無文字であるが,中国文化と古くから接触していたために漢字が受容された。
元・明時代に、漢民族の進出により南下した。
中国王朝の統治政策としばしば対立し,特に明代中期以降大規模な反乱が各地で発生した。
彼ら独特の神話に、古代中国の王女と犬の間に生まれた12姓のヤオ族を始祖とする伝承があり、これが史記に取り入れられ後に日本に伝わって南総里見八犬伝に取り入れられたとされている。
ヤオ族は山間部において焼畑耕作に従事して陸稲やトウモロコシなどを作って移動していたが,現在は梯田耕作や水田耕作,あるいは林業などを行い定住的な村落社会を形成している集団もある。
宗教は基本的にはアニミズムであるが,道教の影響が顕著にみられる。


次回に続きます。








20151226

Went around Croatia and Slovenia 20: Kotor 2


クロアチア・スロベニアを巡って 20: コトル2




< 1. The Clock Tower(1602) in open space where we just went through “the Sea gate” (the 16th century) >
< 1. 「海の門」を入った所の広場にある時計塔、1602年建築 >

I introduce the Kotor in the castle wall today.
It was a small town, but there was the feature of a harbor city that lived to the Middle Ages from the ancient times in here.

今日は、城壁内のコトルを紹介します。
小さな町ですが、古代から中世に生きた港湾都市の面影がそこにはありました。




< 2.  Heraldic emblems >
< 2. 紋章 >
Upper photo:  This Kotor emblem is put on the wall surface of a fortress in the right side of "the Sea gate"
Dower photo:  This emblem is put on an entrance of a former noble’s palace, and was built in 1776.

上の写真: 「海の門」の右にある要塞のコトル紋章。
下の写真: 元貴族の宮殿の入口上にある紋章、1776年建築。


< 3.  The clock tower and the square >
< 3. 時計塔と広場 >
Upper photo:  We are going through “ the Sea gate”
Central photo:  The expansion of the castle wall rounding the mountain behind Kotor.
This castle wall is the total length 4.5 km, and the altitude reaches up to 260 m, the biggest high is 20 m, and the thickness is 2-16 m.

Lower photo:  “ the Square of Arms” is main town square.

上の写真: 「海の門」を入ったところ。
中央の写真: 山の城壁部分を拡大。
この城壁は総延長4.5kmで、標高は最大260mまで達し、壁の最大高さは20m、厚みは2~16mある。

下の写真: 「武器の広場」。




< 4. Churches >
< 4. 教会 >
There are 14 churches in Kotor.

Upper photo:  St. Tryphon Cathedral was built in 1166.
Central photo:  Serbian Orthodox church of St. Nicholas was built in 1909.
I entered inside, but I was impressed by the sacredness, and I couldn’t take the picture.
Many icons were displayed.

Lower photo:  This bell tower of church was built in 1221 on fundaments of the old Christian Episcopal basilica from the sixth century.

このコトルには14の教会があります。

上の写真: 聖トリファン大聖堂、1166年建築。
中央の写真: 聖ニコラス教会、1909年建築。
中に入りましたが、神聖さに打たれ写真撮影を控えました。
ここはセルビア正教会で、イコンが飾ってありました。

下の写真: 6世紀建築の古代キリスト教バシリカの上に建てられた教会の鐘楼、1221年建築。




< 5.  St. Luka Church was built in 1195  >
< 5.聖ルーカ教会、1195年  >
It is an Orthodox church.

Lower photo:  The backside of this church is older than the front side.

ここも正教会です。

下の写真: 教会の後ろ側で、正面より古い時代の建築です。
教会の多くは古い教会に改造や増築がなされ、その痕跡が残っています。




< 6.  The inside of St. Luka Church >
< 6. 聖ルーカ教会の内部 >
It was a very small church, but we were able to look at many icons and crosses.
There was a mosaic fresco of religious painting that was considerably damaged, too.
I saw Orthodox Churches that I had expected in this trip, and I think I smelled a fragrance of the Byzantine culture.

