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20170319

何か変ですよ! 54: 捨てることが出来るか





*1


誰しも既存のものに固執していると、発展のチャンスを失うことがある。
しかし、なかなか馴れ親しんでいるものをキッパリと捨て去ることは難しい。
今の社会について、少し考えてみましょう。


はじめに
手描きで行っていたデザインを、これからパソコンで描きなさいと言われれば、特に年配者には苦痛だろう。
慣れたやり方を捨てるのは辛いものです。

一念発起して海外に飛躍を求めるなら、人は友や故郷と別れなければならない。
サラリーマンは定年退職すると、それまでの収入や地位を捨てなければならない。
買った物を捨てることが出来ない人は、やがて家中が不用品で一杯になってしまうだろう。

捨てることは、結構辛い意思決定を伴います。

しかし今日、皆さんと考えたい問題は、社会や人類の未来についてです。

私達は多くの新しい技術や社会システム、思想を得て進歩して来ました。
一方で、私達は同時に多くのものを捨てて来ました。

我々が特別に意識せずとも、古いものが自然と廃れていくこともありますが、逆になかなか捨てることが困難な場合もあります。

知って頂きたい事は、かつて人類が捨てることを英断し、新しい局面を切り開いて来た事実です。
これなくして今の人類社会はなかったのです。




*2


人類は何を捨てて来たのか?
最も古いものとしては、四足歩行ではないでしょうか。
二足歩行で手が使えるようになった化石人類は、早く走れて安定性のある四足歩行を捨てることになりました。

歴史時代になって、人類は科学的な思考を取り入れたことにより多くの事を捨てて来ました。
それまで人々は病気や不幸の多くは、遥か昔の因果や実体のない穢れなどによると考えていました。
医学や技術の進歩と共に、これらは迷信と見なされ廃れて行きました。
新しい宗教を生み出したイエスや釈迦、孔子でさえ、一歩進んだ科学的理解を持っていました。

これらは長い年月をかけて発展し人類に多大な影響を与えました。

身近なもので、陳腐になってしまったものにはどのようなものがあるでしょか?
レコード盤、そろばん、戦艦大和などは明快な例でしょう。
いずれもこれら道具や武器は性能が劣ってしまったので使われなくなりました。
これらの転換を止めることは難しい。

逆に転換が困難なものもあります。
フロンガス、洗浄用の有機溶剤、自動車の排ガスなどです。

フロンガスはオゾン層を破壊することがわかり、現在、世界が協力して使用制限を行っています。
毒性の強い有機溶剤や排ガスも規制されるようになりました。
これらの規制は、社会の安全性の点からは必要なものでしたが、経済コストとの兼ね合いで、産業界から強い反対がありました。

逆の事例もあります。
日本が石炭から石油に転換を図る時、落命の危険がありながらも失業を恐れた労働者側は転換に反対しました。
一方、産業界側は石油の方がコスト的に優位だったこともあり、大きな労働争議となったが、結局、転換が図られました。
これで良かったのですが。


今の社会の礎となっているもので、大きな発想の転換が必要だったものには何があったでしょうか?

土地所有、特許状、株式会社、金本位制などは大きな転機となりました。

古くは、部族社会において土地は概ね共有であり私有ではありませんでした。

かって特許状の主なものは、王が恣意的に商人などに独占権を与えていたのですが、やがて、画期的な発明に対して国が発明家に独占権を与えるようになりました。

以前、事業者は負債を全額返済すべきでしたが、株式会社になると出資金(資本)の範囲だけの返済責務を負うだけになりました。

現在の経済と産業の発展は、この三つの要素が機能してこそだと言えます。

かつて金本位制は国家経済の安定に不可欠だと考えられていました。
貨幣が金に兌換出来ることで信用が得られ、また国も金保有量に応じた歳出しか出来ず、野放図を抑えることになりました。
現在は、これを放棄することにより経済成長(金融)を比較的自由にコントロール出来るようになりました。

我々は個人から国家、世界まで多くの事と決別して来たのです。


何が問題なのか?
人類と社会はより良くなるために、かつての栄光や習慣的なもの、また危険で害を及ぼす物など使用を止めるようになりました。

規模の大きい転換はけっして容易ではなく、あらゆる既得権益層(産業側や労働側など)の抵抗がありました。
また人々の意識転換が必要なものもありました。

今、私が問題だと思うのは二つです。

一つは原子力産業です。
福島の原発事故被害の甚大さ、東芝の原子力事業の膨大な負債を見れば、これからも国が原子力産業を推し進めてくべきものとは思えません。
これは単純に既得権益層の擁護と惰性から続けているだけに過ぎない。

