20140724

私達の戦争 11: 当事者が振り返る戦争とは 10

 大本営発表

< 1. 大本営発表 >

今回も参謀の堀栄三氏の著述を見ます。
日本軍の敗因がそこには記されており、根の深い問題が露わになります。

ミッドウェー海戦 

< 2. ミッドウェー海戦 >

「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」(堀栄三著、文集文庫、1996年刊)より

米軍が見た日本軍5つの敗因(タイトル)
「米軍は昭和21年4月(敗戦の翌年)、『日本陸海軍の情報部について』と言う調査書を米政府に提出している。
『日本の陸海軍情報は不十分であったことが露呈したが、その理由の主なものは
1. 軍部の指導者は、ドイツが勝つと断定し、連合国の生産力、士気、弱点に関する見積を不当に過小評価してしまった。(注、国力判断の誤り)
2. 不運な戦況、特に航空偵察の失敗は、最も確度の高い大量の情報を逃がす結果となった。(注、制空権の喪失)
3. 陸海軍間の円滑な連絡が欠けて、せっかく情報を入手しても、それを役立てることが出来なかった。(注、組織の不統一)
4. 情報関係のポストに人材を得なかった。このことは、情報に含まれている重大な背後事情を見抜く力の不足となって現れ、情報任務が日本軍では第二次的任務に過ぎない結果となって現れた。(注、作戦第一、情報軽視)
5. 日本軍の精神主義が情報活動を阻害する作用をした。軍の立案者たちは、いずれも神がかかり的な日本不滅論繰り返し声明し、戦争を効果的に行うために最も必要な諸準備をないがしろにして、ただ攻撃あるのみを過大に協調した。その結果彼らは敵に関する情報に盲目になってしまった。(注、精神主義の誇張)
・・・以上の5項目は、戦後40年経った現在でも、まだ大きな教訓的示唆を与えている。」P329

説明
残念ながら米軍の指摘は、あまりにも日本の弱点を見抜いていました。
この連載で取り上げた指摘や人物の行動にピッタリとあてはまりました。

著述の中で、彼は多大な損失を生み続けた日本軍の古い体質を随所で批判しています。
彼の批判は適確ではあるが容赦ないものではなく、その歴史的経緯に理解を示しています。
だが彼は所属していた陸軍部参謀本部、特にエリートの作戦課に強く失望していた。
一方で、彼自身の思い上がりやミスも吐露しています。
彼のように自分や所属組織への反省を適確に行い、改革を進めた人がどれだけいたでしょうか?
結局、指摘や批判を拒否し、反省しない人々が組織の体勢を占め、国の命運を左右してしまた。

焦土と化した大阪 

< 3. 焦土と化した大阪 >

米軍が見た日本軍5つの敗因につづく
「作戦班には、陸大軍刀組以外は入れなかった。作戦課長の経験無しで陸軍大将になった者は、よほどの例外といって差し支えなかった。
・・堀の在任中、作戦課と作戦室で同席して、個々の作戦について敵情判断を述べ、作戦に関して所要の議論を戦わしたことはただの1回もなかった。
・・堀が山下方面軍でルソン上陸の敵情判断をしていた頃、「米軍のルソン侵攻は3月以降である」(16日に発生)と打電してきたり、・・電報が没になる(前回指摘)・・。
・・結論として、情報部を別格の軍刀参謀組で固めていたら、戦争も起こらなかったかもしれない。」P332

説明
彼は落ちこぼれと言っているが陸大卒業時5番だった。
しかし彼は希望の作戦課には配属されず、低く見られていた情報課に入った。
当時、陸大の最重要科目は作戦演習で、過去の実戦例について自分の意見を述べ、教官がそれを評価していた。
彼は言う、優秀な生徒(陸大軍刀組)は教官の望む答えを言えることであり、創造性とは無縁だと。
彼が陸大で学んでいた時、情報の科目はおざなりで、現役将校の自慢話であったと記している。

