< 1. 大政翼賛会 >
今回も前回に続いて、太平洋戦争勃発前夜、日本を牽引した近衛公の振る舞いを重光氏の手記から見ます。
日本の行くべき途(タイトル)
「近衛内閣は『スローガン』内閣であり、戦線拡大主義者であり、酷評すれば百鬼昼行の政府である。その第一内閣は陸軍を押して遂に支那事変を惹起して今日の乱脈の原因を起こした。近衛第二次内閣は支那問題を太平洋全面に拡大してここに日本の前途を暗黒に導きつつある。先には日満支新秩序なる『スローガン』を振り回し、今日は新体制を高調して居る。・・特に極論派の強要には何でも応じてもって世論を容れ難物を操縦し得たと感じ、これが最も成功したる政治と心得ているが如くである。」p135、1940年夏
< 2. 三国同盟 >
第三次近衛内閣の崩壊
「第三次近衛内閣は、三国同盟締結後の我が国際関係の混乱を日米交渉成立によって救済すべき重大使命を帯びていたと同時に、絶好の機会を握った内閣であった。
・・単に松岡君を追い出してその後に海軍を据えたぐらいでは到底やり切れるはずがない。近衛公は内閣において陸海軍のバランスをとって、外交は日米交渉成立を陸軍よりも熱望する海軍を利用して、実は自らやって行くことにした点は、バランスをとっていく公家式の考え方で極めて浅薄であった。」p297
説明
1937年、近衛は期待され、軍部が主導権を握り混迷する政局にあって第一次近衛内閣を率いた。
独走する陸軍、慎重な海軍、独伊か英米かで割れる中で唱えたスローガンは「国内各論の融和」であった。
しかし結局、陸軍に振り回され日中戦争、ノモンハン事件(ソ連との軍事衝突)へと深入りした後、総辞職する。
< 3. 大東亜共栄圏の双六、戦前 >
1940年、1年半の平沼内閣の後を受け、第二次近衛内閣をスタートさせた。
この時のスローガンは「皇道の大精神に則りまず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立」であった。
彼は国民一丸を目指し、全政党を解体し大政翼賛会一本にまとめ、政党政治と民主主義を無にした。
一方、松岡外相が裏切られることになったドイツによるポーランド侵攻とソ連侵攻、さら陸軍と共に唱える対ソ戦準備、日米交渉の非協力態度(外されたことにすねる)に、近衛は松岡を切る。
かくして41年7月、続いて第三次内閣をスタートさせた。
形では日米交渉を継続していたが、日米共に決戦の腹をほぼ決めていた。
暗号解読で日本政府の言動は米に筒抜けだったが、日本は外交組織を破壊し、米や世界の情報をまともに掴むことが出来なかった。
こうして独り相撲の形で、自ら火の中に、蛮勇をもって飛び込んだ。
近衛公は筆頭摂関家に生まれ、25歳で世襲により貴族議員となり、類希な血筋、貴公子然の風貌、革新的な言論で、大衆の人気を集め首相として期待された。
しかし彼の政権運営は、生来の気弱さが災いし、軍部に流されるだけに終始した。
< 4. 御前会議 >
だが彼一人が悪いわけではない、当時、軍部の独走を防ぐ手立てがなかったと言える。
それは当時の憲法に、軍権は天皇に、政権は内閣にと謳われていたが、軍事費が国家予算の半分を越えるに至っては、その分離は無意味だった。
そこで、国の重大方針は内閣と軍部首脳による天皇臨席の御前会議で行われるようになった。
それは天皇が反対をしないので、軍権に関わる政府議案としてすんなり通すことが出来たからでした。
次回より、当時、軍事作戦を担った複数の参謀の回顧録を見ます。
そこからは対照的な能吏が見せる軍中枢の惨状が浮かび上がって来ます。
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