20140716

私達の戦争 5: 当事者が振り返る戦争とは 4

 

< 1. 真珠湾攻撃 >

はじめに
私が考える、日本が太平洋戦争に至る過程での問題点をあげます。

A.      なぜ戦線を拡大させていったのか? 日清、日露、満州、日中、仏印、太平洋へ
B.      なぜ危険な三国同盟を結んだのか?
C.      なぜ国力・兵力が10倍以上勝る米国に戦いを挑んだのか?
D.      なぜ統治者・官吏達(外交官、参謀)は正常な情勢判断が出来なかったのか?
E.      なぜ自他に対して残虐になったのか?

既にBは4話で、Eの実態は3話で、他は続いて要点だけ考察します。
重要なことは、これらの問題は国民がそのメカニズムを理解し、原因を是正しない限り、再発の可能性が高いということです。


太平洋戦争開始の直近の経緯
1939年: 9月、ドイツ侵攻で第二次世界大戦開始。
1940年: 9月、日本が北部仏印進駐、日独伊三国同盟締結。
1941年: 6月、独がソ連侵攻。7月、米が日本資産凍結、日本が南部仏印進駐。8月、米が対日石油輸出停止。11月、米がハルノート提示。12月8日、日本が真珠湾攻撃。

日米の動きを「重光葵 手記」から見ます



< 2. ルーズベルト大統領 >

英米の重圧(タイトル)
「三国同盟論者の他の誤算は米国の態度である。米国は1940年、11月の総選挙によって孤立論者は惨敗して、全面的英国援助論が党派の如何を問わず勝利した。ルーズベルト大統領は当選後全力を上げて被侵略国の英、中、ギリシャ等の諸国に対して留保無き如何なる形の援助をも提供する方針を決した。これが為に、枢軸三国(日独伊)から宣戦布告を受けても意に介さないと決心したのである。このために、・・・、枢軸三国との抗争を最後までやろうと言うのである。」p222



< 3. 近衛文麿 >

第三次近衛内閣の崩壊
「(在外日本資産)凍結令の実行によってジリ貧説が台頭して来た。このままにしていれば敗戦国と同様になるから、力のある内に戦争しなければならぬ、石油は力で取りに行かねばならぬと言う主張が有力になった。まるで子供の議論である。しかし近衛内閣は日米交渉最中(1941年)96日に、もし交渉が十月上旬にまとまらなければ戦争を開始すると御前会議に通した。このような交渉が期限付きで出来るはずがない。
一方で平和交渉を行いながら、他方戦争準備を進める。相手方(米国)はそれが平和の為か、戦争の為か分からぬ。恐らく戦争手段に訴える前提としか受け取ることが出来ぬ。ましてや日中戦争以来、同様の手段で既成事実を作られており、(日本の)新聞世論の激しい調子から見て、また例のドイツ流の手ではないかと直感するのも無理ではない。
     ・・ここにおいて交渉は益々困難となる。」p298


 

< 4. 東條英機 >

日米交渉
「東条内閣(19411018日~)は初めより喧嘩内閣であって、外務大臣まで(日米)交渉に熱意を示さずして終始挑発言動に出ている。今後の方向はおのずから明らかである。その態度は、開戦の準備は出来ている、長期戦に打ち勝つ計算は出来ている、平和は必ずしも帝国を救うものではないとの態度である。」p312

次回は、日本と米国、それぞれの立場から日米開戦への思惑を説明します。
それにより第2話の中條氏曰わく「米は日本を戦争に追い込んだ」真実が見えて来ます。



















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