20151102

桂林を訪れました 8: 桂林の歴史



 

<1.桂林。借用 >

今回、桂林の歴史を簡単に紹介します。
後で、少数民族の村や漓江沿いの古い町を紹介します。
私達が良く知っている人物や出来事が、ここ桂林と深く関わっていました。


この地は神話時代から始まる



< 2. 瑶族と「丹水浦の戦い」 >
凡例:赤い印が丹水浦。青丸が桂林。赤の矢印が黄河勢。緑の矢印が長江勢。

紀元前1万年頃、長江中流域で最初に勢力を持った民族が生まれていたが、後に漢民族となる勢力が黄河中流域で拡大していた。
そして両勢力は黄河と長江の間にある丹水浦(紀元前4000年頃)で戦い、敗れた長江勢は主に南下した。(神話)
その後の民族移動は概ねこのパターンを繰り返すことになる。
そして多くの少数民族と神話が分散していった。

雲南の苗族(ミャオ)が良く知られていますが、今回私達が訪問するのは桂林近くの瑶族(ヤオ)です。
この瑶族が創世神である盤古(バンコ)を信仰していることが面白い。


秦の始皇帝が開いた航路



< 3.地図の赤い線が霊渠 >


天下統一を成す始皇帝は、紀元前221年、南越征服の為に漓江に33kmの運河(霊渠)を築いた。
水門で水位を調節する画期的な運河によって、長江(湘江)と南シナ海(珠江)が水運で繋がった。
これにより、西安や北京、上海と結ばれた広州と、その中継地である桂林も発展することになる。


諸葛孔明南征す



< 4. 諸葛孔明と三国時代の勢力図(AD220年) >
凡例:赤枠は桂林のあった霊陵郡を示す。

2~3世紀、蜀(茶色)、魏(緑色)、呉(クリーム色)の三国が覇権を争った。
三国志に登場する蜀の宰相諸葛孔明が桂林と関わりがある。
短い期間だが、蜀は荊州(灰色)を有し孔明が所轄した。
また225年、孔明は反乱を収める為、雲南方面を攻め、桂林近くまで来ている。
当時、この地は蛮族の住む地域とされていたが、勢力圏でもあった。


鑑真は桂林に身を寄せた



< 5. 鑑真和上の渡航ルート >
凡例: 赤丸が桂林、二つの青丸が第5回行路の出発地と漂流地を示す。

8世紀、唐の高僧鑑真は請われて仏教の戒律を日本に伝えようとした。
しかし彼は幾度も渡航を試みるが失敗していた。
5回目、彼は日本に向けて長江の港(揚州)から出発したが暴風にあい、遙か南の海南島に漂流した。
彼は初め、漓江経由(前述の霊渠)で長江に出るつもりだったが、桂林の都督に請われ1年間滞在した。
この地は仏教が盛んだった。
その後、彼は弟子の日本僧が死んだことにより広州に戻り、揚州に向かいます。
その途中、彼は失明しますが、再度、日本に向けて出港し、念願を果たし日本で没した。

後に紹介する大墟古鎮はそんな漓江で栄えた町です。


日本軍は中国奥深くまで侵攻した



< 6. 大陸打通作戦、1944年4月から12月 >
凡例: 青矢印が桂林を示す。

日中戦争末期、米軍による海上封鎖と本土空襲が迫るなか、日本軍は南方資源確保と米軍航空基地の破壊を目指した。
この時、日本軍は兵力50万(中国派遣軍の8割)を投入し、2400kmを南下し制圧したが、米国は太平洋からの空爆に変更したので作戦は無駄になった。
この時、桂林は両軍により二度焼き払われることになった。

あとがき
遠い桂林だが、日本と無縁では無かった。
一つ面白い話がある。
この地域にかつて勇猛な部族がいて、倭寇退治に駆り出されたそうです。
以前、私が福建省の客家土楼を訪ねた時、倭寇が山奥まで侵入していたことを知って驚いたことがあった。

次回に続きます。







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