非常に小さい教会ですが、多くのイコンと十字架を見ることが出来ました。
かなり痛んでいたが宗教画のモザイク壁画もありました。
今回の旅行で楽しみにしていた正教会を見て、ビザンチンの香りを嗅いだように思います。




7.  The other scenes >
7.  町中の光景 >
A top photo:  The marine museum was a former palace that was built in 1732.
一番上の写真: 海洋博物館、元宮殿、1732年建築。

About Kotor

This city has been appointed to a world heritage for a history inheritance, and became a anchorage site of many Cruise ships because scenic.
This harbor city began the Roman Empire period, was governed by Byzantine and the north race.
And it allied with Ragusa republic (Dubrovnik), or contended against it at one stage.
The present cityscape and castle wall almost were formed during Venice rule period of the 15-18th century, and it experienced two times of Ottoman rule and earthquakes in the meantime.
At the time of World War I, this port became full of the warships of the Austria-Hungary Empire.
This Montenegro was desperately struggling between the large countries of the north and south during 2000, too.

This continues next time.


コトルについて
ここは歴史遺産で世界遺産に指定され、また風光明媚なのでクルーズ船の寄港地になっています。
この港湾都市は、紀元前のローマ時代から始まり、ビザンチン、続いて北方民族の支配を受け、またラグーサ共和国(ドゥブロブニク)と同盟したり対抗したりもした。
15から18世紀のベネチア支配で今の町並みや城壁が形作られ、その間に2回のオスマン支配と地震を経験した。
第一次世界大戦時、この港はオーストリア・ハンガリー帝国の軍艦で一杯になった。
このモンテネグロの地も2千年の間、南北の大国の狭間で悪戦苦闘した。


次回に続きます。



20151222

桂林を訪れました 11: 龍脊棚田 1



< 1. 龍脊棚田 >

これから、桂林の山岳部にある少数民族の村を紹介します。
ここには美しい棚田と少数民族の暮らしがあります。
今日は、桂林から村までの道筋を紹介します。

日程の概要
訪問したのは2015年9月18日で、平野部は薄曇りでしたが、山は雲で覆われ一時霧雨が降りました。
それでも十分に自然と村を堪能することが出来ました。
ホテルを8:00に出発し、バスを降り散策を始めたのは11:20から、村で昼食を取り、バスで帰路に着いたのは13:45でした。



< 2. 龍背の地図 >
両写真共に上側は北側です。
上の地図: 桂林中心部から目的の村(龍脊古壮寨棚田)までの道筋。
赤丸が桂林、黄丸が村、黄矢印が道筋です。
桂林から龍脊の旅客中心(写真5)まで約80kmです。
白枠が下の地図の範囲。

下の地図: 赤丸が龍脊の旅客中心、青丸が龍脊古壮寨の駐車場、黄楕円が目的の村です。
村は山の急斜面にあり、標高670から920mの間で上下に伸びている。
その山頂は標高1200から1400mあり、旅客中心は標高300mの谷底にある。


龍脊について
この桂林が属する広西チワン族自治区は、名前の示す通りチワン族をはじめ十数以上の民族が漢族と共に暮らしています。
これら少数民族はかつて南下して来て山岳部に暮らすようになった。
現在は各地に定住し、また平野部に暮らす人々も増えています。
龍脊はその山岳部の定住地の一つで、私たちが訪問するのはヤオ族の村の一つです。
この龍脊にはトン族などの異なる民族が周辺に多くの村で暮らしています。

ヤオ族は元来、焼畑と狩猟を行っていた民族で、他の山岳民族もそうですがかつては国境を越えて移動していました。
現在は、定住政策により稲作農耕を行っており、それが美しい棚田の景観を生んでいます。

私は中国南方の少数民族の村を訪れるのが楽しみでした。
かつて福建省の山岳部にある客家土楼を訪れて、強い絆で結ばれ、昔ながらの素朴な暮らしをしている人々に感銘を受けました。

