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20140806

私達の戦争 22: 銃がもたらすもの 6

 
*1

なぜ人々は悲惨な結果を招く銃を無くすことが出来ないのだろうか。
武器を巡り繰り返す確執、深みにはまり抜け出せない社会がそこにあります。
米国を中心に見ます。

米国の状況



< グラフ1.  米国の犯罪と銃保有率の推移、by date of FBI and GunPlicy  

銃保有率(紺)は1993年の46%から2000年の34%へと24%減った。
それに連れて、暴力犯罪(黄)は33%減、殺人(ピンク)は42%減、窃盗(青)は24%減となった。
しかしその後、銃保有率は下がらず2010年の32%で下げ止まり、現在、銃の個人所持率は101%です。
そのためか死者数は2000年の10.2から2011年の10.3と微増した。
結局、英国同様、米国も銃規制がさらに深まることはなかった。



< グラフ2. 米国の銃規制に対する賛否世論の推移、by GALLUP

銃規制賛成派は1959年に60%あったが、現在下がって26%となり、銃規制反対が73%と完全に逆転してしまった。


*4

なぜ銃規制(改革)は進まないのか
経済力と政治が生む惰性
銃の製造額は年間1兆円程度だが、全米ライフル協会支援、銃規制反対キャンペーン、規制法案阻止のロビー対策等に、規制派に比べ潤沢な費用が使える。
長年、民主党は銃規制派で、共和党は規制反対派です。
共和党の支持母体に軍需産業と会員400万人の全米ライフル協会などがあり、どうしても選挙時、保守・タカ派色がより強くなる(巻頭写真は副大統領候補)。
ちなみに、米国の年間軍事予算70兆円、兵器製造額20兆円、兵器輸出額1兆円。
これらの事業継続の為に、世論操作や共和党側に潤沢な対策費が支払われることになる。
このメカニズムが社会を現状維持(保守)に向かわせることになる。

より重要な問題
それにしても、なぜ多くの人が規制賛成から反対に変わってしまうのだろうか?
一つには、人々の脳裏には大戦時の武器による悲惨さが鮮明であったが、やがて薄れていくことにある。
そこに多くの情報が危機や不安を煽ると、特にそれが直近で身近なものであればあるほど効果は絶大となる。
実際に、銃は蔓延してしまっているのですから。
ましてや膨大な情報により、銃規制の治安向上効果を否定され、それが先の事ならなおさらです。
この情報の大勢は上記の経済力と政治が生みだしたものです。
これは日本の原発賛否世論が広告宣伝費の大量投入で逆転していく様子と符合します。

最も重要な問題
人はどうしても、直近の大きな恐怖や不安に囚われてしまうと、前向きに先を見越した行動をとりにくい。
既に見たように、直感に反して銃の抑止力は社会全体から見れば無いに等しかった。
個々の場面では、銃は強盗を抑止出来たはずでしたが、社会全体から見れば攻撃力が抑止力を上回るからです。
問題は、人々がこの事に気が付かないのか、感情に支配されてしまっているからです。

なぜ気が付かないのでしょうか?
それは大きな認識の転換が必要だからです。
暴力や殺人を増大させた主原因は、無数の銃が無秩序に出回ったと言うことに尽きます。
日本が安全なのは、皆さんが銃を持つ警察を信頼し、個人が銃を放棄したからです。
危機と不安を解消させる解決策は簡単で、管理されている治安部隊だけが武器を持ち、他は禁止し、武器の総量を極小にすれば良いのです。
歴史的に見て、全人類(特に先進国)はこの方向ですべての安全保障(福祉、安全など)を向上させて来ました。

今一歩の踏み込みが必要なのですが、多くの社会(国家)は歴史(過去の経緯)に囚われてしまう。

得られた教訓
ここで銃を武器や軍備に置き換えてみましょう。

個々の自衛権を野放図にしてしまうと、むしろ逆に危険が増大する。
国々の安易な自衛権行使は、多くの紛争を生む可能性があり安全保障力を低下させる。
特に、多数の国が、互いに自衛権と称してつばぜりあいをすればより危険が増す。
本来、武器や軍備の「自衛」と言う概念はあやふやで、攻撃と防御の境界は定かではない。
同様に、武器や軍備の「抑止力」も実際には不完全で、直感とは異なる。
抑止理論は研究者でも定まらず、どちらかと言うと人類のユートピア的な概念です。


