20170503

何か変ですよ! 56: 今ある恐怖 1




  

< 1.米財務長官 >


今、私は漠然とした恐怖を感じている。
それは日本だけでなく米国、中国、ヨーロッパなど世界に通じるものです。
これから、この巨大で徐々に姿を現しつつある恐怖について語ります。


はじめに
日々のニュースから、私は日米欧先進国の社会で大きな濁流が起きているように思える。
しかも、それが益々巨大化しているにも関わらず、多くの人々はその兆候と恐ろしさに無頓着のように思える。
私はこの世界の行き着くところを想像すると恐ろしくなる。

歴史を振り返ると、まったく同じ状況は存在しないが、不幸へと突き進む同じメカニズムが働いているように思える。
それは一度、蟻地獄に落ちると、もがけばもがくほど抜け出せなくなる状況と似ている。

それでは幾つかの恐怖の正体を見て行きましょう。


米国で起きていること
如何に大統領が変わろうと、世界最大級の投資銀行ゴールドマン・サックスの幹部が必ずホワイトハウスで経済と金融政策を担当することになる。
クリントン、ブッシュ、オバマ、トランプなどが、選挙戦で如何に綺麗ごと―金持ちの味方ではなく庶民の味方だと、言っていても同じ結果になる。
それはなぜなのか、ゴールドマン・サックスの彼らが、ずば抜けて優秀で強欲だからか、それとも経済運営と選挙資金集めに不可欠だからか。

細かい解説は専門家に任せて、我々は全体を俯瞰することで米国の空恐ろしい状況を知ることが出来るはずです。
これから語ることは厳密さよりも大きな流れを感じることを目指しています。


 
< 2. 米国の大統領選挙費用の推移 >

選挙費用は年を追って巨額になっている。
集金能力の高い人か、はたまた自分のポケットマネーで選挙費用を賄える超金持ちしか大統領になれない。
結局、選挙を制するのは資金の多寡かもしれない。


 
< 3.ゴールドマン・サックスの業績 >

この20年間、この投資銀行の業績はうなぎ登りと言える。
この間、この企業は大きな問題だけでも、1998年のLTCMヘッジファンドの破綻、2007年のサブプライムローン、2010年のゴールドマン・ショックなどに関わって来た。
この手の金融企業大手(ビッグ・シックス)は、米国だけでなくメキシコ、ロシア、アジア、ヨーロッパなど、それこそグローバルに世界経済を危険に陥れる投機に走り、その都度ホワイトハウスに助けられ飛躍し、我が世の春を謳歌している。
尚、クリントン政権の誕生は1993年でした。


例えばヘッジファンドに限て見てみよう。注釈1.
米国のファンドマネージャーが2015年の1年で1700億円を稼ぎました。
これは一つの産業の売り上げではなく一個人の収入なのです。
米国のヘッジファンドの運用総額は300兆円弱あり、毎年の運用益10%、マネージャーの成功報酬20%として6兆円をマネージャーが山分けすることになります。
当然、投資・投機の運用総額はこれの数倍あり、これに釣られて強欲に走るのは無理のないことかもしれない。
誰かが監視すべきだが・・・・。

なぜ毎年運用益の実績が10%近くあるのでしょうか?
通常、莫大な資金を製造業に投資してこれだけの利益を出し続けるのは不可能です。
方法としては、画期的なコンピューター・プログラムで株等の自動取引を行い莫大な利鞘を稼ぐか、はたまた企業買収を繰り返す手があります。
しかし最も稼いだのは一国の為替取引やサブプライムローン(不良債権を紛れ込ました証券)の売買でした。
その売買はレバレッジ(担保なしの高額の借金)を利かせた先物取引等で行われます。

この一見合法的な取引の果てに、毎回、世界各国は金融危機に陥り、多くの失業者と命を縮めた人々を生み出して来たのです。
不思議な事に彼らが成功しても失敗しても、ほぼ同じ結果になります。
言い換えれば、そこには必ず強奪された莫大な資金か、強奪に失敗した莫大な借金があるからです。

彼らは優秀な頭脳によって日々新たな方法を開発し、儲かるとあればどのようなものでも互いに先を競って売買します。
その結果が国家や国民を如何に破綻に追い込むかは、彼らには無縁で、責めを受けることもほとんどありません。
金額が巨額なだけに失敗した時、国は必ず彼らを助け、多少見逃してくれるし、頼めば規制を取り除いてくれる(政治家に見返りが入る)。

しかし彼らが稼ぐ為に最も不可欠なものとは何でしょうか?
それは国が貨幣供給量を増やし続けることです。
一度、貨幣発行をゼロにすればその効果がわかるのですが、他の経済活動も停止してしまうので出来ません(恐慌)。
もっとも中国のように強引に投機資金を制御すれば別ですが。


 
< 4.米国の貨幣供給量 >

Ⅿ2(赤い線):現金通貨と国内銀行等に預けられた預金を合計したもの。
簡単に言えば、景気が良くて経済成長する時は赤線の貨幣供給量が増大します。
しかし増加し過ぎるとバブルが発生しますので、中央銀行は調整します。

現在、世界の多くが貨幣供給量を増やし続ける政策を採っていますが、中でも米国は際立って多い。
日本はアベノミックスの前までは、長らく貨幣供給量を押さえてバブル発生を抑えて来ました。


 
< 5.米国の商業銀行の収益 >

貨幣供給量が増え始める1980年代から、金利以外(投資・投機)による収入が増加しているのがわかる。
最近のデーターはないのだが、その後を予想することは可能です。
これが金融界に富をもたらし、この富によって大統領選挙を通じてホワイトハウスが支配され、さらに富が一部の金融家に集中するようになったと考えられる。
尚、この端緒は1981年のレーガン大統領誕生でしょう。

