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20200515

徳島の海岸と漁村を巡って 3: 由岐漁港 2





*1


今回は由岐港の後半、西由岐を紹介します。
この漁港を歩き、
切実な現実と興味深い歴史を知ることになりました。


 
< 2. 散策マップ、上が北 >

上の白枠が下の地図の範囲を示す。
赤線が前回紹介した東由岐、ピンク線が今回紹介する散策ルートです。
西由岐はピンク線の下側、港の左(西側)の町です。

S:スタート地点
A: 東由岐漁協
B: ミセ造りなどが見られる古い町並み
C: 天神社
E: かつて由岐城があった城山公園
F: 八幡神社


 
< 3. 不思議なもの >

上: 写真中央、小山の斜面を覆うコンクリート壁に金属製の階段と回廊が見られます。
はじめ分からなかったのですが、後に驚きの事実を知ることになりました。

下: 小魚(イワシ?)の出荷作業が行われていた。


 
< 4. 広い通り >

上: ほぼ中央、南北に延びるもっとも広い通り。
北方向を見ており、真直ぐ行くとJR牟岐線の由岐駅に出会う。

下: 東西に延びる通り
中央に見えるのが城山公園がある丘です。
丘の上が平らになっており、かつて由岐城があった。
城の名残りは無いそうです。

 
< 5. 八幡神社 1 >

上: この道を進むと右手、丘の中腹に八幡神社があります。
この左手が城山公園の丘で、かつては両側の丘は繋がっていた。

下: 八幡神社の下に来ました。

 
< 6. 八幡神社 2 >

上: 八幡神社の境内
実は、私はこの境内が由岐城跡だと勘違いしていて、それらしいものを探したが見つからなかった。
そこでさらに裏山まで踏み込みました。
帰宅後、城山公園が城跡だと知ったのですが。

下: 境内の右側に細い登り道があったので、進みました。
すると、この道の右側に看板(写真中央)があり、赤字で「想定 津波高さ」と書いてありました。
その看板の位置から眼下(東側)を見下ろすと、町のすべてが水面下に没することが分かった。
一瞬、寒気がした。


 
< 7. 八幡神社の岡からの眺め >

上: 前述の看板の位置からの眺め

下: 岡から西側を眺めた。


 
< 8. 丘を西側に降りる >

上: 墓地が斜面一杯に広がっていた。

下: ちょうど、丘を下りきり、振り返ったところ。


 
< 9. 西由岐を行く >

上: 八幡神社が見える

下: 漁港に出てから、来た道を振り返った。


 
< 10. 漁港に戻った >

上: 西由岐側を望む
右側、自転車が置いてある向こう側で、ワカメの天日干しが行われていた。
黒いビニールのようなもので上部を覆っていた。
10分ほどの間に、二人がワカメの干し具合を調べに来ていた。

下: 東由岐の方を見た

私は、ここで持参の弁当を食べた後、次の港に向かった。



* 由岐を歩いて *

様々なことを知り、実感することが出来た。

 
< 11. 東南海地震による津波の恐ろしさ >

上: 散策している時に見つけた表示板
これによると青色で示されるているように、すべての街並みが水面下に沈む。

赤色部分が高台で、写真で見た金属製の階段のあった場所です。
八幡神社、天神社、城山公園も標高は高くて10mほどしかありません。
しかし最大津波高さは、下の図(赤矢印)にあるように徳島県沿岸は20mを越えると予想されています。

最大津波高さは防波堤などで抑制され、浸水深さは最大10mと想定されているようです。
徳島県のH24年の想定では、美波町の津波による死亡者は2300人だそうです。

しかし素人の私ですが、この港にそのような防御効果があるとは思えない。
さらに、津波の第一波(+20cm)は地震発生の12分後、最大波は29分後だそうです。
高齢者が多い中で、どれだけの人が高台に逃げれるのか?

