< 1. 重光葵とチャーチル、1941年 >
今回は、第二次世界大戦期の日本外交で活躍された重光葵氏を紹介します。
彼はこの動乱の時代、非常に興味深い政権の内情と国際状況を手記に残しています。
彼の痛烈な批判は、当時の日本の危うさや間違いを明らかにしています。
数回に分けて、主要な問題点を見ます。
*2
「重光葵 手記」(中央公論、昭和61年刊)より
この手記は文体が古いので、少し意訳して抜粋要約します。
少し難しくなりますが、戦争が起きるべくして起こったと言うより、一つづつの選択ミスの積み重ねであることがお解りいただけると思います。
危ないかな日本の外交(タイトル)
「当時、ドイツの意を受けた日本人の主張は、欧州には断じて戦争は起こらぬ、従って日本の参戦の義務は発生せぬ故に防共協定を三国同盟に拡張して、同盟国と共に利益を得るべきであると主張した。次ぎに又三国同盟は欧州戦争を予防する大なる手段であると主張し、開戦後は同盟なきが故に戦争が起こったと説明し更に、戦争は独伊の圧倒的勝利に帰するから同盟を締結すべし、右は米国が参戦しても形勢には変わりはないと主張するのであった」p88、1939年前半期の情勢
* 3
説明
日中間では、1931年満州事変、37年日中戦争が始まっていた。
36年、日独伊はソ連に対抗して防共協定を結んだが、さらなる軍事同盟への格上げで日本は意見が分かれていた。
反対派は英仏と米を刺激することを心配した。
しかしドイツは、39年、独ソ不可侵条約を結んだ後、ポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発、40年6月にはパリを占領した。
ヨーロッパ制覇近しと見た日本は乗り遅れまいと三国同盟を9月に締結した。
日本はこの三国同盟を含め、日独伊ソ四国協商、日ソ中立条約を締結し、ソ連を味方に付け、その圧力をもって米にアジア(中国)から手を引かせる目論見であった。
しかし突如、ドイツは41年6月、ソ連に侵攻し、この目論見は崩れた。
結局、時流に乗り遅れまいとしたドイツ盲信が、最も恐れていた英米ソを敵に回すことになった。
* 4
三国同盟論の誤算(タイトル)
「近衛公は外交側近者の進言をそのまま採用し、これへの深き理解もなくして実行に移した様である。
その政策の基礎は左の点にある様である。
第一、 ドイツはイタリアと共に即戦即決の方式によって間もなく全勝を得る。
第二、 従って英帝国は直ちに滅亡する。
第三、 ソ連はドイツに軽く扱われるので、日本とは接近親和を欲するはず。中国問題においても日本の意に反して援助を継続しないだろう。
第四、 重慶中国は日本の南京工作により、又独伊の勧奨により日本に降参しなくとも少なくとも和議を提唱するに違いない。
第五、 米国は容易に立たず、三国同盟によってむしろ萎縮して孤立主義の勢力は増大し、漸次英国を見放すだろう。」p213、1941年1月11日記
説明
この41年の初頭、ドイツ軍はまだ破竹の勢いで、日本は虎の威を借りて、東南アジアとソ連東部への権益確立(侵攻)をまたもや目論んでいた。
一方で、日本は中国問題で対立し、最も恐れていた米国と和平を模索する交渉を進めていた。
しかし、その日本の交渉態度には、三つの思い込みがあった。
ドイツの世界制覇は近い、米国は高圧的に出ず戦争もしない、さらに不思議なのが日本は大丈夫だと言う安心感のようなものです。
これらが上記の近衛内閣の政策に出ています。
この無知と慢心が、やがて41年の12月7日の真珠湾攻撃につながり、太平洋戦争勃発になった。
次回に続きます。
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