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20260920

短縮版 迫る多難な危機  第二章 2-4,2-5,2-6

  


「一時の自己満足の為に人類を破滅させては、神も悲しむだろう」

 

この短縮版は、既に投稿済みの「迫る多難な危機」を、少し内容を割愛、分割して連載します。

 

まえがき

 現在、深刻な危機が同時多発的に地球と人類に迫っています。特に、この20年あまり、一部の大国が身勝手に振舞って来たことでより加速しています。今、私達が立ち上がらないと、子孫に顔向け出来なくなる。家族と世界を再び幸福にしましょう。Make the world and people happy again!

 

 

--- 目次  ---

 

第2章 人類は危機にどう対処したのか?

2-4 繰り返される金融危機・恐慌      

2-5 金融危機を招いた悪辣なマネー 

  金融危機対応から見える金融経済の問題

2-6 繰り返される環境破壊と気候変動  

環境を守った事例

まとめ

 

 

 

 

第2章 人類は危機にどう対処したのか?

 人類は、初期には自然の猛威だけでなく、自ら作り出した災厄からも逃げ出すしかなかった。しかし、やがて工夫と協力で危機を乗り越えて来た歴史があります。失敗や成功の事例を見ます。

 

2-4 繰り返される金融危機・恐慌


  恐慌が始めて起きたのは産業革命末期の英国が最初で1825年でした。どうしても自由市場では、好況と不況(倒産)を繰り返します。恐慌下では、多くの労働者が長期に失業と賃金低下に喘ぐことになります。その後、ほぼ10年毎に起きています。やがて恐慌は一国から世界に広がるようになり、遂に1929年米国発の世界恐慌が第一次世界大戦で負けたドイツを困窮のどん底に陥れ(ハイパーインフレ)、ナチス・ヒトラーの台頭に繋がった。大戦後は、南米の債務危機、アジア通貨危機、ITバブル、住宅バブルのリーマンショック等が頻発するようになりました。

 実は、古い時代にも金融危機はあった。最古は古代ローマで、元老院議員らによる大規模な債務不履行(デフォルト)が発生し、ローマの銀行が次々と崩壊。皇帝が現代の価値で数百億円〜数千億円規模を無利子で市場に融資し、史上初の公的資金による銀行救済を行いました。1637年には、投機によるバブル崩壊が起き、オランダのチューリップ・バブルがあった。珍しい品種のチューリップの球根価格が異常に高騰し、家一軒が買えるほどの額に達したのちに大暴落。市場の熱狂と崩壊のサイクルを示した世界最初の事例です。

 

 日本にも、大正から昭和にかけて、10年間に3回と度重なる恐慌が襲いました。最後の恐慌は米国発の世界恐慌が波及し、さらに政府の貿易政策の失敗と農業恐慌が重なり甚大な被害をもたらした。これにより国民の不満が一気に高まり、農民にとって満蒙開拓が救いと思えるようなり、満州事変へと繋がっていった。

 

 人類は多くの経済危機、金融危機・恐慌、債務不履行、ハイパーインフレを経験し、悪戦苦闘しながら乗り越えて来たが、今も経済危機は無くならない。

 

 

 

2-5 金融危機を招いた悪辣なマネー

 

 マネーの暴虐さは近年勢いをさらに増し、日々新たな手口が生み出されています。ここ半世紀の危険なマネーの動きを拾います。

 

 発展途上国が海外の潤沢な資金に惹かれ、国の発展の為に借りる事はよくあります。しかし、これが往々にして悲惨な結果を生みます。一つは、途中からの金利高騰で返せなくなり、さらに高利貸しに手を出し、身ぐるみ剝がされるケースです。これが1970年代~80年代の中南米債務危機でした。この結果、この国々は、国民資産2200億ドルが国外流出し、ハイパーインフレと不景気に襲われた。高利貸しとはIMFです(悪意はないが、結果はほぼ最悪)。

 東南アジア諸国が、これまた海外の資金を国内投資の為に借入れ、国内景気は順調だったのですが、残念なことに外貨の貯えが少なかった。これに目を付けたヘッジファンドらが、タイ通貨を空売りし、通貨が下落することで数千億円儲けた。タイは自国通貨が半減すると、借金が倍になるので買いで防戦したが、完敗した。この結果、この5ヵ国の国民5億人に何が起きたのか。各国のGDP減少率はで5627%になり、タイは、その後の5年間で肺炎、結核、HIVによる死亡者数が5万人増加した。ここでも多くはIMFに頼ることになり緊縮の苦しみを味わった。このファンドの行為は為替投機であって違法では無い。ヘッジファンドは正に生き馬の目を抜く守銭奴です。