人類が幾度も乗り越えて来た捨てることの英断を、今こそ行うべきです。


いま一つは、トランプ現象と関わる問題です。
米国が主導して来た野放図なグロ―バル化によって、米国の中間層以下の労働者は仕事を無くして来ました。

グローバル化は世界にとって必然であり、国全体として経済的メリットを享受することは明らかです。
しかし、各国の競争力のない産業はやがて衰退する運命にあることも明白です。
この部分が、あたかも自己責任として放置されて来た結果、不満が爆発した。

ここに二つの問題があります。
一つは、グローバル化の恩恵が偏在しており、逆にそのしわ寄せが労働者にのしかかり続けていたのです。
つまり所得格差で拡大であり、米国は特に大きくなっています
これは政府サイドの問題です。

もう一つは、労働者側の問題です。
誰しも仕事していれば理解出来るはずです。
皆さんは作業方法の変化や、製品と業種の栄枯盛衰を身に染みて感じているはずです。
すべて国任せで、仕事や企業の衰退を補うことは出来ません。

やはり、自ら変化や衰退に備えて、自己の革新を日頃から行わなければなりません。
今や米国は、かっての英国病のように、国力の衰退だけでなく、精神的にも衰退しているようです。


何が大事なのか?
国政でも、個人でも、既成や惰性と決別し、前に向かっていく心意気をもたなくてはいけない。

それが出来ない社会は衰退するしかいないのです。






20160416

何か変ですよ 40: 見たくない、知りたくないこと





< 1.震災を受けた熊本城 >

今日は、日本で起きている不可思議な現象を追います。
それは将来訪れる可能性のある身と経済の危険についてです。
人は往々にして見たくないものにはそっぽを向くようです。


熊本地震との関わり
2016年4月14日に発生した熊本地震は震度7で、非常に強い揺れでした。

気になるのは、この時発生した最大加速度が1580ガルと言うことです。
例えば、この値は鹿児島県川内原発の耐震性基準620ガルの2.5倍です。
この基準は福島事故を受けて372ガルから引き上げられた。

ここで気づいて頂きたいことは、加速度が基準値を超えれば原子炉を破壊することです。
例えば、地震の加速度「ガル」が2.5倍になると原子炉に想定の2.5倍の力が働きます。
これは配管から容器、燃料棒などあらゆる部品を破壊する力が2.5倍になることを意味します。



< 2. 原子炉の破壊 >
左図: 原子炉容器と配管の振動シミュレーション。
赤部が強度的に弱い所で、加速度が増えるとこの部分から破壊が進む。

右図: 福島原発事故。

日本の地震で2008年の宮城岩手内陸地震の4022ガルが最大でした(基準の6.5倍)。
重要なのは、マグニチュードや震度、地震の深さではなく原子炉に作用する加速度なのです。
揺れの時間は瞬間であっても破壊します。

日本列島では、いつどこで、どれだけの加速度の地震が発生するか分からないのです。




< 3. 失業率の推移 >

高卒の就職状況との関わり
現在、私は高校で教えており、就職状況の好転は歓迎すべきことです。
しかし、気になることがある。
それは生徒達がアバノミクスのおかげで良くなっていると思い込んでいることです。
事実は、そんな楽天的なものではなく将来に不安がある。

先ず、失業率が低下している理由を見ましょう。




< 4. 日本の人口推移 >

このグラフから厳密な説明は出来ないのですが、その理由は理解しやすい。
15~64歳人口(棒グラフの青色)の低下は14歳以下人口(緑色)の低下よりはるかに急激です。
これは高校から大学までの学卒の就職希望者より、団塊世代の退職の方が多いことに関連しています。
つまり、このギャップが学卒の就職を有利にさせ、失業率の低下になっているのです。

それでは、なぜ今起きたかと言うと、主に改正高年齢者雇用安定法で企業の定年が5年ほど遅れたことによるのです。
つまり今回だけ後回しになっただけなのです。

具体的な数字で確認しましょう。
2010年度で団塊世代人口(61~63才)は669万人です。
退職が4年遅れるとして、2014年度の就職可能な若年人口(20~22才)は373万人です。注釈1
3年間の需給の差は296万人不足、退職者が圧倒的なのです。

