20140717

私達の戦争 6: 当事者が振り返る戦争とは 5

 1941年、チャーチルとルーズベルト会談

< 1. 1941年、チャーチルとルーズベルト会談 >

太平洋戦争開始を日米、それぞれの側から見ます。

太平洋戦争開始の直近の経緯
1939年: 9月、ドイツ侵攻で第二次世界大戦開始。
1940年: 9月、日本が北部仏印進駐、日独伊三国同盟締結。
1941年: 6月、独がソ連侵攻。7月、米が日本資産凍結、日本が南部仏印進駐。8月、米が対日石油輸出停止。11月、米がハル・ノート提示。12月8日、日本が真珠湾攻撃。

太平洋戦争地図 

< 2. 太平洋戦争地図 >

日本の思惑と動き
日本は1920年代より、国防方針で、最大仮想敵国をそれまでのロシアから米に変えていった。
その背景に第一次世界大戦、ロシア革命、日本では日英同盟破棄、満州・日中事変、軍部支配があった。
日本の軍部は多大な犠牲(国費、数十万人)を払って得た朝鮮半島や満州の権益擁護と拡大に戦争続行を当然と考えた。
その為には大陸の陸戦よりも米国との海戦が低費用で有利とし、資源(鉱物・石油、食料など)確保を中国と仏印(東南アジア)に求めた。

一方、突如起こったドイツ攻勢は欧州制覇から世界制覇を思わせた。
日本は手薄になったソ連東方と東南アジアを入手する絶好の機会と捉えた。
また、米は長年、交戦中の日中に対して兵器や石油を輸出し、中立の立場(孤立主義)をとっていたこともあり、日本は、開戦直前までそれを弱腰で参戦なしと捉えた。
この予断が、危険な三国同盟締結、さらなる侵攻、強気の外交につながった。
それが417月、関東軍特種演習と称して関東軍を35万から80万体勢への増強、仏印進駐となった。

関東軍特種演習と仏印進駐

< 3. 関東軍特種演習と仏印進駐 >
 
日米の差は資源産出力で数百倍、兵器生産力は十倍近くあったが、進めて来た開戦準備により、開戦当時には、日本の保有艦船は米を少し上回り、石油備蓄も1年以内の戦闘なら可能となっていた。
一方、米は40年から被侵略国向けに兵器増産を始めており、開戦が遅れれば遅れるほど、日本は勝つ見込みは限りなく零になる。
さらに造船工期は2年を要するので初期に米艦隊を叩き(奇襲)、1年以内の短期決戦なら勝利が可能とし、その時期は41年の出来るだけ早い時期とした。

開戦の年も、日本の方針は相変わらず定まらず、米を恐れながらも、「日米開戦に備え、さらなる資源と権益確保を推し進め、交渉決裂時は開戦をも辞さず」の矛盾した両論併記であった。
41年初頭から日米で和平を模索する交渉を始めていたおり、「中国からの撤退」は終始、日米互いに譲れない条件であったが、日本は楽観論と強硬論で揺れ動いた。
4111月、ハル・ノートが米から提出され、日本軍の中国からの撤退要求は決定的となった。
こうして開戦を決意しながら日米交渉に挑み、呑むことの出来ない要求で決裂し、真珠湾攻撃となった。

米の思惑と動き
米も1920年代より、日本をオレンジ計画で交戦可能国の一つとして見なしていたが、国内世論もあり、欧州とアジアへの介入意志はなかった。
しかし、ヒトラーの動向(再軍備)、日中戦争勃発と枢軸国の膨張が続き、日独伊防共協定が締結されるに及んで、ルーズベルト大統領は37年に反枢軸国への援助を公言した。
まだ米国内では参戦への反発が強かった。
この後、日独の現実の侵攻、特に40年の日独伊三国同盟への制裁として、大統領は段階的に経済封鎖(ABCD包囲網)を行った。
日本はこの致命的な経済封鎖すら、米が実施しないと当初楽観視していた。