 


 最後に、世界が金融屋に騙され浮かれ、その果てに巨額の損失を出したのが、2008年のリーマンショックでした。二つの破綻要因があり、一つは、米国の低所得者用住宅ローン(高リスク)を他の債権と組み合わせた新しい証券CDOが世界中に販売された。これを有名な信用格付け会社が保障した。またこれら証券を買った銀行が、不渡りでも損失を補填して貰える保険CDSが出回り始めていたので、銀行は飛びつくように買った。しかし不動産バブルが弾けると、一気に世界中で安心とされたCDOCDSも不渡りが続出し、世界的な金融危機となった。世界の株価時価総額の約半分15兆ドル(約1500兆円)が数か月で吹き飛んだ。米国は救済に7000億ドルも税金を注ぎ込みました。証券CDOは総額1.5兆ドル、保険CDS総額は58兆ドル(5800兆円)にもなっていた。普通の神経なら、保険CDOの総額がこれほど多いと知った段階で、危険と判断するはずなのですが、無視するからこそ、毎回のように金融危機が起こるのです。投機家は「皆で渡れば怖くない赤信号」の心境になってしまう。

 

 三つの実例から言えることは、如何に金に群がる投資家らが、儲けの為なら国家や国民を食い物にし、世界に甚大な被害を与えているかがわかる。金融危機が再発しても被害が少なくなるような制度が必要です、大企業ではなく中間層以下にとって。我々は、賢くなるべきです。

 

 

金融危機対応から見える金融経済の問題

 

 2008リーマン・ショック後G20協調対応を行った。未曾有の世界的金融危機に対し、G20が中心となり、世界規模での協調的な利下げと、総額5兆ドル(税金)にも及ぶ大規模な財政出動を同時に実行しました。しかし、一連の対応から金融業界の恐ろしさが見えて来ます。対応は大きく二つに分かれる。一つは、倒産対応で、大手銀行を「秩序立てて潰せる」ようにする破綻処理手段が整備された。米国は、1930年の大恐慌時、安易な救済がモラルハザード(倫理の欠如)を生むとし銀行の連鎖倒産を事実上放置し、深刻化させました。しかし、その後、「大きすぎて潰せない」として、銀行を巨額の公的資金を投じて救済し、この慣行が続いていた。これをまた大転換した。もう一つは、今後の金融危機防止策で、金融機関の自己資本比率の大幅引き上げ、店頭高リスク金融商品(デリバティブ)の透明化、無免許銀行(シャドーバンキング)への監視強化が主でした。

 

 幾度も金融危機に見舞われているのに、なぜこの対応が事前に出来なかったのでしょうか? 金融危機は、危機⇒規制⇒「安心+景気刺激」⇒規制緩和⇒危機が繰り返されている。これが繰り返されるのは、金融資産の増加は多くの人にメリットがあり、過熱し易い一方、毎回、金融イノベーションにより状況が変わり、バブル崩壊を予見できない事にある。さらに米国は、金融資本家の勢力が大きいので、政府に圧力を掛け、規制緩和に戻ってしまう。バブルが起きると、投資利益は金融資本家に行き、バブルが崩壊すると負債は政府が被り、景気後退が庶民を襲う。これが繰り返されている。金融はブラックボックスのようだが、国家と世界が協力して、正確に把握し制御しないと、悪化するばかりです。

 

 

 2-6 繰り返される環境破壊と気候変動

 

 公害は古くからあった。人々の経済活動による環境破壊は幾度も起こっていた。地域毎の異常気象が重なることもあった。最古の記録として、出エジプト記に登場する「十の災い」があり、ナイル川の水位低下(紀元前1500年頃)が起因していた。水位がかなり低下し滞留すると赤い藻が発生し、蚊やアブを食べるカエルが死に絶え、蚊やアブが大量発生し、これが家畜や人に感染症を大量発生させることになった。エジプト文明はナイル川の氾濫農耕に依存していた為に被害が拡大した。

 

 人間が原因となった古い事例がトルコのエフェソスに残っています。古代ギリシャ人は、植民地上流の川沿いの森林を伐採し、牧草を植え、羊を飼いました。やがて土砂が下流の湾に堆積し、マラリアが発生し、人々は浚渫を繰り返した。紀元前3世紀に始まり紀元後14世紀、遂に捨てられ、都市遺跡は今の海岸から6kmほど内陸に引き離されてしまった。南太平洋のイースター島や中国の黄土高原などの殺風景な風景も、長年の森林伐採が原因です。今の米国は、地球温暖化を否定することで産業の発展を促進しているが、そのツケは米国民だけでなく世界が負うことになる。

