20140713

私達の戦争 2: 当事者が振り返る戦争とは 1

 
    

これから数回にわたり、第二次世界大戦に参加した人が、日本の戦争をどのように見ているかを紹介します。
今回は、陸軍士官学校在学中に敗戦になり、後に企業で成功された中条高徳氏の意見を紹介します。

「おじいちゃん戦争のことを教えて」(小学館、2002年刊)より
上記著作から抜粋要約し、彼の考えを見て行きます。

戦争の本質について(Ⅲ章タイトル)
「あってはならない戦争を、日本とアメリカはやったのだ。その責任は日本とアメリカ双方にある。日本は中国大陸に戦線を拡大して誤った。アメリカは日本を戦争以外の選択肢がないところに追い込んで誤った。双方がそういう過ちを犯したのだということをきちんと認識しなければならない」p109

国益の視点に立つ(タイトル)
「国益最優先が行動原理となるのは当然なのだ。・・だから、二つの国の利益が相反したとき、一方にとっては正義でも、その正義は相手にとっては正義ではない、・・」p113

戦争以外に選択の余地はなかった(タイトル)
「日本は追いつめられた。・・ハル国務長官(ハル・ノート)が示した対日要求は呑めるものではない。呑めばこちらは丸裸になって、・・」p125
「日本の選択肢はそんなになかったと私も思う。屈服してアメリカのいうがままになるか、戦って一矢を報いるか。・・とすれば戦う以外にはないではないか。」

これが彼の考える「日米開戦の正当性」です。
つまり、双方に非があり、なるべくしてなったとしている。
おそらく、これは愛国心を痛めず、心地良く受け入れ易い説でしょう。
この歴史認識が正しいかは、他の当事者の意見を検証していくうちに判明します。

ここでは彼の生き方と考え方を見ておきます。
彼は戦時中、士官学校に学んでいます。
その理由を、世界は帝国主義全盛で日本は富国強兵で成功しており、成績優秀であれば軍人としてお国の為に尽くすのが、当時の風潮だったからとしています。
敗戦後、アサヒビールに入社し、成功し、最後は名誉顧問に就任している。
現在、保守系政治団体の代表委員の一人として「日本民族の誇りと公の精神」等の講演や著述活動を勢力的に行っている。

結局、彼は大和魂に憧れ、軍人精神をたたき込まれたが、戦地に行くことはなかった。
この著書は、文章が平易で読みやすく、論旨が明快で、要点が繰り返され、情緒的に訴えるうまさがある。
彼の印象は、熱血漢、行動する人らしくシンプルで、迷いは微塵もない。
「・・神道は宗教ではないからである。・・それは日本の心だ、・・」p224
「日本の精神が失われたとき、天皇は存在し得なくなる」p223
彼の根底にあるのは、「愛すべき、守るべき古き良き国風、神聖にして犯すべからざる日本」でしょうか。

少し考えてみましょう
地震によって家屋が大きく倒壊したとしましょう。
一人は、地震に善悪など無い、これはなるべくしてなったものだと見なし、直ちに復興を始めました。
もう一人は、彼の選んだ立地と家屋強度に問題があったとし、家屋強度を上げるだけの現実的な判断をして再建を始めました。

通常、後者の態度が多くの災厄や失敗から学び、無難だと言えます。
しかし、ひとたび愛国心や郷土愛が介在すると、事はすんなりと行かないようです。





20140712

私達の戦争 1: 私達に託されたもの


< 1. 荒れ泡立つ空間 >

未来は、今、私達が選んだ道の向こうにあります、自ら下した決断ではなくても・・。
多くの歴史は一つ一つの選択の積み重ねが重大であったことを物語っています。
今、私達は何をしてはならないのか? 何をすべきか? 
判断する上で、欠かせない重要事項を一緒に見ていきます。

はじめに
最近とみに、ブログや会話の中で、幾つかの言葉をよく見聞するようになりました。
「攻めてきたら、防ぎようがない。」
「あいつらと話し合うことなど出来るはずがない」
「その国は、もうすぐ消えてしまう。」
「歴史など所詮、過ぎ去ったこと。」
「自虐史観はマイナス思考だ。」

これらの発言は一部の人のものかもしれませんが、重要でもあります。
いつの世にも、このような感情のうねりはあります。
これは人間心理の一面、あるいは片面をさらけ出しているからです。
そこには絶望や拒否感、焦りが滲み出ています。
その本質は変化への不安と他者への不安と言えます。

私達は、時折、色々な不安に襲われることがあります。
出来れば悪いことは起こらず、良いことだけが続いて欲しいものです。
私達は日々の暮らしにおいて、将来起きる事に不安を感じると、どうするでしょうか?