*5

米国の銃社会から派生する幾多の問題
銃が蔓延する米国から多くの弊害がもたらされています。

* 武器輸出と援助
米国の武器製造額と輸出額は世界のトップで、テロ撲滅を声高に言う一方で、合法不法による武器がテロ組織や内戦地帯に供給されています。

* 軍事行動の正当化
有りもしない銃の抑止力を正当化するキャンペーンは軍事産業に多大な貢献をすることになる。
なぜなら軍備や軍隊を増強するとき、合意を得ようと必ず抑止力の向上を唱えるからです。
国民は、銃の抑止力を信じることにより、漠然とした国家間の抑止力も信じやすくなります。
相互確証破壊理論による核開発競争、トルーマン・ドクトリン(共産主義封じ込め)によるベトナム戦争、J・ブッシュから始まった国家安全保障局による世界規模の盗聴(スノーデンが暴露)などは際限なき抑止力(攻撃力)を是認することから始まる。

* 集団的自衛権
民兵(個人間の集団的自衛権)は米国で現実の問題です。
イスラエルの元首相ネタニヤフ氏が言っている。

「機関銃を規制することは、自衛のために武器を持つ権利を否定していることにはならない。私的な軍隊の存在を否定しようとするにすぎない。重装備の反政府民兵組織が数千人規模で存在し続けるアメリカの現状は、市民の自由のグロテスクな曲解であり、・・」
ここで言う反政府民兵組織とは、伝統的な民兵テキサス・レンジャーから武装極右組織のことでしょう。

次回から、別のテーマで日本の「戦争と平和」を考えます。













20140801

私達の戦争 19: 銃がもたらすもの 3


*1

今回から、銃が社会の安全に不可欠だとする根拠を検証します。
前回、銃が米国において安全を脅かしている状況を確認しました。
しかし、米国も含め世界は銃を減らす方向に動いていません。
そこには根深い武器への信奉があるからです。


*2

なぜ銃が必要と言われているのか?
米国には民間人の銃所持が必要と強く主張する人々が居ます。

よく「銃所持は権利」と言われます。
合衆国憲法修正第二条(権利の章典、第1~10条、1791年確定)
「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保蔵しまた携帯する権利は、これを侵してはならない。」

私には、この法文をもって民間人が自由に銃を所持することを許することが合理的だとは考えられない。
規律ある民兵や州兵が武器を携行するのは当然であるが。
私は個人に自衛権はあるが、社会的利益―社会の安全を脅かす事態、と勘案して制約されて当然だと考える。


    

それには経緯がありました
合衆国憲法は、既に1988年に制定されていました。
この条文は、米国が英国と独立戦争(1775~83年)を戦い、独立後に基本的人権を追加した際に加えられた。
一方、この頃はまだ各州(邦)の独自性が強く、合衆国として一体化するのは1865年の南北戦争終結以降になります。

国民にとって武器を持つことは、国家の横暴(英国議会)に対して国民が革命(独立)を起こすために必要であった。
これは米国各州が連邦政府に対しても同様と考えられた。
米国では最初の入植時代(16世紀末)から西部開拓時代(1860~1890年)まで、入植者は銃によって先住民と戦って来た。
この二つが、銃(武器)を捨てられない発端と言えそうです。


    

これと似た例は日本にもあります
日本は憲法9条で戦争の放棄を謳い、戦力を保持しない、交戦権を認めないとしている。
そして現在まで、その演繹から集団的自衛権を認めないと憲法解釈されて来ました。
この経緯はいずれ見ますが、大事なことは憲法や解釈が草案当時の社会状況に強く影響されていることです。
憲法や解釈は、その時代の成功体験に基づく強い要請や、逆に失敗体験からの強い反省が込められているのです。

不思議なこと
いくら独立戦争や西部開拓時代に武器が重要だったとは言え、二百数十年から百数十年前の事を、デメリットがあるにも関わらず継承するのでしょうか?
米国は度々、憲法を追加修正し解釈変更を行って来たのに・・。