 

 しかし20世紀になると、国内や世界が一致団結し、国内だけでなく地球を守る機運が高まるようになった。

 

環境を守った事例

 

1987年、モントリオール議定書によるオゾン層の保護が始まった。世界規模の環境問題を国際条約で解決した最も成功した例の一つです。197080年代、冷蔵庫やスプレー缶に使われるフロンガスが地球のオゾン層を破壊し、有害な紫外線の増加を招いていることが判明した。世界各国がフロンガスの製造・使用の段階的廃止に合意しました。先進国が途上国へ技術的・資金的な代替フロンへの転換支援を行ったことも功を奏し、現在オゾン層は回復傾向にあります。

 実は、この裏で科学者達の孤軍奮闘があった。高感度検出器による大気中のフロン発見、次いで別の科学者が、フロンが成層圏で壊れオゾンを破壊すると発表、さらに南極観測隊が上空のオゾン層が極端に薄くなっている事を発見した。これを米国のフロン業界が「根拠のない空想科学だ」と猛烈なバッシングを行った。しかしカーター大統領は、スプレー缶へのフロン使用を禁止した。こうして地球が救われることになった。

 

1980年代~、ヨーロッパ複数国の協力によりライン川の水質浄化。スイスからフランス、ドイツ、オランダなどを経て北海に注ぐライン川は、高度経済成長により工場排水や生活排水が流れ込み、1970年代には生態系が破壊され「ヨーロッパの下水道」と呼ばれるほど汚染されました。流域国が国際機関を作り、国境を越えた水質監視、厳しい排水規制を共同で実施しました。国境を越える環境問題は、国境を越えた共同管理によって解決できる事を示した。

 


2017年、水銀規制の水俣条約発効。日本の工場から排出されたメチル水銀が魚介類に蓄積し、それを食べた人々の間で中枢神経系に重度障害を引き起こした。これは国内最大規模の公害病で、被害者は7万人を越え、企業と国に対して勝訴した。

 その後、日本が主導して「水銀に関する水俣条約」が130か国以上の合意で採択されました。先進国と途上国が協力し、水銀の採掘から輸出入、製品(蛍光灯や電池など)への使用、廃棄に至るまでのライフサイクル全体を国際的に規制する体制を構築しました。

 日本の誇れることをもう一つ、日本の公害裁判において、「原因の証明は、被害者(市民)ではなく、企業側が科学的に反証できない限り認める」という形で、被害者に有利な判決が出されました。逆に、米国では、「原告(被害者)が厳密な科学的メカニズムと予見可能性を証明する必要があり、高度な専門証拠を完璧に揃えらえない限り、企業は免責される」とされている。米国の企業優先・経済優先が、あまりも露骨です。ヨーロッパの判例も、概ね日本のように被害者側に立っています。

 

 

まとめ

  

 人類が自然と共に暮らし、自然から恩恵を得る限り、環境を痛める可能性はいつもあり、放置すれば我が身に災厄が降りかかった。一方で、気候変動も数千年の間に地球の平均気温は±1℃の範囲で変化し、局所的に大きな異常気象を起こし、人々は苦境に陥ったことが度々あり、文明の崩壊に繋がったこともあった。人類は科学を発達させ、民主主義が広がる中で、自ら招いた公害や環境破壊について、多くの人が協力し乗り越えるようになってきた。だが気候変動による異常乾燥などには、つい最近まで無力だった。少しづつ科学技術で対処できるようにはなっているが、ほんの一部に過ぎない。

 

 

----全体の目次----

第一章、世界に迫っている危機の要約。

第二章、人類はこれまでに危機に対してどう対処して来たか。 

第三章、我々が直面している重大危機。

第四章、米国の衰退と世界の危機回避能力喪失は一体。

第五章、如何にあるべきか。

第六章、成功している北欧は資本主義のもう一つ道。

 

20181229

連載中 何か変ですよ 210: 何がより良い選択なのか?






*1


「日本国民は何に不安を感じ、何を頼りにしているのか?」
私には見えてこない。
戦争か平和か、または繁栄か金融危機か、左右から罵り合う。
何が国民にとってより良い選択なのか?



*2


皆さんはどう思いますか?