たった数時間の訪問でしたが、彼らの暮らしぶりを紹介したいと思います。




< 3.桂林から山岳部に入る手前まで、バスから撮影 >



< 4. 徐々に山岳部に入って来ました、バスから撮影 >



< 5. 龍脊の旅客中心 >

ここで一旦バスを降りて、このセンターで入場手続きをします。
そして各自目的の村まで専用のバスに乗り換えて行きます。



< 6. 専用のバスで急峻な山を登って行きます >
下から二番目の写真: 中央の棚に果物の実が沢山生っていました。
一番下の写真: 龍脊古壮寨棚田の駐車場です。
ここから村まで約1km徒歩で棚田を抜けて行きます。



< 7.棚田 >
上の写真: 右手に目的の村が見えます。
左から伸びる人波は村を目指す人々です。

中央の写真: 村の全景です。


次回に続きます。




20151219

Went around Croatia and Slovenia 19: Kotor 1


クロアチア・スロベニアを巡って 19: コトル 1




< 1. Kotor gulf photo taken from a moving ferry >
< 1. フェリーから撮ったコトル湾、北側 >

I introduce Kotor that is a maritime republic of the Middle Ages and the world heritage in twice.
Today, I introduce Kotor gulf and the castle wall of Kotor.

2回に分けて、中世の海洋都市、世界遺産のコトルを紹介します。
今日は、コトル湾とコトルの城壁を紹介します。




< 2. Maps of Kotor >
< 2. コトルの地図 >
The upper side of all maps is the north.
Upper map:  The tip of a red arrow indicates Kotor, and a black point is Dubrovnik.
The direct distance of Kotor between Dubrovnik is 60km.

Central map: A red arrow indicates Kotor, and a red point is a church in an island (photo 4).
Black arrows indicate our bus route to Kotor, and blue arrows do the route on the way back.
We crossed to an opposite shore with a ferry one time on the way back.

Lower map:  Orange-colored town is Kotor.
There was a maritime republic that continued since ancient times in the back of the gulf.
The triangular port town of a side 60 m was sandwiched between the gulf and the steep mountains that reached an attitude of 1,700 m, so it was protected.
Furthermore, the slope of the mountain was surrounded with castle walls to 200 m above sea level.

すべて上が北です。
上図: 赤矢印の先がコトルで、黒丸はドゥブロブニクです。
コトルとドゥブロブニクの直線距離は60kmです。

中央図: 赤矢印がコトルで、赤丸は島の教会(写真4)です。
黒の矢印はコトルに行くまでのルートで、青の矢印は帰りのルートです。
帰りの一ヶ所、フェリーで対岸に渡りました。

下図: オレンジの町並みがコトルです。
古代から続く海洋都市は湾内の奥深くにありました。
一辺300mの三角形の港町は標高1700mにも達する急峻な山々と湾に挟まれて守られていた。
さらに山の斜面には標高200mまで城壁が巡らされていた。

Kotor gulf and the castle wall of Kotor

Here is Montenegro, and only one place that we visited in this country.
The photography was from 12:50 to 17:00 on September 2, 2015.
The following photographs almost are arranged in order of the photo opportunity.

コトル湾とコトルの城壁
ここはモンテネグロにあり、今回、この国で唯一の訪問地になります。
撮影は2015年9月2日の12:50から17:00です。
以下の写真は概ね、時間通りに並んでいます。



< 3.  The first half of Kotor gulf photos taken from moving bus >
< 3. コトル湾の前半、バスから撮影 >
Upper photo:  Mountainside scenery before going in Kotor gulf after leaving from Dubrovnik.
Central photo:  Going in Kotor gulf.
Lower photo:  Going in the back of Kotor gulf.

上の写真: ドゥブロブニクから来て、コトル湾に入る手前の山側の景色。
中央の写真: コトル湾に入った。
下の写真: コトル湾の奥に入って来た。



< 4.  A church in a island taken from moving bus >
< 4. 島の教会、バスから撮影 >

The building of the right island seems to be a church of the Orthodox Church.
右側の島の建物はおそらく正教会の教会でしょう。




< 5.   The last half of Kotor gulf photos taken from moving bus >
< 5. コトル湾の後半、バスから撮影 >

Central photo:  The back left of a moving boat is Kotor.
Lower photo:  There is Kotor in the back of this gulf.