2015年の全学卒者(高校、専修学校、高専、短大、大学)232万で、就職希望者92万人です。
2010年度の60歳人口230万人、これが5年後に退職するとしたら、その需給ギャップは138万人不足です。
これが1年間で起きたかもしれないのです。

実際は、他の世代や女性の就労等で、全就業者数はわずかながら増加し、定年延長で日本社会は急場を凌いでいます。
しかし今、人手不足が高齢者の多い中小企業を直撃しているはずです。

実は、問題はこれからなのです。
グラフのような生産年齢人口の減少を食い止めない限り、日本は景気後退を深めるでしょう。
欧米は、主に移民労働者の受け入れでこれを防いで来ました。

理由は簡単で、労働人口が減り、国民所得と需要が減り、総労働人口の減少分に応じて企業は規模の縮小に向かわざるを得ない。
ここで企業の淘汰が起こり、倒産が増えます。
この現象は、一人当たりのGDPが変わらなくても、減少の過渡期において起きます。

今、大事なことは、皆さん一人ひとりが他人任せでなく、社会で起きていることを直視することです。


注釈1: 就職可能な人口の20~22才は、私が目安に設定した年齢で、各種学卒の比で決めました。





20150302

History of sickness and medical art 31: China 6


病と医術の歴史 31: 中国 6        




< 1. Bronze ware of Yin dynasty, the 14-11th century B.C. >
< 1. 殷の青銅器、紀元前14~11世紀 >

This time, I introduce a summary of Chinese medical art, and end it.
今回で、中国医学のまとめを行い、終わります。


< 2. Dishes of Chinese food therapywas stewed medicines in soup
< 2. 薬材を煮込んだ薬膳料理、 >

The megatrend (mainly till the 1st century)
In ancient China, the medical art of empirical science gradually developed from medical art being mainly magic.
As for the recognition to physiology, there was an emphasis on heart and a body fluid theory same as other ancient civilization.
There were several phases of outstanding changes in medical art till the 1st century.
Doctors divided their treatments among medicine men in Imperial Court.
There was the activity of doctors who went around each country intended for common people also.
Some important medical books were published.
The etiology had a concept being close to human body at around the 1st century B.C., but after that, it united with a theory of mind by religion (Taoism) and it didn’t develop.
However, because they attached importance to the practice, Acupuncture, Moxibustion and Chinese herb were developed


大きな流れ(主に紀元前後まで)
古代中国において、呪術中心の治療から経験科学による医術が徐々に発展していった。
身体生理への認識では、他の古代文明と同様な心臓重視と体液論があった。
医学上、何段階かの目立つ変化、宮廷内での巫医と医者の分掌、庶民をも対象にした遍歴医の活躍、医学書出版などが紀元前に起きて発展していた。
病因論は、紀元頃には身体に密接した概念を持ったこともあったが、その後は宗教(道教)の精神論と一体となり、安住してしまった感がある。
しかし実践を重視した鍼灸と漢方薬では高みを極めることになった。



3. pulse diagnosis >
3.脈診 >

The characteristic of Chinese medical art, and the background
A: they did not identify a cause of the disease and decided the treatment policy by combination of plural symptoms.
B: they attached importance to disease prevention by raising natural healing capacity than treating the disease from outside.
C: in the disease diagnosis, the pulse diagnosis was developed especially.

In China, why didn’t the surgery develop? And why did the etiology greatly depend on the theory of mind?

Many religions of the world disliked the profanity of the body, and Confucianism prohibited the dissection like Christianity and Islam.
Therefore it is weak as a persuasive power that Chinese surgery didn’t develop by the prohibition of the religion.
Looking around the world, because pastoral tribe did not have resistance to the dissection than agricultural people, this may be a cause of it.

Another characteristic will originate in a reason that is pointed out in certain culture psychology.
People of the East Asia have a strong tendency that " can see forest but don’t look at tree " as compared with Westerner.
This seems to have led Chinese etiology that didn't identify one cause and saw the whole symptom.
This will become to the characteristic A.

中国医学の特徴とその背景
A: 一つの病因を特定するのではなく、複数の症状の組合せ「証」によって治療方針を決めた。
B: 病気を外部から治療するよりも、自然治癒力を高めることと病気予防を重視した。
C: 病気診断では、四診(観察、聴・嗅診、質問、脈診)の脈診が発達した。

中国ではなぜ外科手術が発達しなかったのか、また病気を全体で捉えるのは良いとしても、病因論(因果関係)がなぜ精神論に大きく依存してしまったのか?