如何に日本が脆弱かを知ることになった。




< 12. いにしえの海路 >

今回訪れた海部郡の港は、古くから海路としても使用されていた。

平安時代、紀貫之が土佐(高知)での国司の任務を終え京都に帰ります。この時、2ヵ月の船旅となり、この様子を「土佐日記」に残しました。
船の航行は海岸に沿い、座礁と海賊を避けながら、多くの港に停泊し、風待ちも行わなければならなかった。
左下地図の赤線が凡その航路で、実際は黒点の港にそれぞれ1から10泊しています。
右下地図の赤丸は予想された寄港地で、下は高知県野根(徳島県宍喰の隣)、上は日和佐(由岐と同じ美波町)です。


 
< 13. 鎌倉時代から戦国時代 >

上: 屋島の戦い
由岐の港は、鎌倉時代には雪の浦や雪湊と呼ばれていた。
源平合戦、屋島の戦いから逃げた平維盛は「平家物語」によると、南下し、
雪の浦(東由岐の大池の辺り)から船で鳴門、和歌山の方に向かったとされている。

下: 戦国時代末期の四国の勢力図
当時、由岐の辺りは三好勢が支配していたが、長曾我部が勢力を伸ばし、海部郡一帯の城を南側から攻め落としていった。
この時、由岐城も降伏し、その後、城主の由岐有興は別の戦いで討ち死にしている。
海部郡にはかつて20を越える城があった(多くが城跡)。
今回は日和佐城を眺めることが出来た。

 
< 14. 由岐漁港 >

由岐港の歴史から漁師の活躍、漁業の発展が見えて来る。

A: 明治時代の漁師の船、カンコ船(手漕ぎで帆の無い全長7~8m)?
B: 石垣弥太郎
C: 楠本勇吉
D: 延縄漁
E: 毎年10月に由岐で行われる伊勢海老祭り


由岐・志和岐の二人の漁師がフロンティアとなった。

石垣弥太郎は明治21年、カンコ船十隻を従え博多へ出向きました。
鯛の一本釣りではうまくいかず空しく由岐へ舞い戻りましたが、「レンコ」(鯛)のほか「アカモノ」(体表が赤色)が釣れるのを知った弥太郎は、挫けることなく毎年レンコ延縄(図D)に挑戦した。
明治35年には一本釣りの全盛期を迎え、後に以西底引網(九州西岸以西で行われる)へと発展する。
彼が正に北九州の漁場開拓を行ったと言える。

カツオ、マグロ漁船員であった楠本勇吉は、明治35年、カツオ漁を目指して岩手県大船渡村へ渡りました。
現地は沿岸漁業の不振で悩んでいましたが、勇吉は意外に豊富な「アカモノ」に目をつけ、故郷でやっていた「てんてん釣り」の漁法を指導した。以後漁獲量は飛躍的に伸び、彼の滞在は28年にも及んだ。

この事例を見ていると、明治期に既に地元の沿岸漁業に見切りをつける漁師がいたこと、また遠方へ進出する気概があったこと、さらには漁法の改革が進んでいったことがわかる。
当時、漁業権や縄張りの争いは無かったのだろうか?


次回に続きます。



20200429

中国の外縁を一周して 33: 东巴文化博物馆から麗江古陳まで






*1

今回は、ナシ族の文化・宗教が分かる东巴文化博物馆を紹介します。
その後、黑龙潭の東岸から玉河广场へ戻り、さらに丽江古陳の中心部、四方街へと向かいます。
途中、1回目の夕食場所も紹介します。


 
< 2.东巴文化博物馆 >

ここは黑龙潭の北側の門を出た所にあります。
小さな建物ですが、納西族(ナシ)、東巴教(トンパ)、トンパ文字の資料が丁寧に展示されています。

上: 入り口。

左下: 納西族の民族衣装。
庶民の普段着のようです。
町で見かけましたが、今は観光用に着ている。

右下: 火葬罐(缶なら金属容器のはずだが、土器のようだ)
説明文が読めないので定かではないのですが、これは火葬後の骨や灰などを収めた壺でしょう。
実は、この壺にナシ族の特徴が現れています。

中国は古来より土葬で、特に儒教によって強まりました。
(現在は衛生上の理由で禁止されています)
火葬の風習は、火葬が盛んであったインドで誕生した仏教が中国にもたらしました。
この地はチベットに隣接し、茶葉街道による交流も盛んだったので、チベット仏教の影響を受けていた。


ナシ族の人口は30万人で、雲南省の西北部から四川省西南部にかけての山間丘陵部や山間低盆地に住んでいる。
麗江古陳はかつて少数民族のナシ族の王都で、現在でもナシ族の人々が多く居住している。
またナシ族のほかに幾つかの少数民族が居住し、漢族より少数民族人口の多い地域となっている。
現在、麗江市の人口は110万人で、観光地、リゾート地として発展しており、外部からの人口流入が多いようです。