1.    どうしたら戦争や侵略を防げるのか?
軍備を増強するべき
賛成: 小国は侵攻され易い。
反対: 大国と軍拡競争をしても無駄、むしろ敵愾心を煽る。

注釈 
繰り返される米ロ(ソ連)の軍事侵攻を見ていると、小国の悲哀は今なお現実です。
これら侵攻の多くは、民族や宗教対立で混乱している小国への大国の領土・資源・覇権争いと言えるでしょう。
また軍拡競争と軍事同盟の果ての大戦が二度も続き、これも深刻です。

一方で、不戦条約締結(1929年)以降、世界が一緒になって暴虐な国々の世界制覇を多大な犠牲を払って食い止めました(米国の力は大きいが、その後変節している)。

日本にとって確実な戦争回避策はあるのか?

例えば沖縄の基地をどう評価するのか?
沖縄は米国の中国への前進基地として防波堤の役割を担うのか、それとも最初の激戦地となり、日本も火の海になるのか?(沖縄は、以前より米国のアジア侵攻の発進地として使われているので、最初に攻撃されるだろう)
沖縄よりもグアムやハワイの方が、米国や日本にとっても戦略上優位なのではないか?(あまりにも日本と米国の本土から離れている)

北朝鮮の軍事緊張にしても、今回の一連の動きで判明したように米中次第であって、日本の役割は少ない(蚊帳の外で騒ぐだけだった)。
北朝鮮に睨みを利かすのは空母などの機動部隊がいる佐世保が最重要です。

結局、回避策は日本と米国、中国、ロシアの状況を的確に評価出来るかにかかっている(日本は過去に大きな見誤りを繰り返しており、いまだに反省していない。今度こそ島国を言い訳にしないでほしい)。

要は侵略する国、軍事同盟、抑止力、日本の立場―国際的と地政学上(大陸に近い島国)、をどう評価するかです。
少なくとも日本は小国では無く、今後米中の覇権争いは熾烈を極め、中国経済は益々巨大になり、やがて日本は米国依存一辺倒ではすまなくなるだろう。

ここ1世紀半の世界の流れを振り返ると日本の動きが見えてくる。
19世紀後半以降、英国の覇権は衰えて、米国はやがて断トツ一位の経済大国になって行く。
第一次世界大戦はドイツの経済が英国を抜きヨーロッパで一位になる時期と重なった。
また第二次世界大戦は、日本が経済の規模こそ及ばないが急伸し、軍事同盟先を英国からドイツに替えて始まった。
この間、米国は軍事でも世界第一位となり、日本は敗戦占領を期に米国に完全に追従することになった。 


一言
ここ半世紀あまりの世界の戦争をみると、幼児帰りしているように思える(不戦条約締結以前に戻る)。
侵攻される小国に紛争や混乱などの火種があることもあるが、大国は一方的な口実を持って侵攻する。
その口実を、かって世界平和の為だったが、今は戦争の芽を摘むとして自己防衛と称している。(初期には当事者に大量の武器を売る一方で、やがて都合の悪い政府を潰し、それを傀儡政権に替え、挙句に侵攻して破壊する。特に米国。)
これはかっての戦争と何ら変わらない、いつの間にか中世から原始社会に戻ったようです。


次回に続きます。



20180721

北欧3ヵ国を訪ねて 14: スカンディナヴィアが育んだもの






< 1. ヴァイキング船 >


今日は、北欧三ヵ国がなぜ先進的で民主的な国家になりえたかを考えます。
その礎はスカンディナヴィアの自然と地理にあった。


* はじめに
スカンディナヴィアは半島も意味するが、同じ民族が起源のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの国土も意味する。

この地域はヨーロッパの北端にあるが、ノルウェー湾を流れる暖流によって寒さは緩和されている。
さらにノルウェー沿岸は豊かな漁場です。
しかし古くは、陸では一部畜産が可能だが総じて農業は不調で、林業が重要な資源でした。

南側のバルト海は大きな内海のようなもので、デンマーク、スウェーデン、フィランド、ロシア、バルト三国、ポーランド、ドイツを結ぶ役割を担った。
バルト海はヨーロッパと東方の交易を発展させ、東方に向かったヴァイキング(8-12世紀)がロシア誕生の切っ掛けを作り、次いでハンザ同盟(13-17世紀)の繁栄を生んだ。



