Showing posts with label ruins. Show all posts
Showing posts with label ruins. Show all posts

20180721

北欧3ヵ国を訪ねて 14: スカンディナヴィアが育んだもの






< 1. ヴァイキング船 >


今日は、北欧三ヵ国がなぜ先進的で民主的な国家になりえたかを考えます。
その礎はスカンディナヴィアの自然と地理にあった。


* はじめに
スカンディナヴィアは半島も意味するが、同じ民族が起源のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの国土も意味する。

この地域はヨーロッパの北端にあるが、ノルウェー湾を流れる暖流によって寒さは緩和されている。
さらにノルウェー沿岸は豊かな漁場です。
しかし古くは、陸では一部畜産が可能だが総じて農業は不調で、林業が重要な資源でした。

南側のバルト海は大きな内海のようなもので、デンマーク、スウェーデン、フィランド、ロシア、バルト三国、ポーランド、ドイツを結ぶ役割を担った。
バルト海はヨーロッパと東方の交易を発展させ、東方に向かったヴァイキング(8-12世紀)がロシア誕生の切っ掛けを作り、次いでハンザ同盟(13-17世紀)の繁栄を生んだ。



 
< 2. スカンディナヴィア >

上の地図: 三つの枠は写真の撮影地を示す。

下の地図: スカンディナヴィアから出たヴァイキングの航路を示す。
ヴァイキング拠点の内三か所は黄色枠内のストックホルム周辺ビルカ、赤枠内のオスロ湾、白枠内のコペンハーゲン近郊のロスキレです。

他に重要な箇所はユラン半島の二か所とノルウェー湾側です。



 
< 3. スウェーデン >

三枚ともストックホルム近郊の湖です。
スウェーデンは深い森で覆われ、南部はこれに広大な湖が加わる。
古くは農耕に適していなかった。
しかしこの入り組んだ湖と島嶼のおかげで小舟が発達し、ヴァイキングに繋がった。

デンマークの自然景観はスウェーデンに似ているが、森は深くなく農業や酪農が可能だった。
また海岸には浅瀬や入り江も多く、これまた小舟が発達した。

 
< 4. オスロ湾 >
 
私達にはノルウェー湾側のU字型の深い渓谷のフィヨルドに馴染みがあるが、オスロ湾もフィヨルドです。
ノルウェーはノルウェー湾と北海に囲まれ、豊かな漁業資源とフィヨルドによって、これまた船が発達することになった。

これら北欧の景観は、すべてを完全に覆っていた氷河が1万前頃から後退したことによって出来た。



 
< 5. デンマーク >

上の写真: エーレスンド海峡
左にかすかにクロンボ―城が見える。

下の写真: クロンボ―城の大砲がエーレスンド海峡に向けられている。

デンマークは特別な地政学的役割を持っていた。
ユラン半島は大陸と繋がり、さらにバルト海と北海を繋ぐ役割を担っていた。
大陸と繋がっていることで一早く西洋文明が流入して来たが、その一方で大国の侵攻に悩まされた。

古くはヨーロッパの北方の東西交易はユラン半島の根元で、バルト海の海上から陸上へと荷の積み替えで行われていた(ハンブルグを通過)。
やがて航海術が発達すると、船はエーレスンド海峡を抜けて北海とバルト海を直接結ぶようになった。
このことでデンマークは海峡を通る船に関税を掛けて国庫は豊かになった。
しかし、この海峡が周辺国にとって軍事と交易上の拠点になったことで、首都のコペンハーゲンが幾度も攻撃されることになった。



 
< 6. 木造 >

上の写真: ノルウエー民族博物館にあるノルウェー南西部の農家。
これは18から19世紀の特徴を持った小屋でノルウェー湾沿いのフィヨルドの村に建っていたものを移築したものです。

下の写真: ロスキレのヴァイキング船博物館のヴァイキング船。
上記小屋の右側壁とこの船の板の重ね具合(鎧張り)が似ている。
写真No. 1のヴァイキング船はオスロのヴァイキング船博物館のものです。
板の重ね具合は同じ。

