20140714

私達の戦争 3: 当事者が振り返る戦争とは 2

    

今日は、終戦まで歩兵として北支(北京一帯)で従軍された岡部正美氏の体験を紹介します。

    

「日本、東洋鬼子」(近代文芸社、1998年刊)
上記著作から抜粋要約し、彼の体験や考えをみます。

征途(タイトル)
「『守ってやって下さい、一人息子です。帰してやって下さい』と老女が班長さんと、手を握りしめて、・・ある母親は狂気のように髪を乱し裾が乱れ、・・憲兵に叱られつつも、押しのけて迷い走る姿が目についた。」
これは太平洋戦争開始の1年後、北支に向かって姫路駅を新兵部隊が出征する場面です。

    

弱兵は殺される
「大部隊をもっての攻略がはじまる。・・携帯の弾薬合わせて20数キロの重量に、その疲労は激しく昼夜兼行の行軍にある。・・馬鹿野郎しっかりしろい、と励ましかばいたてに意識朦朧としての落伍に最早かばうことの時間のロスであり、何小隊落伍1名の報告に処分せよの下命に銃殺である。・・路傍に引きよせて、ご苦労じゃった。必ず俺も行く、待っていてくれ。と頭部に銃口して引金の指の震え涙止まらず路傍に逝く。」
行軍は百キロを越えることが多く、落伍者はこうして、その都度、昨日の友や上官らによって始末された。

残虐行為
「ある村に野営とあって、炊事に忙しく豚、鶏、卵と他調味材料に鍋、器と手当たり次第の略奪が賑わう掃討に駆け走る。部落民はいち早く逃避して、・・古兵が『オイ、娘が居たら言うて来いよ。女も探して来い』・・纏足の婆がかばうように、藁の前に立って、手を合わせている。藁の中なら・・可憐な娘二人、・・『エエ奴探したのう。来い』・・『殺したか、やっとけよ』」p174
「『なぜ針金で通してあるのですか』『戦の中で捕らえたり部落で集めて逃げんようにしてあるんじゃ。・・取り調べ済んだらスラスラ(殺すこと)じゃ。首切り初めてじゃろ、見せてもろたろか』『ハイ』」p175
当時、日本は資源・食料を朝鮮半島、台湾、さらに仏印(ベトナムなど)で調達していたが、戦場は現地調達であった。味方でさえ処分されるので捕虜は言うまでもない。

結文
「ありし日の軍政のウソと隠蔽が許されずあきらかな残虐無慈悲の蛮行に中国民の嘆き苦しみ、そして戦慄と死活に耐えたいろいろと、その真を・・一つでも認識していただいて二度と起こすな戦争、更に独裁政治を行わせしめるな、・・」

これが彼の体験した戦争であり、ささやかな願いでした。

彼と著作について
彼は尋常高等小学校高等科を卒業の7年後、徴集され、太平洋戦争と同時期、日中戦争を戦った。
彼は歩兵部隊の軍曹で、戦いながら兵士の教育係も担当しており、軍人として優秀だったようです。
復員後、裁判所に定年まで勤務した。

彼は79歳でこの本を出版しているが、自費出版だったのではないか。
この歳で出版に踏み切られたのは、これが最後だとの想いがあったからでしょう。
戦地に行った多くの人は、復員後、口をつぐんでしまいます。
例え自責の念がよぎっても、仲間や家族への気遣いがそうさせます。

残念ながら、amazon.co.jpで見た分には、この本は人気が無いようです。
文章は長文で古い文体や単語が多く読みづらい。
しかし、真実を伝えたい、遺しておきたい彼の熱意が伝わって来ます。

不思議なこと
ほぼ同時代を生きた、前回の中条さんと岡部さんの両著作の人気と考え方の違いは何を意味するのだろうか。









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