20世紀の始め、世界は米国発の大恐慌とそれに端を発する世界大戦を経験し、米国は先頭を切って元凶となった無謀な金融行為を禁止する法を制定した。
しかし米国の規制緩和、俗に言う金持ち優先の政策はその後、表面を繕いながら着実に進められて来た。
米国民はなぜこの経済・金融政策の転換を傍観して来たのか?
一つには、ホワイトハウスが「米国の経済・金融がグローバルな競争に生き残る為の規制緩和が必要」と説明して来たからでした(他にも理由はある)。
この1933年に制定されたグラス・スティーガル法(規制法)は、1999年ついに廃止された。


 
< 6.米国政府の債務 >

国民は米国の金融が世界をリードすれば米国経済は復活すると信じ込まされて来た。
国民は確かにバブル絶頂期の度にそれを確信することが出来ただろうが、必ず訪れるバブル崩壊後、また裏切られることになる。

この裏で、国民がおそらく実感していない深刻なことが起こっていた。
世界経済を幾度も破綻寸前まで追い込んだ金融家達を、ホワイトハウスは恐慌にしない為と言い、莫大な公的資金をつぎ込んで救って来た。
それは数百兆円の国債発行となって累積債務が膨らみ続けている。注釈2.
現在、一人で毎年数十億円を越える所得を得る強欲な金融エリート達が蔓延る一方、将来、その後始末として国民はその借金を広く負担することになる。
おそらくインフレか増税で、これは所得の低い人ほど厳しく圧し掛かる。

こうして、危険な博打うち(投機的な金融家)ほど高収入を得て、博打が失敗したら国が助け累積債務を増大させて来た。



 

< 7.米国の所得 >

一方、米国民が選挙で必死に選んだ大統領は何をしてくれたのだろうか。
馬鹿げたことに、1980年代から米国の富がほんの一部の金持ちだけに集まる仕組みをホワイトハウスが作っただけだった(税制と金融政策が大きい)。

これでは溺れるも者は藁をも掴むとの諺通りであって、トランプを選んだ人々を責めるのは酷かもしれない。
別の選択もあったかもしれないが・・・・。



 
*8


問題を要約してみよう
一つの問題は、あたかも地球が強欲な金融資産家らによって牛耳られるようになったことです。

この端緒は20世紀始めの米国に遡るが、1980年代より本格化し、欧米が自由主義経済圏の中で競っている内に、各国がこの泥沼から抜け出すことが出来なくなってしまった。

各国は競争の為に労働者の賃金や法人税、為替で叩き売りをせざるを得なくなった。
またあらゆる企業は巨大化し、規制を外すことで競争に勝たなければならなかった。

さらにインフレ退治と兌換紙幣の制約から逃れる為に、世界各国は自由な貨幣供給体制を選択し、自国の経済成長を自在に制御することを目指した。
この過程で、金融資産家が米国を筆頭に幅を利かせるようになっていった。
そして現在の状況に陥ってしまった。

この状況は、今までになかった新しいタイプの災厄だろう。

歴史を紐解くと、ロ―マの衰亡に似ているかもしれない。
ローマは初期に共和制だったが、軍によって領土拡大と成長を続ける内に軍が実権を掌握し、帝政へと変貌する。
しかし、軍の維持と特権層による富の集中(圧倒的多数になった貧困層)はやがて社会を疲弊させた。
そしてあれほど巨大さを誇ったローマは、いとも簡単に野蛮な民族に打ち破られた。

これからの米国は軍産共同体だけでなく、むしろ自己増殖する金融資産家らに益々支配されていくことだろう。
このメカニズムはまったくローマと一緒と言える。

つまり自己崩壊するか、他者により止めを刺されるまで暴走し続けるしかないのかもしれない。


もう一つ恐れていることがある
上記の状況分析は心ある学者により既に指摘され続けていたことで、私はこのブログで幾度も書いて来た。
一言で言えば、後ろから押されて崖っぷちに追い込まれているのに身動き出来ない恐ろしさです。

問題は、現代文明をリードする国民が、この自明とも言える状況を今まで何ら改善出来ず、むしろ加速させて来たことです。
そしてついにトランプと言う危険なカードを引いてしまった。
無害で済めばよいのだが。
米国の状況は今後、雪だるま式に歪が拡大することになるか、予想外に早く崩壊するかもしれない。
その引き金がトランプでなければ良いのですが。

なぜ人々は、この状況を変えることが出来なかったのか?
考えられるのは米国民がこの事実を知らないからか、またはカモフラージュされて見えていないからか。
それとも例え皆が知っていても、現状の大統領選挙制度等では国民の望む改善が出来ないと諦めているからか。


 

< 9. 米国のGDPと失業率 >

トランプが非難したNAFTA1994年の北米自由貿易協定)は逆に米国の失業を減らしているように見える。
失業を増やしたのはバブル崩壊です。


 
< 10. 米国の人種別失業率 >

このグラフからは、今回、トランプを選んだラストベルトの白人労働者が訴えた、移民によって職を奪われたと言うことを確認出来ません。
むしろ白人の失業率は低く、アジア人を除いてヒスパニックや黒人の失業率が拡大している。

つまりメキシコが悪の元凶だとは言えないのに、スケープゴートすることにより国民を真の問題から遠ざけているように思える。
そして大半の人々がその手に乗せられたと言える。

