< 1. 著書 >
前回、エリート参謀が軍上層の意向に沿い、脇目も振らず邁進する姿を見ました。
しかし、今回紹介する堀栄三氏は、同じ参謀でもかなり異なります。
そこからは日本の敗因が見えて来ます。
< 2. 堀栄三 >
堀栄三氏について
彼も陸軍幼年学校、士官学校、騎兵と教官を務め、陸軍大学卒業後、教官勤務。
1943年10月、29歳で大本営陸軍部の情報参謀になり、アメリカ課勤務の後、44年10月から第14方面軍(南方軍)の作戦参謀になる。
終戦後、郷里に帰るが、請われ自衛隊の情報本部を立ち上げ退官後、大学講師、郷里の村長を務めた。
< 3. 台湾沖航空戦の大勝利を伝える >
情報は常に悪戯する(タイトル)
「戦史叢書・・には、『大本営海軍部と連合艦隊は、・・台湾沖航空戦の成果に疑問を生ずるや、・・調査して・・成果を客観的に正確に見ているのは堀参謀のみであるとした』
と記述している(堀が新田原(宮崎県)から打った電報は、・・これが握り潰されたと判明するのは戦後・・。大本営陸軍部の中のある一部に、今もって誰も覗いていない密室のような奥の院があったやに想像される)。」p188
説明
彼はこの本で「私」と書かず「堀」と書いている。
この文には二つの大きな意味がある。
一つは、後半の( )内に書かれている事実です。
彼は台湾沖航空戦(1944年10月)の戦果報告が誇大であると電信したのだが、握り潰した犯人は「瀬島龍三 参謀の昭和史」(保阪正康著)によると瀬島とされている。
前回記したように、大本営陸軍部において、不都合な真実を伝える電信は握り潰されるのが常態化していた。
瀬島が真犯人かどうかは別にして、情報を無視する参謀と情報を生かす参謀がいたことになる。
もう一つは、堀が誰よりも米軍の戦力把握と戦法を熟知していることを指している。
彼は、太平洋での米軍による航空戦力と艦砲射撃を使った島伝いの飛び石作戦を検討し、その対策を「敵軍戦法早わかり」にまとめ、現地指揮官らに訓育しょうとした。
例えば、彼は解りやすく、島の防衛では消耗を早める銃剣突撃ではなく艦砲射撃に耐える厚み2m以上のコンクリート防御壁こそが重要と説いた。
これ以降、各師団に軍事作戦が説明される時、現地情勢及び相手の戦闘方法の情報についても伝達するように切り替わった。
それまでは大本営は攻略せよか死守せよぐらいしか伝えなかったのだろうか。
残念ながら、「敵軍戦法早わかり」が印刷完了したのは終戦の1年前44年の9月であった。
作戦に先行しなかった情報(タイトル)
「一握りの戦略作定者たちの過失にもかかわらず、一言半句の不平も述べず、戦略の失敗を戦術や戦闘では取り返せないことを承知しつつ、第一戦部隊としての最大限の努力をしながら彼らは散華していったのである。」p157
< 4. ペリリュー島の戦い >
上: 米軍の艦砲射撃と上陸部隊。
下左: 日本兵の捕虜。
下右: 中川連隊長。
説明
これは、堀から「敵軍戦法早わかり」の説明を熱心に聞いた中川連隊長が、強固な陣地を構築しペリリュー島で孤軍奮闘したことを受けて、堀が漏らした感想です。
1944年9月、圧倒的な米軍の兵火を前に守備隊11000名は、最後に55名が万歳突撃を行い、捕虜202名を残し他は戦死、中川連隊長は自害した。
上記の戦略作定者とは、立案・作成を行っていた大本営陸軍部参謀本部作戦課作戦班と考えられ、その中心人物の一人は瀬島であった。
日本軍とは桁違いの米軍諸教令(タイトル)
「この上陸作戦の米軍野外教令一つを読んだだけでも、日本の作戦当事者は、『治にいて乱を忘れ』て、大正十年以来惰眠を貪っていたと言えよう。米軍と日本軍とは実に二十余年の開きがあった。
『軍人には軍事研究という大へんな仕事があったのに、軍中枢部の連中は、権力の椅子を欲しがって政治介入という玩具に夢中になりだした』と・・寺本中将の言葉であった。」
説明
第6話で説明していますが、1920年代以降、日米共に互いを交戦可能国と見なした。
米国は太平洋上の戦闘教義(軍隊の基本的な運用思想)を逐次発展させていった。
一方、日本、特に陸軍は中国戦線、古くは日露戦役の戦闘教義から抜け出すことはなかった。
さらに太平洋戦争が始まっても、大本営は敵の戦略や戦力を正確に掴む努力を放棄し、自ら都合の悪い情報は隠蔽し、結果、自己満足に浸った。
その中にあって、堀は独自に工夫して情報分析と活用の道を切り開いた。
それだけでなく、上官(南方軍司令官)に正確な危険性とその対策を上申した。
次回、堀が指摘する日本軍の敗因から日本の問題点を見ます。
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