例えば1年後に、人生を左右するかもしれない受験が控えているとします。
一部の人は、不安に耐えきれず受験を諦めるか、受験が無い道を選ぶかもしれません。
そのような拒否の選択も有りです。
しかし多くは、それを受け入れ、過去の試験の傾向を調べ、試験対策を始め、受験に望むことでしょう。

何が大事なのか?
一つ言えることは、不安から逃げず、少しでも対策を講じることです。
もしその不安が的中すれば大きな災厄をもたらす時は、特にそうです。
しかし、事はそう簡単ではありません。
なぜならその不安の正体、起きるであろう災厄、その対策、総べてが不明瞭だからです。

今回の連載で明らかにしたいこと
私達、日本人が未来の平和を模索するに上で重要な戦争の要素を見ていきます。
例えば、軍隊と平和、防御と攻撃、抑止力、銃社会、軍事同盟などについて語ります。
それらの基本的な論点を少し知った後、日本や東アジア、世界の現状と未来を見ます。
その上で、今私達が採るべき日本の最適な戦略とは何かを考えます。

あとがき
申し訳ありませんが、この連載を優先させますので、他の連載や記事を少し中断することになります。







20140710

Go around the world of Buddha statues 20:  The mystery hidden in Buddha statue



Left: the Great Buddha of Nara. Right: Buddha statue of Mathura 

< 1. Left: the Great Buddha of Nara. Right: Buddha statue of Mathura >

The mystery is a certain image expression that Buddha statue had already possessed at the occasion of this birth.
It is continuously inherited to the Japanese Buddha statue also.

This time, I pursue the origin moreover.

Halo and Abhaya Mudrā
Thing being common in both the Buddha statues of Fig. 1 is expression the form of seated posture, Abhaya Mudrā, and a halo.
From the start of Buddha statue birth in Gandhara, these three expression forms had emerged in the relief engraving that all kinds of life of Buddha was depicted with.
The seated posture derives from yoga (seated concentration).
This seated posture had already appeared in the Indus civilization before Aryan migrated, so its culture was peculiar to India.
The halo or the aureola is something like a disk or a ring attaching to the back of Buddha statues, and symbolizes emission of the light.
The Abhaya Mudrā is usually made with the right hand raised to shoulder height, the arm bent and the palm facing outward with the fingers upright.
In Buddhism, this kind of expression means that Buddha gets rid of fear and uneasiness from people.
However, the India culture before it did not have these two expression forms.

謎とは仏像が誕生した時、既に備わっていた図像表現です。
それは日本の仏像にも脈々と受け継がれています。
今回は、その起源をさらに追います。

光背と施無畏印(せむいいん)
図1の両仏像に共通しているのは座る姿勢と光背、施無畏印の表現です。
この三つの表現は、仏像誕生の最初期から、ガンダーラの仏伝の浮き彫りにも現れていました。
座る姿勢はヨーガ(座禅)に由来するものです。
この座る姿勢は、アーリア人の移住前のインダス文明に既に現れており、インド固有のものでした。
光背とは背後の円盤状のもので、光りの放射を象徴しています。
施無畏印とは右手を肩の高さまで上げ、手のひらを外に向けている表現です。
仏教において、この手の表現は仏が人々から恐れや不安を取り除くことを意味しています。
しかし、この二つの表現はそれ以前のインド文化にはありませんでした。


 left: a cylinder seal in Mesopotamia in about the 23rd century B.C.  right: Code of Hammurabi in the 18th century B.C.

