今回は、満州に侵攻しなければならなかった経済的な理由を探ります。
主に満州と中国を中心に見ます。
< 2. 旧満州国 >
はじめに
「戦った報道 20」で見たように、満州事変勃発を受けた民間の主張は概ね「中国での排日行為と干渉を抑えて、移民促進と資源開発を行うこと」でした。
前者は既に中国に居留し商売や産業に従事している人々の安全と経済活動を守ってくれというものです。
後者は、国内の窮状を救う為の貧農と失業者の救済策であり、経済発展と軍需産業に必要な輸出入の促進を意味しています。
当然、政府(軍部)や国民が予想していなかった効果や失敗もあった。
< 3. 日本人の海外移住の推移。(株)ギアリンクスより >
移民と居留民 文献1.
日本人の移民(永住者)は1868年のハワイを皮切りに北米・南米へと増えていった。
さらに二つの戦争で獲得した植民地(朝鮮、台湾、南樺太、南洋諸島)へと移住者が増え、1910年30万人、1930年頃には移民総勢100万人に膨れ上がっていた。
ちなみに在朝日本人は1900年末で1万6千人から日露戦争後の1905年に4万2千人に膨れ上がっていた(移民、居留者)。
敗戦による日本への総海外引揚者数は軍人を除いて320万人に上った。
明治時代から多くの人が海外に移住し、植民地や租借地に居留し、あらゆる仕事に従事していた。
< 4. 拓務省による満州移民の募集 >
満州農業移民は満州事変の翌年に始まり、関東軍主導で敗戦までに約25万人が送り出され、多くは国内の小作貧農や子弟で、原野で農業に従事した。
1938年以降、満蒙開拓青少年義勇軍9万人(15~18才)がさらに送り込まれた。
彼ら移民の敗戦に伴う死亡者は8万人に上った。
これには理由がある。
軍は最初から「屯田兵制移民案要綱」を作成し、移民の5割はソ満国境の最前線、4割は抗日武装部隊が荒れ狂う地に送り込んだ。
つまり軍は、必要とあれば武器を持って盾となり、日常は農業者である屯田兵を目論んでいた。
さらに「満州移民500万人移住計画」を打ち挙げて、これにより満州人口の1割を日本人で占めることを目指した。
強壮な青年を集めて送り込めば満州は安泰になるかもしれないが、国内の農民と兵員が不足するのは明らかだった。
さらに悪いことに、日本移民用の土地は収奪に近く、また多くは地主となって中国人を使役したので現地人の憎しみは増すばかりだった。
こうしてソ連が侵攻してくると悲劇が起こった。
中国への居留民(一時滞在者)は1873年の上海から始まり、日露戦争、第一次世界大戦を経て、奉天などの中国東北部と青島などの都市に居留地が出来ていった。
1913年の中国の居留民総数は約4万人で、その内訳は物品販売業、鉄道などの運輸、工員の順に多く、これで50%を占めた。
つまり一攫千金をねらった中小商人の進出が居留民の代表的な姿だった。
資本進出 文献2.
植民地の民族資本の割合を見る。
1929年、台湾の工場数で90%、職工数で62%、1928年、朝鮮の工場数で52%、従業者数で29%であった。
つまり残りは概ね日本資本で大企業ほど所有されていることになる。
満州では1932年、工場数の80%が民族資本であった。
しかし中国本土の紡績工場を国別の資本割合で見ると、1925年で中国56%、日本38%、英国6%で、1905年では日本は4%に過ぎなかったのが急速に伸びている。
何が言えるのか
日本が既に如何に経済的、人的に植民地と結びついていたかが分かります。
こうして農民も商工業者も大企業も、日本軍による満州と中国の支配を歓迎したのです。
また満州移民は軍事が優先であり農民の救済は二の次だった。
< 5.殖民地貿易と経済成長http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/06-0j_hori_j.pdf >
解説: 図―3より、満州事変後(赤枠)、満州は日本からの輸入が40%から85%へと著しく増大している。
図―4より、日本の植民地への輸出が他国への輸出を圧倒するようになって行く。
図2-bより、日本と植民地が共に経済成長を遂げている。
(ただし植民地の利益の大半は日本資本が握り、民族による経済格差が酷かったと考えられる)
それでは満州を手に入れたことで日本経済にメリットがあったのか? 文献3.