 
< 2. スカンディナヴィア >

上の地図: 三つの枠は写真の撮影地を示す。

下の地図: スカンディナヴィアから出たヴァイキングの航路を示す。
ヴァイキング拠点の内三か所は黄色枠内のストックホルム周辺ビルカ、赤枠内のオスロ湾、白枠内のコペンハーゲン近郊のロスキレです。

他に重要な箇所はユラン半島の二か所とノルウェー湾側です。



 
< 3. スウェーデン >

三枚ともストックホルム近郊の湖です。
スウェーデンは深い森で覆われ、南部はこれに広大な湖が加わる。
古くは農耕に適していなかった。
しかしこの入り組んだ湖と島嶼のおかげで小舟が発達し、ヴァイキングに繋がった。

デンマークの自然景観はスウェーデンに似ているが、森は深くなく農業や酪農が可能だった。
また海岸には浅瀬や入り江も多く、これまた小舟が発達した。

 
< 4. オスロ湾 >
 
私達にはノルウェー湾側のU字型の深い渓谷のフィヨルドに馴染みがあるが、オスロ湾もフィヨルドです。
ノルウェーはノルウェー湾と北海に囲まれ、豊かな漁業資源とフィヨルドによって、これまた船が発達することになった。

これら北欧の景観は、すべてを完全に覆っていた氷河が1万前頃から後退したことによって出来た。



 
< 5. デンマーク >

上の写真: エーレスンド海峡
左にかすかにクロンボ―城が見える。

下の写真: クロンボ―城の大砲がエーレスンド海峡に向けられている。

デンマークは特別な地政学的役割を持っていた。
ユラン半島は大陸と繋がり、さらにバルト海と北海を繋ぐ役割を担っていた。
大陸と繋がっていることで一早く西洋文明が流入して来たが、その一方で大国の侵攻に悩まされた。

古くはヨーロッパの北方の東西交易はユラン半島の根元で、バルト海の海上から陸上へと荷の積み替えで行われていた(ハンブルグを通過)。
やがて航海術が発達すると、船はエーレスンド海峡を抜けて北海とバルト海を直接結ぶようになった。
このことでデンマークは海峡を通る船に関税を掛けて国庫は豊かになった。
しかし、この海峡が周辺国にとって軍事と交易上の拠点になったことで、首都のコペンハーゲンが幾度も攻撃されることになった。



 
< 6. 木造 >

上の写真: ノルウエー民族博物館にあるノルウェー南西部の農家。
これは18から19世紀の特徴を持った小屋でノルウェー湾沿いのフィヨルドの村に建っていたものを移築したものです。

下の写真: ロスキレのヴァイキング船博物館のヴァイキング船。
上記小屋の右側壁とこの船の板の重ね具合(鎧張り)が似ている。
写真No. 1のヴァイキング船はオスロのヴァイキング船博物館のものです。
板の重ね具合は同じ。

北欧三ヵ国のヴァイキング船の造りは皆似ているが、ノルウェーのものは他の二ヵ国より大きい。
これは荒海を航海する為、また豊富な高木(オーク)に恵まれたからでしょう。



 
< 7. 北欧の産物 >

左上の写真: 琥珀が埋め込まれたサンホルダー。
コペンハーゲンの国立博物館で。
青銅器時代(BC1700~BC500年)のもので、柄の形から船などに取り付けられたらしい。
赤い琥珀が非常に魅惑的でした。
琥珀はバルト海周辺が有名ですがデンマークでも採れ、琥珀街道を経て地中海まで送られたことでしょう。


右上の写真: コペンハーゲンの市場の魚介類。
北の海は豊かで、中世より西ヨーロッパの胃袋を満たして来た。

下の写真: ノルウェーのフラム号博物館横の捕鯨砲。
捕鯨が盛んだったノルウェーが最初に捕鯨砲を装備した捕鯨船を実用化した。


初期にはスカンディナヴィアの三ヵ国はヴァイキングとして北海やバルト海を経て主にヨーロッパ方面の略奪、黒海方面との交易、次いで西ヨーロッパに移住するようになった。
一方、ドイツ勢の北方十字軍(12世紀~)などがバルト海の大陸側に植民地を拡大し、各地にハンザ同盟都市が組織され始めた。

一方、キリスト教が定着したのはデンマークで10世紀半ば、スウェーデンで12世紀半ばでした。
これら交易と宗教の大転換が、ヴァイキングの終焉を確実にしたのだろう。

やがてスウェーデンのストックホルム(13世紀半ば~)とノルウェーのベルゲンがハンザ同盟都市として発展した。
コペンハーゲンと上記二つの都市には多くのドイツの商人や雇われ高官が住むようになり、進んだ知識がドイツからもたらせることになった。