 ヒトラー 

< 4. ヒトラー >

まとめ
太平洋とアジアの全陸軍の作戦を統括し命令を出す作戦課は、信じ難いが敵情はもちろん国際状況にも無頓着であった
それは陸軍大学と軍部の驕りとマンネリが生んだとも言えるが、歴史的経緯、さらには日本の精神風土が大きく災いした(事故調の黒川委員長指摘と同じ)。
それは大日本帝国陸軍が誕生してから高々70年(主に後半)で生じたものでした。

しかしこれは当時の軍隊だけに起きたのではない。
現在も頻発する組織とエリート官僚の腐敗と軌を一にしている。
例えば、検察庁や原子力安全・保安院の事件は氷山の一角に過ぎないだろう。
この腐敗は資本主義や共産主義を問わず、国家から教団まですべての組織に起こっている。
ただ軍隊の驕りやマンネリ、腐敗から生じる暴走は、一国で数百万から世界で1億近い人々の犠牲を強いた。

正に、歴史を学び反省点を得る理由は、これらを繰り返さない為でもあります。

次回は、他国から見た日本の戦争を確認していきます。









20140722

私達の戦争 10: 当事者が振り返る戦争とは 9

 大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲

< 1. 著書 >

前回、エリート参謀が軍上層の意向に沿い、脇目も振らず邁進する姿を見ました。
しかし、今回紹介する堀栄三氏は、同じ参謀でもかなり異なります。
そこからは日本の敗因が見えて来ます。

堀栄三

< 2. 堀栄三 >

堀栄三氏について
彼も陸軍幼年学校、士官学校、騎兵と教官を務め、陸軍大学卒業後、教官勤務。
1943年10月、29歳で大本営陸軍部の情報参謀になり、アメリカ課勤務の後、44年10月から第14方面軍(南方軍)の作戦参謀になる。
終戦後、郷里に帰るが、請われ自衛隊の情報本部を立ち上げ退官後、大学講師、郷里の村長を務めた。

台湾沖航空戦

< 3. 台湾沖航空戦の大勝利を伝える >

「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」(堀栄三著、文集文庫、1996年刊)より

情報は常に悪戯する(タイトル)
「戦史叢書・・には、『大本営海軍部と連合艦隊は、・・台湾沖航空戦の成果に疑問を生ずるや、・・調査して・・成果を客観的に正確に見ているのは堀参謀のみであるとした』

と記述している(堀が新田原(宮崎県)から打った電報は、・・これが握り潰されたと判明するのは戦後・・。大本営陸軍部の中のある一部に、今もって誰も覗いていない密室のような奥の院があったやに想像される)。」p188

説明
彼はこの本で「私」と書かず「堀」と書いている。
この文には二つの大きな意味がある。

一つは、後半の( )内に書かれている事実です。
彼は台湾沖航空戦(194410月)の戦果報告が誇大であると電信したのだが、握り潰した犯人は「瀬島龍三 参謀の昭和史」(保阪正康著)によると瀬島とされている
前回記したように、大本営陸軍部において、不都合な真実を伝える電信は握り潰されるのが常態化していた。
瀬島が真犯人かどうかは別にして、情報を無視する参謀と情報を生かす参謀がいたことになる。

もう一つは、堀が誰よりも米軍の戦力把握と戦法を熟知していることを指している。
彼は、太平洋での米軍による航空戦力と艦砲射撃を使った島伝いの飛び石作戦を検討し、その対策を「敵軍戦法早わかり」にまとめ、現地指揮官らに訓育しょうとした。
例えば、彼は解りやすく、島の防衛では消耗を早める銃剣突撃ではなく艦砲射撃に耐える厚み2m以上のコンクリート防御壁こそが重要と説いた。
これ以降、各師団に軍事作戦が説明される時、現地情勢及び相手の戦闘方法の情報についても伝達するように切り替わった。
それまでは大本営は攻略せよか死守せよぐらいしか伝えなかったのだろうか。
残念ながら、「敵軍戦法早わかり」が印刷完了したのは終戦の1年前44年の9月であった。