< 2.  left: a cylinder seal in Mesopotamia in about the 23rd century B.C.  right: Code of Hammurabi in the 18th century B.C.
 
How was the halo born?
"Sun god Shamash radiates rays from the shoulder and appears with the figure that holds a thing like a saw in the hand".
This is a passage in the myth of Assyria Babylonia.
Shamash in Mesopotamia's God controls justice or four seasons and influences the outcome of war.
Figure 2 show Shamash God both.
In right fig., the God is conferring Code of Hammurab to the king.
We can see each shoulder emits some rays.

光背は如何にして生まれたのか?
「太陽神シャマシュは、肩から光線を放ち、手に鋸の歯に似たものを持つ姿で現れる。」
これはアッシリア・バビロニアの神話の一節です。
シャマシュはメソポタミアの正義、四季を司り、戦争を決する神です。
図2は共にシャマシュ神を示し、右図では神が左のハムラビ王に法典を授与している。
それぞれの肩から数本の光線が放たれているのが見える。


Mithra God

< 3.  Mithra God
Left fig.:  Mithra on the right is meeting Syria king Antiochus 1, at the first century B.C. in Mt. Nemrut of Turkey.
Right fig.:  Mithra on the left sanctifies the investiture of Sassanid emperor Ardashir, at the 3rd century in Taq Bostan(neighboring ruins of Bisotun) of Iran.
From heads of both Mithra, emission rays spread in a circle.
Mithra was a sun god that was shared by the earliest Aryan (Indo-Iranian), and described in Hindu scripture of India, and Zoroastrian Scripture of Iran.
This Mithra spread to Rome at the end of the first century A.D., and the iconography expression took root in the empire.

左図: 右のミトラ神がシリア王アンティオコス1世と会見。前1世紀、
右図: 左端のミトラ神がササン朝ペルシャの初代王を叙任する。3世紀、ベヒストゥンの近郊、Taq Bostan in Iran.
両ミトラ神の頭からは、放射光線が円形に広がっている。
ミトラ神は最古層のアーリア人(インド・イラン人)が共有していた太陽神で、インドのヒンドゥー経典とイランのゾロアスター教典に出てくる。
このミトラ神は1世紀後半にローマに伝わり、その図像表現が帝国に定着することになった。

How was the Abhaya Mudrā born?
施無畏印は如何にして生まれたのか?

a form of the ancient oath

< 4.  a form of the ancient oath >

Left fig.:  The Behistun Inscription of Darius 1 who administers an oath to the chief deity of Zoroastrianism in the air, at about the 5th century B.C. in Bisotun of Iran.
Right fig.:  A noble female statue of fortified city Hatra. Hatra in Iraq were an important trading city of Parthia kingdom that nomad of Iran created after the first century B.C.

Forms of such an oath are seen in relief engravings of Assyria and Persia well.
Hammurabi of Fig. 2 also raises his right hand and takes an oath to God.

左図: ダレイオス1世のベヒストゥン碑文、王が天空のゾロアスターの最高神に宣誓している。前5世紀頃、Bisotun in Iran.
右図: 要塞都市ハトラの高貴な女性像、ハトラはイランの遊牧民が興したパルティア王国の重要な交易都市だった。前1世紀以降、イラク。

このような宣誓の形式はアッシリアやペルシャの浮き彫りにもよく見られる。
図2のハムラビ王も右手を上げて神に宣誓している。


Summary

Halo and Abhaya Mudrā were the Mesopotamia origin both.
The halo seemed to symbolize the sun having overwhelming power.
This started in Mesopotamia God, was inherited by Mithra being the oldest god of Indo-Iranian, and was adopted to Indian Buddha statue
Originally, Abhaya Mudrā was a form that a king administered an oath to God.
This was inherited by Parthia kingdom from Mesopotamia, and was assimilated as the form that Buddha promised for the people in India.


