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20200512

世界が崩壊しない前に 25: 細るエネルギー供給








*1


今回は、私達の経済活動や生活に不可欠なエネルギーの将来についてみます。


電気・ガス・ガソリンが無くなる生活を想像できるでしょうか。

かつてオイルショックで経験したように、ここ半世紀、石油価格の上昇下降が世界経済を揺さぶるようになった。
米国は石油が狙いで、中東に軍事干渉することが度々あった(イランなど)。
日本が太平洋戦争に突き進む切っ掛けも石油禁輸でした。

現在、エネルギー源のほとんどは地下資源(石油、石炭、天然ガス、ウラン)ですが、いつまで採掘可能なのか?



 
< 2. 石油生産量のピークは過ぎた >

IEA(国際エネルギー機関)は2010年、在来型石油(シェールガス・石油を除く)の世界生産のピークは2006年に越えたと発表した。
これは従来の油田が枯渇して行く中で、新しい油田の発見が少なくなり、採掘コストが高くなっているからです。

益々、採掘コストが上昇している為に、地球奥深くに化石燃料があっても役に立たない。
石油では、20世紀初頭、1単位のエネルギー投資で100単位のエネルギーを得られたが、ここ25年間で35~11単位と急速に低下している。
一時、花形だった北海油田も限界が見えて来た。

これを補ってくれたのが2010年代に始まった米国のシェールガス革命でした。
しかし、ここ数年、採掘会社が急激な赤字に陥っている。
理由は坑井の寿命が短く、次から次への開発にコストが掛かり過ぎているからです。
FRBは低利融資でこれら会社を何とか存続させているが続かないだろう。
さらにコロナ危機で原油先物価格が一時マイナスまでになった。
これで米国のシェールガスは立ち行かなくなるかもしれない。


 
< 3. 低下する世界の原発発電量 >

残念な事に、期待のエネルギー源も様々な副作用を持っている。

原発は大災害、シェールガスは公害を引き起こしている。
日本列島の原発は断念せざるを得ない。
地震と津波が頻発する列島、放射線廃棄物の処理、海洋汚染による漁業資源への悪影響を考慮すれば当然です。

またメタンハイドレートや石炭、バイオ燃料(生産時)は、温暖化ガス(炭酸ガスなど)排出で地球温暖化に悪影響を与えます。


 
< 4. 増え続けるエネルギー消費 >


* 何が問題か? *

上記三つのグラフは危機の到来を示している。

世界のエネルギー消費は増え続けるが、エネルギーになる地下資源は枯渇に向かっている。
もし化石燃料輸出国が、枯渇への不安と自国の消費増を受けて、輸出を絞り、さらには禁止したら・・・。
輸入大国の日本は・・・?
コロナによるマスク入手の困難とはわけが違う。

国民が耐え偲ぶだけで過ごせるとは思えない。
悪くすれば強奪の戦争が勃発するかもしれない。

日々、限界に近いづいている。
打開策を講じなければならない。


次回に続きます。





x

20190406

北欧3ヵ国を訪ねて 61: フェリー 3



 1


今回は、室内の紹介、そしてクロンボ―城の眺めからコペンハーゲン港への入港までを紹介します。



 
< 2. 船内の紹介 >

中: フロント階の直ぐ下の階。

下: その階の窓側にこのモニターがあったと思います。

4時頃からデッキに出てクロンボ―城の撮影を狙っていたのすが、いつまで経っても見えません。
それで船の位置を示すものは無いかと探していると、モニターを発見した。
モニターを見ると、赤い船の印はまだ海峡に入っていませんでした。
この時刻は6:07で、クロンボ―城に最接近したのは7:57でした。


 
< 3. 船内の様子 >

上: フロント、案内所のある階。

中: 船内の紹介。


 
< 4. 両側に陸地が見えて来た >

上: 前方左舷のスカンジナビア半島。

中: 前方右舷のシェラン島。

下: 前方に微かに海峡らしきものが。


 
< 5. やっと海峡が見えた >

上: 左はスウェーデンのヘルシンボリ、右はデンマークのヘルシンオアです。
この海峡の幅は4kmで、スカンジナビア半島とシェラン島の距離が最も近い。

中: ヘルシンボリ側。

下: ヘルシンオア側の先に、クロンボ―城が見え始めた。
7:50です。


この海峡の狭さが、このクロンボ―城を歴史的に有名にした。
このことがハムレットの舞台になった理由かもしれない。

中世の時代、ドイツを除く西欧諸国は北方交易の為、船で北海からバルト海に行くには、この海峡を通過せざるをえなかった。
ドイツだけはリューベックから直接、バルト海に出ることが出来た。
このことがこの都市をハンザ同盟の中心都市にした。
この頃、バルト海からヴァイキングが去って久しく、ハンザ同盟も盛りを過ぎ、交易は各王国が主導権を担っていた。
中世初期の交易は地中海が注目されていた。