世界の宗教は概ね身体の冒涜を嫌い、儒教もキリスト教、イスラム教と同様に解剖を禁止した。
だから宗教の禁則で中国の外科が発達しなかったとするのでは説得力が弱い。
世界を見ると、農耕民族より牧畜民族の方が解剖に抵抗はなかったので、これが一因かもしれない。

もう一つの特徴は文化心理学で指摘されてことが起因しているのだろう。
東アジアの人々は欧米人と比べ「森を見て、木を見ない」傾向が強い。
これは中国の病因論が、一原因に特定せず、症状全体を見ることにつながりそうです。
これが特徴Aに繋がるのだろう。




< 4. a symbol showing “Yin and Yang” and a temple of Taoism >
< 4. 陰陽を表す図と道教の寺院 >

In China, Yin and Yang philosophy (space or body unify and change by two opposed elements) began to be unified at about the 3rd century B.C.
And Confucianism and Taoism of two major religion of China theorized it.
Taoism greatly was developed during Tang Dynasties, and the prescription of perpetual youth and longevity was expected, but failed in Chinese alchemy (mercury poisoning).
The Buddhism being ascendant in those days had a systematized theory of mind (people’s understanding brings solace), and Taoism enhanced Yin and Yang philosophy to counter it, and it seems to be involved in medical art.
This will become to the characteristic B.

Still probably, the biggest factor was that China was on the Eurasian edge, and was shut from other advanced civilization with the large desert, the mountain range, and the sea for a long time, therefore it seems to cause.

From the next time, I see the medical art of the ancient Greece.

中国では、陰陽思想(宇宙や身体は二つの要素が対立し統合して変化する)は紀元前3世紀頃にまとまり始め、それが中国の二大宗教の儒教と道教によって理論化されていた。
唐の時代に道教は大きく発展し不老長寿の処方を期待されるが、錬丹で失敗した(水銀中毒)。
当時、覇を競っていた仏教は体系化された精神論(悟りが救いをもたらす)を持っており、道教はこれと対抗する形で陰陽思想を高め、それが医術に取り込まれたようだ。
これが特徴Bに繋がるのだろう。


それでもおそらく最大の要因は中国がユーラシアの端にあり、長らく砂漠と山脈、海に遮られ他の高度文明との交流が遅れたことが災いしたのだろう。
インドやローマとの交流はあったが、仏教など一部に限られていた


次回から、古代ギリシャの医術を見ます。



20150201

History of sickness and medical art 30 : China 5


病と医術の歴史 30: 中国 5




< 1.  Soldiers of Sanguo Shidai of China >
< 1. 中国、三国時代の軍人 >

This time, I introduce medicament, cure, and Chinese alchemy.

今回は、薬剤と養生、錬丹について見ます。


Medicament
“Shennong Ben Cao Jing” is fatherless, the oldest book about materia medica, and was compiled during Later Han and Sanguo Shidai( the 2nd –3rd century).
This book sums up the knowledge and the treatment of the medicament from Zhanguo ( the 4th century B.C.).


薬 剤

「神農本草経」は作者不詳で、後漢から三国時代(2~3世紀)に成立した最古の薬物学書です。
この書は戦国時代(紀元前4世紀)からの用薬の経験と薬物学の知識を系統的にまとめている。



< 2. “Shennong Ben Cao Jing” >
< 2. 神農本草経 >


< 3. Ephedra >
< 3. 麻黄 >

In the book, there are 365 kinds of medicament, it is categorized as 252 plants, 67 animals, and 46 minerals, and majority of the efficacy is obvious.
For example, ephedra is antidiarrheal, seaweed is used to treatment of lump, glycyrrhiza is alexipharmic, and rheum is a laxative.   
The medicament is categorized into 3 groups.
It consist of 120 kinds of medicament having harmless but weak effect for recuperation, 120 kinds of medicament having harmless and effect for recuperation and treatment, and the rest is such as medicament for destroying tumors in the stomach but being harmful.
And it mentions the production area of medicament, the collection season, the processing process, the most suitable type (pill, powder, and it saturated in alcohol), the taking time, and the taking method.