この状況で思い当たるのは、ナチスの行ったことです。
ヒトラーがドイツ国民を煽動する為に訴えたのは「ユダヤ人排斥、共産主義排除、軍事力による帝国の再興」でした。
この内、ユダヤ人排斥は帝国の再興に最も意味をなさないように思えるが、国民の憎悪を高め、国民を一つにまとめるには有効だった。
これでヒトラーは力を得たが、その一方で無実の人々が多数死んでいった。

歴史上、このような壮絶な例は他にはないだろうが、国内問題や真の問題から目を逸らす為に為政者はスケープゴートを繰り返して来た。
トランプの成功の一つは、この巧みさにあったと言える。
この手のまやかしが上手いことと、国民の為の政治を上手く行えることとは別です。

残念なことに、今、現代文明をリードする先進諸国で、あたかも共鳴するように同じ扇情、スケープゴート、が起こっている。

私はこの扇情に踊らされている状況を恐れています。


実は、世界はこれと関わりながら新たな恐怖に晒されつつあるのです。
そのことについて次回考察します。



注釈1.
「超一極集中社会アメリカの暴走」小林由美著、p76-79.

注釈2.
「大統領を操るバンカーたち」ノミ・プリンス著、p350.







20170501

海外旅行のすすめ 5: 初めてのヨーロッパ 4





< 1. ドイツの鉄道 >
おそらくはニュールンベルグからフランクフルトまでの移動に使った鉄道の駅にて撮影。


今日で、私の初めてのヨーロッパ旅行の紹介を終えます。
当時の写真がありましたので掲載します。


写真について
写真は1984年11月18日から25日までの間に撮影したものです。
記入の撮影場所はおぼろげな記憶にもとづいていますので参考程度です。



< 2.いざヨーロッパへ >

上の写真: アンカレッジ空港。
当時はヨーロッパに行くのにアジア大陸(ロシア)上空を飛べ無かったので、ここに寄り北極海上空を飛んだ。

下の写真: コペンハーゲンの駅。
コペンハーゲンで宿泊したホテルの直ぐ近くにあった。



< 3. コペンハーゲン >

上の写真: コペンハーゲンの河口。
ホテルから4km離れている。

下の写真: 街並み。





< 4. コペンハーゲン >

下の写真: おそらくは宮殿の衛兵の交代前後の行進。




< 5.北欧の郊外 >

おそらくはデンマークかスウェーデンの郊外の集合住宅。





< 6.スウェーデン >

上の写真: おそらくはスウェーデンのガブルの駅構内。
自由に入って撮影。

下の写真: おそらくはストックホルムからガブルへの北上途中。




< 7.ドイツ >

おそらくはニュールンベルグかフランクフルトのバスの車窓から撮影か。







< 8.ニュールンベルグ >

中央に見える円柱の建物はニュールンベルグ旧市街を囲む城壁の正門跡。
この門は旧市街の南東にある。




< 9.ニュールンベルグ >

上の写真: ニュールンベルグのマルクト広場に向かっている。
おそらく遠くに見える二つの尖塔は聖ゼーバルドゥス教会で、その手前に広場がある。

下の写真: おそらくニュールンベルグの通り。
写真を見ると、通りを行きかう人の当時の服装がわかって面白い。


私は初めて、ニュールンベルグでヨーロッパのマルクト広場を見ることになった。
中世の建物や荘厳な教会に囲まれた広い広場、そして溢れる賑やかさに私は興奮した。
時折、今でも当時の新鮮な感動を思い出すことがあります。

そこでは、かって市民が集まり決起する歴史的な事件があったことだろう。
この後、数多くのヨーロッパの都市を訪れ、その歴史に触れる度に胸が熱くなることがある。

私にとって海外旅行は、その都市とそこに生きる人々の葛藤や喜びを感じることが
出来ることです。
そこに立ち、歴史を知ることで、その共感はより深まります。

この都市で大戦後、ニュルンベルク裁判が行われた。
この旧市街が大戦時、連合国軍の空爆で完全に破壊された後の再建だとは当時知らなかった。
他のヨーロッパの旧市街を幾つも訪れたが、人々は諦めることなく、私は素晴らしい再建を行ってことに敬服した。




< 10. フランクフルト >

おそらく帰国時の飛行機からの撮影でしょうか。


これで初めてのヨーロッパ旅行の紹介を終えます。
次回から別の旅行を紹介します。




20170429

Bring peace to the Middle East! 76: Why was it exhausted ? 14: What happened in Congo ? 2

中東に平和を! 76 なぜ疲弊したのか 14: コンゴで何があったのか 2



< 1. Leopold II of Belgium >
< 1.ベルギー国王レオポルト2世 >


A king who didn't look like cruel person left a permanent scar on Congo.

冷酷非情には見えない王が遺したもの。





<2. Belgium and the Congo Free State >
< 2. ベルギーとコンゴ自由国 >

Dawn and the beginning of tragedy
Here was the Kingdom of Congo with a population of 2 - 3 million people since the 14th century.
In 1482, Portugal, a pioneer in the Age of Discovery, discovered this kingdom and the two kingdoms began diplomatic relations.
The king of Congo became Catholic and began to actively adopt Western civilization (the technology and institution).
However, many slave merchants became working behind the scenes, and conflicts of slave hunts among tribes were intensified for obtaining guns.
The next king that felt a sense of crisis about the slave trade appealed to king of Portugal and but it was ignored.
Before long, the kingdom was adding another layer of confusion due to expanding slave hunts, the spread of guns, and repeating throne succession war.

But this was only a beginning of tragedy.
Eventually the Portugal withdrew, and France replaced it in the 17th century, began to trade of slave and ivory with the Kingdom of Congo.
After Western Europe experienced the industrial revolution, in the end of the 19th century when the slave trade declined, each country began competing for obtaining a colony in the last continental Africa. 
In 1884, Western powers decided to divide Africa at the Berlin Conference, this area was divided by France and Belgium, and finally the kingdom of Congo disappeared.