 
< 3. トンパ教 >

トンパ教はナシ族の宗教で、当地のシャーマニズムとアニミズムを起源に、チベット仏教などの影響を受けて出来た。
宗教儀式を司るトンパ(シャーマン)のみが、象形文字のトンパ文字を使い教義や伝承を代々伝えて来た。
したがって一般に使われる文字ではなかった。

左上: シャーマンの衣装だろう。

右上: ナシ族の兵装だろう。
この装束は、横山光輝の「三国志」、孔明の南征(雲南北東部)のシーンで、描かれたいたような気がする。

左中央: 仏教で言う卒塔婆のようなものでしょう。
トンパ文字が記されています。

右中央: トンパ文字が書かれた書物、おそらくトンパ教の経典でしょう。

下: 降魔杵
おそらくシャーマンが使う魔除けの道具でしょう。




 
< 4. シャーマンと儀式 >

上: トンパ教の祭式場を再現。
これから言うとトンパ教の寺院らしいものは無く、必要に応じて庭先などで行われたのだろう。

左下: 代々のシャーマン。
冠の形がチベットの仏像のものとよく似ている。

右下: 儀式の一つ。


 
< 5. 湖の東岸を戻って行きます >



 
< 6. 古楽器を演奏する人々 >

上: アンプを使用しているので、絶えなる音色が湖面を渡って広がっていた。

下: 麗江で紅葉を期待していたのですが、あまりなかった。


 
*7


 
< 8.锁翠桥 >

上: この橋の下が、湖から麗江古陳へと流れる川の始まり。


 
< 9. 玉河广场に戻った >

上: 広場の人だかりは出発時よりも増えていた。

下: 玉河广场のすぐ横にある中国風のフードコート。
日本の大型スーパーのフードコートと形態は似ているが、木造なのが良い。


 
< 10. 軽く夕食 >

出来るだけ色々食べ歩きたかったので、この日はここも含めて夕食を3ヶ所で食べた。
夕方5時頃でしたが、客は少なかった。
料理の種類は多いが、多くの食材が不明、味も分からない。
それでも妻が翻訳機を使い、色々注文してくる。
数皿食べたが、美味いと言うより、珍しく面白いに尽きる。


 
< 11. 玉河广场から四方街への通り >

この通りがメインで、道幅が広い。
菊が盛大に飾られており、実に綺麗です。
ツアー客が、どんどん増えて来た。
どうやら夜が、四方街観光の愉しみのようです。


 
< 12. 通りの両側は売店で埋め尽くされている >

民族衣装、宝飾品、食べ物、民芸品など多彩です。
ショッピング好きにはたまらないでしょうね。
ここでは中国製だから安いと言うことはない。


 
*13

黑龙潭からの川の流れです。


次回に続きます。




20200422

福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる : 大江山の自然とロマン







*1

今回は、京都府福知山市の歴史と自然を訪ねました。
大江山にまつわる神代の伝説と平安歌人の想いを紹介します。
また大江山八合目から宮津街道の自然を紹介します。


 
< 2. 今回の訪問地、上が北 >

上: 太い線は宮津街道を示します。
私が訪れたのは赤枠の大江山周辺と矢印4の福知山の城下町です。
城は明智光秀が造りました。
訪問地は、いずれも宮津街道に接しています。
訪問したのは2020年4月15日です。

宮津街道は江戸時代、宮津藩が参勤交代で使った宮津と福知山を繋ぐ道でした。
古代より、大江山近くの峠を越える道は丹後方面を結ぶ主要な街道でした。
現在は両地点を舞鶴若狭自動車道と京都縦貫自動車道で結んでいます。

下: 上の地図の赤枠を拡大した地図。
太線が今回紹介するドライブルートです。

矢印1とG: 大江山山頂近くの鬼嶽稲荷神社。
矢印2: 日本の鬼の交流博物館。
矢印3: 元伊勢内宮と天岩戸神社。
S:  京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅。 
 
私は福知山から宮津街道をドライブし、鬼の交流博物館を見学の後、頂上に向かいました。
それから折り返し元伊勢内宮までドライブしました。
この時の写真がGからSまで順番に並んでいます。

