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誰しも既存のものに固執していると、発展のチャンスを失うことがある。
しかし、なかなか馴れ親しんでいるものをキッパリと捨て去ることは難しい。
今の社会について、少し考えてみましょう。
はじめに
手描きで行っていたデザインを、これからパソコンで描きなさいと言われれば、特に年配者には苦痛だろう。
慣れたやり方を捨てるのは辛いものです。
一念発起して海外に飛躍を求めるなら、人は友や故郷と別れなければならない。
サラリーマンは定年退職すると、それまでの収入や地位を捨てなければならない。
買った物を捨てることが出来ない人は、やがて家中が不用品で一杯になってしまうだろう。
捨てることは、結構辛い意思決定を伴います。
しかし今日、皆さんと考えたい問題は、社会や人類の未来についてです。
私達は多くの新しい技術や社会システム、思想を得て進歩して来ました。
一方で、私達は同時に多くのものを捨てて来ました。
我々が特別に意識せずとも、古いものが自然と廃れていくこともありますが、逆になかなか捨てることが困難な場合もあります。
知って頂きたい事は、かつて人類が捨てることを英断し、新しい局面を切り開いて来た事実です。
これなくして今の人類社会はなかったのです。
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人類は何を捨てて来たのか?
最も古いものとしては、四足歩行ではないでしょうか。
二足歩行で手が使えるようになった化石人類は、早く走れて安定性のある四足歩行を捨てることになりました。
歴史時代になって、人類は科学的な思考を取り入れたことにより多くの事を捨てて来ました。
それまで人々は病気や不幸の多くは、遥か昔の因果や実体のない穢れなどによると考えていました。
医学や技術の進歩と共に、これらは迷信と見なされ廃れて行きました。
新しい宗教を生み出したイエスや釈迦、孔子でさえ、一歩進んだ科学的理解を持っていました。
これらは長い年月をかけて発展し人類に多大な影響を与えました。
身近なもので、陳腐になってしまったものにはどのようなものがあるでしょか?
レコード盤、そろばん、戦艦大和などは明快な例でしょう。
いずれもこれら道具や武器は性能が劣ってしまったので使われなくなりました。
これらの転換を止めることは難しい。
逆に転換が困難なものもあります。
フロンガス、洗浄用の有機溶剤、自動車の排ガスなどです。
フロンガスはオゾン層を破壊することがわかり、現在、世界が協力して使用制限を行っています。
毒性の強い有機溶剤や排ガスも規制されるようになりました。
これらの規制は、社会の安全性の点からは必要なものでしたが、経済コストとの兼ね合いで、産業界から強い反対がありました。
逆の事例もあります。
日本が石炭から石油に転換を図る時、落命の危険がありながらも失業を恐れた労働者側は転換に反対しました。
一方、産業界側は石油の方がコスト的に優位だったこともあり、大きな労働争議となったが、結局、転換が図られました。
これで良かったのですが。
今の社会の礎となっているもので、大きな発想の転換が必要だったものには何があったでしょうか?
土地所有、特許状、株式会社、金本位制などは大きな転機となりました。
古くは、部族社会において土地は概ね共有であり私有ではありませんでした。
かって特許状の主なものは、王が恣意的に商人などに独占権を与えていたのですが、やがて、画期的な発明に対して国が発明家に独占権を与えるようになりました。
以前、事業者は負債を全額返済すべきでしたが、株式会社になると出資金(資本)の範囲だけの返済責務を負うだけになりました。
現在の経済と産業の発展は、この三つの要素が機能してこそだと言えます。
かつて金本位制は国家経済の安定に不可欠だと考えられていました。
貨幣が金に兌換出来ることで信用が得られ、また国も金保有量に応じた歳出しか出来ず、野放図を抑えることになりました。
現在は、これを放棄することにより経済成長(金融)を比較的自由にコントロール出来るようになりました。
我々は個人から国家、世界まで多くの事と決別して来たのです。
何が問題なのか?
人類と社会はより良くなるために、かつての栄光や習慣的なもの、また危険で害を及ぼす物など使用を止めるようになりました。
規模の大きい転換はけっして容易ではなく、あらゆる既得権益層(産業側や労働側など)の抵抗がありました。
また人々の意識転換が必要なものもありました。
今、私が問題だと思うのは二つです。
一つは原子力産業です。
福島の原発事故被害の甚大さ、東芝の原子力事業の膨大な負債を見れば、これからも国が原子力産業を推し進めてくべきものとは思えません。
これは単純に既得権益層の擁護と惰性から続けているだけに過ぎない。
人類が幾度も乗り越えて来た捨てることの英断を、今こそ行うべきです。
いま一つは、トランプ現象と関わる問題です。
米国が主導して来た野放図なグロ―バル化によって、米国の中間層以下の労働者は仕事を無くして来ました。
グローバル化は世界にとって必然であり、国全体として経済的メリットを享受することは明らかです。
しかし、各国の競争力のない産業はやがて衰退する運命にあることも明白です。
この部分が、あたかも自己責任として放置されて来た結果、不満が爆発した。
ここに二つの問題があります。
一つは、グローバル化の恩恵が偏在しており、逆にそのしわ寄せが労働者にのしかかり続けていたのです。
つまり所得格差で拡大であり、米国は特に大きくなっています
これは政府サイドの問題です。
もう一つは、労働者側の問題です。
誰しも仕事していれば理解出来るはずです。
皆さんは作業方法の変化や、製品と業種の栄枯盛衰を身に染みて感じているはずです。
すべて国任せで、仕事や企業の衰退を補うことは出来ません。
やはり、自ら変化や衰退に備えて、自己の革新を日頃から行わなければなりません。
今や米国は、かっての英国病のように、国力の衰退だけでなく、精神的にも衰退しているようです。
何が大事なのか?
国政でも、個人でも、既成や惰性と決別し、前に向かっていく心意気をもたなくてはいけない。
それが出来ない社会は衰退するしかいないのです。