真の理由
そこには別の深い要因があると見るべきです。
一度、武器を持ってしまうと国民が合意して武器排除することはかなり困難があるようです。
たまたま日本は島国で侵略されることなく、かつ統一王朝が幾度も武器を放棄させて来たことが幸いしています。
日本では、身近に凶悪事件があっても、互いに注意を呼びかけるだけで、武器に頼らず警察に任せることになります。
そこに何の戸惑いもありません。

結局、武器の蔓延とそれへの不安が、さらに武器の所持へと悪循環を生む心理が問題なのです。

次回、武器所持推進派の根拠をデータで検討します。





20140730

私達の戦争 17: 銃がもたらすもの

*1

「銃を持っている」と聞けば、多くの人は「恐い」と感じるのではないでしょうか?
日本は、ほとんど銃が無い非常に安全な社会で、素晴らしい国です。
銃のある世界を見渡せば、銃と安全、ひいては武器と平和の関係が見えて来ます。

*2

はじめに
なぜ手っ取り早い殺人手段の銃が、世界には蔓延しているのでしょうか?
米国では、銃の乱射事件がある度に、銃規制が話題になりますが、銃が減ることはありません。
もう蔓延してしまったので、仕方がないのでしょうか?
米国では、銃所持の賛成派と反対派がしのぎを削って方向が定まらないのです。
日本人なら、誰しも反対派に同意出来るような気がしますが・・・・
実は、銃社会には暴力と武器に対して根深い葛藤があるのです。

    

皆さんはどう思われますか?
以下の仮定を、少し想像して下さい。

端緒A. あなたの住む町で強盗殺人事件が発生しました。
段階B. あなたは家族を守る為に銃を所持することにしました。
段階C. 数ヶ月経った頃には、町の全家庭が銃を所持するようになりました。
結果D. どうやら、この間、犯罪は減ったような気がします。

結果E. しかし、銃が社会全体に行き渡る頃から、殺人や犯罪が明らかに増えた気がします。

恐らく、ほとんどの日本人はこの仮定の結果Eを正しいと考えるでしょう。
中には、結果Eは間違いで、結果Dまでが正しいと信じる人もいるでしょう。
実は、この論点の食い違いが、米国民を一歩も前に進めなくしている理由の一つなのです。

この正解は、次回以降、公開されている犯罪データーから明確になります。

    

何処に問題があるのでしょうか?
少し難しいですが、この仮定の中に「戦争と平和」を考えるヒントが隠れています。

銃の所持は自衛権の行使で、また抑止力を持ったことを意味します。
この抑止力の効果はあなたの銃所持が広く知れ渡る方が高まります。
なぜなら賊が知っていればあなたの家を襲うのを躊躇するでしょう。
銃所持を知った人は、誰しも銃所持に走るのは自然の成り行きです。
こうして段階Cが生じるでしょう。

もしこれらが正しいなら、いずれ社会全体が銃を所持した時、賊は何処を襲うのも同じになります。
結局、賊はあなたを避けることなく、より強行に犯罪を凶行するかもしれません。
また氾濫した銃によって発作的に安易な暴力や殺人、犯罪が増えるかもしれません。
こうして結果Eが生じるでしょう。

さらに町は自警団を作り、賊も対抗してより大集団を作ることになるでしょう。
これは集団的自衛権の行使です。
こうしてこの銃社会は、暴力と殺人、犯罪が横行するようになるはずです。
しかし、だからと言ってすべての銃所持の国が最悪の事態には至っていない。

次回、続いてこの問題を考えます。










20140717

私達の戦争 6: 当事者が振り返る戦争とは 5

 1941年、チャーチルとルーズベルト会談

< 1. 1941年、チャーチルとルーズベルト会談 >

太平洋戦争開始を日米、それぞれの側から見ます。

太平洋戦争開始の直近の経緯
1939年: 9月、ドイツ侵攻で第二次世界大戦開始。
1940年: 9月、日本が北部仏印進駐、日独伊三国同盟締結。
1941年: 6月、独がソ連侵攻。7月、米が日本資産凍結、日本が南部仏印進駐。8月、米が対日石油輸出停止。11月、米がハル・ノート提示。12月8日、日本が真珠湾攻撃。