途中の茶色の矢印は、分岐して北上する宮津街道です。


 
< 3. 百人一首と鬼伝説 >

上: 和泉式部の娘の小式部内侍の歌です。
私は当初、平安貴族がこんな山奥について歌う理由が分からなかった。
理由は、母の和泉式部が夫の赴任地の丹後で暮らしており、その寂しさを天の橋立に通じる宮津街道に思いを馳せて詠ったからでした。
生野は福知山よりも京都よりの地名です。

下: 源頼光による鬼退治、酒天童子伝説。
なぜ大江山は鬼退治で有名なのか?
それは鬼の交流博物館に入って分かりました。


 
< 4. 日本の鬼の交流博物館 >

上: 日本の鬼の交流博物館の外観
左の大きな鬼瓦のモニュメントが、駐車場がある入口側です。
この博物館は酒天童子の里にあり、周囲には多くの野外レクリエーション施設があります。

下: 内部

 
< 5. 鬼瓦と鬼の面 >

如何におおくの寺院の屋根に鬼瓦が使われていたがよく分かりました。
また日本全国の民俗芸能や神事、能で使われた鬼の面が展示されています。


 
< 6. 日本の鬼、世界の鬼 >
上: 岩手県の山村に今も伝承されている鬼の人形。
この男女のシンボルは、天明の飢饉以降、災いから村を守ってもらいたいと鬼に願を掛けて作っているものです。

下: 世界中の鬼の面。
写真には中国や韓国、南アジアの面が見えます。


* 大江山の鬼退治伝説 *

この初出は古事記の土蜘蛛退治で、次いで聖徳太子の弟による土熊討伐、最後に源頼光の酒天童子征伐があります。
実は、この「酒天童子の里」は銅鉱山の跡地に作られています。
この大江山一帯には古くから銅などの鉱物が産出していた。

そこで二つの説があります。
一つに、村人は鉱山から流れる鉱毒を恐れ、鉱山の職人集団を恐れた。
今一つに、朝廷が北辺の恭順しない部族を討伐し、さらには鉱山を奪う為に鬼退治と称した。

どちらにしても鉱山が重要な役割を果たしていたようです。


 
< 7. 鬼嶽稲荷神社 >

上: 展望台から望む東側
ここは標高832mの大江山の八合目にあり、東側に視界が広がっています。
秋の早朝の雲海が絶景だそうです。
写真中央に見える三角錐の山は日室ケ嶽(標高427m)だと思います。
実は、後に元伊勢内宮に行きますが、そこの日室ヶ嶽遥拝所から逆方向にこの山を見上げることになります。

下: 鬼嶽稲荷神社

この前で達者な老人と出会いました。
彼は私達を見ると、寄って来て話しかけて来ました。
「これから頂上に行くのは良いが、クマザサには入らないように」
私がなぜかと聞くと。
「熊が出るから」
納得してしまった、それで熊笹と書くのかなと(?)。

彼がカメラをぶら下げていたので聞くと。
彼はブナの花の撮影に行くと言って、一人で急峻な山道を登って行きました。
次の写真の山道です。
今が季節のようです。


 
< 8. これから元伊勢内宮を目指してドライブです >

上: 山頂に向かう道。
下: 麓から鬼嶽稲荷神社まで車で行ける道路。

 
 
< 9. 酒天童子の里までの道 >

桜の多くは終わりでしたが、まだ見頃のものもありました。

 
< 10. 酒天童子の里 >

ここには多くの施設がありますが、コロナの関係でほとんど閉まっていた。
私はトイレを探して日本の鬼の交流博物館に借用に行ったのですが、入館できますよと言われて入りました。
コロナ危機以降、出来るだけ入館せず、店にも寄らず、ハイキングとドライブだけにしようと心掛けていましたが。
入館して良かった。


 
< 11. 宮津街道と二瀬川渓流 >

上: 中央を左に延びる道が9号線で、左に行くと宮津に出ます。
私達はこの9号線を三叉路で右に曲がり、二瀬川渓流沿いに元伊勢に向かいます。
現在は舗装された幅の広い道ですが、当時の旧宮津街道は細い山道で、石畳の道などが山林を抜け、峠を越えながら現在の道と並行したり重なったりしており、今でも残っているようです。