 
< 8. フラム号博物館 >

上の写真: ノルウェーのビィグドイ地区。
左がフラム号博物館で、右がコンティキ号博物館。

コンティキ号はノルウェーの人類学者が、インカ文明の筏を再現したものです。
1947年、彼はこの筏でペルーから海流に乗って南太平洋の島に辿り着いた。
このことでポリネシア人がアメリカ・インディアンの子孫であることを証明しようとした(本当はアジア人が祖先)。


下の写真: 実物のフラム号の甲板上にて。フラム号博物館で。
船を囲む映像や効果音、瞬く光で、あたかも船が北極海を進んでいるような気分になった。

この船はノルウェーの探検家ナンセンが1893年から3年をかけて北極海を漂流した時に使用したものです。
さらにはノルウェーの有名な探検家アムゼン、世界で初めて両極点に到達した彼が、この船を2回使用している。

実はヨーロッパ大陸の人間が最初に北米大陸を発見したのはノルウェーのヴァイキングで、1000年の初めにグリーランドから北米の北端に達していた。
彼らは移住出来ずに引き返すことになった。

このようにノルウェーを含めてスカンディナヴィアの人々は冒険心が旺盛です。
これは現在にも受け継がれている。
人口(需要)や資源の少なさを埋める為に科学技術や多言語習得を重視し、販路やチャンスを海外に求めることに積極的です。
今も若者は一度は海外に出ることを家族から奨励される。


 
< 9. エコと森に囲まれた公園? >

上の写真: コペンハーゲン。
大都会だが車は少なく自転車が多い。

デンマークには有名な風力発電機メーカーがあり、国全体の電力の2割が風力発電機によって賄われている。
北欧はエコ(省エネ、環境保護)の意識が非常に高い。
これも美しい森や湖と共に暮らしているからもしれない。

しかし私が1984年に北欧を訪れた時、ここまで自転車は多くはなかった。
ここでも関心することは、おそらく石油価格の高騰に合わせて国民全体が車社会からの転換を図ったのだろう。
北欧の凄い所は、政府と国民が一緒になって社会経済を変え続けることです。

下の写真: 皆さん! これは公園でしょうか?


 
< 10. 墓地 >

上の写真: ストックホルム近郊の墓地で、No.9の下の写真はその入口です。
朝訪れると、ジョギングする人に出会った。

下の写真: オスロの墓地。
共に非常に広大な墓地で、造り方のコンセプトは一緒でした。

スウェーデンには世界遺産の「森の墓地」スクーグシェルコゴーデンがあります。
しかし、この二つの墓地を見れば「森の墓地」が画期的な構想で造られたものではなく、北欧文化に根差した死生観を表象したものであることがわかります。
彼らは森と共に生き、森に帰るのです。


* あとがき

北欧の心性を考えるとき、際立つものがある。
それは国民の政治意識の高さと、労働界と経済界の協力関係です。

ノルウェーからのヴァイキングが移住したアイスランドでの決め事はかつて全島集会で行われていた。
つまりヴァイキングの成員は平等だった。
ヴァイキングは略奪品として奴隷貿易を行ったが、自身の社会では奴隷制が発達しなかった。
また強力な貴族が生まれず国家誕生も遅れ(1112世紀)、封建制も未発達でした。

この要因の一つに少ない農作物の余剰があったと推測します。
また北欧へのキリスト教の布教は進まず、国家誕生と同時期になった。
これらにより人々は貴族や司教による強力な支配を免れ、また王と貴族の力が均衡することになったのだろう。

このことが国家誕生後の王家の有り様に影響した。
王家が危機に瀕すると人々は貴族らを牽制するために他国から王を招聘することを度々行った。

こうして北欧ではヴァイキング時代から、脈々と民主的な政治運営が続いていると言える。
つまり、自分達が動かす政治だからこそ政府を信頼しており、これが絶え間ない革新を生むことに繋がっているようです。


次回に続きます。



20170721

フランスを巡って 27: アルザスに想う








 
*1


今回で、アルザス地方と諸都市の紹介を終わります。
私はこの地を旅して強く印象付けられたことがある。
この地の人々の暮らしに私は平和な世界が来ることを確信した。


 