北欧三ヵ国のヴァイキング船の造りは皆似ているが、ノルウェーのものは他の二ヵ国より大きい。
これは荒海を航海する為、また豊富な高木(オーク)に恵まれたからでしょう。



 
< 7. 北欧の産物 >

左上の写真: 琥珀が埋め込まれたサンホルダー。
コペンハーゲンの国立博物館で。
青銅器時代(BC1700~BC500年)のもので、柄の形から船などに取り付けられたらしい。
赤い琥珀が非常に魅惑的でした。
琥珀はバルト海周辺が有名ですがデンマークでも採れ、琥珀街道を経て地中海まで送られたことでしょう。


右上の写真: コペンハーゲンの市場の魚介類。
北の海は豊かで、中世より西ヨーロッパの胃袋を満たして来た。

下の写真: ノルウェーのフラム号博物館横の捕鯨砲。
捕鯨が盛んだったノルウェーが最初に捕鯨砲を装備した捕鯨船を実用化した。


初期にはスカンディナヴィアの三ヵ国はヴァイキングとして北海やバルト海を経て主にヨーロッパ方面の略奪、黒海方面との交易、次いで西ヨーロッパに移住するようになった。
一方、ドイツ勢の北方十字軍(12世紀~)などがバルト海の大陸側に植民地を拡大し、各地にハンザ同盟都市が組織され始めた。

一方、キリスト教が定着したのはデンマークで10世紀半ば、スウェーデンで12世紀半ばでした。
これら交易と宗教の大転換が、ヴァイキングの終焉を確実にしたのだろう。

やがてスウェーデンのストックホルム(13世紀半ば~)とノルウェーのベルゲンがハンザ同盟都市として発展した。
コペンハーゲンと上記二つの都市には多くのドイツの商人や雇われ高官が住むようになり、進んだ知識がドイツからもたらせることになった。



 
< 8. フラム号博物館 >

上の写真: ノルウェーのビィグドイ地区。
左がフラム号博物館で、右がコンティキ号博物館。

コンティキ号はノルウェーの人類学者が、インカ文明の筏を再現したものです。
1947年、彼はこの筏でペルーから海流に乗って南太平洋の島に辿り着いた。
このことでポリネシア人がアメリカ・インディアンの子孫であることを証明しようとした(本当はアジア人が祖先)。


下の写真: 実物のフラム号の甲板上にて。フラム号博物館で。
船を囲む映像や効果音、瞬く光で、あたかも船が北極海を進んでいるような気分になった。

この船はノルウェーの探検家ナンセンが1893年から3年をかけて北極海を漂流した時に使用したものです。
さらにはノルウェーの有名な探検家アムゼン、世界で初めて両極点に到達した彼が、この船を2回使用している。

実はヨーロッパ大陸の人間が最初に北米大陸を発見したのはノルウェーのヴァイキングで、1000年の初めにグリーランドから北米の北端に達していた。
彼らは移住出来ずに引き返すことになった。

このようにノルウェーを含めてスカンディナヴィアの人々は冒険心が旺盛です。
これは現在にも受け継がれている。
人口(需要)や資源の少なさを埋める為に科学技術や多言語習得を重視し、販路やチャンスを海外に求めることに積極的です。
今も若者は一度は海外に出ることを家族から奨励される。


 
< 9. エコと森に囲まれた公園? >

上の写真: コペンハーゲン。
大都会だが車は少なく自転車が多い。

デンマークには有名な風力発電機メーカーがあり、国全体の電力の2割が風力発電機によって賄われている。
北欧はエコ(省エネ、環境保護)の意識が非常に高い。
これも美しい森や湖と共に暮らしているからもしれない。

しかし私が1984年に北欧を訪れた時、ここまで自転車は多くはなかった。
ここでも関心することは、おそらく石油価格の高騰に合わせて国民全体が車社会からの転換を図ったのだろう。
北欧の凄い所は、政府と国民が一緒になって社会経済を変え続けることです。

下の写真: 皆さん! これは公園でしょうか?