Books about materia medica after the 3rd century were based on this “Shennong Ben Cao Jing”.
In plant medicament, it is well known as a certain kinds of hydrangea is suitable for malaria, ginseng is suitable for recovery of energy, and tetradium ruticarpum is suitable for ascariciding.
Some of the medicaments were from Egypt and India, and Southeast Asia.


薬物は365種あり、植物252、動物67、鉱物46に分類され、大多数は効能が確かである。
例えば麻黄は下痢止め、海藻は瘤の治療、甘草は解毒、大黄は通便など。
薬物を三種類に分け、無毒だが効果が弱く保養用120種、有益・無毒の保養と医療作用のある120種、残りが有毒で寒熱を除き、胃腸内の腫瘤を破るなどの医療作用があるとした。
また薬物の産地、採集時期、加工製法、適した剤型(丸、散、酒漬など)、服用時期、服用方法にも触れられている。

魏・晋代以降(紀元3世紀から)の薬物学の書は、この「神農本草経」を基礎にしている。
植物性薬剤では、ペストにダイフウノキ(高木の種)の油、マラリアにジョウサンアジサイ、精力回復に朝鮮人参、回虫にゴシュユ(低木)が良く知られている。
薬物にはエジプトやインド、東南アジア産のものも見られる。

Regimen

Many thinkers and medical scientists preached the regimen, and there were two points of view: "Let’s cultivate life with motion" or "Let’s cultivate life with stillness"
" Hundred Schools of Thought" insisted that we have to be according to nature, and do the care of health about eating and drinking, and have the harmony of mind.
Tua Tuo created the exercises borrowing from five animal postures in Qigong
“ Curing before becoming sickness” had been written in certain medical book.

養 生
養生は強壮・疾病予防・老化防止の大切な手段であった。
多くの思想家や医学者が養生法を説き、「静を以って生を養う」「動を以って生を養う」の二つの観点があった。
多くの「諸子百家」は自然に従い、飲食の摂生や精神の調和を主張した。
華陀は気功・導引から五つの動物姿態の模倣体操を編み出した。
「内経」は「未だ病まざるを治す」、すなわち疾病予防が養生上重要であるとした。



< 4. Chinese alchemy? >
< 4. 錬丹術? >



 5. Cinnabar  
< 5.丹砂 > 

Chinese alchemy and immortality
On the other hand, “Shennong Ben Cao Jing” included the knowledge of Taoism (thought of immortal), and showed the early state of Chinese alchemy.
In this book, it was written that mercury already had effect on the treatment of scabies and the insecticide of louse.
Chinese alchemy is to made the medicament for immortality by means of mixing and producing chemically change to metals such as mercury sulfide (cinnabar), gold or leaden.
A certain book of Taoism in the 4th century was the first important book about Chinese alchemy, and the chemical knowledge became abundance.
Chinese associated the elixir of immortality with remarkable changing of mercury from red ore of mercury sulfide (fig. 5) and the non-corrosive attribute of gold.
In ancient China, the people attached importance to living in this mortal world than afterworld.
Therefore, the First Qin Emperor had searched the medicament for immortality, in best days, kings of Tang (the 7-9th century) drank the medicament for immortality made by Chinese alchemy, and the many kings died by poisoning.
Before long, Taoism came to cultivate the immortality not by medicament of immortality but by Qi (spirit) of his body.
On the other hand, the abundant knowledge by Chinese alchemy developed the chemistry and the metallurgy, and then the world's first gunpowder was made in China in the ninth century.


錬丹と不老不死
一方、「神農本草経」には道教(神仙思想)が根強く、錬丹術の初期の様子が見える。
この書には、すでに水銀が疥癬の治療、虱の殺虫剤に効能ありと書かれていた。
錬丹とは、硫化水銀(丹砂)、金、鉛などの金属を化学変化させ調合し不老不死の薬を作ることです。
4世紀の道教の書「抱朴子」は錬丹術の初期の重要な書で、化学的知識も豊富になっていた。
中国では、硫化水銀の赤い鉱石(図5)から水銀への著しい変化、また金の非腐食性に生命の真髄を仮託した。
古代中国では、人々は死後よりも現世に生きることに重きを置いていた。
それが秦の始皇帝の徐福派遣(仙人探し)に始まり、最盛期、唐の王(7~9世紀)は錬丹家が作る不老不死の薬を飲用し、多くは中毒死した。
やがて道教は不老不死を薬でなく、人体内部の気で養う方向に向かっていった。
一方、錬丹術による豊富な知見は、化学と冶金学を発展させ、9世紀には世界最初の火薬が中国で作られた。



20140619

History of sickness and medical art 27:  China 2

 Medical treatment scene of doctor Bian que 

< 1. Medical treatment scene of doctor Bian que >

This time, I look at the change of medicine through the activity of the doctor.