黎明と悲劇の始まり
ここには14世紀から続く人口200~300万人のコンゴ王国があった。
1482年、大航海時代に先鞭をつけたポルトガルがこの王国を発見し、両王国は国交を開始した。
コンゴ王はカトリック教徒となり、西欧文明(技術、制度)を積極的に取り入れ始めた。
しかし奴隷商人が暗躍し、銃入手の為に奴隷狩りによる抗争が部族間で激化した。
次の王は奴隷貿易に危機感を持ちポルトガルに訴えたが無視された。
やがて王国は拡大する奴隷狩りと銃の蔓延、度重なる王位継承戦争で疲弊の度を深めていくことになる。

しかしこれは惨劇の序章に過ぎなかった。
やがてポルトガルは撤退し、17世紀にはいるとフランスが進出し、奴隷と象牙の貿易を行った。
西欧は産業革命を経て、奴隷貿易が衰えた19世紀末になると、各国は最後に残ったアフリカで植民地の獲得競争を始めた。
1884年、欧米列強はベルリン会議でアフリカ分割を決め、この地はフランスとベルギーによって分割され、ついにコンゴ王国は消滅した。




< 3. Atlantic slave trade >
< 3.大西洋奴隷貿易 >

In the centuries, the slaves who were taken away from the Guinea bay in Africa ranged from 1,000 million to 20 million people, perhaps the area was robbed of a half of the population and the society was seriously damaged.

The eastern area that occupied the majority of the Congo became the private estate of Leopold II of Belgium (Congo Freedom Country).
At first, the king advanced modernization of the country, but it turned into tyranny when it became a deficit.
The indigenous peoples were forced to be slaves and were thoroughly forced to work to gather ivory and rubber.
At that time, even in European countries that it was natural to exploit colonies, the tyranny was hard criticized.
Unwillingly Belgian government bought the Congo Freedom Country from the King of Belgium and it became colonial Belgian Congo (1908 - 1960).

On the other hand, small areas on the west side became French territory.
France entrusted the development of the Congo to a white company and it carried out exploitation thoroughly.

These tyrannies laid waste to the society and prepared a path that would become a country where violence and dictatorship occurred frequently even if they would be independent.


この数世紀の間に、アフリカのギニア湾から連れ去れた奴隷は1000~2000万人にのぼり、おそらくは人口の半数が奪われ、社会は大打撃を受けた。

コンゴの大半を占める東側の地はベルギー国王レオポルト2世の私有地(コンゴ自由国)となった。
当初、国王は近代化を推し進めたが、赤字になると暴政へと転換した。
現地住民は奴隷にされ象牙やゴムの採集に徹底的に使役された。
当時、植民地で収奪することが当然の欧州諸国においても、この暴政は非難の的となった。
しかたなくベルギー政府は国王からコンゴを買い取り、植民地ベルギー領コンゴ(1908年 - 1960年)となった。

一方、西側の小さな地はフランス領となった。
フランスはコンゴの開発を白人企業にゆだね、白人企業は徹底した搾取を行った。

これらの暴政が社会を荒廃させ、独立しても暴力と独裁が横行する国家となる道筋を準備した。



*4

The tyranny of the King of Belgium
In the Congo Freedom country (1885-1908), the King monopolized the trade of ivory and rubber, and gained enormous wealth.

At that time, a demand for Congolese natural rubber for automobile tires was robust.
While eight years of its latter half, the rubber production increased by 24 times, but it was due to the harsh a quota system that indigenous people was imposed on.
If the people could not achieve the quota, their hands and feet were cut.
In addition, the population has decreased to 9 million from 30 million of the initial stage.
The number of people killed was comparable to the Jewish massacre (Holocaust).

The army founded by the king was commanded by white officers and the soldiers consisted of indigenous warriors and slaves.
The purpose of this army was not to maintain security, but to overwork the people (indigenous people that became slave).
The army whipped the people, kidnapped the women and children of those who did not comply with the quota, and burned down the village.
The soldiers had to submit to the superior officers a human hand that was cut as a proof of ammunition that they used for the subjugation.
This purpose was only to prevent using wasteful bullets.

In addition, the King aimed to expand own territory.
When a tribal king of the south side (Zambia) partnered with a British national policy concern, he sent the army, shot to kill the king and changed a puppet king.

This continues to the next time.



ベルギー王の暴政
コンゴ自由国(1885-1908)において、王は象牙とゴム取引を独占し巨万の富を得た。

当時、自動車タイヤ用にコンゴの天然ゴムの需要は旺盛であった。
後半の8年間でゴム生産量は24倍になったが、これは先住民の過酷なノルマ制によるものだった。
ノルマを達成出来ない住民は手足を切断された。
また人口は当初の3000万人から900万人にまで減少した。
殺された人数はユダヤ人虐殺(ホロコースト)に匹敵した。

王が創設した軍は白人の将校が指揮し、兵は先住民の戦士や奴隷からなった。
この軍の目的は治安維持ではなく、国民(奴隷にされた先住民)を酷使する為であった。
軍は国民を鞭打ち、従わない者の婦女子を誘拐し、村を焼き払った。
兵は討伐時の弾薬使用の証明として切断した手を上官に提出しなければならかった。
これは銃弾の無駄遣いを防止する為であった。