まとめ
光背も施無畏印もメソポタミア起源だった。
光背は圧倒的な威力を誇る太陽を象徴したらしい。
これがメソポタミアの神から、インド・イラン人の最古層のミトラ神に受け継がれ、やがてインドの仏像に取り入れられた。
本来、施無畏印は目下の者、王が神に、臣下が王に誓約する形式だった。
それがメソポタミアからパルティアに受け継がれ、インドでは仏が民衆に約束する形として取り入れられた。
さらに不思議なことに、アフリカで自然に暮らすチンパンジーは、若い雄が大人の雄に対して右手を水平に上げて挨拶をする。
これは服従していることを示す。


this map shows some ruins and main kingdoms

< 5.  this map shows some ruins and main kingdoms >

Pink frame: a domain of Achaemenid Empire Persia (the 6th - 4th century B.C.).
Brown frame: a domain of Parthia kingdom (the 3rd century B.C. - the 3rd century A.D.).
Dark blue frame: a domain of Greco Bactria kingdom (the 3rd - the first century B.C.).

Indian Indus basin and Afghanistan was a place that India culture, nomad’s culture of Central Asia, and west culture of Iran or Greece mixed between the second millennium B.C. and the first millennium A.D.
This significantly influenced Buddha statue birth of India .

ピンク枠: アケメネス朝ペルシャ(前6~前4世紀)の領域。
茶色枠: パルティア王国(前3世紀~後3世紀)の領域。
紺色枠: グレコ・バクトリア王国(前3世紀~前1世紀)の領域。

インドのインダス川流域とアフガニスタンは、前2千年紀から後1千年紀にかけて、西方文化(イラン、ギリシャなど)と中央アジアの騎馬民族の文化がインド文化と混じり合う所でした。
このことがインドの仏像誕生に大きな影響を与えた。

Subsequent deployment

The halo was not the form that was adopted in Buddha statue of India only.
Probably, in the prairie or the desert area, it was a symbol common to human beings.

その後の展開
光背はインドの仏像だけが取り入れたものではなかった。
おそらく草原や砂漠地帯において人類共通の象徴だったのでしょう。


symbols of sun 

< 6.  symbols of sun >

Fig. 1:  Re of Egypt being sun god puts the sun on the head.
Fig. 2:  A gold coin of Ptolemy 3rd in the 3rd century B.C. in Egypt. Emission rays come out from the king’s head.
Fig. 3:  Halo of Apollo God, the 2nd century, Tunisia.
Fig. 4:  a picture of Islam. It is halo such as flame at the back of the saints.

This iconography that was expressed by solar beam, flame, and disk was used also for God and the Saint of Hinduism or Christianity.
The form of an oath that became the Abhaya Mudrā is remaining as a judiciary oath to raise the right hand now.

図1: エジプトの太陽神ラーは頭上に太陽を乗せている。
図2: プトレマイオス王3世の金貨、前3世紀、エジプト。王の頭から光りが出ている。
図3: アポロ神の光輪、2世紀、チュニジア。
図4: イスラム教の絵。聖人の背に炎のような光背。

この太陽光線や炎、円盤で表現される図像はヒンドゥー教やキリスト教の神や聖人にも使用されるようになった。
施無畏印になった宣誓の形は、左手を聖書に載せ、右手を挙げる裁判の宣誓として、今に残っている。




20140708

Travel to Turkey 8: Caravansary

 main gate

< 1. main gate

I introduce the ruins of the caravansary today.

今日は、キャラバンサライ(隊商宿)の遺跡を紹介します。


 central tower in the courtyard surrounded by a castle wall

< 2.  central tower in the courtyard surrounded by a castle wall 

The building is in SultanHan located between Konya and Cappadocia.
Such caravansary was built in Anatolia plentifully from about the tenth century.
The caravansary was built in the trade route every approximately 40km.
In those days, the merchants put all loads on horse or donkey, etc., formed a party, and traded between distant places.
In order to encourage trade and to protect the merchants’ party from robbers or thefts, the dynasty made the caravansary like fort and placed security force.
Furthermore, offering of a meal and taking care of the animals were performed to the sojourner for nothing.

