20200331

中国の外縁を一周して 29: 古代へ誘う金沙遺址博物館






< 1. ここで黄金の太陽神鳥が発見された >


これから、数回に分けて四川省の省都成都を紹介します。
今回は、金沙遺址博物館を紹介します。
ここには最古の蜀人の暮らしがあった。


 
< 2. 成都観光地図、上が北 >

上: 成都の位置は赤矢印
成都には蘭州から飛行機で来て、二泊後、同じ空港から飛行機で麗江に移動します。

下: 赤矢印が、成都の観光地です。
A: 金沙遺址博物館、三星堆遺跡の文化を受け継ぐ遺跡の上に建っている。
B: 杜甫草堂(唐の詩人の廟)
C: 陈麻婆酒楼(金沙店)、元祖麻婆豆腐の店
D: 武侯祠(諸葛孔明の廟)
E: 天府广场東側のショッピング街、成都最大の繁華街

黒矢印は地下鉄で直結している成都双流国际机场の方向を示す。

2019年10月23日23:00、私は蘭州から成都双流国际机场に到着し、直ぐ近くのホテルに2泊した。
翌日、朝8:30にホテルのロビーで現地ガイドと待ち合わせし、日本語で1日案内してもらった。
移動はタクシーを利用した。
残念ながら、1日中雨でした。
観光はほぼ予定通り出来たが、写真が思うように撮れなかった。


 
< 3. 金沙遺址博物館 >

上: 金沙遺址博物館の地図、上が北。
600mx500mの広さ。
E: 乌木林
F: 発掘遺跡の展示館
G: 遺跡からの発掘品の展示館

この遺跡は、2001年偶然発見され、発掘調査後、2007年博物館としてオープンした。
私としては有名な三星堆遺跡を見たかったが、成都を1日で観光するには、近くにあるこの博物館見学で時間的に精一杯でした。
三星堆遺跡は北方45kmの位置にある。

この博物館の下には、紀元前1200~500年頃に栄えた蜀人の国が眠っている。
この時期は、黄河中領域の西安から洛陽とその北方で興った商(殷)の後期から、西周、春秋戦国時代の前半に重なる。
ここは蜀人の政治経済商業の中心地であったが城砦はなく、大きな住居址群と祭祀場、墓地からなる。
現在は埋め戻され、祭祀場跡だけが見学できる。


下: 乌木林
この敷地の川底に埋もれていた60本余りの黒檀が立てられている。
かつてこの地は黒檀の森で、今より温暖であった。
この黒檀は祭祀に使われた可能性が高い。
彼らは治水を重視し、河辺で祭祀を行った。
成都には有名な、水利を目的として紀元前3世紀築造が始まった都江堰がある。


 
< 4. 発掘遺跡の展示館 1 >

この展示館は大型の祭祀場跡を覆っている。


 
< 5.建築物跡と発掘品 >

上: 左側のパネルに高い櫓の絵が見える。
パネルの周囲の穴が、柱の跡なのだろう。
出雲大社の太古の復元モデルと似ている。

下: 黄金のマスクなどの金器が発掘された。
写真には他に玉器や青銅器も見える。

 
< 6.石虎と象牙 >

上: 中央右に数本の象牙が白いビニールで覆われている。
また猪の牙も大量に見つかった。
当時、この地には多くの象が生息していた。
右下のパネルを拡大したものが下の写真です。

都江堰が造られた岷江はしばしば氾濫し水害をもたらしていた。
古代の蜀人は、象牙には水の妖怪を殺し、洪水を鎮める神通力があると信じ、川辺のこの祭祀区で、象牙を柱状や円状に並べて供え、祭神を祭ったようだ。

下: 写真の右下に石虎が二つ見える。
崇拝の対象だったのだろう。


 
< 7. 発掘品の展示館 >

上: 二つの展示館の間の通路。
広々とした森林公園になっている。

下: 発掘品の展示館に向かう。


 

< 8. 蜀人の暮らし >

三枚の写真はジオラマを左から右に撮って、上から下へと並べた。
当時のこの地の様子を再現したものです。

森が残る平原に川が流れ、その周辺に多くの住居が建っている。
左には象、犀、鹿が見える。
川には数艘のカヌーのような小舟が見える。
右手前には住居と家畜の囲いが見える。