また王は領土拡大を目指し、南部(ザンビア)の部族長が英国の国策会社と手を結ぶと、軍を送り彼を射殺し、傀儡を据えた。

次回に続きます。


20170426

平成イソップ物語 16: 蜘蛛と花




 
*1


ある所に花々が咲き誇る谷がありました。


 
*2


花たちが悲鳴を上げています。

「キャー、私の体(葉っぱ)が青虫に食べられている。」

花たちが困っていると、隣の木立の中から声が聞こえました。

「私達が助けてあげましょうか?」

「蜘蛛の巣であなた方を覆ってあげれば、青虫が蝶になって飛んで行くとき、捕まえることが出来ます。」

「もうこれで青虫はあなた方に着くことが出来ない。」


 
*3


花たちは言いました。

「蜘蛛さん、ありがたいのですが、一つお願いがあります。」

「蜘蛛の巣の目を大きくして、小さな蝶は通れるようにしてください。」


蜘蛛は答えました。

「それは簡単なことです。それではさっそく蜘蛛の巣を張りましょう。」


 
*4


その後、大きな蝶と大きな青虫の姿が消え、替わって小さな蝶たちが受粉してくれたので花は咲き続けることができました。

しかしさらに月日が経つと、その谷から花は消え、蜘蛛の巣が野原を覆うようになりました。

それは蜘蛛たちが増え、蜘蛛の巣の目を小さくした為に、小さな蝶も捕まえてしまったからだとさ・・・・



 
*5

おわり。


注釈1.
これは日本政府が米国家安全保障局(NSA)に協力して、国民を監視している状況を揶揄したものでは決してありません。
純粋に自然界の摂理を謳いあげたものです。
他意はありません。
どうかこのブログも監視されていないことを切に望みます。

20170425

海外旅行のすすめ 4: 初めてのヨーロッパ 3





*1


今日は、北欧の企業見学でわかった事、また北欧と日本の違いについて書きます。



*2


企業見学
私達はデンマークの2社、スウェーデンの2社を訪問しました。




< 3.デンマークの2社 >

デンマークの2社は先端技術を生かして中規模ながら世界を相手に活躍していました。
Brüel & Kjærは音響計測器メーカーで、Dantec Dynamicsはレーザー測定器メ―カーです。




< 4. ASEA社 >



< 5.Sandvik社 >


スウェーデンの2社は良く知られた大企業でした。
ASEAは電機メーカーでロボットメーカーで知らています。
現在は合弁してABBグループの一員です。
Sandvikは製鋼や建設機械製造を行っているが、超硬の切削工具でよく知られています。


感銘を受けたこと
Dantec Dynamicsについて話します。

従業員は350名ながら、世界相手に自らの販売網を持っているとのことでした。
当時、製造の人員は175名で開発に70名を擁し、先端技術のシーズを追及していくとのことでした。
そして現在も活躍している。

工場内の電子回路ユニットの完成品検査を見て驚いた。
10名ほどが一つのテーブルを囲み座って検査をしており、彼女らはユニフォームを着ておらず、その作業はのんびりしていた。
日本なら、ユニフォームを着て、流れ作業か、各自バラバラに座り、時間に追われるように作業していただろう。

私はこの作業風景に疑問を持ったので質問した。
管理者の返事は、作業者の尊重と完全な検査を最重視しているとのことでした。
この企業は大量生産品を作っていないこともあるが、他の工場見学も併せて考えると、北欧の労働慣習はやはり日本と大きく異なる。
日本には、ここまで労働者を尊重する文化は無い。
一つには、日本は大量生産体制で安価を売りにする企業が主流だからだろう。
最もこれを可能にしているのまた日本の文化(強い帰属意識)だろう。

最後に、外注比率について質すと、驚いたことに、外注比率がゼロだと言うのです。
日本の産業は、大企業と多数の下請けの小企業からなり、二重構造と呼ばれています。
私は北欧全体の産業構造について確認していませんが、様々な観察を総合すれば日本のような二重構造が生まれる余地は無いように思えた。
日本の二重構造は戦時中に作られた軍産一体化に始まるのですが、これが生き残り続けるのは北欧と異なる日本の社会意識(労働者意識)の低さにあるのだろう。

この視察旅行で、私は大いに感銘を受け、また幾つかの疑問を解消し、国の違いについて理解を深めることが出来ました。
しかし残念なことに、この時に知り得たことを企業で利かすことが出来ず、また現在の日本は北欧の水準に近づくどころか差が開いている。
例えば、2015年の一人当たりのGDP(購買力平価ベース)ランキングはスウェーデン9位、デンマーク14位に対して日本21位です。
日本の時間当たりの労働賃金は更にランキング順位を落とす。

当時は北欧と日本の違いに無念さを感じたが、いつかは良くなるとの希望を抱き帰国したものでした。


北欧の視察から学んだこと
私はこの視察旅行に出発する前、スウェーデンに抱いていたイメージは、「フリーセックス」と「福祉国家」ぐらいでした。
当時のマスコミの流す情報がそうでした。

しかし3日間ほど現地を巡っている間に、人々の意識に男女平等と権利の尊重(労働者)が根付いており、それが共稼ぎや家庭重視に表れていると感じた。
このことが一人当たりのGDPの高水準に結びついているのでしょう。

さらに北欧全般について言えると思うのですが、知識や科学を重視しこそ寒冷気候の狭い農地で暮らしていけるのでしょう。
現在、スウェーデンの穀類の自給率は高い生産性により120%ある。

またスウェーデンの福祉政策を知ることが出来ました
当時、高齢者はそれまでの住居を離れ専用の建物の個室に住み、世話を受けるシステムになっていた。
私は一人暮らしの寂しさを少し感じたが、不安のない老後を提供出来る国を羨ましく思った。

