< 1. 昭和東北大凶作、1931~1932年 >
前回、日本政府の財政運営の困難さを見ました。
今回、国民の窮状を四人の発言から見ます。
四人の発言要約
三つの訴えと一つの打開策を紹介します。(文章は一部変更・割愛しています)
< 2. 幸徳秋水 >
訴えA:1904年3月、社会主義者幸徳秋水が書いた「平民新聞」の記事。文献1.
「多数の同胞は銃弾に曝され、その遺族は饑餓に泣き、商工は萎縮し、物価は高騰し、労働者は失業し、役人は給料を削られ、さらに軍債の応募を強いられ、貯蓄の献納を促され、その上多額の酷税となって、国民は血を涸らし、骨をえぐられる」
< 3. 渋谷定輔の代表的著作 >
訴えB:渋谷定輔が第一次世界大戦後(1917年)の農民生活をうたった。文献2.
「労働は20時間、後の4時間で寝食する、これがおれの生存だ、生活じゃない、・・、食物は麦入り飯とタクワンづけで、あとは腐れかかったさつま芋だ、・・」
< 4. 小沼正 >
訴えC:1932年2月、大蔵大臣井上を暗殺した22歳の小沼正の上申書。文献3.
「田植え時期なのに農家の倉庫に米一粒ない。肥料は? 出来る米をかたに高金利で肥料を借りるが、出来ると借金の利子と肥料と納税にとられ、残ったのは手に豆粒ぐらいだ。百姓が米を作って、米が食えないのだから日本も末だ。
東京にいって、向島などの貧民窟を見た。・・長雨の後は一家餓鬼になる栄養不良、・・しかして哀れむべき、悲しむべき人々のために革命をすることに腹は決まった」
< 5. 満州事変の首謀者板垣征四郎(左)と石原莞爾 >
打開策D:1931年5月、参謀板垣征四郎は部隊長会同で発言した。文献4.
「満蒙問題の根本的解決は現状を打開し、国民の経済的生活を安定せしむる為の唯一の途であります。将来世界の大国に伍して民族永遠の発展を図り、帝国の使命を全うし得るか、又は小国に下落して独立性を失うかの分岐点に坐しているのであります」
説明
上記訴え三点を見ると、約30年の間、困窮と不満は減るどころか高まっている。
それに対して唐突ではあるが、打開策Dは国民の経済的生活を安定させる唯一の方法としている。
訴えと打開策との間には経済的に直接の関係が無いように見えるが、訴えCと打開策Dには別の繋がりがある。
< 6.血盟団事件の逮捕者、1932年 >
関東軍高級参謀の板垣はこの発言の4ヶ月後(9月)に満州事変を起こしている。
実は、訴えCの小沼(右翼)らは急進青年将校と結びついて満州事変蜂起に呼応し同年10月に国内で軍事クーデター(血盟団事件)を起こす予定だったが、失敗して再度次の年に決行した。
彼らは国内の経済問題解決に満州は必要だったと言っているのだが、軍部のより重要な意図は軍事上の戦略的価値であり、経済的には軍需産業を含む自給圏の確立だった。
この問題は後の機会に譲ります。
次回、国民の困窮の実態と背景を確認します。
文献
文献1:集英社版「日本の歴史18」、p209。
文献2:集英社版「日本の歴史19」、p250。
文献3:集英社版「日本の歴史20」、p56。
文献4:講談社版「日本の歴史23」、p117。
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