太平洋戦争地図 

< 2. 太平洋戦争地図 >

日本の思惑と動き
日本は1920年代より、国防方針で、最大仮想敵国をそれまでのロシアから米に変えていった。
その背景に第一次世界大戦、ロシア革命、日本では日英同盟破棄、満州・日中事変、軍部支配があった。
日本の軍部は多大な犠牲(国費、数十万人)を払って得た朝鮮半島や満州の権益擁護と拡大に戦争続行を当然と考えた。
その為には大陸の陸戦よりも米国との海戦が低費用で有利とし、資源(鉱物・石油、食料など)確保を中国と仏印(東南アジア)に求めた。

一方、突如起こったドイツ攻勢は欧州制覇から世界制覇を思わせた。
日本は手薄になったソ連東方と東南アジアを入手する絶好の機会と捉えた。
また、米は長年、交戦中の日中に対して兵器や石油を輸出し、中立の立場(孤立主義)をとっていたこともあり、日本は、開戦直前までそれを弱腰で参戦なしと捉えた。
この予断が、危険な三国同盟締結、さらなる侵攻、強気の外交につながった。
それが417月、関東軍特種演習と称して関東軍を35万から80万体勢への増強、仏印進駐となった。

関東軍特種演習と仏印進駐

< 3. 関東軍特種演習と仏印進駐 >
 
日米の差は資源産出力で数百倍、兵器生産力は十倍近くあったが、進めて来た開戦準備により、開戦当時には、日本の保有艦船は米を少し上回り、石油備蓄も1年以内の戦闘なら可能となっていた。
一方、米は40年から被侵略国向けに兵器増産を始めており、開戦が遅れれば遅れるほど、日本は勝つ見込みは限りなく零になる。
さらに造船工期は2年を要するので初期に米艦隊を叩き(奇襲)、1年以内の短期決戦なら勝利が可能とし、その時期は41年の出来るだけ早い時期とした。

開戦の年も、日本の方針は相変わらず定まらず、米を恐れながらも、「日米開戦に備え、さらなる資源と権益確保を推し進め、交渉決裂時は開戦をも辞さず」の矛盾した両論併記であった。
41年初頭から日米で和平を模索する交渉を始めていたおり、「中国からの撤退」は終始、日米互いに譲れない条件であったが、日本は楽観論と強硬論で揺れ動いた。
4111月、ハル・ノートが米から提出され、日本軍の中国からの撤退要求は決定的となった。
こうして開戦を決意しながら日米交渉に挑み、呑むことの出来ない要求で決裂し、真珠湾攻撃となった。

米の思惑と動き
米も1920年代より、日本をオレンジ計画で交戦可能国の一つとして見なしていたが、国内世論もあり、欧州とアジアへの介入意志はなかった。
しかし、ヒトラーの動向(再軍備)、日中戦争勃発と枢軸国の膨張が続き、日独伊防共協定が締結されるに及んで、ルーズベルト大統領は37年に反枢軸国への援助を公言した。
まだ米国内では参戦への反発が強かった。
この後、日独の現実の侵攻、特に40年の日独伊三国同盟への制裁として、大統領は段階的に経済封鎖(ABCD包囲網)を行った。
日本はこの致命的な経済封鎖すら、米が実施しないと当初楽観視していた。

40年末、再選された大統領と米軍部は、欧州参戦を優先しながらも、日米開戦もやむなしと考えた。
この頃、日米の指導者達は共に、国民向けに強気の発言を行うようになっていた(牽制の為か)。
米は40年に日本の暗号解読を完成させ、秘密裏に画策していた日本の開戦意志と侵攻準備を無線傍受により事前に察知していた。
さらにヒトラーへの後手の対応への反省、日本の勢いづく侵攻拡大、高まる英ソの敗北危機、米は放置出来ないとし日本との戦争を不可避であるとした。
米は欧州戦線を優先しながら日本に対抗するには、日本軍が太平洋で戦域を伸ばした所を航空兵力で叩き、数年後の勝利が得策と判断していた。
日本は艦船を重視したが、米は太平洋戦では防御より航空機での攻撃が有利とし、開戦時で3倍、2年後で7倍も航空機を保有した。