今回は、医者の活躍を通して医術の変遷を見ます。



Capital's remain of Yin dynasty 

< 2.  Capital's remain of Yin dynasty >

Doctor

In the entire world, the medical treatment by fortune telling or prayer was in the mainstream in ancient times.
Similarly, medicine man (witch doctor) was most valued in the royal palace of Yin that occurred in the 16th century B.C.
However, a portent of experience medicine was seen also in Yin dynasty, and, in Western Zhou Dynasty in the 8th-11th century B.C., the tendency further was progressing more.

医 師

どこの世界でも、古くは占いや祈祷による治療が中心であったが、前16世紀に始まる殷・周時代の王宮でも巫医(ふい)が最重視されていた。
しかしその殷王朝でも経験医学の萌芽が見られ、前11~前8世紀の西周ともなると、その傾向はさらに進んだ。


Duke of Zhou is a Prime Minster of Yin dynasty and seemed to have written ”Rites of Zhou”

 3.  Duke of Zhou is a Prime Minster of Yin dynasty and seemed to have written ”Rites of Zhou”

According to ”Rites of Zhou” in which the administrative organization of Western Zhou Dynasty is described, there was a medical special department that separated from magic and religion.
It included the disease prevention, the treatment, the management about medicine and medical appliances, and the accountancy.
The ranking of medical person was indicated in that order: the doctor (he collected medicine and superintended inferior doctors), food doctor (he prescribed food and drink), internist, surgeon, and veterinarian.
The doctor had been classified by the results and was obliged to report his failure or his success as the judgment data.
In the middle of next chun qiu Zhan guo shi dai (end of the 8th-3rd century B.C.), the change appeared furthermore.
As we had looked a famous physician of the King of Qin last time, doctors like Bian Que (the 5th century B.C.) came to play an active part among many thinkers (Hundred Schools of Thought) that went around feudal lords of each country.

西周の行政組織が記されている「周礼」(前3世紀頃)によると、呪術や宗教から分離した医療専門部署があり、病気予防、治療、薬剤と医療器具管理、会計事務が設置されていた。
その治療を担当する医師には医博士(薬を集め、医師を監督)、食医(食物と飲料を処方)、医師、傷医(外科医)、獣医の順で記載されていた。
医師は成績により格付けされ、その判断資料として、失敗成功の報告が義務づけられていた。
続く春秋戦国時代(前8~3世紀末)の中期になるとさらに変化が現れた。
前回に見た秦王の侍医医爰は傑出していたが、諸侯の間を遊説して渡り歩く諸子百家に混じって遍歴医、扁鵲(へんじゃく、前5世紀)などが活躍するようになる。


a relief engraving(hua xiang shi) in the 2nd century A.D. showed Bian Que carrying out acupuncture.

< 4. a relief engraving(hua xiang shi) in the 2nd century A.D. showed Bian Que carrying out acupuncture. >

The bird expresses the doctor, and his name means the magpie of a wise bird.
He visited main five countries of those days.
He was skillful at pulse diagnosis and also was excellent in internal medicine, surgery, gynecology, pediatrics, five senses (eye, ear, nose, mouth, and tongue), acupuncture and moxibustion.
He was dealt with in “Records of the Grand Historian”, and it was written that he cured the diseases of from feudal lords till common people of each country.
In his words, there was “there are six cureless sickness", and one of that was " a person believes pythoness and does not believe medical art."
This shows a firm belief in medical art of those days, and it shares similarity with Hippocrates of Greece of the same period.
However, the experience medicine did not replace magic medicine.
In the preceding paragraph story of the famous physician of the King of Qin last time, the King was divined by pythoness as “King was cursed as that king had killed two men by his hand, therefore he must die.”