 
< 10. 墓地 >

上の写真: ストックホルム近郊の墓地で、No.9の下の写真はその入口です。
朝訪れると、ジョギングする人に出会った。

下の写真: オスロの墓地。
共に非常に広大な墓地で、造り方のコンセプトは一緒でした。

スウェーデンには世界遺産の「森の墓地」スクーグシェルコゴーデンがあります。
しかし、この二つの墓地を見れば「森の墓地」が画期的な構想で造られたものではなく、北欧文化に根差した死生観を表象したものであることがわかります。
彼らは森と共に生き、森に帰るのです。


* あとがき

北欧の心性を考えるとき、際立つものがある。
それは国民の政治意識の高さと、労働界と経済界の協力関係です。

ノルウェーからのヴァイキングが移住したアイスランドでの決め事はかつて全島集会で行われていた。
つまりヴァイキングの成員は平等だった。
ヴァイキングは略奪品として奴隷貿易を行ったが、自身の社会では奴隷制が発達しなかった。
また強力な貴族が生まれず国家誕生も遅れ(1112世紀)、封建制も未発達でした。

この要因の一つに少ない農作物の余剰があったと推測します。
また北欧へのキリスト教の布教は進まず、国家誕生と同時期になった。
これらにより人々は貴族や司教による強力な支配を免れ、また王と貴族の力が均衡することになったのだろう。

このことが国家誕生後の王家の有り様に影響した。
王家が危機に瀕すると人々は貴族らを牽制するために他国から王を招聘することを度々行った。

こうして北欧ではヴァイキング時代から、脈々と民主的な政治運営が続いていると言える。
つまり、自分達が動かす政治だからこそ政府を信頼しており、これが絶え間ない革新を生むことに繋がっているようです。


次回に続きます。



20171007

フランスを巡って 39: モンサンミッシェル 5





*1


今日で、モンサンミッシェルの紹介は最後になります。
修道院を出て外周を廻り、村の暮らしを感じさせる裏道を下りました。




 

< 2. 地図 >

今回、紹介する徒歩ルートです。
写真は2017年5月24日、14:00~17:00に撮影しました。
観光している間に、みるみるうちに雲がなくなっていきました。

上の写真: 上が南です。
Sは修道院内部を見学して出て来た所で、黄色線は外周を歩き、正面に出るまでです。

下の写真: 上が北です。
赤線は街を見下ろす道で、真っすぐ進むと下ることが出来ます。
私達は途中で引き返し、青線を降りて出口Eに向かいました。



 

< 3.出口周辺、地図のS >

上の写真: 出口辺りから西側の海岸線を見ている。


 

< 4. 島の西端から >

左上の写真: 出口から人が出て来ている。
右上に鐘楼が見える。

右上の写真: 下を見下ろすと、海岸に突き出した小屋が見える。

下の写真: 大砲が睨みを利かしている展望台。




 

< 5.絶壁 >

上の写真: 出口のある建物を見上げた。

下の写真: 最上階は食事室だろう。
地震が起きたらどうなるのだろうか?
不安がよぎる。



 

< 6. 正面に出た >

黄色線ルートが終わり、赤線ルートの始まり。

右上の写真: 右側の階段を上ると、修道院内部の見学ルートとなり、既に紹介しました。
左の道を進むと、街を見下ろす赤線ルートになります。


 

< 7.  街を見下ろす道から 1 >

赤線ルートを進む。


 

< 8. 街を見下ろす道から 2 >

赤線ルートを進む。


 

< 9. 街の裏側を下る 1 >

青線ルートを降りる。

左上の写真: 墓地が見える。
右上の写真: 墓地から見上げる。
下の写真: ウミネコが煙突に巣を作っていた。




 

< 10. メイン通りを抜けて、城外に出る >

 

< 11. 桟橋から >

これで半日に及ぶモンサンミッシェルの観光が終わりました。


今思うこと
充分に観光時間を割いてくれたツアーでしたが、それでもまだまだ感じたい知りたい事を多く残して来たように思う。

私がモンサンミッシェルに興味を持ち始めたのは1961年の映画「エル・シド」を見てからでした。
チャールストン・ヘストン演じる馬上の騎士エル・シドが海岸に聳える城を遠望している姿が、印象的でした。
これ以降、是非ともいつかはモンサンミッシェルに訪れたいと思うようになりました。
やっと、その望みが叶えられました。