作戦に先行しなかった情報(タイトル)
「一握りの戦略作定者たちの過失にもかかわらず、一言半句の不平も述べず、戦略の失敗を戦術や戦闘では取り返せないことを承知しつつ、第一戦部隊としての最大限の努力をしながら彼らは散華していったのである。」p157

ペリリュー島の戦い

< 4. ペリリュー島の戦い >
上: 米軍の艦砲射撃と上陸部隊。
下左: 日本兵の捕虜。
下右: 中川連隊長。

説明
これは、堀から「敵軍戦法早わかり」の説明を熱心に聞いた中川連隊長が、強固な陣地を構築しペリリュー島で孤軍奮闘したことを受けて、堀が漏らした感想です。
1944年9月、圧倒的な米軍の兵火を前に守備隊11000名は、最後に55名が万歳突撃を行い、捕虜202名を残し他は戦死、中川連隊長は自害した。
上記の戦略作定者とは、立案・作成を行っていた大本営陸軍部参謀本部作戦課作戦班と考えられ、その中心人物の一人は瀬島であった。

日本軍とは桁違いの米軍諸教令(タイトル)
「この上陸作戦の米軍野外教令一つを読んだだけでも、日本の作戦当事者は、『治にいて乱を忘れ』て、大正十年以来惰眠を貪っていたと言えよう。米軍と日本軍とは実に二十余年の開きがあった。
『軍人には軍事研究という大へんな仕事があったのに、軍中枢部の連中は、権力の椅子を欲しがって政治介入という玩具に夢中になりだした』と・・寺本中将の言葉であった。」

説明
第6話で説明していますが、1920年代以降、日米共に互いを交戦可能国と見なした。
米国は太平洋上の戦闘教義(軍隊の基本的な運用思想)を逐次発展させていった。
一方、日本、特に陸軍は中国戦線、古くは日露戦役の戦闘教義から抜け出すことはなかった。
さらに太平洋戦争が始まっても、大本営は敵の戦略や戦力を正確に掴む努力を放棄し、自ら都合の悪い情報は隠蔽し、結果、自己満足に浸った。

その中にあって、堀は独自に工夫して情報分析と活用の道を切り開いた。
それだけでなく、上官(南方軍司令官)に正確な危険性とその対策を上申した。

次回、堀が指摘する日本軍の敗因から日本の問題点を見ます。












20140721

Summer in Awaji Island : A festival and fireworks of the strait park 

 fireworks
    

Today, I introduce the summer festival that was held by Awaji city July 20.
This main is some events and fireworks that are performed in the lawn open space of Akashi Kaikyo National Government Park.
Moreover, many stalls were set up, and entering the park is free today.
Blessed with weather, many people came from the island outside.

今日は、720日に行われた淡路市夏祭りを紹介します。
これは明石海峡公園の芝生広場で行われる催しと花火がメインです。
またたくさんの屋台が賑わい、この日は海峡公園も無料公開されます。
天気に恵まれ、たくさんの人々が島外からも来ていました。

stalls and a stage in the lawn open space

< 2.  stalls and a stage in the lawn open space    

There are eateries that are provided by the professional in these stalls, but stalls that were provided by the local volunteer are amusing.
The performance and the dances were carried out on the stage.

これら店舗にはプロによる飲食販売もあるが、面白いのは地元ボランテイアによる店舗です。
舞台では演奏や舞などが行われていた。


a eatery by children 

< 3.  a eatery by children 

The faces selling with a smile were shining in sunlight.
笑顔で一生懸命に売り込む姿は、陽差しに輝いていました。

children absorbed in play

< 4.  children absorbed in play >


Akashi Kaikyo National Government Park

< 5.  a central part of the park >
The scene that was reproduced the forest, the hill, and the valley naturally is the merit of this park.
The trees of the season blossom in various spots.
However, the flower of the park is few at this time.