中央の写真: ボートの左手奥がコトルです。
下の写真: 最深部にコトルがある。




< 6.  The castle wall of Kotor >
< 6. コトルの城壁、徒歩で撮影 >
Upper photo:  We approached the wall and fosse from the north side.
Central photo:  This slope of the mountain was surrounded with castle walls to 200 m above sea level.
A church is also seen.

Lower photo:  This is the appearance of the back of the fosse.

上の写真: 北側から城壁と堀に近づいた。
中央の写真: 裏手の山、標高200mまで城壁が張り巡らされている。
教会も見える。

下の写真: 堀の奥側の様子。




< 7.  We are passing through a castle gate of Kotor >
< 7. コトルの城門をくぐっているところ >





< 8.  At ferry on the way back >
< 8. 帰りのフェリー >
Upper photo:  We are going to board a ferry now.
I look at the back of Kotor gulf (the north side).

Lower photo:  I look at the south side from the moving ferry.

This continues next time.


上の写真: 今からフェリーに乗ります。
コルト湾の奥側(北側)を見ている。

下の写真: フェリーから南側を見ている。

次回に続きます。





20151216

桂林を訪れました 10: 陽朔と月亮山





< 1. 西街 >

今日は、漓江下りの下船地、陽朔と近くの観光地を紹介します。



< 2. 下船地の陽朔 >

遊覧船を下りて石造りの「陽朔」の門を目指す。
ここを抜けると、直ぐ西町のショッピング街が始まる。



< 3. ショッピング街の西街 >
たくさんの人で賑わっていた。
多くは中国系ですが、洋人街と言われるだけあって欧米人も見かけた。
ここは直線の1本道で、距離は500mぐらいです。


< 4. 西街の店 >
この通りの雰囲気は少し変わっています。
ここには中国の仰々しいか古風な店でもなく、だからと言ってモダンでもなく、種々雑多な小さな店が並んでいます。
果物店や土産物店、民芸品店、飲食店が並んでいます。
私は見るだけでも楽しく、妻は果物を買いました。



< 5. マンゴジュースの店 >
通りの店に入り、冷たいマンゴジュースを飲みました。
暑い日だったので、美味しかった。
壁一杯に願い事を書いたメモが貼ってあるようでした。





< 6. 高田郷と月亮山 >
上の写真: 多くの人が筏で遊覧の楽しんでいる高田郷。
ここはバスで通り抜けるだけでした。

下の写真: ぽっかり半月形の穴が空いた月亮山。

次回に続きます。






20151214

Went around Croatia and Slovenia 18:  The wonder of Dubrovnik 4


クロアチア・スロベニアを巡って 18: ドゥブロブニクの不思議 4




< 1. Dubrovnik >
< 1. ドゥブロブニク >

I see how Dubrovnik coped with the situation change, and what happened in Europe.
This is my last entry in the theme.

今日は、ドゥブロブニクが情勢変化にどのように対応し、またヨーロッパに何が起きたかを見ます。
これで終わります。




< 2.  Neum of dusk >
< 2. 夕暮れのネウム >

Skillful diplomacy of Dubrovnik

Hungary kept a patron of Dubrovnik in place of Venice from 1359 until it suffered a crushing defeat by the Ottoman Empire in 1526.
However, Dubrovnik continued to reject the dispatch of governor from Hungary, and started to pay tributes to the Ottoman Empire in 1458.
Because of this, Dubrovnik was allowed for the commercial activity in Balkan and other conquest places, became a counterbalancing power against Venice, and was at the height of the prosperity in the 15-16th century.
Furthermore, in 1699, it devolved territory Neum (photo 2) to the Ottoman Empire and assumed it a shield to the Venice navy.
Small town Neum of a shore belongs to a territory of Bosnia and Herzegovina currently, and has made Dubrovnik the enclave of Croatia.
Here was our accommodation, and I introduce it later.