40年末、再選された大統領と米軍部は、欧州参戦を優先しながらも、日米開戦もやむなしと考えた。
この頃、日米の指導者達は共に、国民向けに強気の発言を行うようになっていた(牽制の為か)。
米は40年に日本の暗号解読を完成させ、秘密裏に画策していた日本の開戦意志と侵攻準備を無線傍受により事前に察知していた。
さらにヒトラーへの後手の対応への反省、日本の勢いづく侵攻拡大、高まる英ソの敗北危機、米は放置出来ないとし日本との戦争を不可避であるとした。
米は欧州戦線を優先しながら日本に対抗するには、日本軍が太平洋で戦域を伸ばした所を航空兵力で叩き、数年後の勝利が得策と判断していた。
日本は艦船を重視したが、米は太平洋戦では防御より航空機での攻撃が有利とし、開戦時で3倍、2年後で7倍も航空機を保有した。

艦隊戦力と航空戦力

< 4.艦隊戦力と航空戦力 >

米は長らく他国の紛争には関わらないモンロー主義(孤立主義)を貫いていたので参戦する場合、相手が先に攻撃し、国民世論が沸き立ってから、迎え撃つ態度をとり続けていた(両大戦共)。
こうして「リメンバーパールハーバー」は米国民を一気に参戦へと勢いづかせた。

最後に
これが第2話の中條氏の指摘「米は日本を戦争に追い込んだ」の真相です。
皆さんは、この両国の対応をどう見られますか?

次回、このような対応をした日本の指導者達の心理を重光氏の手記から読み解きます。












20140716

私達の戦争 5: 当事者が振り返る戦争とは 4

 

< 1. 真珠湾攻撃 >

はじめに
私が考える、日本が太平洋戦争に至る過程での問題点をあげます。

A.      なぜ戦線を拡大させていったのか? 日清、日露、満州、日中、仏印、太平洋へ
B.      なぜ危険な三国同盟を結んだのか?
C.      なぜ国力・兵力が10倍以上勝る米国に戦いを挑んだのか?
D.      なぜ統治者・官吏達(外交官、参謀)は正常な情勢判断が出来なかったのか?
E.      なぜ自他に対して残虐になったのか?

既にBは4話で、Eの実態は3話で、他は続いて要点だけ考察します。
重要なことは、これらの問題は国民がそのメカニズムを理解し、原因を是正しない限り、再発の可能性が高いということです。


太平洋戦争開始の直近の経緯
1939年: 9月、ドイツ侵攻で第二次世界大戦開始。
1940年: 9月、日本が北部仏印進駐、日独伊三国同盟締結。
1941年: 6月、独がソ連侵攻。7月、米が日本資産凍結、日本が南部仏印進駐。8月、米が対日石油輸出停止。11月、米がハルノート提示。12月8日、日本が真珠湾攻撃。

日米の動きを「重光葵 手記」から見ます



< 2. ルーズベルト大統領 >

英米の重圧(タイトル)
「三国同盟論者の他の誤算は米国の態度である。米国は1940年、11月の総選挙によって孤立論者は惨敗して、全面的英国援助論が党派の如何を問わず勝利した。ルーズベルト大統領は当選後全力を上げて被侵略国の英、中、ギリシャ等の諸国に対して留保無き如何なる形の援助をも提供する方針を決した。これが為に、枢軸三国(日独伊)から宣戦布告を受けても意に介さないと決心したのである。このために、・・・、枢軸三国との抗争を最後までやろうと言うのである。」p222



< 3. 近衛文麿 >

第三次近衛内閣の崩壊
「(在外日本資産)凍結令の実行によってジリ貧説が台頭して来た。このままにしていれば敗戦国と同様になるから、力のある内に戦争しなければならぬ、石油は力で取りに行かねばならぬと言う主張が有力になった。まるで子供の議論である。しかし近衛内閣は日米交渉最中(1941年)96日に、もし交渉が十月上旬にまとまらなければ戦争を開始すると御前会議に通した。このような交渉が期限付きで出来るはずがない。
一方で平和交渉を行いながら、他方戦争準備を進める。相手方(米国)はそれが平和の為か、戦争の為か分からぬ。恐らく戦争手段に訴える前提としか受け取ることが出来ぬ。ましてや日中戦争以来、同様の手段で既成事実を作られており、(日本の)新聞世論の激しい調子から見て、また例のドイツ流の手ではないかと直感するのも無理ではない。
     ・・ここにおいて交渉は益々困難となる。」p298