自然の森林や丘陵、谷間を再現した景観が、この公園の良さです。
要所要所に季節毎の木々の花が咲きます。
しかしこの時期、公園全体の花は端境期で、少し寂しい。


Akashi Kaikyo National Government Park

< 6.  Upper: the park south side.  Lower: the park north side. >
There is a very large lawn open space in the end of the park north side, and we watch the fireworks in this side.

公園北側の端に広大な芝生広場があり、花火はこちら側で見ます。


flowers

flowers

flowers

     7,8,9
The flowers in the park
公園内の花々。

fireworks

 10.  fireworks
I took pictures of fireworks for the first time and it was difficult.

I was comfortable, because it was a little cloudy.
After the photography of the park, I was sitting down vaguely at a bench for three hours until the fireworks start.
I had been bringing back the past along with seeing the behavior of families, lovers, and friends.

今回、花火を始めて撮影しましたが、難しかった。

この日は曇り気味で、陽差しが厳しく無く助かりました。
海峡公園の撮影後、花火開始までの3時間、ベンチでボーッと座っていました。
私は家族連れや恋人達、友人同士の振る舞いを見て、昔を思い出していました。























20140720

私達の戦争 9: 当事者が振り返る戦争とは 8




< 1. テレビドラマ >

今回から、今次大戦の作戦立案を担った参謀達の意識を追います。
陸軍参謀の瀬島龍三氏の著作から始めます。
そこからは兵士数百万の命を扱う官吏の有能さが浮かび上がって来ます。


< 2.東京裁判で証人となった瀬島 > 

瀬島龍三について
彼は秀才の誉れ高く、陸軍幼年学校、士官学校、陸軍大学を主席卒業と13歳から27歳(1938年)まで、当時最高の出世であった軍人の道をひたすら進んだ。
直ちに彼は陸軍参謀になり、40年には本部作戦課に配属され、敗戦直前まで大本営で作戦を立案した。
敗戦時、満州在任であった為、ソ連軍によりシベリアに11年間抑留された。
帰国後、伊藤忠に入社し、会長まで上りつめ、後に政財界でも活躍する。
山崎豊子の小説「不毛地帯」の主人公壱岐は瀬島がモデルだが、あくまでフィクションです。



< 3. 瀬島の回想録 >

戦後の私の考察(タイトル)
「『支那事変処理重点方針』という従来の国策に『南方問題処理』が加わり、『二元的国策』になった最大の要因は、欧州戦局に対する判断の甘さ、すなわち、ドイツの国力・戦力を過大評価し、英国と米国の戦争遂行力を過小評価したこにあったと思われる。・・・
 近衛公は『国民組織による新政治体制』を訴え、・・近衛公の狙いは、国民組織の力によって軍部、特に陸軍を抑えることにあったと言われている。しかるに、組閣から五日後、早々とこのような重大決定をしてしまったことは、今も、私にはよく理解できない。」p87

開戦決定と作戦遂行(タイトル)
昭和16年八月頃の情勢と「帝国国策遂行要領」の決定
「8月16日、・・海軍側から今後の国策遂行方針について提案があった。その骨子は・・『十月中旬に至っても対外外交が妥結しない場合には実力発動措置をとる』であった。・・我々(陸軍参謀)もこれを聞いて驚いた。・・、
 これらの経緯を踏まえて、9月6日、御前会議が開催された。そこで決定されたのが『帝国国策遂行要領』である。・・・
 この決定はまさに、『和戦両用』の決意であった。御前会議の前日の9月5日、近衛首相拝謁の際、陛下は戦争準備が主で外交が従ととれる議案に対し強いご不満を表明された。・・」p105106