「彼らは日本のようにあくせく働いていないのに、この違いはどこから来るのだろうか?」と思ったものでした。

この福祉国家への道は、19世紀末から徐々に労働運動によって盛り上がり、議会制民主主義によって選び取ったものでした。
また第二次世界大戦では、兵力と中立外交で、戦わず他国に侵略されることなく、無傷でいられたことも幸いしている。
彼らは運が良かったわけでもなく、富に恵まれていたわけでもない。

現在、スウェーデンの福祉政策は幾つかの反省から介護サービス主体に変わっているが、介護の主体が家族ではなく地域社会で行う姿勢は変わっていないようです。
日本はこのスウェーデンの介護システムを参考にしたはずです。

残念なこと
北欧二ヵ国を巡って残念に思ったこと、実は日本のことなのですが。
この北欧の体験は、私の励みになり、また反省にもつながりました。

個人的には、男尊女卑ではなく男女平等、会社中心ではなく家族や暮らし重視の姿勢に考えさせられました。
私は団塊の世代に通じる意識から抜け出すことが困難でしたが、時折は反省するようになりました。

社会的には、日本の遅れを痛感しました。
一部しか見ていませんが、二重構造のない産業、権利擁護、福祉政策でスウェーデンは進んでいました。
そして今も日本は遅れたままです。

さらに加えて残念に思うのは、皆がこのスウェーデンの良さに無関心で誤解さへしていることです。
周囲の人と話していて感じることは、外国の良さを指摘する度に反論されることが多い。

「ここは日本で、日本流のやり方が似合っている。当然、日本の方が素晴らしい。」

海外に行ったことも無く、外国の長所欠点を知らずに思考停止するのは残念です。

外国と日本の違いを知ることで、日本を良くするには何をすべきが見えてくるのです。



< 6.幸福度 >
 
もう一つ気になるのは、行ったことも無いのにスウェーデンを否定的に見ている人がいることです。
私の推測ですが、米国寄りの保守的なマスコミはスウェーデンなどのような社会主義的な国や福祉国家を低く評価し報道しているようです。
こうすれば、幸福度などのあらゆる重要なランキングで日本が日を追って低下し、北欧などに差を開けられることから目を逸らすことが出来ます。

当然、スウェーデンにも欠点はありますが、自ら社会を変革し国民の幸福度を高めて来た経緯とその現実を知ることは重要です。

これが私が海外旅行を薦める理由の一つです。



次回に続きます。





20170421

平成イソップ物語 15: 「津波とモグラ」の補足



< 1.津波で残った一本松 >


前回投稿した「津波とモグラ」が何を意味しているのか解らないとの意見がありました。
ご指摘の通りだと思います。
ここに陳謝し、蛇足ながら説明したいと思います。


私が言いたかったこと

人々は今ある恐怖や不安に囚われて、往々にして理性的な判断が出来ず、目先の安心に飛びついてしまうことがある。

これは危機を先延ばするだけでなく、より深めることになる。

この手の愚を、社会は幾度も繰り返して来ました。

そして、この傾向は今の日本や欧米で顕著です。




 
*2

ミサイル防衛について
ここ数日、北朝鮮のミサイルに関して政府や与党からミサイル防衛や日米同盟の必要性が強調されています。
この意味を考えてみましょう。

例えば、迎撃ミサイルシステム(サード、パトリオット)を考えます。
日本が無数のイージス艦を日本海に配備し、陸上配備の迎撃ミサイルを全土に20km毎に配備しようが、北朝鮮のミサイルを完全に防ぐことは出来ません。
それはなぜでしょうか?

色々、想定できますが、一つは偽装船による近海からのミサイル発射です。
北朝鮮がこの技術を獲得するのは簡単です。
こうなれば、首都ぐらいは守れても本土全体を守ることは出来ないでしょう。

この手の落とし穴や矛盾はかつての米ソの核開発競争を振り返れば歴然としています。
核兵器の進歩はその都度、米ソの核ミサイル防衛構想を無に帰して来ました、例えば潜水艦発射ミサイルの普及のように。
結局は、互いに完全に破壊し尽くす体制をとることで、互いが馬鹿な攻撃を自制するだろうと言うことに落ち着いた。
米国の核戦略担当者から見ればこれも立派な抑止力でしょうが。
そして膨大な数の核兵器を作り、現在、大量の核ゴミに困っている。

ミサイル防衛は完璧ではなく、その後の多国間のミサイル開発競争を促進させるだけなのです。
例えば、イスラエルに核兵器を持たせたことによりイランが対抗して核開発を望んだように、またインドとパキスタンの関係も同じで、連鎖し拡大するのです。
一方、完全な迎撃ではなく抑止力を高める為に核兵器を保有する話もあります。
そこには相手が良識ある判断をするものと想定している落とし穴があるのです。
例えば、狂気のヒトラーにそれを期待出来たでしょうか?
特に核ミサイルについては、残念ながら物理的な迎撃手段は絶望的でしょう。

つまりミサイル防衛システム「モグラの堤」を作って、一時期のミサイルの脅威「津波」を防いだとしても、次の脅威の発生を招くことになるだけなのです。
むしろ抜本的な手を打つべきなのです。
そして新たな危機の前兆が「地中の水の流れ」であり、新たな危機が「洪水」でした。
一番の問題は、一時の安心の為に根本的な解決策を遠ざけてしまうことなのです。
この手の愚行は、かっての世界も現在の世界でもまかり通っているようです。

「モグラの母子が高台に逃れた」のは消極策のように見えるが、扇情に惑わされず、「津波と洪水」のどちらに対しても完璧な策を選んだことを示しています。


それであればどうすれば良いのでしょうか?
私は中国を動かすしかないと考えています。
中国は得体の知れない国ですが、例えば発展途上国への援助姿勢に良い変化が見られるように、私達は中国のすべてを拒否すべきではないでしょう。注釈1.