 

< 4. 東條英機 >

日米交渉
「東条内閣(19411018日~)は初めより喧嘩内閣であって、外務大臣まで(日米)交渉に熱意を示さずして終始挑発言動に出ている。今後の方向はおのずから明らかである。その態度は、開戦の準備は出来ている、長期戦に打ち勝つ計算は出来ている、平和は必ずしも帝国を救うものではないとの態度である。」p312

次回は、日本と米国、それぞれの立場から日米開戦への思惑を説明します。
それにより第2話の中條氏曰わく「米は日本を戦争に追い込んだ」真実が見えて来ます。



















20140715

私達の戦争 4: 当事者が振り返る戦争とは 3

 

< 1. 重光葵とチャーチル、1941年 >

今回は、第二次世界大戦期の日本外交で活躍された重光葵氏を紹介します。
彼はこの動乱の時代、非常に興味深い政権の内情と国際状況を手記に残しています。
彼の痛烈な批判は、当時の日本の危うさや間違いを明らかにしています。
数回に分けて、主要な問題点を見ます。

*2

「重光葵 手記」(中央公論、昭和61年刊)より
この手記は文体が古いので、少し意訳して抜粋要約します。

少し難しくなりますが、戦争が起きるべくして起こったと言うより、一つづつの選択ミスの積み重ねであることがお解りいただけると思います。

危ないかな日本の外交(タイトル)
「当時、ドイツの意を受けた日本人の主張は、欧州には断じて戦争は起こらぬ、従って日本の参戦の義務は発生せぬ故に防共協定を三国同盟に拡張して、同盟国と共に利益を得るべきであると主張した。次ぎに又三国同盟は欧州戦争を予防する大なる手段であると主張し、開戦後は同盟なきが故に戦争が起こったと説明し更に、戦争は独伊の圧倒的勝利に帰するから同盟を締結すべし、右は米国が参戦しても形勢には変わりはないと主張するのであった」p88、1939年前半期の情勢

    

説明
日中間では、1931年満州事変、37年日中戦争が始まっていた。
36年、日独伊はソ連に対抗して防共協定を結んだが、さらなる軍事同盟への格上げで日本は意見が分かれていた。
反対派は英仏と米を刺激することを心配した。
しかしドイツは、39年、独ソ不可侵条約を結んだ後、ポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発、40年6月にはパリを占領した。
ヨーロッパ制覇近しと見た日本は乗り遅れまいと三国同盟を9月に締結した。
日本はこの三国同盟を含め、日独伊ソ四国協商、日ソ中立条約を締結し、ソ連を味方に付け、その圧力をもって米にアジア(中国)から手を引かせる目論見であった。
しかし突如、ドイツは41年6月、ソ連に侵攻し、この目論見は崩れた。
結局、時流に乗り遅れまいとしたドイツ盲信が、最も恐れていた英米ソを敵に回すことになった。

    

三国同盟論の誤算(タイトル)
「近衛公は外交側近者の進言をそのまま採用し、これへの深き理解もなくして実行に移した様である。
その政策の基礎は左の点にある様である。
第一、   ドイツはイタリアと共に即戦即決の方式によって間もなく全勝を得る。
第二、   従って英帝国は直ちに滅亡する。
第三、   ソ連はドイツに軽く扱われるので、日本とは接近親和を欲するはず。中国問題においても日本の意に反して援助を継続しないだろう。
第四、   重慶中国は日本の南京工作により、又独伊の勧奨により日本に降参しなくとも少なくとも和議を提唱するに違いない。
第五、   米国は容易に立たず、三国同盟によってむしろ萎縮して孤立主義の勢力は増大し、漸次英国を見放すだろう。」p213、1941年1月11日記