下: 三叉路を曲がって9号線を福知山に向かって走る。
左は二瀬川渓流です。


 
< 12. 二瀬川渓流沿いを走る >

 
< 13. 京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅 >

上: ここも三叉路で、ここを奥に進むと毛原の棚田に行くと看板があります。
私はここを右に進みます。

下: 京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅。

元伊勢内宮は直ぐです。


次回に続きます。




20200331

中国の外縁を一周して 29: 古代へ誘う金沙遺址博物館






< 1. ここで黄金の太陽神鳥が発見された >


これから、数回に分けて四川省の省都成都を紹介します。
今回は、金沙遺址博物館を紹介します。
ここには最古の蜀人の暮らしがあった。


 
< 2. 成都観光地図、上が北 >

上: 成都の位置は赤矢印
成都には蘭州から飛行機で来て、二泊後、同じ空港から飛行機で麗江に移動します。

下: 赤矢印が、成都の観光地です。
A: 金沙遺址博物館、三星堆遺跡の文化を受け継ぐ遺跡の上に建っている。
B: 杜甫草堂(唐の詩人の廟)
C: 陈麻婆酒楼(金沙店)、元祖麻婆豆腐の店
D: 武侯祠(諸葛孔明の廟)
E: 天府广场東側のショッピング街、成都最大の繁華街

黒矢印は地下鉄で直結している成都双流国际机场の方向を示す。

2019年10月23日23:00、私は蘭州から成都双流国际机场に到着し、直ぐ近くのホテルに2泊した。
翌日、朝8:30にホテルのロビーで現地ガイドと待ち合わせし、日本語で1日案内してもらった。
移動はタクシーを利用した。
残念ながら、1日中雨でした。
観光はほぼ予定通り出来たが、写真が思うように撮れなかった。


 
< 3. 金沙遺址博物館 >

上: 金沙遺址博物館の地図、上が北。
600mx500mの広さ。
E: 乌木林
F: 発掘遺跡の展示館
G: 遺跡からの発掘品の展示館

この遺跡は、2001年偶然発見され、発掘調査後、2007年博物館としてオープンした。
私としては有名な三星堆遺跡を見たかったが、成都を1日で観光するには、近くにあるこの博物館見学で時間的に精一杯でした。
三星堆遺跡は北方45kmの位置にある。

この博物館の下には、紀元前1200~500年頃に栄えた蜀人の国が眠っている。
この時期は、黄河中領域の西安から洛陽とその北方で興った商(殷)の後期から、西周、春秋戦国時代の前半に重なる。
ここは蜀人の政治経済商業の中心地であったが城砦はなく、大きな住居址群と祭祀場、墓地からなる。
現在は埋め戻され、祭祀場跡だけが見学できる。


下: 乌木林
この敷地の川底に埋もれていた60本余りの黒檀が立てられている。
かつてこの地は黒檀の森で、今より温暖であった。
この黒檀は祭祀に使われた可能性が高い。
彼らは治水を重視し、河辺で祭祀を行った。
成都には有名な、水利を目的として紀元前3世紀築造が始まった都江堰がある。


 
< 4. 発掘遺跡の展示館 1 >

この展示館は大型の祭祀場跡を覆っている。


 
< 5.建築物跡と発掘品 >

上: 左側のパネルに高い櫓の絵が見える。
パネルの周囲の穴が、柱の跡なのだろう。
出雲大社の太古の復元モデルと似ている。

下: 黄金のマスクなどの金器が発掘された。
写真には他に玉器や青銅器も見える。

 
< 6.石虎と象牙 >

上: 中央右に数本の象牙が白いビニールで覆われている。
また猪の牙も大量に見つかった。
当時、この地には多くの象が生息していた。
右下のパネルを拡大したものが下の写真です。

都江堰が造られた岷江はしばしば氾濫し水害をもたらしていた。
古代の蜀人は、象牙には水の妖怪を殺し、洪水を鎮める神通力があると信じ、川辺のこの祭祀区で、象牙を柱状や円状に並べて供え、祭神を祭ったようだ。

下: 写真の右下に石虎が二つ見える。
崇拝の対象だったのだろう。


 
< 7. 発掘品の展示館 >

上: 二つの展示館の間の通路。
広々とした森林公園になっている。

下: 発掘品の展示館に向かう。


 