扁鵲は鳥で表現されているが、名前の鵲は賢い鳥のカササギを意味している。
この扁鵲は、当時の主要5ヶ国を巡り、東西両端の地を訪れた。
彼は脈診が巧みで、内科、外科、婦人科、小児科、目・耳・鼻・口・舌の五感、鍼灸科の医術全般にわたって優れていた。
後の淳于意(ジュンウイ)と共に「史記・列伝」(前1世紀)に取り上げられおり、各地の王侯・官吏から庶民までを治療した事が書かれている。
扁鵲の言葉に、「病気には六つの不治が有り」、その一つに「巫女を信じて医を信じない」がある。
これは当時の医術への確信を示しており、ギリシャの同時代人ヒッポクラテスに通じる。
しかし経験医学が呪術に取って代わったわけではない。
前述の医爰逸話の前段階において、晋王は巫によって占われており、「自らの手で二人の大夫を殺害した祟りであり、・・・、帝の死は避けられない。」と宣告されていた。


 “Shennong Ben Cao Jing” is a Chinese book on agriculture and medicinal plants 

< 5.  “Shennong Ben Cao Jing” is a Chinese book on agriculture and medicinal plants >

Sickness

The sick classification was hardly based on cause of disease, but was based on "proof” of the condition or pulse diagnosis.
Therefore, the ancient name of disease is uncertain.
As for the oldest specialized book of materia medica, there is “Shennong Ben Cao Jing”(the 1st century B.C.).
The disease names being written in this book covered 170 different types including jaundice, malignant tumor, cold, etc.
And it explained each disease of internal medicine, surgery, gynecology, ophthalmology, otolaryngology, and dentistry.

病 気

病気の分類はほとんど病因によらず、もっぱら症状や脈診による「証」によった。
したがって古代の病名は判然としない。
最古の薬物学の専門書に「神農本草経」(前1世紀、後漢以降の編纂)がある。
ここに出てくる病気は黄疸、悪性腫瘍、風邪などを含む170種に及び、内科・外科・婦人科・眼科・耳鼻咽喉科・歯科の各疾患にわたっている。



20140610

Something is strange 32 : people don’t want to mention a fear


Director Yoshida

< 1.  Thank you for Director Yoshida. I pray for the bliss of his dead.

What is the greatest fear for you?
Is it nuclear missiles from North Korea or 20,000 nuclear weapons in the world?
Do you not overlook the fear that may happen close at hand?

皆さんにとって最大の恐怖は何でしょうか?
北朝鮮からの核ミサイル、それとも世界にある2万発の核兵器でしょうか?
皆さんは、身近で起きるかもしれない恐怖に目をつむっていませんか?

Introduction

A storage dam may rarely collapse
Strangely, people’s fear for the collapse is few if people live right under the dam than if people live down stream.
To feel fear is necessary for prevention of danger, but it is difficult to look straight.


はじめに
希に貯水ダムが決壊することがあります。
不思議なことに、離れた下流よりも、ダムの直下で暮らす方が決壊への恐怖は少ないのです。
また、必ず起こる災厄や災害を、遠い将来の事として深刻に受け止められない人もいます。
恐怖を感じることは危険防止には必要ですが、直視することは困難です。


the accident of Tokai-mura

< 2.  the accident of Tokai-mura >

Past fear

In 1999, workers were stirring liquid solution with a bucket in a certain factory carelessly as always.
However, suddenly, the bucket began to shine palely and alarm equipment blared.
This was the beginning of the Tokai-mura JCO criticality accident.
This became two-person death, one-person serious injury, about 700-person radiation exposure, and 300,000-person stayed within doors.
The amount of damage totaled tens of billions of yen.

This accident investigation reported, " the direct cause was all the act of the worker, and thing that should be blamed for was a deviation act of the workers".
The worker was not aware that the slipshod operation of this workplace might cause a chain reaction of atomic fission.
Many nuclear plant accidents are such things in fact.


過去の恐怖
1999年、ある工場で溶液の攪拌をバケツで行っていたところ、いつものように気楽に・・・。
ところが、突如、バケツが青白く光り出し、警報装置が鳴り響いた。
これが、歴とした原子炉燃料供給会社で起こった東海村JCO臨界事故の始まりでした。
これにより、3名の作業者の内、放射線被曝で2名死亡、1名重傷、約700名被曝、住民30万人の屋内退避、風評被害や補償の被害総額数百億円となった。

この事故調査は「直接の原因は全て作業者の行為にあり、責められるべきは作業者の逸脱行為である」と報告している。
これは間違ではない。
この職場ぐるみの手抜き作業が核分裂の連鎖反応を起こすことを、作業者は自覚していなかった。
もっとも、多くの原発事故はこのようなものですが。


model of the implements that was used at the accident

< 3.  model of the implements that was used at the accident

What is more fearful?