説明
この41年の初頭、ドイツ軍はまだ破竹の勢いで、日本は虎の威を借りて、東南アジアとソ連東部への権益確立(侵攻)をまたもや目論んでいた。
一方で、日本は中国問題で対立し、最も恐れていた米国と和平を模索する交渉を進めていた。
しかし、その日本の交渉態度には、三つの思い込みがあった。
ドイツの世界制覇は近い、米国は高圧的に出ず戦争もしない、さらに不思議なのが日本は大丈夫だと言う安心感のようなものです。
これらが上記の近衛内閣の政策に出ています。
この無知と慢心が、やがて41年の12月7日の真珠湾攻撃につながり、太平洋戦争勃発になった。

次回に続きます。












20140714

私達の戦争 3: 当事者が振り返る戦争とは 2

    

今日は、終戦まで歩兵として北支(北京一帯)で従軍された岡部正美氏の体験を紹介します。

    

「日本、東洋鬼子」(近代文芸社、1998年刊)
上記著作から抜粋要約し、彼の体験や考えをみます。

征途(タイトル)
「『守ってやって下さい、一人息子です。帰してやって下さい』と老女が班長さんと、手を握りしめて、・・ある母親は狂気のように髪を乱し裾が乱れ、・・憲兵に叱られつつも、押しのけて迷い走る姿が目についた。」
これは太平洋戦争開始の1年後、北支に向かって姫路駅を新兵部隊が出征する場面です。

    

弱兵は殺される
「大部隊をもっての攻略がはじまる。・・携帯の弾薬合わせて20数キロの重量に、その疲労は激しく昼夜兼行の行軍にある。・・馬鹿野郎しっかりしろい、と励ましかばいたてに意識朦朧としての落伍に最早かばうことの時間のロスであり、何小隊落伍1名の報告に処分せよの下命に銃殺である。・・路傍に引きよせて、ご苦労じゃった。必ず俺も行く、待っていてくれ。と頭部に銃口して引金の指の震え涙止まらず路傍に逝く。」
行軍は百キロを越えることが多く、落伍者はこうして、その都度、昨日の友や上官らによって始末された。

残虐行為
「ある村に野営とあって、炊事に忙しく豚、鶏、卵と他調味材料に鍋、器と手当たり次第の略奪が賑わう掃討に駆け走る。部落民はいち早く逃避して、・・古兵が『オイ、娘が居たら言うて来いよ。女も探して来い』・・纏足の婆がかばうように、藁の前に立って、手を合わせている。藁の中なら・・可憐な娘二人、・・『エエ奴探したのう。来い』・・『殺したか、やっとけよ』」p174
「『なぜ針金で通してあるのですか』『戦の中で捕らえたり部落で集めて逃げんようにしてあるんじゃ。・・取り調べ済んだらスラスラ(殺すこと)じゃ。首切り初めてじゃろ、見せてもろたろか』『ハイ』」p175
当時、日本は資源・食料を朝鮮半島、台湾、さらに仏印(ベトナムなど)で調達していたが、戦場は現地調達であった。味方でさえ処分されるので捕虜は言うまでもない。

結文
「ありし日の軍政のウソと隠蔽が許されずあきらかな残虐無慈悲の蛮行に中国民の嘆き苦しみ、そして戦慄と死活に耐えたいろいろと、その真を・・一つでも認識していただいて二度と起こすな戦争、更に独裁政治を行わせしめるな、・・」

これが彼の体験した戦争であり、ささやかな願いでした。

彼と著作について
彼は尋常高等小学校高等科を卒業の7年後、徴集され、太平洋戦争と同時期、日中戦争を戦った。
彼は歩兵部隊の軍曹で、戦いながら兵士の教育係も担当しており、軍人として優秀だったようです。
復員後、裁判所に定年まで勤務した。