答えは、満洲を含めて植民地がなければ日本は立ち行かなかった。
そのメカニズムは複雑ですが、要点だけを記します。
A: 1920年代までの貿易体制が崩れ、日本は殖民地内の貿易に依存しなければならなかった。
米国への生糸輸出が世界恐慌と米国の人絹工業の発達によって決定的に縮小し、それまでの輸出超過から逆に輸入超過となった。
これにより外貨が入らずインドや欧州から原料や機械の購入が出来なくなった。
また金融政策変更(高橋蔵相)による円安で輸出が伸びたのだが、ブロック化していた世界各国と軋轢を生んだ。
また育ちつつあった日本の重化学工業も欧米の第一次世界大戦後の立ち直りによって競争力を失っていた。
当然、欧州からの設備購入は円安で手が届かなくなっただろう。
こうして日本の製品と資本の輸出は円ブロック(外貨不要、恣意的な関税で有利)の満洲・朝鮮・台湾に集中していった。
< 6. 朝鮮の日本窒素の肥料工場と満州の撫順炭鉱 >
B: 現地での搾取による高収益
例えば、朝鮮で水力発電を利用した日本の窒素肥料会社が巨額の利益を上げた。
これは土地を奪い安い労賃で朝鮮人をこき使うことで可能になった。
実は、日本では労働運動が盛んになったことで、日本企業は規制の無い朝鮮に行ったのです。
一度は朝鮮にも規制を設けた日本だったが、外して日本企業に便宜を図った。
同様なことは満洲の日本鉱山でも起こった。
中国人の日当は朝鮮半島よりもさらに安く日本人賃金の1~2割で、粗末な食事でこき使われ、1日に40~50人が死んで埋められた。
撫順炭鉱だけでその数は30ヶ所に上った。
結局、植民地への巨額投資は軍事上か、さもなければ日本経済や企業の為であったと言える。
解説: 破線が日本、赤枠が満州事変の翌年を示す。日本は満州を手に入れたことで、軍需産業を急速に発展させることが出来たようです。
まとめ
結論として以下のことが言える。
多くの人は、満州を支配することで経済的な恩恵があると漠然と思ったことだろう。
ほとんどの満州移民は満州の実態も農業も知らなかった。
それよりも中国と満州に関わる事業家や商工業者、海外居住者にとっては、現地の安泰は絶対であった。
しかし、それ以上に国防を先取りする人々が、国際関係の空隙を突いて、今しかないと戦端を開き、国策の変更を迫った。
こうして軍の移民政策と民間の期待した移民とは異なったものになった。
一方、満州や中国、東南アジアの支配は貿易悪化から好転へと導き、さらに軍需産業発展をもたらした。
その後の展開
しかしその好転は思わぬ不幸の始まりだった。
やがて、当初軍部が恐れていながらも楽観視していた事が立て続けに現実となり、太平洋戦争へと突き進んだ。
それは自らの侵攻ですべての仮想敵国を敵に回し、予想しうる最大の巨大兵力と戦うことになったからでした。
後追いで歴史を見ると軍部は実に都合の良い想定を繰り返し戦争に突入している。
初めに「最大の敵は攻めてこない」として満州に侵攻し、さらに「敵一国と短期決戦で決着する」とし太平洋戦争に突入したことに驚かされる。
まるで原発の想定外「大きい津波は起こらない」と同じ思考でした。
次回は、この軍部の驚くべき思考(戦略)の背景を追います。
文献1: 「岩波口座 近代日本と植民地 3」「岩波口座 近代日本と植民地 5」岩波書店刊。
文献2: 「日本経済史」石井寛治著、p278.「岩波口座 近代日本と植民地 3」p45.
文献3: 「集英社日本の歴史 20」p42~。
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