< 2. アルザスの地図、上が真北です >

上の地図: アルザスは赤線と東側の国境線で囲まれたところです。
フランスの東端にあり、ドイツとスイスに国境を接している。
赤丸はストラスブールとコルマールです。

ドイツとの国境を流れるライン川は交易を発展させ、その流域に石炭や鉄鋼の産地が連なり、産業を発展させた。
一方で、このことが絶え間ない国境紛争をもたらした。

下の地図: 赤丸はストラスブール、リグヴィル、コルマールを示す。
今回紹介する写真は、すべてストラスブール、リグヴィル、コルマール間のバスの車窓からの景色です。


 
*3


 
*4


 
*5


 
*6



 
*7


 

< 8. リクヴィル近くの村 >


 

< 9.ヴォージュ山脈の裾野からドイツ側を望む >
 
この三枚の写真はリクヴィルを発って直ぐのストラスブールに向かう時のもので、東側を見ている。
遠くに黒い森(シュヴァルツヴァルト)が見える。
これはライン川に沿ったドイツ側に160kmほど続く森です。



アルザスの運命
今まで紹介したストラスブールやリグヴィル、コルマールは実に平和そのものでした。
ストラスブールを朝夕散策しても、治安の悪さや、何らかの戦争や憎しみの傷痕などを見ることはなかった。
また多くの人種や移民が共に暮らしている。

しかし、かつてのアルザスは際限なく戦乱に巻き込まれ、領主や宗主国が交代した。
簡単に、大きな戦乱と国境の変化を紹介します。


 

< 10. 9世紀から11世紀の国境 >
赤の矢印はストラスブールを指す。

上の地図: 中部フランク王国(黄着色部)を示す。
紀元前1世紀にはローマ帝国が支配していたが、やがてゲルマン人がやって来てフランク王国を築きました。
そして9世紀に、フランク王国が三つに分割され、アルザスはライン川に沿う南北に延びる中部フランク王国の一部になった。

下の地図: 神聖ローマ帝国(赤線で囲まれた紫着色部)を示す。
10世紀になると中部フランク王国は東部フランク王国に吸収され、それが神聖ローマ帝国になり、16世紀まで続くことになった。


英仏による百年戦争(1337~1453年)の戦場はアルザスとは無縁だった。
しかし、休戦期に解雇された傭兵や敗残兵がアルザスに侵入し略奪した時期が幾度かあった。


 

< 11. 宗教改革 >

16世紀初頭に始まる宗教改革は全ヨーロッパ、さらには世界に影響を与えた。
しかしその展開は複雑で、多くの戦争を生んだ。
一般には、これはドイツ中部で生まれたキリスト教聖職者ルターが教皇を痛烈に非難したことから始まるとされている。
しかし、その萌芽はヨーロッパ各地で以前から見られた。

アルザスが宗教改革と関わるのは、最初期の農民一揆からでした。
上の地図の灰色の部分はアルザスの北方(当時はアルザス)を指し、ここで15世紀末から農民一揆が起こっていた。
1524年になるとドイツの南西部(赤色)でドイツ農民戦争(~1525年)が起こり、瞬く間に、地図の茶色部分に広がり、ストラスブールを含むアルザスも騒乱状態になった。
立ち上がった彼らは、ルターの宗教改革思想を拠り所にしていた。
この2年間で30万人が蜂起し10万人が戦死し虐殺され、アルザスでも10万人が蜂起し3万人が死んだ。

この戦乱で、ドイツは疲弊し、帝国自由都市や小領主が衰退し、領邦国家が力もつようになり、領邦国家が次のプロテスタントとカトリック間の戦争を開始した。
これが神聖ローマ帝国内で始まり、やがてヨーロッパを巻き込んだ三十年戦争(1618-1648年)になった。

下の地図は1650年における、宗派間の色分けです。
ストラスブールを含む橙色はルター派のプロテスタント、周りを囲む草色はカトリック、下側の肌色はカルヴァン派のプロテスタントです。

実は、この後、アルザス一体(フランス東部)の領有権は細切れになり錯綜し、複雑な状況が1634年から1697年まで続きます。

一つ目は、1634年、スウェーデンがフランスにアルザスを全委譲した。
これは三十年戦争の間、アルザス(ストラスブールなど)はプロテスタントの雄スウェーデンから軍事援助を受けていたことによる。

二つ目は、1648年、三十年戦争の講話条約でアルザスが神聖ローマ帝国内からフランスに割譲された。

三つ目は、フランスのルイ14世が領土拡大に乗り出し、1673年、コルマールを奇襲し要塞を解体、1681年、ストラスブールを占拠し、1697年にはアルザス全域がフランス領となった。


 