この場所はコンヤとカッパドキアの中間に位置するスルタンハイにあります。
このようなキャラバンサライはアナトリアに10世紀頃から数多く建てられた。
キャラバンサライは交易ルートに、約40km毎に建てられた隊商宿です。
当時、商人は馬やロバなどに荷物を乗せ、隊を組んで遠方交易を行った。
王朝は交易を奨励するため、商隊を賊や盗難から保護するために、要塞のような隊商宿を作り警護者を置いた。
さらに滞在者には食事の提供や使役動物の世話を無料で行った。


Upper fig.: inside of main gate.  Lower fig.:  entrance of room.

< 3.  Upper fig.: inside of main gate.  Lower fig.:  entrance of room.>


a view from roof of the central tower

< 4.  a view from roof of the central tower 

The history of this trade route is even older.
The trade route via here linked the Central Asia from the Aegean Sea (close to Ephesus) about the third century B.C. and would have conveyed Hellenism culture.
Furthermore, King Darius of Persia built the highway that reached the Aegean Sea (close to Ephesus) from Iran (Susa) in the 5th century B.C. (this route are a little different from it).
This was able to travel through 2,700 km in seven days.

この交易ルートの歴史はさらに古い。
ここを通る交易ルートは紀元前3世紀以降には、エーゲ海(エフェソス近郊)から中央アジアを結び、ヘレニズム文化を伝えたことだろう。
さらにペルシャのダレイオス王が前5世紀に、イラン(スーサ)からエーゲ海(エフェソス近郊)に至る幹線道路を建設した(少しルートは異なる)。
これは当時、最も長距離で完成された駅伝制のルートで、2700kmを7日間で旅をすることが出来た。


 a corridor of courtyard, and old farm implements  

< 5.  a corridor of courtyard, and old farm implements > 

I seem to hear the neigh of animals and the chat of suntanned merchants of ancient times.
The goods in trade from Rome and Greece might have arrived to China through here, and furthermore to Japan.

遙か昔の日に焼けた商人達の談笑や馬のいななきが聞こえてくるようです。
ローマやギリシャからの交易品が、ここを通って中国、果ては日本の正倉院に届いたのかもしれません。


beautiful pattern, skillful skylight

< 6.  beautiful pattern, skillful skylight  >


frontal view 

< 7.  frontal view >

a souvenir shop

< 8.  a souvenir shop    >


mountains covered with snow, agriculture scenery in the dry field 

< 9.  mountains covered with snow, agriculture scenery in the dry field >

Unlike the ruins of a royal palace, although there was not a feeling of gorgeousness, I felt the breath of the merchants who got on in the world.
One pleasure of this trip was over.

宮殿の遺跡と違い華やかさを偲ばせるものはないが、世界を股にかけた商人達の息吹を感じることが出来た。
今回の旅行の楽しみを一つが終わった。





20140704

The society and the information 33:  Information crosses the border 7

Kremlin

< 1.  Kremlin >

This time also, following the last time, I see how the Soviet Union reported the nuclear plant accident that happened in Ukraine.

今回は、前回に続いてウクライナで起きた原発事故をソ連がどう報道したかを見ます。

 Gorbachev and Reagan

< 2.  Gorbachev and Reagan >

In 1985, Gorbachev advocated perestroika (reform), and was inaugurated as the supreme leader of the Soviet Union.
This was just a year before the nuclear plant accident.
He developed the following opinions about this nuclear plant accident at home and abroad and corresponded.


1985年、ゴルバチョフがペレストロイカ(改革)を唱えてソ連の最高指導者に着いた。
これは原発事故のちょうど1年前のことでした。
彼はこの原発事故に対して以下の主張を国内外に展開し、対応した。

AThe atomic energy is the original sin of the human civilization, and the accident is the wrath of Heaven.
Taking this opportunity, he appealed for the menace of the nuclear weapon and stopping the nuclear test within the country, and then progressed the agreement of the nuclear weapon reduction between the United States.
It proceeded to the conclusion of the Cold War in 1989 year before long.
Probably, the nuclear plant accident was used for an excuse of stopping the arms race that had weakened the national power.