北朝鮮をいままで支えて来たのは、かつてはロシア、そして今は中国です。
中国にとっての北朝鮮は、かつての大日本帝国の防波堤であった朝鮮半島のような存在なので、中国はそう簡単には手放さないでしょうが。
しかし北朝鮮の暴挙を封じ込めるには中国しかないでしょう。

残念ながら、今の日本には中国を動かす力もなければ、相手も応じないでしょう。
なにせ現在、最も敵対しているのですから。


 
*3


少し全体像を俯瞰してみましょう
今、世界はイスラム国のテロに翻弄され、益々敵愾心むき出しの危険な状況に陥ろうとしています。

何がこの状況を作ったのでしょうか?
良く知らているように、この発端は9.11事件後の米国のイラク進攻にありました。

要点を言えば、米国がイラクの国家機能を完全に破壊したことにより、無法と無秩序の中からイスラム国が増殖して来ました。
私の連載「中東に平和を」でも解説しています。
この愚かな進攻は、大統領の人気、軍需産業と石油産業に恩恵をもたらしただけです。
これにより中東と世界が混迷しただけでなく、米国自身も莫大な国税(300兆円)を使い、この後、マスコミはホワイトハウスに従順になると言う大きな代償を払うことになりました。

リーダーの受け狙いの行動が、世界を困惑させた最も分かり易い例と言えるでしょう。
米国は世界の警察として重要な役割を果たしたこともあるが、一方でベトナム戦争のようにとてつもなく愚かな戦争もしている。

この点を鑑みれば、いつまでも米国に盲従して行くことは危険です。
きっとこのように言えば、誰が日本を守ってくれるのだとお叱りを受けることになるでしょう。

その答えは、米国が守ろうとしたベトナムの末路を見ればわかります。
米国は、南ベトナムの傀儡政権を守る為に、ベトナム全土を焦土にし、800万人が死にました。

なぜなら米国にとって最大の関心事は共産化を太平洋の果てで食い止める事にあったのですから。
もっとも北ベトナムと言う敵があってのことですが。
どちらにしてもこの愚かな戦争拡大の経緯は私の連載「戦争の誤謬:ベトナム戦争」で解説しています。

いざ有事の時に何が日本列島で起きるかは容易に予想がつくはずです。
もっとも小規模な衝突で紛争が止まるなら、日米同盟は役に立つかもしれませんが。

私が心配する大きな危機の一つがこれです。


最後に
上記に示したような危機への対応を寓話に例えることに無理がありました。
しかし、理詰めで説明するだけでは、今起きている危機を身近に感じることが難しいとも思っています。

これからも世界の歴史、社会、経済、文化について懲りることなく書いていきますが、よろしくご理解のほどをお願いします。
ご意見と批判を歓迎しますので、どしどし御寄せください。

ありがとうございました。




注釈1. 
JICAの研究員が指摘されていました。
この人は、世界各地の開発支援をつぶさに視察されたそうです。
以前は、中国が発展途上国に融資し建設し始めると、多くの中国人労働者が現地で工事をしていた。
その後、現地からの指摘があって中国は方針を変更し、現在は建設現場に中国人がほとんどいないそうです。
中国の融資額は増えているそうです。
私達の知らないところで、中国に変化が起きているのです。






20170420

Bring peace to the Middle East! 75: Why was it exhausted ? 13: What happened in Congo ? 1


中東に平和を! 75 なぜ疲弊したのか 13: コンゴで何があったのか 1




< 1.  a mine in Congo  >
< 1.コンゴの鉱山 >

We are going to see how colonized countries were destined to become exhausted country. 
I will mainly focus on Congo in Africa. 
We will know there is the same situation as in the Middle East.

これから、植民地化された国がどのように運命づけられたのかを見ます。
主にアフリカのコンゴを中心に考察します。
そこには中東と同じ状況がありました。




< 2. the tragedy of Congo >

< 2.コンゴの悲劇 >

Congo Crisis, Congolese refugees, the murdered President Lumumba, and the dictator President Mobutu.

コンゴ動乱、コンゴ難民、殺害されたルムンバ大統領、独裁者モブツ。

Introduction
Without exception, African countries had begun to be invaded by Western Europe as early as the 15th century, became completely colonized by the end of the 19th century, and accomplished independence in the middle of the 20th century.
Many are still suffering from civil war, poverty, and corruption politics.
There is a common factor in the Middle East and South America.


はじめに
アフリカの国々は例外なしに、早くは15世紀から西欧に侵犯され、19世紀末には完全に分割され植民地となり、20世紀中頃にやっと独立を果たしました。
多くは未だに内戦、貧困、腐敗政治に苦しんでいます。
そこには中東や南米に見られる共通の病根が存在します。




<  3. the kingdom of Congo >
< 3. コンゴ王国 >

The capital city of kingdom of Congo ( the 17 - 18th century), a mask of Congo (today), a bronze statue (the 12 - 15th century) and a bronze ware ( the 9 - 10th century) in Nigeria, and a ivory horn of Congo ( the 14 - 17th century).

コンゴ王国の王都(17-18世紀)、コンゴの仮面(現代)、ナイジェリアの青銅像(12-15世紀)と青銅器(9-10世紀)、コンゴの象牙製ホーン(14-17世紀)。





< 4. Congo >
< 4. コンゴ >

Upper map: the distribution of Bantu languages that Congo belongs in.
Lower map: the Kingdom of Congo.