彼は79歳でこの本を出版しているが、自費出版だったのではないか。
この歳で出版に踏み切られたのは、これが最後だとの想いがあったからでしょう。
戦地に行った多くの人は、復員後、口をつぐんでしまいます。
例え自責の念がよぎっても、仲間や家族への気遣いがそうさせます。

残念ながら、amazon.co.jpで見た分には、この本は人気が無いようです。
文章は長文で古い文体や単語が多く読みづらい。
しかし、真実を伝えたい、遺しておきたい彼の熱意が伝わって来ます。

不思議なこと
ほぼ同時代を生きた、前回の中条さんと岡部さんの両著作の人気と考え方の違いは何を意味するのだろうか。









20140713

私達の戦争 2: 当事者が振り返る戦争とは 1

 
    

これから数回にわたり、第二次世界大戦に参加した人が、日本の戦争をどのように見ているかを紹介します。
今回は、陸軍士官学校在学中に敗戦になり、後に企業で成功された中条高徳氏の意見を紹介します。

「おじいちゃん戦争のことを教えて」(小学館、2002年刊)より
上記著作から抜粋要約し、彼の考えを見て行きます。

戦争の本質について(Ⅲ章タイトル)
「あってはならない戦争を、日本とアメリカはやったのだ。その責任は日本とアメリカ双方にある。日本は中国大陸に戦線を拡大して誤った。アメリカは日本を戦争以外の選択肢がないところに追い込んで誤った。双方がそういう過ちを犯したのだということをきちんと認識しなければならない」p109

国益の視点に立つ(タイトル)
「国益最優先が行動原理となるのは当然なのだ。・・だから、二つの国の利益が相反したとき、一方にとっては正義でも、その正義は相手にとっては正義ではない、・・」p113

戦争以外に選択の余地はなかった(タイトル)
「日本は追いつめられた。・・ハル国務長官(ハル・ノート)が示した対日要求は呑めるものではない。呑めばこちらは丸裸になって、・・」p125
「日本の選択肢はそんなになかったと私も思う。屈服してアメリカのいうがままになるか、戦って一矢を報いるか。・・とすれば戦う以外にはないではないか。」

これが彼の考える「日米開戦の正当性」です。
つまり、双方に非があり、なるべくしてなったとしている。
おそらく、これは愛国心を痛めず、心地良く受け入れ易い説でしょう。
この歴史認識が正しいかは、他の当事者の意見を検証していくうちに判明します。

ここでは彼の生き方と考え方を見ておきます。
彼は戦時中、士官学校に学んでいます。
その理由を、世界は帝国主義全盛で日本は富国強兵で成功しており、成績優秀であれば軍人としてお国の為に尽くすのが、当時の風潮だったからとしています。
敗戦後、アサヒビールに入社し、成功し、最後は名誉顧問に就任している。
現在、保守系政治団体の代表委員の一人として「日本民族の誇りと公の精神」等の講演や著述活動を勢力的に行っている。

結局、彼は大和魂に憧れ、軍人精神をたたき込まれたが、戦地に行くことはなかった。
この著書は、文章が平易で読みやすく、論旨が明快で、要点が繰り返され、情緒的に訴えるうまさがある。
彼の印象は、熱血漢、行動する人らしくシンプルで、迷いは微塵もない。
「・・神道は宗教ではないからである。・・それは日本の心だ、・・」p224
「日本の精神が失われたとき、天皇は存在し得なくなる」p223
彼の根底にあるのは、「愛すべき、守るべき古き良き国風、神聖にして犯すべからざる日本」でしょうか。

少し考えてみましょう
地震によって家屋が大きく倒壊したとしましょう。
一人は、地震に善悪など無い、これはなるべくしてなったものだと見なし、直ちに復興を始めました。
もう一人は、彼の選んだ立地と家屋強度に問題があったとし、家屋強度を上げるだけの現実的な判断をして再建を始めました。