A 原子力は人類文明の原罪であり、事故は天罰である。
彼はこれを機に国内に核兵器の脅威を訴え、核実験停止、米国との核兵器削減合意を進めた。
やがて89年の東西冷戦終結へと向かう。
おそらくは国力を削ぐ軍拡競争中止の口実に原発事故が利用されたのだろう。

B.      The western media discharge falsehood reports, and are trying to trample us.
"Thousands of casualties appeared one after another, and all around became full of graves. The whole land of Ukraine was polluted by the radioactivity, and the capital became the wasteland where the trees and plants would not grow.”
He said that he demanded the confidence in the government to the people, because the west had been reporting such lie.
The people will be always exposed to such news that truth and falsity were mixed in, and were different at home and abroad.

B 西側メディアは虚偽報道を垂れ流し、我々を踏みにじろうとしている。
「何千もの死傷者が出て、辺り一面は墓だらけになっている。ウクライナ全土が放射能で汚染され、首都は草木も生えぬ荒れ地になった。」
こんな嘘が西側では報道されているとし、国民に政府への信任を求めた。
国民はこの手の内外で対立する真偽が混じった報道にいつも曝されることになる。

Outskirts city of the Chernobyl nuclear plant became ruins 

< 3.  Outskirts city of the Chernobyl nuclear plant became ruins >

C.  This accident is a maximum example of the bad effect of the old regime.
This accident brought the new government two help.
One thing made the accident liability the incompetence of the local administrative organ (Ukraine) of the Communist Party, and the bad effect of the central old regime.
This made the unskillful handling of the new administration less noticeable.
On the other hand, the government announced that the scientists of the Soviet Union had shut away the radioactivity of the accident and the measures were perfect.

C この事故は、旧体制の弊害の最たるものである。
この事故は新政権に二つの救いをもたらした。
一つは、事故責任は共産党の地方機関(ウクライナ)の無能さと中央の旧体制の弊害とした。
これに応じて組織刷新と処罰が進められ、新政権の対応の拙さは目立たなくなった
一方で政府はソ連の科学者達が事故による放射能を封じ込め、処置は完璧であるとした。


Shevardnadze 

< 4.  Shevardnadze >

The other was a good opportunity to infiltrate the information disclosure at home and abroad.
Shevardnadze that was appointed the foreign minister carried out already the information disclosure partly in Republic of Georgia and had shown the results.
The government showed the details of the accident and the damage, accepted the inspection of the American Nuclear Regulatory Commission, and promoted the nuclear power accident coverage taken by the domestic media organization.
The image of the new government that will sweep away the bad effect due to the secretiveness was able to spread at home and abroad.

In those days a chief editor of newspaper "Pravda" talked of complaint that the information disclosure had not really advanced toward.
This newspaper was continuing revealing a lack of a plan of the government about the accident against the governmental bureaucrat-ism and the secretiveness.


今一つは、グラスノッチ(情報公開)を国内外に浸透させる絶好の機会となった。
情報公開は外相に抜擢されたシェワルナゼが、既にグルジア統治時代に一部実施し成果を挙げていた。
政府は、事故と被害の詳細を公開し、米国の原子力規制委員会の査察受け入れ、国内報道機関による原発事故の取材を推し進めた。
それまでの秘密主義による弊害を一掃する新政府のイメージを国内外に浸透させることが出来た。

当時、新聞「プラウダ」の編集長は、実際には情報公開が一向に進んでいないと愚痴を語っていた。
この新聞は、政府の官僚主義や秘密主義に対抗して、事故をめぐる政府の無能無策を暴き続けていた。

Summary
This big accident became the big favorable wind for the new Gorbachev Administration.
On the other hand, in Japan, the nuclear plant accident became a factor that condemned the new government for.

まとめ
大きな事故がゴルバチョフ新政権にとっては、またとない追い風となった。
一方、日本において、原発事故は新政権を断罪する要因になった。











20140702

History of sickness and medical art 28:  China 3

 medical book “Huangdi Neijing”

1. medical bookHuangdi Neijing”


This time, I look at how people recognized the sickness in those days.

