20140718

私達の戦争 7: 当事者が振り返る戦争とは 6




< 1. 日本軍が広東方面に上陸 >

今回は、太平洋戦争勃発前夜、日本を牽引した指導者達の振る舞いを重光氏の手記から見ます。


< 2. 軍事クーデターの2・26事件、1936年 >

ああ 支那事変(タイトル)
「満州事変が起こって後、るる陸軍方面の人々から聞かされたことがある。日本は政党の為に、資本主義の為に腐っている、日本精神を取り返す為には国内的革命を必要とする、これが為に満州事変から続いて世界を敵とするような困難を招くことも必要である、と言うのであった。・・・
三年を越す支那事変は軍部の連戦連勝にかかわらず、日本の負担として耐え難いものがある。・・国家はこれでよろしいか。国民は枯れて将軍が群がっている現状は果たして皇道であり、国家をやすらかにするものだろうか。」p167194012

説明
日本は第一次世界大戦での軍需景気、軍部による海外領土拡張と好調が続いた後、経済恐慌に見舞われると国民の不満が高まった。
すると軍人による政府要人暗殺とクーデターが頻発し、1937年以降は軍部が政権を握った。
こうして首相といえども陸軍、海軍の同意なしに政治が動かなくなった。
おうおうにして世の軍人は力でもって突き進むことを是とするようで、やがて太平洋戦争に突き進むことになる。



< 3. 国際連盟脱退時、松岡全権大使が熱弁を振るう >

日本の狂乱
「外務省は外交の転換から世論の声に乗じて、いわゆる外交陣の刷新を断行して上層部五六十人の整理をなして、革新派と称するこれまでの不平組を登用した。外交機関は全世界にわたって破壊されてしまったが、これまでの外交機関は現状維持派であるから不必要であると、公然と当局者は言った。出先の報告等は、三国同盟締結の方針が定まって日本は新体制に乗り出したのであるから不必要であると言われて、電信報告無用の訓令が来た。」p205


< 4. 第二次近衛内閣、松岡外相、東條陸相、吉田海相 >

説明
これは1940年、第二次近衛内閣誕生の目玉になった松岡外相がとった処置でした。
彼は33年の国際連盟脱退、外務大臣として日独伊三国同盟の締結を牽引し、結果、太平洋戦争への道を準備し、去った。
彼は外交官、満鉄理事、国会議員を経て、その人気と豪腕を近衛公に買われ入閣した。
三国同盟締結でドイツ寄りを鮮明にすると、それまでの親英米派の外交官を一掃した。
この時、欠かせない重光や数人の外交官だけは残る事が出来た。
元来、彼は英語がたんのうで世界的な視野を持ち、ヒトラーのドイツを信用していなかったが、軍部との主導権争い、後背の憂いであるソ連重視(日ソ中立条約)、彼の傲慢が災いし、その道は袋小路に入った。
彼も政局の渦に巻き込まれた一人だが、最重要な国際情報を途絶するとは如何にも日本らしい政局の乗り切り方だった。

次回は、最重要な近衛公について見ます。




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