< 8. 蜀人の暮らし >

三枚の写真はジオラマを左から右に撮って、上から下へと並べた。
当時のこの地の様子を再現したものです。

森が残る平原に川が流れ、その周辺に多くの住居が建っている。
左には象、犀、鹿が見える。
川には数艘のカヌーのような小舟が見える。
右手前には住居と家畜の囲いが見える。

ここは蜀人の王国の一つだった。
これに遡り、城郭のあった三星堆遺跡が500年間続き、衰退した後にこの王国が興り700年ほど続いた。
蜀人の国は長江上流域の盆地にあったので、永らく黄河中流域の争いに巻き込まれることはなかった。
しかし、秦国がこの地に侵入すると蜀人は敗れ、一部は西側のチベット方面へ、または南下し東南アジアへ去った。


 
< 9.再現された住居と土器 >

上: 再現された住居。
土壁と草ぶきの屋根。

下: 土器
ほとんどの土器の形は他の地域と同じように見える。

下: 玉器
写真の下段に玉琮、割れた玉璧、上段に玉戈などがある。
玉器は殷周のものと似ており黄河中流域と交流があったことを伺わせる。
これらは祭祀用のはずです。
上部の物は、かなり大きい。




 
< 10. 青銅器と埋葬墓 >

上: 青銅器
殷で隆盛を極めた祭祀用の青銅器容器の鼎などをまったく見なかった。
なぜか青銅器は薄いか小さいものがほとんどです。
三星堆遺跡では大きな青銅製人形を作っていたが、こちらでは大きい物は造られていないようだ。
不思議だ。

下: 埋葬墓
一見した感じでは、貧富の差や格式がないようです。
またほとんど副葬品が見られない。
ここには見えていないが、遺体を二つのカヌー形状の棺で上下に被せるようにして埋葬することもしていた。

このような階層の無い社会(王国)で、金器・玉器や象牙を消費する祭祀が盛大に行われていたことに驚いた。


 
< 11. 主要な発掘品 1 >

左上: 玉鉞
右上: 玉琮
この二つは他の中国文明でもよく見られるものです。

左下: 青銅立人像
この人形は、服装や髪型、冠などから見てこの地に特徴的なものです。

右下: 黄金マスク、幅19.5cm、厚0.4mm。
これに遭えて、ここに来た甲斐があった。

三星堆遺跡の青銅人形には、他の中国文明には無い特徴があった。
それは目が異常に大きく、また飛び出していたことです。
このマスクには、その様式が受け継がれている。
もっとも三星堆遺跡の青銅製人形にも金箔が貼られているものはあったが、金沙遺址の方が三星堆遺跡よりも金製の造形品が多い。


 
< 12. 至宝 >

左: 金製の太陽神鳥、外径12.5cm、厚み0.2mm。
12本の火炎をもつ太陽を四羽の鳥がめぐっている(切り抜かれた部分)。
太陽の図案は、三星堆祭祀坑出土の大型神樹などにも取り入れられている。また火炎をもつ太陽は、前述の青銅立人像が頭上に戴く冠の形とも似ている。
金沙遺跡も三星堆と同様に太陽が重要な意味を持っていたようだ。

右: 顔が無い青銅製人形
面白い造形だ。


あとがき

初め、金沙遺址にはあまり期待していなかったが来て良かった。
黄金マスクと金製の太陽神鳥は特に興味深かった
北京の博物館で三星堆遺跡の青銅人形を見ているので、両遺跡を見たことになり、思いを果たした。

この遺跡博物館を見たことにより、漢民族の中心文明から離れた蜀人(羌族の一部?)、そして成都の古代を少しイメージ出来たように思う。
三星堆遺跡に代表される蜀人の祭祀は、祖先と太陽の崇拝だった。
殷の祭祀では、多くの奴隷を生贄に捧げたが、こちらではそのような事はなかったとされている。

今回、中国の外縁を巡る理由の一つは、古代中国の民族移動が後の少数民族の形成にどのように関わったかを知ることだった。
紀元前後以降、漢民族が覇権を広げるに従って、もともと中国大陸に広く散在していた民族は、南部や西部の山岳部に難を避けた。
このことで、各部族の神話が各地に分散し、全体として統一感を欠き、中国神話は纏まりの無いものになったと私は考えている。
今回の蜀人もそうだった。


次回に続きます。