艦隊戦力と航空戦力

< 4.艦隊戦力と航空戦力 >

米は長らく他国の紛争には関わらないモンロー主義(孤立主義)を貫いていたので参戦する場合、相手が先に攻撃し、国民世論が沸き立ってから、迎え撃つ態度をとり続けていた(両大戦共)。
こうして「リメンバーパールハーバー」は米国民を一気に参戦へと勢いづかせた。

最後に
これが第2話の中條氏の指摘「米は日本を戦争に追い込んだ」の真相です。
皆さんは、この両国の対応をどう見られますか?

次回、このような対応をした日本の指導者達の心理を重光氏の手記から読み解きます。












20140207

社会と情報 18: 報道特派員の苦闘 3

 戦場カメラマンの沢田、ピューリッツァー賞作品の前で

< 1.戦場カメラマンの沢田、ピューリッツァー賞作品の前で >

真実を発信出来ない理由は戦場に、真実を掴めない理由は記者の心中にあった。

戦場は真実を嫌う
ベトナム戦争の場合、記者が真実を知るには、ジャングルと南ベトナム政府が最大の壁であった。
63年当時、メコン川デルタ地帯とサイゴン間の道路は、日が暮れると南ベトナム解放戦線(ベトコン)のものだった。
記者の取材は、米か南ベトナム政府の軍隊同行が安全で、それが嫌なら死を覚悟する。

ピューリッツァー賞、「サイゴンでの処刑」

< 2.ピューリッツァー賞、「サイゴンでの処刑」 >

例え、記者は多くの嘘や都合の良い情報に付き合わされていることがわかっていても、現地政府や米軍に逆らうと取材が困難だった。
告発したエルズバーグは高官であり、言語に堪能であったので、現地政府に批判的なベトナム人にも接触し、2年間、現地事情を詳しく知ることが出来た。

62年、ある米紙の記者が、「ベトナム 不快な真実」と題する記事を書いた。
これには、負け戦、不適切な現地政府、不十分な訓練しか出来ない米軍などが、書き連ねてあった。
これが掲載されると、彼は現地政府によって国外追放を受けた。
その数週間後、あるTV局の記者が、「現地政府の大統領インタビューが時間の無駄だった」と同僚に言ったため国外追放となった。

特派員は、現地政府のお膝元サイゴンで暮らすことになる。
秘密警察が暗躍しており、スパイとして逮捕され抹殺される可能性があった。
すでに何十万の南ベトナム人がそうされていた。
むしろ、米国の援助物資横流しで私腹を肥やしていた現地政府は記者達を抱き込んだ。


戦場カメラマンの石川

< 3.戦場カメラマンの石川 >

記者の葛藤
私はこれを読んで、日中・太平洋戦争時、日本の記者達がなぜ軍の意向に沿うようになったかが少しわかった。

前回紹介したタイム紙の記事差し替えで辞めた記者が後に語っている。
彼は反戦の英雄に祭り上げられたことに当惑していた。

「私が戦争に反対だから現地を離れたとみんなが考えていた。
私はただ戦争がうまくいっていないと考えただけだった。
最後の最後まで私は戦争が非道徳的だとは思いもしなかった」

前回紹介した、大統領によって配転されかけたニューヨーク・タイムズの記者も語っている。
彼も含めて特派員が問題にしたのは、米国の介入そのものではなく、介入の有効性であった。
とくに南ベトナムの腐った傀儡政権を米国が支援することだった。

「戦争が順調に推移しており、最後には勝利におわるだろうと信じることが我々の望みだった。
しかし我々の感じたものを否定しない限り、そう信じることは不可能だった」

たとえ記者に真実を求め批判的視点があっても、その多くは米国にとってのものになる。



戦場カメラマンの岡村

< 4.戦場カメラマンの岡村 >

戦後、特派員が振り返って
前述のニューヨーク・タイムズの記者は言う。
「・・インドシナ戦争の単なる派生物でしかないものを、ニュースとして取材するため毎日追いかけていたところに問題があった。
そこでそれぞれの記事に一段落を設け、次のような文を入れるべきだった。
『これらすべては何の意味もないくだらない事項である。
なぜなら、われわれはフランス軍の轍を踏み、彼らの経験にとらわれているからである』・・」