ドゥブロブニクの巧みな外交
ハンガリーは1359年からベネチアに代わり、1526年にオスマンに大敗するまでドゥブロブニクの庇護者であり続けた。
しかし、ドゥブロブニクはハンガリーからの総督派遣を断り、1458年にはオスマンへの朝貢を開始した。
これによりオスマンからバルカンや他の征服地の商業活動を認められ、ベネチアと対抗するまでになり15~16世紀にかけて全盛期を迎えた。
さらに1699年、領地ネウム(写真2)をオスマンに譲り、ベネチア海軍への盾とした。

海岸の小さな町ネウムは、現在、ボスニア・ヘルツェゴビナ領で、ドゥブロブニクを飛び地にしている。
ここは私たちの宿泊地で、後で紹介します。



< 3.  The Mediterranean Sea >
< 3.地中海 >
1: Dubrovnik 2: Venice  3: Genoa  4:  Constantinople(Istanbul)  5: Alexandria  6: Lisbon  7:  Ceuta  8: Athen  9: Rome  10: Jerusalem.

1: ドゥブロブニク 2:ベネチア 3: ジェノバ 4: コンスタンティノープル(イスタンブール) 5: アレキサンドリア 6: リスボン 7: セウタ 8: アテネ 9: ローマ 10:エルサレム

What decided the outcome of Genoa and Venice?
The two countries continued the East-West trade through Ethiopia of Christianity country and Egypt of the Islamic power (annotation 1).
However, this decrepit Islamic dynasty practiced the monopolization of spice in 1428, and the price jumped up.
The purchase price from Egypt increased to approximately 1.5 times than before, and became 16 times in comparison with the direct purchase from India.

On the other hand, Genoa defeated by Venice found its way into the Atlantic Ocean, and joined with Portugal.
Portugal that had accomplished Reconquista (annotation 2) captured Ceuta of the opposite shore in 1415, and aspired to trade with India around the west side of Africa.
At last, it became possible by Vasco da Gama's expedition in 1498
In the early 16th century, most of the spice did not arrive at Egypt from India.

Thus, Venice that had been proud of its prosperity by the monopoly fell rapidly.
Spain participated in it and since the Age of Geographical Discovery began, Genoa survived by banking

ジェノバとベネチアの明暗を分けたもの
両国はイスラム勢力(注釈1)のエジプトやキリスト教国のエチオピアを通じて東西交易を続けていた。
しかし、弱体化したこのイスラム王朝は1428年、香辛料の専売制を始め、値段が跳ね上がった。
エジプトからの購入価格は従来の1.5倍以上、インドでの直接購入に比べ約16倍にもなった。

一方、ベネチアに敗れたジェノバは以前から大西洋に活路を見出し、ポルトガルと手を組んでいた。
レコンキスタ(注釈2)を成し遂げていたポルトガルは、1415年、対岸のセウタを攻略し、アフリカの西回りでインドとの交易を目指し、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマの遠征で可能にした。
16世紀初めには、エジプトにインドから香辛料はほとんど入荷しなくなった。

こうして、独占で隆盛を誇ったベネチアは急速に没落していくことになる。
スペインが参加し大航海時代が始まるとジェノバは銀行業で生き残った。




< 4. Renaissance fine art. By “Web gallery of art”
< 4.ルネサンス美術。「Web gallery of art」より >

Two shocks of Europe

One of them is the beginning of the Age of Geographical Discovery, as we have seen already.

The other one is the beginning of Renaissance.
Greek classical study flowed out to Italy from the declined Byzantine Empire, and Renaissance flowered in Italy by combining with cities that prospered in trade
The Greek classical study was popular from ancient times in Byzantium, and was also spreading to Islamic world.
Knowledge of Islamic world and the Greek classical study were introduced to Europe via Spain already.

After this, European development shifted to the west and north of it along with the Age of Geographical Discovery, and Italy became an economical undeveloped area in the middle of the 17th century.
Three maritime republics of the Mediterranean Sea died out by the armed forces and cannon of Napoleon before long.