ここは蜀人の王国の一つだった。
これに遡り、城郭のあった三星堆遺跡が500年間続き、衰退した後にこの王国が興り700年ほど続いた。
蜀人の国は長江上流域の盆地にあったので、永らく黄河中流域の争いに巻き込まれることはなかった。
しかし、秦国がこの地に侵入すると蜀人は敗れ、一部は西側のチベット方面へ、または南下し東南アジアへ去った。


 
< 9.再現された住居と土器 >

上: 再現された住居。
土壁と草ぶきの屋根。

下: 土器
ほとんどの土器の形は他の地域と同じように見える。

下: 玉器
写真の下段に玉琮、割れた玉璧、上段に玉戈などがある。
玉器は殷周のものと似ており黄河中流域と交流があったことを伺わせる。
これらは祭祀用のはずです。
上部の物は、かなり大きい。




 
< 10. 青銅器と埋葬墓 >

上: 青銅器
殷で隆盛を極めた祭祀用の青銅器容器の鼎などをまったく見なかった。
なぜか青銅器は薄いか小さいものがほとんどです。
三星堆遺跡では大きな青銅製人形を作っていたが、こちらでは大きい物は造られていないようだ。
不思議だ。

下: 埋葬墓
一見した感じでは、貧富の差や格式がないようです。
またほとんど副葬品が見られない。
ここには見えていないが、遺体を二つのカヌー形状の棺で上下に被せるようにして埋葬することもしていた。

このような階層の無い社会(王国)で、金器・玉器や象牙を消費する祭祀が盛大に行われていたことに驚いた。


 
< 11. 主要な発掘品 1 >

左上: 玉鉞
右上: 玉琮
この二つは他の中国文明でもよく見られるものです。

左下: 青銅立人像
この人形は、服装や髪型、冠などから見てこの地に特徴的なものです。

右下: 黄金マスク、幅19.5cm、厚0.4mm。
これに遭えて、ここに来た甲斐があった。

三星堆遺跡の青銅人形には、他の中国文明には無い特徴があった。
それは目が異常に大きく、また飛び出していたことです。
このマスクには、その様式が受け継がれている。
もっとも三星堆遺跡の青銅製人形にも金箔が貼られているものはあったが、金沙遺址の方が三星堆遺跡よりも金製の造形品が多い。


 
< 12. 至宝 >

左: 金製の太陽神鳥、外径12.5cm、厚み0.2mm。
12本の火炎をもつ太陽を四羽の鳥がめぐっている(切り抜かれた部分)。
太陽の図案は、三星堆祭祀坑出土の大型神樹などにも取り入れられている。また火炎をもつ太陽は、前述の青銅立人像が頭上に戴く冠の形とも似ている。
金沙遺跡も三星堆と同様に太陽が重要な意味を持っていたようだ。

右: 顔が無い青銅製人形
面白い造形だ。


あとがき

初め、金沙遺址にはあまり期待していなかったが来て良かった。
黄金マスクと金製の太陽神鳥は特に興味深かった
北京の博物館で三星堆遺跡の青銅人形を見ているので、両遺跡を見たことになり、思いを果たした。

この遺跡博物館を見たことにより、漢民族の中心文明から離れた蜀人(羌族の一部?)、そして成都の古代を少しイメージ出来たように思う。
三星堆遺跡に代表される蜀人の祭祀は、祖先と太陽の崇拝だった。
殷の祭祀では、多くの奴隷を生贄に捧げたが、こちらではそのような事はなかったとされている。

今回、中国の外縁を巡る理由の一つは、古代中国の民族移動が後の少数民族の形成にどのように関わったかを知ることだった。
紀元前後以降、漢民族が覇権を広げるに従って、もともと中国大陸に広く散在していた民族は、南部や西部の山岳部に難を避けた。
このことで、各部族の神話が各地に分散し、全体として統一感を欠き、中国神話は纏まりの無いものになったと私は考えている。
今回の蜀人もそうだった。


次回に続きます。






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