20140727

私達の戦争 14: 他国から見た日本の戦争とは 3

 

< 1. 蒙古襲来 >

今日は、韓国の教科書から日本の統治時代を紹介します。


< 2. 今はなき朝鮮総督府 >

韓国(高等学校用歴史教科書、1990年版)より
兵站基地化政策(タイトル)
「日帝の経済的収奪は、1930年代に入って新しい段階に移った。日帝は産米増殖計画が難しくなると、工業原料増産政策へと方針を転換し、綿花の栽培と綿羊の飼育を試みるいわゆる南綿北羊政策をたてて、我が国の農村に強要した。その後、日帝は大陸侵略を画策しながら、韓半島を日本の兵站基地にしょうと試みた。その結果、発電所が建設され、軍需工場が建てられ、鉱山が開発され、重化学工業が育成された。しかし、これらはすべて日帝の戦争遂行のためのものであり、韓半島の経済を植民地経済体制に、より徹底して組み込むためのものであった。」


< 3. 日本統治時代に建てられた近代的な建物 >

説明
この時期は、日本が1931年満州事変を起こし、満州から中国に深入りしていくのと呼応している。
日本の統治時代、確かに莫大な資金投入と新規制度導入によって、朝鮮半島の経済と文化水準は上昇した。
一方で、上記の状況は日本軍が侵攻した国々ではよく似たものであり、特に朝鮮半島では酷かった。

「台湾統治はよく感謝されているのに、なぜ朝鮮半島では日本の莫大な投資や近代化政策に恨みを持つのか」といぶかる日本人も多いのではないでしょうか。

誤解を招いた要因を箇条書きにします。
1.       日本統治以前(1895年以前)の台湾は中国の圧政に苦しんでいた。
2.       日本統治以前の台湾は文化・教育・産業共に非常に遅れていた。
3.       朝鮮半島には長い歴史と伝統文化が根付いていた。
4.       朝鮮半島は大陸への橋頭堡、防波堤のようなもので、兵站基地としても圧倒的に重要でした。

遅れていた台湾で行われた産業振興策(灌漑工事、工場進出)は飛躍的な効果をもたらし、その後の収奪によっても恩恵は残った。
また近代化(創氏改名、日本化など)も、教育や社会制度導入で台湾は恩恵を受けたが、朝鮮半島では伝統を侮蔑されることになった。
しかしこのこと以上に、第4項が日本の支配を苛烈なものにし、よって両国の反応の差となって現れた。

台湾の人々が全面的に日本に感謝しているわけではないことは、前回の教科書の記述でも判ります。
例えば忠烈祠に並ぶ遺影の奥に、日本軍が侵攻したおり、台南で戦った戦士達の遺影がひっそりと祭られている。


< 4. 水豊ダム: 統治時代に日本企業が資金を負担し建設 >

土地の略奪(タイトル)
「このことによってわが農民は、土地所有に必要な複雑な書類をそろえ、期限付き申告制の煩雑な手続きを終えなければ、所有権を認められなかった。したがって、・・機会を逃した韓国人の農地や公共機関の土地はほとんどすべて朝鮮総督府の所有になった。土地調査事業によって不法に奪われた土地は、全農地40%に達した。朝鮮総督府は、この土地を東洋拓殖会社などに移して、韓国に移住してきた日本人に安く払い下げた。
・・土地調査事業以後多くの農民は、地主に有利な期限付き契約による小作農に転落していった。そして生活基盤が弱くなった彼らは、日本人の高利貸しに苦しみ、生活維持の為に火田民(焼畑耕作)となったり、満州や沿海州(シベリア東南部)へと移住していった。」

説明
これは1912~1918年の日本による事業で、代表的な経済搾取の例を示している。
この事業によって水田の65%が小作地となり、農民の77%が小作農・自小作農になった。
これが1930年以降、餓死者が出ても朝鮮から日本への米輸出高50%を可能にした一因となった。

まとめ
この教科書には日本の収奪と圧政への批判、民族独立への熱き思いがるる記されている。
大事なことは、見えない、また見たくない事が隣国には起きていたこと、さらに私達は誤解し納得し易い傾向にあることを知っていただきたいことです。
どうしても細かな事件の正誤に捕らわれ易いのですが、大局を見れば、自ずと見えて来ます。

気づきにくい朝鮮半島の悲劇の一つは、日本軍に徴用され共に連合軍と戦った人々と独立を目指して連合軍に加わった人々がいたことです。
前者は多数であり、日本の侵略に手を貸したものであり敗戦国の一員となりました。
元寇の折、対馬や福岡を攻めたのは高麗軍を配下にした蒙古軍でした。
かくも悲劇を繰り返して来たのです。

次回は、中国について見ます。












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