実は旅行間際に調べてみると、この映画の舞台はスペイン、バレンシアの海岸の城だったことを知りました。
それでも遠浅の浜に聳えたつ中世の建築物は見応え充分でした。

ここには1000年にも及ぶ篤き信仰心に支えられ、途方もない労力を注ぎ込み造られた教会があった。
また100年に及ぶ海峡を挟んだ巨大な戦争によって大要塞と化した。
この時は、ジャンヌ・ダルクも救援に駆け付けようとした。
フランス革命後は打ち捨てられていたが、今は貴重な文化財として保存されている。

この島の魅力は、巨大で荘厳な教会と要塞が一体でありながら、その内部に庶民が暮らす街が共存していることかもしれない。
初めは聖地として選ばれた海岸から離れたこの岩山が、それ故に要塞となった。
心の平和を希求するがゆえに選んだ地が血生臭い要塞となってしまった。
実に人間らしい産物と言えるかもしれない。


次回から、ロワール地方を紹介します。














20171002

フランスを巡って 38: モンサンミッシェル 4








*1


今日は修道院の中を巡ります。
天空の城と言えるかもしれません。




< 2. 地図 >

今日紹介するルートはSからスタートし1~4を巡りEで終わりました。







< 3. 西のテラスからの眺め 1 >

ここは地図のNo.1です。

上の写真: 最初に入った建物から直ぐ出たところがこの西のテラスです。
中央の写真: パノラマ写真。
下の写真: パノラマ写真。西のテラスから南と西を見ている。





< 4. 西のテラスからの眺め 2 >

上の写真: 真北を見ている。干潟を歩く一団が見える。
左下の写真: テラスから北側の眼下を望む。




< 5. 修道院付属教会 >

ここは地図のNo.4です。

左下の写真: 内陣は15世紀にゴシック様式で再建された。




< 6. 中庭 >

ここは地図のNo.1と2の間です。
展示がされていました。
見上げるとミカエルの像が真上にありました。




< 7. 回廊 >


ここは地図のNo.2です。

期待していた所なのですが、残念ながら工事中でした。
ここは修道士の祈りと瞑想の場でした。
この外側は断崖絶壁になります。




< 8. 食事室 >

ここは地図のNo.3です。
ここは修道士の食堂でした。




< 9. 大天使ミカエル >

モンサンミッシェルの建設は、8世紀、聖オベールが大天使ミカエルのお告げを聞いたことに始まります。
上の写真: このエピソードを表しているのでしょう。





< 10. 聳え立つ壁面や柱 >




< 11. 大車輪 >

上の写真: この大車輪は食物を上階に運ぶために使われた。
左下の写真: 岩盤の上に築造されているのがわかる。




< 12. 騎士の間 >

上の写真: ここは地図のNo.2で、回廊の下の階にあります。
修道士の執務室でした。

モンサンミッシェルの修道院の建物は、概ね3階建てになっており、正に天空の迷宮でした。
ガイドについて行くのが精一杯で、迷路遊びを堪能出来なかったのが残念でした。




< 13・ モンサンミッシェルの変遷 >

1: 10世紀の様子。
2: 11~12世紀。
14~15世紀に英仏の百年戦争があり、城壁部分が島を囲むようになった。
3: 17~18世紀。
4: 20世紀。

この難攻不落の大要塞は幾度も英国軍を退けたが、一度だけ侵入を許したことがあった。
それは18世紀末のフランス革命時で、フランス市民による侵入でした。
この後、半世紀ほどは監獄として使われた。

今回の旅でアルザスやアヴィニヨンを訪れて驚いたのは、フランス革命時に各地の教会や宮殿が略奪にあっていたことでした。
まるで中国の文化大革命と同じ状況が起こったようです。


次回に続きます。