上の図: コンゴが属するバントゥ―語族の分布。
下の図: コンゴ王国。


Why do I choose the Congo?
The Congo in Africa can be said to be a miserable representative.
A number of dictators appeared in this country, the ethnic groups came into collision, and there were some civil wars to have killed many people.
Even now, in the Congo the economic downturn, the high mortality rate of infants and the high poverty rate continue, and only Congo is to left behind while other countries are beginning to grow.

This area has a jungle and savanna spreading in the vast basin where a long Congo River flows.
The area is comparable to most of Western Europe.
Here, there was the Kingdom of Congo that began in the 14th century, controlled a number of small countries, manufactured ironware and had a vast trading network.
That capital city had exceeded the population of London in the 16th century.

The language of Africa is diverse, but the Congolese language belongs to the Bantu language that occupies one third of Africa, and the Congo is located in the center.
This language family more quickly had used the ironware, advanced southward and expanded.


なぜコンゴなのか
アフリカの中でもコンゴは悲惨な代表と言えるでしょう。
この国では数多くの独裁者が出現し、民族が分裂し、多数の死者を出した内戦がありました。
現在も経済の低迷、幼児の高死亡率、高い貧困率が続いており、他の諸国が成長を始めているのに取り残された感がある。

この地は長大なコンゴ川が流れる広大な盆地にジャングルとサバンナが広がっています。
その面積は西ヨーロッパの大半に匹敵します。
ここには14世紀に始まるコンゴ王国があって、多数の小国を従え、鉄器を製造し広大な取引ネットワークを持っていた。
その王都は16世紀においてロンドンの人口を上回っていた。

アフリカの言語は多様だが、コンゴはアフリカの1/3を占めるバントゥー語族に属し、ちょうど中央に位置する。
この語族が最も早く鉄器を普及させ、やがて南下し拡大してしていった。





< 5. The beginning of the Congolese tragedy >
< 5. コンゴの悲劇の始まり >

Upper map: When the Age of Discovery started in the 15th century, Portugal went southward along the west side of Africa, and first contacted the Kingdom of Congo.

Lower map: The Congo River basin and the present Congo that was divided in three countries.
A= République Démocratique du Congo. B= République du Congo. C= Cabinda of República de Angola.

上の図: 15世紀に大航海時代が始まるとポルトガルが最初にアフリカの西側を南下し、コンゴ王国と接触した。

下の図: コンゴ川流域と現在の3分割されたコンゴ。
A=コンゴ民主共和国、B=コンゴ共和国、C=アンゴラ領のカビンダ。




< 6.  Current Congo >
< 6. 今のコンゴ >

Eventually a turning point arrived the west coast of Africa along with the beginning of the Age of Discovery.
Since this time, all disasters of colonies befell this area, then various proxy wars by the Cold War continued to hurt Africa.

In Africa, there are many countries shouldering a burden.
For example, countries suffering from civil war such as Somalia, Sudan, Rwanda and Sierra Leone, countries suffering from dictators such as Zimbabwe and Uganda, countries suffering from racial discrimination such as South Africa.

In particular, the Congo was subjected to the harsh treatment from the beginning, and is suffering for a long time.
If we look at the treatment the Congo received, we can understand the exhaustion of other African countries and the Middle Eastern.


This continues to the next time.



やがてヨーロッパの大航海時代の始まりと共にアフリカの西海岸に転機が訪れることになる。
これ以降、植民地のあらゆる災厄に始まり、冷戦による代理戦争、大国の干渉がアフリカを続けて襲う事になった。

これら不幸を背負った国々はアフリカに多々ある。
例えば内戦に苦しむソマリア、スーダン、ルワンダ、シエラレオネ、独裁者に苦しむジンバブエ、ウガンダ、人種差別に苦しめられた南アフリカなどです。

中でもコンゴは初期から過酷な仕打ちを受け、長く苦しむことになった。
コンゴでの仕打ちを見て行くと、他のアフリカや中東の疲弊がよくわかる。


次回に続きます。



20170415

平成イソップ物語 14: 津波とモグラ

  

*1


昔々、ある所にモグラがたくさん住んでいました。
そこは山と海に囲まれた平和な所でした。
しかしある日から事態は急変しました。



 
*2



モグラ達がたくさん集まっています。

一匹の白いモグラが大声で皆に訴えています。
「皆、聞いてくれ!
津波が来たら、我々の住んでいる所は海に沈んでしまうぞ!」

誰かが聞きました。
「そんなことが起きたら大変だ。 どうすれば良いのですか?」


白いモグラが答えました。
「それは海岸に堤を作るしかない。
そうすれば海からやって来る大きな波を防ぐことが出来る。
私達は土を掘って集めることが出来る。
今やらなくて何時やるのだ!」


皆は騒ぎ始めた。
「この話は本当かな?」
「しかし万が一、津波が来たら終わりだぞ。」


この時、一匹の子供モグラが母さんに言いました。
「以前、僕は地中を深く掘っていた時、底の方で水が流れているのを見たことがある。」

お母さんは言いました。
「山にたくさん雨が降れば、洪水になるかもしれないね。」

母さんは周りのモグラに危惧を伝えましたが、皆は口を揃えて言いました。
「お前は津波の恐ろしさを無視するのか。話にもならない。」


やがて皆は力を合わせて堤を造ることにしました。

そんなある日、その親子はこの浜を去り、離れた高台に住み始めました。

やがて数年が過ぎて、雨が降る日が多くなりました。

ついに川が増水を始め、堤で囲まれた浜は水没してしまいました。

とうとう津波は来ませんでした。



 
*4