通常、後者の態度が多くの災厄や失敗から学び、無難だと言えます。
しかし、ひとたび愛国心や郷土愛が介在すると、事はすんなりと行かないようです。





20140712

私達の戦争 1: 私達に託されたもの


< 1. 荒れ泡立つ空間 >

未来は、今、私達が選んだ道の向こうにあります、自ら下した決断ではなくても・・。
多くの歴史は一つ一つの選択の積み重ねが重大であったことを物語っています。
今、私達は何をしてはならないのか? 何をすべきか? 
判断する上で、欠かせない重要事項を一緒に見ていきます。

はじめに
最近とみに、ブログや会話の中で、幾つかの言葉をよく見聞するようになりました。
「攻めてきたら、防ぎようがない。」
「あいつらと話し合うことなど出来るはずがない」
「その国は、もうすぐ消えてしまう。」
「歴史など所詮、過ぎ去ったこと。」
「自虐史観はマイナス思考だ。」

これらの発言は一部の人のものかもしれませんが、重要でもあります。
いつの世にも、このような感情のうねりはあります。
これは人間心理の一面、あるいは片面をさらけ出しているからです。
そこには絶望や拒否感、焦りが滲み出ています。
その本質は変化への不安と他者への不安と言えます。

私達は、時折、色々な不安に襲われることがあります。
出来れば悪いことは起こらず、良いことだけが続いて欲しいものです。
私達は日々の暮らしにおいて、将来起きる事に不安を感じると、どうするでしょうか?

例えば1年後に、人生を左右するかもしれない受験が控えているとします。
一部の人は、不安に耐えきれず受験を諦めるか、受験が無い道を選ぶかもしれません。
そのような拒否の選択も有りです。
しかし多くは、それを受け入れ、過去の試験の傾向を調べ、試験対策を始め、受験に望むことでしょう。

何が大事なのか?
一つ言えることは、不安から逃げず、少しでも対策を講じることです。
もしその不安が的中すれば大きな災厄をもたらす時は、特にそうです。
しかし、事はそう簡単ではありません。
なぜならその不安の正体、起きるであろう災厄、その対策、総べてが不明瞭だからです。

今回の連載で明らかにしたいこと
私達、日本人が未来の平和を模索するに上で重要な戦争の要素を見ていきます。
例えば、軍隊と平和、防御と攻撃、抑止力、銃社会、軍事同盟などについて語ります。
それらの基本的な論点を少し知った後、日本や東アジア、世界の現状と未来を見ます。
その上で、今私達が採るべき日本の最適な戦略とは何かを考えます。

あとがき
申し訳ありませんが、この連載を優先させますので、他の連載や記事を少し中断することになります。







20140710

Go around the world of Buddha statues 20:  The mystery hidden in Buddha statue



Left: the Great Buddha of Nara. Right: Buddha statue of Mathura 

< 1. Left: the Great Buddha of Nara. Right: Buddha statue of Mathura >

The mystery is a certain image expression that Buddha statue had already possessed at the occasion of this birth.
It is continuously inherited to the Japanese Buddha statue also.

This time, I pursue the origin moreover.

Halo and Abhaya Mudrā
Thing being common in both the Buddha statues of Fig. 1 is expression the form of seated posture, Abhaya Mudrā, and a halo.
From the start of Buddha statue birth in Gandhara, these three expression forms had emerged in the relief engraving that all kinds of life of Buddha was depicted with.
The seated posture derives from yoga (seated concentration).
This seated posture had already appeared in the Indus civilization before Aryan migrated, so its culture was peculiar to India.
The halo or the aureola is something like a disk or a ring attaching to the back of Buddha statues, and symbolizes emission of the light.
The Abhaya Mudrā is usually made with the right hand raised to shoulder height, the arm bent and the palm facing outward with the fingers upright.
In Buddhism, this kind of expression means that Buddha gets rid of fear and uneasiness from people.
However, the India culture before it did not have these two expression forms.