書籍 以下の説明に下記略号を使います。
書1:「瀬島龍三回想録 幾山河」瀬島著、産経新聞ニュースサービス、1995年刊
書2:「大東亜戦争の実相」瀬島著、PHP文庫、2000年刊、1972年講演分
書3:「瀬島龍三 参謀の昭和史」保坂正康著、文集文庫、1991年刊、1987年初出]



< 4. 瀬島のハーバード大学での講演記録 >

有能な参謀とは
私が彼の書1を20年ほど前に読んだ時、無味乾燥さに失望し、今回、書2を読んで更にその意を強くした。
彼の著作には、開戦に至る大本営の記録が詳述されているが、ほとんど心情の吐露が無い、当初、彼の冷徹さ故と理解していたが。
述懐する批判や反省の矛先に、彼自身と周辺(参謀から陸軍)はありません。
彼は完璧なのか、自分自身の激情や判断ミス、悔悟について一切触れません。
行間から漂ってくるのは「しかたがなかった」「他者(米国)が悪い」ばかり。

彼は、陸軍上層部や参謀本部に重用され、当時多くの作戦立案を自ら書いています。
二十数名の陸軍参謀本部第Ⅰ部作戦課にあって彼は序列5番以内で、最重要な作戦班の補佐でした。

6月のドイツのソ連侵攻時、陸軍参謀らは歓喜し、気宇壮大になっていたが、それを上の文では他人事のように書いている。
また下の文では8月、海軍が俄然、参戦意欲を高めて驚いたと、これまた始めて聞き、他人事のように書いている。
書1ではなぜか抜けているが、書2p204では416月に「対英米戦争・・ごとき画期的国策案」と彼が絶賛する路線は既に敷かれていた。
ソ連の連敗に勢いづいた陸軍に対して海軍は慎重だったが、8月に石油を絶たれたので、6月の予定路線に従って進めざるを得なかった。
彼の記述は、すべて巧みにしくまれている。

参謀達の意識を物語る事件
「・・米国大統領から陛下あて親電が送られたということを知った。・・瀬島少佐から・・『既に戦闘が開始され・・』・・を聞いた。・・かえって混乱の因となると思って、右親電をおさえる措置をとった。」書3のp110
これは真珠湾攻撃の前日、大本営通信課の戸村少佐が、瀬島のアドバイスで、電報を握り潰した記述で、重大な背信行為です。
瀬島は他にも都合の悪い電信を握り潰すことをしている。書3

「部内、来栖の飛行機墜落を祈るものあり、いわく、第二課長(瀬島の上司)、第6課長等。当班もまたその気持ちは同様なり」書3のp107
11月に渡米し日米交渉を必死で進める来栖特派大使への参謀本部の気持ちが、内部文書に残っている。
このようなことを間違っても彼は語ることはない。

結論
瀬島も含め、参謀達の意識は、戦争続行・拡大である。
特に作戦好きだった瀬島にとって、自分の筆で数十万の兵員を自在に動かせる喜びは何事にも代え難いものがあったろう。
彼らの多くは、国民に対して背信行為だとか、判断ミスとか、兵士に申し訳なかったという感情は無縁だろう。
彼らにとって、与えられ目標に勝利する作戦・用兵を提示することこそが有能の証しであった。
例え兵士の消耗率が10~50%あろうが・・・・

次回は、別の生き方をした陸軍参謀を紹介します。





20140719

私達の戦争 8: 当事者が振り返る戦争とは 7

 

< 1. 大政翼賛会 >

今回も前回に続いて、太平洋戦争勃発前夜、日本を牽引した近衛公の振る舞いを重光氏の手記から見ます。



日本の行くべき途(タイトル)
「近衛内閣は『スローガン』内閣であり、戦線拡大主義者であり、酷評すれば百鬼昼行の政府である。その第一内閣は陸軍を押して遂に支那事変を惹起して今日の乱脈の原因を起こした。近衛第二次内閣は支那問題を太平洋全面に拡大してここに日本の前途を暗黒に導きつつある。先には日満支新秩序なる『スローガン』を振り回し、今日は新体制を高調して居る。・・特に極論派の強要には何でも応じてもって世論を容れ難物を操縦し得たと感じ、これが最も成功したる政治と心得ているが如くである。」p1351940年夏


