20151116

社会と情報 62: 戦った報道 19



< 1.日露戦争の凱旋 >

今回は、1900年代から1930年代、明治末期から昭和初期にかけての国民の窮状を具体的に見ます。


三つの時期について窮状を見ます



< 2. 傷痍軍人 >

1900年代を中心に 文献1.
日清・日露の戦役が世の中を変えた。

廃兵(傷痍軍人)
日露戦争(1904、05年)によって、死傷病者は出征兵士の49%、46万に上った。
当時、人口4600万人、就業者2500万人の66%が農林業従事者で農家数540万戸であった。
特に農家の場合、彼らは主要な働き手であったので、その家族は路頭に迷うことになる。

苛税
国民総生産に占める全政府支出は1890年に11%であったが、1900年19%、日露戦役以降の1910年に38%に上昇してから、1920年25%、1930年38%となった。
1910年、国の一般会計歳入の内訳は、直接税の所得税・営業税が8.5%にしか過ぎなかった。
地租税11%と残り間接税の類80.5%が多いため、低所得層(庶民と農民)の負担が大きく、益々生活は苦しくなっていく。 注釈1.
累進性の無い税制、間接税中心の当時の税制は富裕層や企業には有利だった。 
これは当時の選挙民は一握りの富裕層だったので直接税導入が猛烈な反対に合い困難だったことによる。

この上、戦時公債の引受、「愛国心」を計られる半強制的な軍資献納金が追い討ちをかけた。
その結果、税金を払えないことによる財産の差し押さえは1900年代の10年で約10倍に増加した。


< 3. 村の身売り相談 >

1920年代前半を中心に  文献2.
第一次世界大戦の好景気の反動による戦後恐慌が世の中を変えた。 

農民の困窮
1922年頃、自作農家で32戸中11戸、小作農家で35戸中14戸が、赤字に陥っていた。
小作人は小作料と高利の借金に喘いでいた。
農民は寄生虫やトラホームに罹患し健康者は1割しかいなかったし、小学児童の弁当の副食は8割が梅干しだけであった。
こうして小作争議は1918年に全国で256件であったのが、1926年には2751件と膨れあがった。

農家の苦境の背景に何があったのか。
1910~40年の自作農は約30%に過ぎず、他は小作(一部自作も含む)であった。
またこの時期、米の反収が伸びない上に、1920年の戦後恐慌から1930年の間に米価は60%下落した。
この間、消費者物価は26%下落した。
1918年の米騒動以降1930年代前半までに、朝鮮米の徴発量は日本の産出量の約4%から14%に増え、昭和東北大凶作(1931~1932年)では不足分の7割を賄った。
しかしこれが日本の長期米価低下を招き、朝鮮半島の人は40%もの消費減に耐えなければならなかった。
彼らは満州に脱出するか、満州からの稗や粟でしのいだ。

もっとも、第一次世界大戦の好景気では、米価の高騰で農村は潤ったこともあった。
同時に、都市部では大正デモクラシーを謳歌し、労働者の賃金は上昇し、1920年代前半はまだ賃金水準が維持されたので恐慌の影響が少なかった。
むしろ都市部ではインフレ時に苦しむことになった。



< 4. 昭和恐慌、銀行の取り付け騒ぎ >

1930年代前半を中心に 文献3.
1923年の関東大震災、1927年の金融恐慌、1929年の世界大恐慌、1930年の昭和恐慌が続き社会は悪化の一途を辿った。

失業
企業の利益率は半分になり、賃金も2割減となり、会社の倒産が相次ぎ、賃金の不払いも増加し、大量解雇が発生した。
失業者は1930年から増え始め、31年に280万人、失業率8.9%でピークに達した。
労働争議は1925年に全国で293件だったのが、1931年998件とピークを迎えた。
この膨大な失業者のうち、工場労働者の約4割、鉱山労働者の約2割が帰農した。
ただでさえ貧しい農村に人が溢れ、困窮は極限に達した。
こうして農村部で人口過剰が問題となり、移民が説かれた。

農村の窮乏
都市部の購買力減はさらに農作物の価格を1929年から31年かけてさらに約60%低下させた(32年にかけてほぼボトム)。
さらに1931年、34年に東北・北海道が凶作に見舞われ、自作農で60%、小作農で75%が赤字農家に転落した。
税金が納められず、土地や収穫物を差し押さえられる農家が続出した。

こうして昼食抜きの児童が増え、東京へ娼婦として売られる娘が続出した。
1934年の身売りは約2万人で、娘を一人売ると親は約1年分の所得を得ることが出来た。
小作争議はこの年に更に最大を更新し6824件となった。


< 5. 所得格差 >
解説: 日本(赤線)は明治から太平洋戦争が始まるまで所得格差は高いままだった。
ドイツ(青線)では第一次世界大戦以後の社会主義政権で所得格差は是正されたが、ヒトラーの独裁が始まってから所得格差が急増したが、それでも日本よりもましだった。


まとめ
満州事変に至る約30年間の庶民の困窮状態を見ました。

この間、農家は日本の一人当たり実質成長1.3倍(注釈2)の経済発展から取り残され、さらに悪化し、豪農と貧農の格差も開いていた。
一方、都市と工業は大きな発展を遂げたが、第一次世界大戦の好景気と戦後恐慌を経て、経済格差が広がった。
労働者では熟練度や企業規模(産業の二重構造)などによって賃金格差が生じ、また軍需産業重視の施政によって財閥化が進んだ。
肥大化する財政と累進性の無い税制(注釈3)は低所得者を益々追い詰めた。
こうして欧米先進国と比べて所得格差は群を抜いて高くなった。

さらに政府と軍需産業との癒着、疑獄事件、大企業や財閥優先の経済政策は国民の怒りと失望を買った。
こうした不満の爆発から、1931年に満州事変が起こり、日本は戦争への道を突き進んだ。

次回は、経済的な謎、なぜ国民は満州侵攻を受け入れたのかを探ります。


注釈1: 上記間接税の類には郵便電信収入なども含めている。1910年一般会計歳入の公債・借入金は0.5%に過ぎないが、特別会計の規模は一般会計の1.7倍あった。この特別会計でさらに莫大な軍事費が支出され、収入は公債・借入金が大半であった。いずれこの支払いも国民の税金とならざるを得なかった。日清戦争だけは賠償金で国民の負担は減った。また個人消費が国民総生産に占める割合は90~70%なので、庶民の税負担率はさらに増す計算になる。

注釈2: 「世界経済の成長史 1820~1992年」マディソン著、(p77、p143)によると1913~50年の一人当たり実質GDPの平均複利成長率は0.9%、人口は1.6倍となる。つまり30年間で実質GDPは一人当たり1.3倍、全体で2.1倍になる。この一人当たりの成長率は同期間のアジア11カ国(台湾、タイ、韓国、中国など)の中で群を抜いて良かった。

注釈3: 高所得に比例する所得税などの直接税が低く、酒税などの消費に比例した間接税が高かったので、低所得者ほど税率が高くなり貧富の差は開くことになる。
 
文献1:「集英社版日本の歴史18」p202~210。「日本経済史」石井寛治著p193~196.「数字でみる日本の100年」国勢社刊、p276~。

文献2:「数字で見る日本の100年」国勢社刊、p116,p270。「経済学大系7 日本経済史」学文社刊、p147、p159。「日本経済史」放送大学教育、p100、p150。振興会刊。図説日本史、東京書籍刊、p201、p221。






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