謎とは仏像が誕生した時、既に備わっていた図像表現です。
それは日本の仏像にも脈々と受け継がれています。
今回は、その起源をさらに追います。

光背と施無畏印(せむいいん)
図1の両仏像に共通しているのは座る姿勢と光背、施無畏印の表現です。
この三つの表現は、仏像誕生の最初期から、ガンダーラの仏伝の浮き彫りにも現れていました。
座る姿勢はヨーガ(座禅)に由来するものです。
この座る姿勢は、アーリア人の移住前のインダス文明に既に現れており、インド固有のものでした。
光背とは背後の円盤状のもので、光りの放射を象徴しています。
施無畏印とは右手を肩の高さまで上げ、手のひらを外に向けている表現です。
仏教において、この手の表現は仏が人々から恐れや不安を取り除くことを意味しています。
しかし、この二つの表現はそれ以前のインド文化にはありませんでした。


 left: a cylinder seal in Mesopotamia in about the 23rd century B.C.  right: Code of Hammurabi in the 18th century B.C.

< 2.  left: a cylinder seal in Mesopotamia in about the 23rd century B.C.  right: Code of Hammurabi in the 18th century B.C.
 
How was the halo born?
"Sun god Shamash radiates rays from the shoulder and appears with the figure that holds a thing like a saw in the hand".
This is a passage in the myth of Assyria Babylonia.
Shamash in Mesopotamia's God controls justice or four seasons and influences the outcome of war.
Figure 2 show Shamash God both.
In right fig., the God is conferring Code of Hammurab to the king.
We can see each shoulder emits some rays.

光背は如何にして生まれたのか?
「太陽神シャマシュは、肩から光線を放ち、手に鋸の歯に似たものを持つ姿で現れる。」
これはアッシリア・バビロニアの神話の一節です。
シャマシュはメソポタミアの正義、四季を司り、戦争を決する神です。
図2は共にシャマシュ神を示し、右図では神が左のハムラビ王に法典を授与している。
それぞれの肩から数本の光線が放たれているのが見える。


Mithra God

< 3.  Mithra God
Left fig.:  Mithra on the right is meeting Syria king Antiochus 1, at the first century B.C. in Mt. Nemrut of Turkey.
Right fig.:  Mithra on the left sanctifies the investiture of Sassanid emperor Ardashir, at the 3rd century in Taq Bostan(neighboring ruins of Bisotun) of Iran.
From heads of both Mithra, emission rays spread in a circle.
Mithra was a sun god that was shared by the earliest Aryan (Indo-Iranian), and described in Hindu scripture of India, and Zoroastrian Scripture of Iran.
This Mithra spread to Rome at the end of the first century A.D., and the iconography expression took root in the empire.

左図: 右のミトラ神がシリア王アンティオコス1世と会見。前1世紀、
右図: 左端のミトラ神がササン朝ペルシャの初代王を叙任する。3世紀、ベヒストゥンの近郊、Taq Bostan in Iran.
両ミトラ神の頭からは、放射光線が円形に広がっている。
ミトラ神は最古層のアーリア人(インド・イラン人)が共有していた太陽神で、インドのヒンドゥー経典とイランのゾロアスター教典に出てくる。
このミトラ神は1世紀後半にローマに伝わり、その図像表現が帝国に定着することになった。

How was the Abhaya Mudrā born?
施無畏印は如何にして生まれたのか?

a form of the ancient oath

< 4.  a form of the ancient oath >

Left fig.:  The Behistun Inscription of Darius 1 who administers an oath to the chief deity of Zoroastrianism in the air, at about the 5th century B.C. in Bisotun of Iran.
Right fig.:  A noble female statue of fortified city Hatra. Hatra in Iraq were an important trading city of Parthia kingdom that nomad of Iran created after the first century B.C.

Forms of such an oath are seen in relief engravings of Assyria and Persia well.
Hammurabi of Fig. 2 also raises his right hand and takes an oath to God.