< 2. 三国同盟 >

第三次近衛内閣の崩壊
「第三次近衛内閣は、三国同盟締結後の我が国際関係の混乱を日米交渉成立によって救済すべき重大使命を帯びていたと同時に、絶好の機会を握った内閣であった。
・・単に松岡君を追い出してその後に海軍を据えたぐらいでは到底やり切れるはずがない。近衛公は内閣において陸海軍のバランスをとって、外交は日米交渉成立を陸軍よりも熱望する海軍を利用して、実は自らやって行くことにした点は、バランスをとっていく公家式の考え方で極めて浅薄であった。」p297

説明
1937年、近衛は期待され、軍部が主導権を握り混迷する政局にあって第一次近衛内閣を率いた。
独走する陸軍、慎重な海軍、独伊か英米かで割れる中で唱えたスローガンは「国内各論の融和」であった。
しかし結局、陸軍に振り回され日中戦争、ノモンハン事件(ソ連との軍事衝突)へと深入りした後、総辞職する。


< 3. 大東亜共栄圏の双六、戦前 >

1940年、1年半の平沼内閣の後を受け、第二次近衛内閣をスタートさせた。
この時のスローガンは「皇道の大精神に則りまず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立」であった。
彼は国民一丸を目指し、全政党を解体し大政翼賛会一本にまとめ、政党政治と民主主義を無にした。
一方、松岡外相が裏切られることになったドイツによるポーランド侵攻とソ連侵攻、さら陸軍と共に唱える対ソ戦準備、日米交渉の非協力態度(外されたことにすねる)に、近衛は松岡を切る。

かくして41年7月、続いて第三次内閣をスタートさせた。
形では日米交渉を継続していたが、日米共に決戦の腹をほぼ決めていた。
暗号解読で日本政府の言動は米に筒抜けだったが、日本は外交組織を破壊し、米や世界の情報をまともに掴むことが出来なかった。
こうして独り相撲の形で、自ら火の中に、蛮勇をもって飛び込んだ。

近衛公は筆頭摂関家に生まれ、25歳で世襲により貴族議員となり、類希な血筋、貴公子然の風貌、革新的な言論で、大衆の人気を集め首相として期待された。
しかし彼の政権運営は、生来の気弱さが災いし、軍部に流されるだけに終始した。


< 4. 御前会議 >

だが彼一人が悪いわけではない、当時、軍部の独走を防ぐ手立てがなかったと言える。
それは当時の憲法に、軍権は天皇に、政権は内閣にと謳われていたが、軍事費が国家予算の半分を越えるに至っては、その分離は無意味だった。
そこで、国の重大方針は内閣と軍部首脳による天皇臨席の御前会議で行われるようになった。
それは天皇が反対をしないので、軍権に関わる政府議案としてすんなり通すことが出来たからでした。


次回より、当時、軍事作戦を担った複数の参謀の回顧録を見ます。
そこからは対照的な能吏が見せる軍中枢の惨状が浮かび上がって来ます。




20140718

私達の戦争 7: 当事者が振り返る戦争とは 6




< 1. 日本軍が広東方面に上陸 >

今回は、太平洋戦争勃発前夜、日本を牽引した指導者達の振る舞いを重光氏の手記から見ます。


< 2. 軍事クーデターの2・26事件、1936年 >

ああ 支那事変(タイトル)
「満州事変が起こって後、るる陸軍方面の人々から聞かされたことがある。日本は政党の為に、資本主義の為に腐っている、日本精神を取り返す為には国内的革命を必要とする、これが為に満州事変から続いて世界を敵とするような困難を招くことも必要である、と言うのであった。・・・
三年を越す支那事変は軍部の連戦連勝にかかわらず、日本の負担として耐え難いものがある。・・国家はこれでよろしいか。国民は枯れて将軍が群がっている現状は果たして皇道であり、国家をやすらかにするものだろうか。」p167194012