今回は、当時の人々が病をどのように認識していたかを見ます。


 Restored instruments of acupuncture in “Huangdi Neijing”

 2. Restored instruments of acupuncture in Huangdi Neijing” 

The oldest medical book “Huangdi Neijing”
This Chinese oldest medical book is written in the form that legendary Yellow Emperor discusses with a subject.
It was written in the first century B.C.
This form resembles the pattern that a legendary wizard had a dialogue with a king in " Caraka Sanhita" of India.
It consists of pathology, general remarks of physiology, and clinical medicine including diagnosis, treatment, acupuncture and moxibustion.

People are kept alive by life energy ( Qi ) of nature, and is controlled with the rule of four seasons”
From ancient times, in China (East Asia), people think people being harmonize with nature, and it becomes sickness when balance collapses.

最古の医書「黄帝内経」

この中国最古の医書は伝説上の黄帝が臣下と問答する形で著されている。
前1世紀頃に集成された。
この形式は、インドの「チュンカラ・サンヒター」に出てくる聖仙と王の問答に似ている。
病理学、生理学の総論と診断、治療、鍼灸など臨床篇からなっている。

「人は天地の気をもって生じ、春夏秋冬の四季の法をもて成る」
古来より中国(東アジア)では、人間は自然と調和しているものであり、バランスが崩れると病になると考えている。


this Classic Taoist Taijitu shows “Yin and Yang” 

< 3.  this Classic Taoist Taijitu shows “Yin and Yang” 

The fundamental theory is in Confucian doctrine” I Ching”.
It is said that people take birth with life energy ( Qi ) of “ Yin and Yang”, and people get sick if the harmony in the body was lost.
Furthermore, it was assumed that the human body is made of wood, fire, soil, gold, and water.
The basic elements of every phenomena and things were assigned to five.
There was 4 body fluid theory in Greece medicine, but there was 5 body fluid theory in China.
Moreover, people recognized that all blood was under rule of the heart, circulated through it continuously, and didn’t stop.


根本理論は儒教の教説「易」であり、人間は陰陽の気を呼吸しており、体内でこの両者が調和を失えば病気になるという。
さらに人体は木、火、土、金、水から出来ているとし、あらゆる現象と事物を5要素に割り当てた。
ギリシャ医学では4体液説だが、中国では5体液説であった。
また血液はすべて心臓の支配下にあり、絶えず循環し、留まることがないと認識していた。


 Meridian of “Huangdi Neijing” 

< 4.   Meridian of “Huangdi Neijing” 

Moreover, there is the 12 principal meridians in body, and life energy ( Qi ) circulates through this course.
It presupposed that health can be maintained by keeping this circulation normal, and the sickness is treated by giving acupuncture and moxibustion.
Moreover, it presupposed the sickness was divided into two, one of it depended on external factor such as wind, chill, dryness, humidity, and other depended on inner factor of joy, pathos, anger, fear, etc.

また体内には12本の経脈と支脈といえる無数の絡脈があり、気はこの経路を循環する。この経路を正常に保つことによって健康が保持できるとし、ここに鍼灸を施すことによって治療するとした。
また、病気は二つに分けられ、風・寒気・乾燥・湿気などの外的影響によるものと、喜び・哀しみ・怒り・恐れなどの内的影響によるとした。


 Zhang Zhongling 

< 5.  Zhang Zhongling >

The oldest clinical medical book “Shanghan Lun”
This book was written by Zhang Zhongling of good doctor at the end of the Han dynasty, and was a monument that told the birth of experience medicine.
He was called Hippocrates.
In a preface, he wrote his families had died in large quantities in a short term and 70 percent of it was “Shanghan”, and indicated the motive of writing the book.
He systematically explained the treatment of “Shanghan” from the onset of a disease to the death, and medical treatment was explained mainly by medicines only, but the etiology was not explained.

最古の臨床医学書「傷寒論」
後漢時代の名医・張仲景によって著されたこの本は、経験医学の誕生を告げる記念碑であり、彼はヒポクラテスと並び称された。
序文で、彼の一族が短期間に大量死し、その7割が傷寒の病とし、本を書く動機を書いている。
傷寒(腸チフスを含む急性熱病)の治療を発病から死亡まで系統的に述べ、治療は薬物が中心で病因論には触れていない。
彼は臨床医としても優れ、広く各医家の長所を吸収し、経験と知識を統合し独創的な治療法を試みた。