左図: ダレイオス1世のベヒストゥン碑文、王が天空のゾロアスターの最高神に宣誓している。前5世紀頃、Bisotun in Iran.
右図: 要塞都市ハトラの高貴な女性像、ハトラはイランの遊牧民が興したパルティア王国の重要な交易都市だった。前1世紀以降、イラク。

このような宣誓の形式はアッシリアやペルシャの浮き彫りにもよく見られる。
図2のハムラビ王も右手を上げて神に宣誓している。


Summary

Halo and Abhaya Mudrā were the Mesopotamia origin both.
The halo seemed to symbolize the sun having overwhelming power.
This started in Mesopotamia God, was inherited by Mithra being the oldest god of Indo-Iranian, and was adopted to Indian Buddha statue
Originally, Abhaya Mudrā was a form that a king administered an oath to God.
This was inherited by Parthia kingdom from Mesopotamia, and was assimilated as the form that Buddha promised for the people in India.


まとめ
光背も施無畏印もメソポタミア起源だった。
光背は圧倒的な威力を誇る太陽を象徴したらしい。
これがメソポタミアの神から、インド・イラン人の最古層のミトラ神に受け継がれ、やがてインドの仏像に取り入れられた。
本来、施無畏印は目下の者、王が神に、臣下が王に誓約する形式だった。
それがメソポタミアからパルティアに受け継がれ、インドでは仏が民衆に約束する形として取り入れられた。
さらに不思議なことに、アフリカで自然に暮らすチンパンジーは、若い雄が大人の雄に対して右手を水平に上げて挨拶をする。
これは服従していることを示す。


this map shows some ruins and main kingdoms

< 5.  this map shows some ruins and main kingdoms >

Pink frame: a domain of Achaemenid Empire Persia (the 6th - 4th century B.C.).
Brown frame: a domain of Parthia kingdom (the 3rd century B.C. - the 3rd century A.D.).
Dark blue frame: a domain of Greco Bactria kingdom (the 3rd - the first century B.C.).

Indian Indus basin and Afghanistan was a place that India culture, nomad’s culture of Central Asia, and west culture of Iran or Greece mixed between the second millennium B.C. and the first millennium A.D.
This significantly influenced Buddha statue birth of India .

ピンク枠: アケメネス朝ペルシャ(前6~前4世紀)の領域。
茶色枠: パルティア王国(前3世紀~後3世紀)の領域。
紺色枠: グレコ・バクトリア王国(前3世紀~前1世紀)の領域。

インドのインダス川流域とアフガニスタンは、前2千年紀から後1千年紀にかけて、西方文化(イラン、ギリシャなど)と中央アジアの騎馬民族の文化がインド文化と混じり合う所でした。
このことがインドの仏像誕生に大きな影響を与えた。

Subsequent deployment

The halo was not the form that was adopted in Buddha statue of India only.
Probably, in the prairie or the desert area, it was a symbol common to human beings.

その後の展開
光背はインドの仏像だけが取り入れたものではなかった。
おそらく草原や砂漠地帯において人類共通の象徴だったのでしょう。


symbols of sun 

< 6.  symbols of sun >

Fig. 1:  Re of Egypt being sun god puts the sun on the head.
Fig. 2:  A gold coin of Ptolemy 3rd in the 3rd century B.C. in Egypt. Emission rays come out from the king’s head.
Fig. 3:  Halo of Apollo God, the 2nd century, Tunisia.
Fig. 4:  a picture of Islam. It is halo such as flame at the back of the saints.

This iconography that was expressed by solar beam, flame, and disk was used also for God and the Saint of Hinduism or Christianity.
The form of an oath that became the Abhaya Mudrā is remaining as a judiciary oath to raise the right hand now.

図1: エジプトの太陽神ラーは頭上に太陽を乗せている。
図2: プトレマイオス王3世の金貨、前3世紀、エジプト。王の頭から光りが出ている。
図3: アポロ神の光輪、2世紀、チュニジア。
図4: イスラム教の絵。聖人の背に炎のような光背。

この太陽光線や炎、円盤で表現される図像はヒンドゥー教やキリスト教の神や聖人にも使用されるようになった。
施無畏印になった宣誓の形は、左手を聖書に載せ、右手を挙げる裁判の宣誓として、今に残っている。