説明
日本は第一次世界大戦での軍需景気、軍部による海外領土拡張と好調が続いた後、経済恐慌に見舞われると国民の不満が高まった。
すると軍人による政府要人暗殺とクーデターが頻発し、1937年以降は軍部が政権を握った。
こうして首相といえども陸軍、海軍の同意なしに政治が動かなくなった。
おうおうにして世の軍人は力でもって突き進むことを是とするようで、やがて太平洋戦争に突き進むことになる。



< 3. 国際連盟脱退時、松岡全権大使が熱弁を振るう >

日本の狂乱
「外務省は外交の転換から世論の声に乗じて、いわゆる外交陣の刷新を断行して上層部五六十人の整理をなして、革新派と称するこれまでの不平組を登用した。外交機関は全世界にわたって破壊されてしまったが、これまでの外交機関は現状維持派であるから不必要であると、公然と当局者は言った。出先の報告等は、三国同盟締結の方針が定まって日本は新体制に乗り出したのであるから不必要であると言われて、電信報告無用の訓令が来た。」p205


< 4. 第二次近衛内閣、松岡外相、東條陸相、吉田海相 >

説明
これは1940年、第二次近衛内閣誕生の目玉になった松岡外相がとった処置でした。
彼は33年の国際連盟脱退、外務大臣として日独伊三国同盟の締結を牽引し、結果、太平洋戦争への道を準備し、去った。
彼は外交官、満鉄理事、国会議員を経て、その人気と豪腕を近衛公に買われ入閣した。
三国同盟締結でドイツ寄りを鮮明にすると、それまでの親英米派の外交官を一掃した。
この時、欠かせない重光や数人の外交官だけは残る事が出来た。
元来、彼は英語がたんのうで世界的な視野を持ち、ヒトラーのドイツを信用していなかったが、軍部との主導権争い、後背の憂いであるソ連重視(日ソ中立条約)、彼の傲慢が災いし、その道は袋小路に入った。
彼も政局の渦に巻き込まれた一人だが、最重要な国際情報を途絶するとは如何にも日本らしい政局の乗り切り方だった。

次回は、最重要な近衛公について見ます。




20140717

私達の戦争 6: 当事者が振り返る戦争とは 5

 1941年、チャーチルとルーズベルト会談

< 1. 1941年、チャーチルとルーズベルト会談 >

太平洋戦争開始を日米、それぞれの側から見ます。

太平洋戦争開始の直近の経緯
1939年: 9月、ドイツ侵攻で第二次世界大戦開始。
1940年: 9月、日本が北部仏印進駐、日独伊三国同盟締結。
1941年: 6月、独がソ連侵攻。7月、米が日本資産凍結、日本が南部仏印進駐。8月、米が対日石油輸出停止。11月、米がハル・ノート提示。12月8日、日本が真珠湾攻撃。

太平洋戦争地図 

< 2. 太平洋戦争地図 >

日本の思惑と動き
日本は1920年代より、国防方針で、最大仮想敵国をそれまでのロシアから米に変えていった。
その背景に第一次世界大戦、ロシア革命、日本では日英同盟破棄、満州・日中事変、軍部支配があった。
日本の軍部は多大な犠牲(国費、数十万人)を払って得た朝鮮半島や満州の権益擁護と拡大に戦争続行を当然と考えた。
その為には大陸の陸戦よりも米国との海戦が低費用で有利とし、資源(鉱物・石油、食料など)確保を中国と仏印(東南アジア)に求めた。