< 12.フランス革命戦争、1792~1802年 >

フランスで1789年に革命が起きると、周辺の王国はフランス王家を守る為に介入も辞さないと宣言した。
これを受けてフランスはオーストリアに宣戦布告し、ついには12ヵ国を相手に戦争することになった。
初期は劣勢であったが、義勇兵の参加と国家総動員などが功を奏し、やがて東方に領土を広げる侵略戦争へと変貌した。

上の絵: 初期の闘いでフランス軍が勝利したヴァルミーの戦い。

下の地図: フランス革命戦争による領土拡大図の一部。
赤矢印がストラスブール、白矢印がヴァルミー、黄矢印がパリです。

この革命と戦争によって、ストラスブールは略奪され、アルザスは荒廃し、数万人が難民となってドイツに流れた。
また軍人が力を持ち、ナポレオンの帝政を招くことになった。


 

< 13. 普仏戦争、1870~1871年 >

三十年戦争後、神聖ロ―マ帝国は300以上の小国と帝国自由都市の集合体に解体されていたが、19世紀後半にはプロイセン王国がドイツの北方を占め、さらなる領土拡大を目指していた。
フランスはこの挑発に乗って、準備万端のプロイセンに宣戦布告し、一時はパリも占領されるほどの大敗を期した。
こうしてアルザスは隣のロレーヌと共にまたドイツ(プロイセン)に併合された。

上の絵: リヒテンベルクへの攻撃。
プロイセンの連合軍がストラスブール近郊の山城を攻撃している。

中央の地図: アルザスとロレーヌでの普仏軍の対陣を示す。
赤がフランス軍、灰色の丸がプロイセン連合軍です。
黄矢印がリヒテンベルクです。

下の地図: 1871年の領土。
水色がプロイセン連合軍の領土で、アルザスとロレーヌが含まれている。



 

< 14. 西部戦線、1914~1918年 >

第一次世界大戦での西部戦線を示す。
赤線が塹壕のラインで、多くの死者を出したが、ドイツ軍の攻勢を英仏軍がここで防いだ。
ドイツ領であったストラスブールは戦火を免れたと思われる。

第一次世界大戦でのドイツの敗戦を受けて、1919年よりアルザスとロレーヌは再びフランス領となった。


 

< 15. 第二次世界大戦、1939~1945年 >

上の地図: フランス国境の青線がマジノ線です。
これはフランスが対独防衛のため築いた大要塞線で、国境地帯に約400km にわたり建設された。
しかし1940年、赤の矢印の防衛ラインを独軍に突破された。
この時、フランス軍はストラスブールを無人状態で放棄した為、ナチスドイツが占領した。
黄矢印がストラスブール。

1945年、敗戦と共に、占領されていたアルザスとロレーヌはまたフランスに戻った。

下の写真: ストラスブール北側にあるマジノ線を見る連合軍兵士。



今、想うこと
団体の観光旅行ではあるが、ストラスブールやアルザスの他の町も出来る限り見て廻ったつもりです。
しかし、戦争の爪痕やフランスとドイツ両民族の軋轢を感じるものはなかった。

この地をよく案内している添乗員と日本人の現地ガイドに、ストラスブールやアルザスでの両民族の仲違いについて聞いた。
しかし二人共、まったくそんな事は聞いたことが無いと明言した。
まったく私の質問が的外れだった。

既に見たように、アルザスとストラスブールは数多くの戦火、混乱、破壊、略奪、殺戮に苛まれ、その後は民族や言語が異なる国家に組み込まれて来た。
特にドイツ圏とフランス圏とは幾度も入れ替わった。

アルザスは17世紀中頃までドイツ圏に属していたので、ドイツ圏の文化(家屋)や言語(アルザス語を併用)が根付いている。
おそらく食事もだろう。

それにしても、ドイツへの帰属願いや分離独立、ドイツ系とフランス系の人々にいがみ合いの無いのが不思議です。
傍から見る分には、年月が互いの不和を洗い流したゆえか、はたまたフランスが適切な融和策を執ったゆえか、どちらか分からない。
ストラスブールには欧州議会、欧州評議会、欧州人権裁判所、欧州合同軍の本部が置かれており、欧州統合の象徴であり中心と言える。

少なくとも言えることは、これだけの憎しみを生んだ苦難を経験しても、何事もなかったように平和に暮らせることです。

ただ心残りは、市民がどのように平和を紡いで来たのが分からなかったことです。
それでも私は、一つの大きな旅行の目的を果たしてほっとしている。
旅は素晴らしい!!


次回に続きます。