After the accident, evacuation began on the site immediately, and nobody was going to stop a chain reaction of atomic fission by approaching it.
A member of the Government safety committee scolded executives of the factory who had been backing away.
“ Now if we don't do it, it becomes more and more terrible”
Before long, while the staffs were exposed to the fear of the radiation, they staffs began to enter the factory and performed work such as casting boric acid.
After 20 hours, it was the end at last.

Without the daring action of this member of safe committee and the staffs, it would cause great disaster.

何が恐ろしいのか
事故後、直ちに現場では退避が始まり、誰も近づいて臨界を止めようとしなかった。
そこに国から連絡を受け乗り込んだ安全委員(学者)が、逃げ腰の幹部を叱咤した。
「今、やらなければ取り返しのつかないことになる」
やがて職員らは、目に見えない放射線の恐怖に曝されながら、数回に分けて内部に突入し、ホウ酸を投入するなどの作業を行い、20時間後に終息させた。

もし、この安全委員と職員の果敢な行動がなければ、大災害を招いただろう。


Accident of the first Fukushima nuclear power plant

< 4.  Accident of the first Fukushima nuclear power plant 

In fact, the same incident was taking place
It was a nuclear power plant disaster of Fukushima on March 11, 2011.
Although Director Yoshida sleeplessly had been performing desperate response until morning of the 15th sequentially, later he knew that 90 percent of the whole staffs had evacuated without apology.
The core damage became serious day by day, and the director abandoned hope temporarily.
Therefore, probably, the staff would feel it.
The chains of command of Tokyo Electric Power Company had collapsed, and the upper echelon backed away, and the staff’s despair only deepened.
However, the hard fight of Yoshida and the remained staffs was rewarded and this accident came to calm down in the end of the day miraculously.


実は同じ事が、起きていた
それは2011年3月11日の福島の原発事故でした。
15日の朝も引き続き、吉田所長は不眠不休で必死の対応を行っていたが、9割の職員が勝手に退避していたを知ることになる。
炉心損傷は日増しに深刻の度を増し、所長は一時、諦めかけており、それが職員には伝わったのだろう。
東電の指揮命令系統は崩壊し、上層部は逃げ腰で、彼らの絶望は深まるばかりだった。
しかし、吉田氏と残った者の苦闘が実を結び、その日の午後、奇跡的に沈静化することになった。


Emergency Plan Room of the Nuclear Power Plant

< 5.  Emergency Plan Room of the Nuclear Power Plant 

True fear

The Investigation Committee on the Accident had interviewed Director Yoshida for the mentioned situation, but they didn’t make an issue of it in the report at all. 
Why was that?

本当の恐怖とは
政府事故調(畑村委員長)は、吉田所長に上記状況の事情聴取を行っていたが、その報告書ではまったく問題にしていなかった。
それはなぜだろうか?
とかく要職にある科学者は、無意味な感傷、言い方を変えれば、手の施しようの無いものには触れない傾向があります、すべてではないが。
彼らの報告すべきは、あくまで改善可能なことなのです。

しかし真に重要なことは、この手の施しようの無い恐怖を如何に捉え、そこから答えを求めるべきです。
もし沈静化出来なければどうなっていたのだろうか。
この恐怖は繰り返されている。

What is the true problem?
A problem of Japan is exposed there.
After all, the predisposition that they could not break out of the government policy has appeared also in cowardly result of the unconstitutional examination of the Supreme Court.  
It means that I delegate all authority to the government.
Naturally, the predisposition to avoid the exhibition of this Yoshida record is also similar.
People can learn many things from the past failure.

Finally, I feel major relief about the people who accomplished till the last without escaping with facing the fear of death.
I owe you my gratitude.

真の問題とは
そこには日本の抱える問題が露呈している。
結局、政策ありきから抜け出せない体質(お上にお任せ)は、最高裁の違憲審査のふがいなさにも現れている。
当然、この吉田調書の公開を避ける体質も同様です。
人は、過去の失敗から多くのことを学ぶことが出来るのですが。

最後に、死の恐怖に向き合いながら逃げることなく、最後までやり遂げた人々がいたことに大いなる救いを感じ、感謝する次第です。