ヨーロッパの二つの衝撃
この内の一つ、大航海時代の始まりを既に見ました。

もう一つはルネサンスの始まりです。
衰退していくビザンティンからギリシャの古典研究がイタリアに流出して行き、交易で栄えた都市と相俟って、イタリアでルネサンスは開花した。
ビザンティンでは古来よりギリシャの古典研究が盛んで、それはイスラム圏にも波及していた。
既にスペイン経由でイスラムの学問とギリシャの古典もヨーロッパに紹介されていた。

この後、大航海時代と相俟ってヨーロッパの発展は西部と北部に移り、17世紀半ばにはイタリアは経済の後進地となっていた。
やがてナポレオンの軍隊と大砲によって地中海の三つの海洋都市国家は滅んだ。




< 5.  Torre de Belen in Lisbon >         
< 5. リスボンのベレンの塔 >          

Thing that I think about this history
Venice made the Byzantine Empire weak by the sea power, and got full prosperity, but it hastened the expansion of the Ottoman Empire and came to cut its throat.
Genoa was defeated by Venice, found its way into the west, and got good luck.

Small Dubrovnik didn't depend on the sea power, and crossed between great nations by the trade and the diplomacy.
I think to be because this city had tolerance that absorbs different ethnic groups and heathenism since the beginning.

In the world, there are many examples that small countries fight desperately between great nations, such as Israel, Korean Peninsula and Vietnam.
But the success example of Dubrovnik was rare.

I introduce sightseeing spots from the next time again.



この歴史から思うこと
ベネチアは海軍力でビザンティンを弱体化させ東地中海で隆盛を極めたが、これがオスマンの膨張を早め、自滅に繋がった。
ジェノバはベネチアに負け、西方に活路を見出し、幸運を掴んだ。

小さいドゥブロブニクは海軍力に頼らず、貿易と外交で大国の間を渡り歩いた。
これは、この都市が元々異民族や異教を受け入れる度量があったことによるのだろう。

世界には、大国の狭間で小国が悪戦苦闘する例がイスラエル、朝鮮半島、ベトナムなど数多くある。
しかしドゥブロブニクの成功例は希有と言える。

次回より、観光地を紹介します。

Annotation 1:  The Ottoman Empire of Islam isn't included in the Islamic power.

Annotation 2:  Reconquista was the continued war that Christian expelled Islamic power that invaded since 711 year from Iberian Peninsula.
The war began at 722, Portugal completed it by 1290, and Spain did it in 1492 by falling Granada.
Through this process, both Portugal and Spain kingdoms were formed.

注釈1: ここではイスラム教のオスマンをイスラム勢力に含めていない。

注釈2: レコンキスタは、キリスト教徒が、711年イベリア半島に侵入したイスラム勢力を駆逐するために行なった国土回復運動です。
戦いは722年に始まり、ポルトガルは1290年に、スペインは1492年グラナダ陥落で完了した。この過程で、ポルトガル・スペイン両王国が成立した。

参考文献
「イスラーム歴史物語」後藤明著、講談社刊。P177,193,227,245.
「東西文明の交流 3、イスラム帝国の遺産」島田襄平編集、平凡社刊。P199,215,217.
「東西文明の交流 2、ペルシアと唐」山田信夫編集、平凡社刊。P395,427.
「図説 世界の歴史4、ビザンツ帝国とイスラーム文明」J..ロバーツ著、創元社刊。P105,109,185.
「世界の歴史 8、イスラーム世界の興隆」佐藤次高著、中央公論刊。P277,313,331,341.
「世界の歴史 11、ビザンツとスラブ」井上浩一著、中央公論刊。P19,157,163,185,201.
「世界の歴史 16、ルネサンスと地中海」樺山紘一著、中央公論刊。P79,p115.
「歴史入門」 フェルナン・ブローデル著、太田出版。P49.
「中世西欧文明」ジャック・ル・ゴフ著、論創社。P123,217.
「クロアチアを知るための60章」柴宣弘著、明石出版。P47.
「旅名人ブックス84、クロアチア・・・」日経BP刊。P29.
「図説 大航海時代」増田義郎著、河出書房新社刊。P49.
「知の再発見 黄金のビザンティン帝国」ミシェル・カプラン著、創元社。
「人類の歴史200万年」リーダーズダイジェスト刊。P155,126.
「図説 ビザンツ帝国」根津由喜夫著、河出書房新社刊。P70.
「ヨーロッパ歴史地図」原書房刊。
「最新世界史図表」第一学習社刊。
「世界大百科事典」
「Wikipedia」の記事と多くの写真を使いました。