ある老齢の記者は言う。
「検閲制度が無いため、現地報道官は口をつぐみ、記者は得るものがなかった。
ベトナムと比べ第二次世界大戦では独創的な報道があり、記者はバーで多くの時間を費やすことはなく・・・」


ピューリッツァー賞「戦争の恐怖」

< 5.ピューリッツァー賞「戦争の恐怖」>

最も詳しい報道がなされたのはベトナム戦争であった。
一時は最大700名に上る特派員がいた。
検閲制度はなく、特派員は自由に行動出来たと言える。
しかしカンボジアの戦争は1年間にわたり隠されていた。
爆撃機の同乗が禁止され、パイロットにかん口令がしかれてしまえば、遙か彼方のジャングルで爆撃されていることを確認することは無理だった。
さらに米国のほとんどの記者はフランス語とベトナム語が出来なかった。

極論すれば
記者達は、過去の遺物のドグマ-共産主義封じ込めやアメリカの正義を信じ、その視点でしか真実を切り取ることしか出来なかった。
またジャングルでの最新兵器による戦争や現地の人々に肉薄する記事は書けなかった。

次回、真実の報道と国民の関係を追います。












20121114

Misunderstanding of war 8: the Vietnam War 2


 べトナム戦争、the Vietnam War

< the Vietnam War, Wikipdeia >

In the Vietnam War, both countries repeated big misunderstanding.

While both leaders started the war and the damage was expanded, why didn't they notice that?

The heads of that time of the U.S. army and the North Vietnam army gathered in one spot.

This time, we learn the cause from the meeting of the reflection on the war.


This meeting was done in 1997, and it was 22 years in postwar days.

Former Defense Secretary McNamara who advanced the Vietnam War under President Kennedy requested meeting to Vietnam.

Their remark was filled to sincerity.

The contents of this meeting are written to "why did we fight? ".

I make some extract from this book, and introduce.


ベトナム戦争において両国は大きな誤解を重ねた。

両首脳は戦争を開始し、被害が拡大していく中で、なぜそのことに気がつかなかったのか?

米国軍と北ベトナム軍の当時の首脳が一箇所に集まりました。

今回は、その反省の会議からその原因を学びます。


この会議は戦後22年経った97年に行われた。

ケネディ大統領の下でベトナム侵攻を進めたマクナマラ元国防長官がベトナム側に会議を要請した。

彼らの発言は誠意に満ちたものでした。

この会談の内容が「我々はなぜ戦争をしたのか」に書かれています。

私はこの本から抜粋し紹介します。


 本の表紙、why did we fight? 、我々はなぜ戦争をしたのか

< "why did we fight? " >

Situation judgment of those days

Misunderstanding of the U.S.:  If the action of Vietnam is allowed, the communist power will occupy the Indo-China whole region. North Vietnam and Viet Cong do not aim at independence movement. But rather they are manipulated by China, and aim at the communist revolution.

The opinion of Vietnam: we have fought for our independence for a long time and if we lost the independence means a slave. Export of communist revolutions is not considered. We do not desire export of communist revolutions.

Misunderstanding of Vietnam The U.S. refused all of our democratic independent state construction, and supported the unjust puppet government. Although we expected the U.S. at first, it turned out immediately that you were an aggressor.

The opinion of the U.S.: We desire the democracy and have not taken the colonial policy.

The history of the Vietnam War shows that the opinion of both countries is true. After all, the reason for the outbreak of war was perfect misunderstanding. When knowing the partner's history and society mutually,both countries may be able to read real intention each other . One who knows the Vietnam situation well were not even in the White House of a major nation.

There may be some persons who still believe that communization prevention was attained by that the U.S. soldier died in the Vietnam War. However, it is certain that “misunderstanding” is just a reason for a war start.