一方、突如起こったドイツ攻勢は欧州制覇から世界制覇を思わせた。
日本は手薄になったソ連東方と東南アジアを入手する絶好の機会と捉えた。
また、米は長年、交戦中の日中に対して兵器や石油を輸出し、中立の立場(孤立主義)をとっていたこともあり、日本は、開戦直前までそれを弱腰で参戦なしと捉えた。
この予断が、危険な三国同盟締結、さらなる侵攻、強気の外交につながった。
それが417月、関東軍特種演習と称して関東軍を35万から80万体勢への増強、仏印進駐となった。

関東軍特種演習と仏印進駐

< 3. 関東軍特種演習と仏印進駐 >
 
日米の差は資源産出力で数百倍、兵器生産力は十倍近くあったが、進めて来た開戦準備により、開戦当時には、日本の保有艦船は米を少し上回り、石油備蓄も1年以内の戦闘なら可能となっていた。
一方、米は40年から被侵略国向けに兵器増産を始めており、開戦が遅れれば遅れるほど、日本は勝つ見込みは限りなく零になる。
さらに造船工期は2年を要するので初期に米艦隊を叩き(奇襲)、1年以内の短期決戦なら勝利が可能とし、その時期は41年の出来るだけ早い時期とした。

開戦の年も、日本の方針は相変わらず定まらず、米を恐れながらも、「日米開戦に備え、さらなる資源と権益確保を推し進め、交渉決裂時は開戦をも辞さず」の矛盾した両論併記であった。
41年初頭から日米で和平を模索する交渉を始めていたおり、「中国からの撤退」は終始、日米互いに譲れない条件であったが、日本は楽観論と強硬論で揺れ動いた。
4111月、ハル・ノートが米から提出され、日本軍の中国からの撤退要求は決定的となった。
こうして開戦を決意しながら日米交渉に挑み、呑むことの出来ない要求で決裂し、真珠湾攻撃となった。

米の思惑と動き
米も1920年代より、日本をオレンジ計画で交戦可能国の一つとして見なしていたが、国内世論もあり、欧州とアジアへの介入意志はなかった。
しかし、ヒトラーの動向(再軍備)、日中戦争勃発と枢軸国の膨張が続き、日独伊防共協定が締結されるに及んで、ルーズベルト大統領は37年に反枢軸国への援助を公言した。
まだ米国内では参戦への反発が強かった。
この後、日独の現実の侵攻、特に40年の日独伊三国同盟への制裁として、大統領は段階的に経済封鎖(ABCD包囲網)を行った。
日本はこの致命的な経済封鎖すら、米が実施しないと当初楽観視していた。

40年末、再選された大統領と米軍部は、欧州参戦を優先しながらも、日米開戦もやむなしと考えた。
この頃、日米の指導者達は共に、国民向けに強気の発言を行うようになっていた(牽制の為か)。
米は40年に日本の暗号解読を完成させ、秘密裏に画策していた日本の開戦意志と侵攻準備を無線傍受により事前に察知していた。
さらにヒトラーへの後手の対応への反省、日本の勢いづく侵攻拡大、高まる英ソの敗北危機、米は放置出来ないとし日本との戦争を不可避であるとした。
米は欧州戦線を優先しながら日本に対抗するには、日本軍が太平洋で戦域を伸ばした所を航空兵力で叩き、数年後の勝利が得策と判断していた。
日本は艦船を重視したが、米は太平洋戦では防御より航空機での攻撃が有利とし、開戦時で3倍、2年後で7倍も航空機を保有した。

艦隊戦力と航空戦力

< 4.艦隊戦力と航空戦力 >

米は長らく他国の紛争には関わらないモンロー主義(孤立主義)を貫いていたので参戦する場合、相手が先に攻撃し、国民世論が沸き立ってから、迎え撃つ態度をとり続けていた(両大戦共)。
こうして「リメンバーパールハーバー」は米国民を一気に参戦へと勢いづかせた。

最後に
これが第2話の中條氏の指摘「米は日本を戦争に追い込んだ」の真相です。
皆さんは、この両国の対応をどう見られますか?

次回、このような対応をした日本の指導者達の心理を重光氏の手記から読み解きます。