米の誤解ベトナムを許せば共産主義勢力がインドシナ全域を占領する。北ベトナムとベトコンは独立運動を目指すのではない。むしろ中国に操られて彼らは共産主義革命を目指している。

ベトナムの主張:長く独立を戦って来ており、負ける事は奴隷を意味する。私達は共産革命の輸出を望んでいない。

ベトナムの誤解: 米国は我々の民主的な独立国家建設をすべて拒み、非道な傀儡政権を支援した。最初、我々は米国に期待していたが、すぐに侵略者だとわかった。

米の主張:我々は民主主義を望んでおり、植民地政策はとっていない。

両国の主張が真実であることはベトナム戦争の歴史が示している。結局、開戦理由は完全な誤解であった。互いに相手の歴史と社会を知っていれば、真意を読み取れる可能性があった。ベトナムの状況をよく知っている者は大国のホワイトハウスにさえいませんでした。

ベトナムでの米兵の戦死者によって、共産化阻止が可能になったとまだ信じる人もいるかもしれない。しかし「誤解」こそが戦争開始の理由であることは間違いありません。



McNamara and  Kennedy  、マクナマラとケネディー


< McNamara and  Kennedy  >
Some misunderstandings

Misunderstanding of Vietnam Although Chairman Ho Chi Minh of ours sent the letter which desires friendship to President Tallman in 1945 years, you ignored it

The opinion of the U.S.: We did not know well Vietnam those days. Naturally, Mr. Ho Chi Minh was not known. We did not ignore him.

Misunderstanding of the U.S.:  We feared communization of Asia very much. Why didn't you explain more the de-Communization to us?

The opinion of Vietnam We had already fought in the jungle for 15 years. That We know was only France, and didn’t know such a thing.

Misunderstanding of the U.S. In 1965, the our President couldn’t decide the right or wrong of the war. Then, we carried out to an inspection of Vietnam. Just at the moment, you attacked our main base and about 100 persons died. You indicated, "There is no intention of surrendering against the United States". Then, we advised the President the bombing-of-North-Vietnam start immediately.

The opinion of Vietnam: One commander dogmatically ordered that attack. Only 30 persons' unit attacked The South Vietnam army. We did not know that there was an American investigating commission there. It is not a fact.




誤解のあれこれ
ベトナムの誤解:我々のホーチミン主席が1945年、トールマン大統領に友好を望む書簡を送ったのに無視した。

米国の主張:我々は当時、ベトナムをよく知らなかった。当然、ホーチミン氏を知らなかった。無視したのではない。

米国の誤解: 我々はアジアの共産化を非常に恐れていた。我々になぜ非共産化を説明しなかったのか。

ベトナムの主張 私達は以前に15年もジャングルに籠もって闘っていたのです。知っているのはフランスぐらいです。そんなこと知るわけがない。

米国の誤解 1965年、大統領は戦争をすべきか迷っていた。それで私達がベトナムの視察に行った。ちょうどその日にあなた方は我々の拠点基地を攻撃し、100名近くが負傷した。あなた方は「アメリカに屈服するつもりなどない」と意志表示した。それで直ちに我々は北爆開始を大統領に進言した。

ベトナムの主張:あの攻撃は、一司令官が独断で命令したものです。たった30人の部隊で南ベトナム軍を攻撃しただけです。我々はそこにアメリカの調査団がいることを知らなかった。それは事実ではありません。


Also after this, much mistakes come out further, each enemy's intentions are misunderstood mutually, and the unripe diplomatic skill of Vietnam, and a belief of the U.S. that Vietnam is intimate with China.

Without knowing an enemy, each heads began war easily and expanded it.

This meeting brought about the wonderful result. It taught us what is required in order for us not to cause any war.


この後も、敵の意図を互いに誤解、ベトナムの外交術の未熟、米国は中国とベトナム親密だとの思いこみ、等がどんどん出て来る。

よくもこれだけ相手を知らないで各首脳は戦争を安易に仕掛け拡大したものだ。

この会談は、確かにすばらしい内容をもたらした。私達が戦争を二度と起こさないようにするためには何が必要かを教えてくれた。