14世紀、デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3王国間連合が結ばれた。
この盟主となったデンマーク王は戦争による疲弊した財政を立て直す為に、この地にクロンボ―城を作り、通行税を徴収し始めた。
これが財政を豊かにさせた。

第二次世界大戦時、ドイツがノルウェーに侵攻した大きな理由は、英国海軍のバルト海進出とノルウェーの海運を封じる為でした。

この海域は西欧、北欧、東欧、ロシアにとって非常に重要だったのです。



 
< 6. クロンボ―城 >

下: 最も近くなったところ。



 
< .  離れて行く >



 
< 8. 私のキャビン >

二段ベッドの二人部屋を一人で使ったので、狭くはなかった。
シャワーも使った。
安価なので窓はないが、気にはならない。
静かでよく寝れた。



 
< 9. コペンハーゲン港が見えた >

上: コペンハーゲン港。

下: 中央に要塞島が見える。
これはかって英国との海戦でデンマーク側の守りの要になったことだろう。


次回に続きます。




20161216

Bring peace to the Middle East! 52: religion and persecution 6: Persecution of Jewish people 4

中東に平和を! 52: 宗教と迫害 6: ユダヤ人の迫害 4



 
*1

We were looking at the situation of persecution of Jews until now.
This time, I chase why establishment of Christianity provoked the persecution of Jews.
This is the last time.

今まで、ユダヤ人迫害の経緯を見て来ました。
今回は、キリスト教の誕生がユダヤ人迫害に如何に結びついたかを追います。
これで最後となります。


 
*2


Process of the establishment of Christianity 
When Jesus was born, the history of the Judaism was already over one thousand years. 
He criticized decayed Jewish rabbis and the law overemphasis of the Judaism, and the  Jewish believers who sympathized with him increased.
The Jewish ruling class incriminated Jesus as a leader of revolts to the governor-general of the Roman Empire, and he became the crucifixion (about A.D. 30).


キリスト教成立の経緯
イエスが生まれた時は既にユダヤ教の歴史は千年を越えていました。
彼はユダヤ教の腐敗した祭司達や律法偏重を批判し、それに共感するユダヤ人信徒も増えて行きました。
ユダヤ人の支配層はイエスを反乱の指導者としてローマ帝国の総督に訴え、彼は磔刑(紀元30年頃)になった。


 
*3

Jesus' resurrection caused an enthusiastic faith in resurrection in Palestine, and Christianity even extended to the gentile of the Roman Empire by activity of St. Paul etc. before long.
In 66 A.D., the Jewish-Roman wars of aiming for independence arose, but the Jews were defeated.
Therefore the Temple in Jerusalem was destroyed, and Jewish people again had to break up.
The region of the Roman Empire had been an emperor worship in those days, but the Judaism had been allowed, and early Christianity was considered one part of it.
The Christians were often persecuted because they were a heretic for Judaism and doubtful pagans for the people of Rome.
In addition, the Roman Empire also persecuted Christians because having been determined as seditious groups to not obey the emperor worship.
However, in the Rome society in a declining mode, the people who looked at large number of Christianity martyrs were attracted by Christianity.

At last, at the end of fourth century, the Roman Empire certified Christianity as the national religion in order to take in Christians who increased, and prohibited other religion.
After this, the Christianity grew mature in Europe, and extended to the world 


イエスの復活によりパレスチナに熱烈な復活信仰が起こり、やがてパウロなどの活躍によりローマ帝国内の非ユダヤ人にもキリスト教は広まっていった。
しかし、紀元66年、独立を目指したユダヤ戦争の敗北によってエルサレム神殿は破壊され、ユダヤ人はまたも離散することになった。

当時、ローマ帝国は皇帝崇拝であったが、ユダヤ教は認めれらており、初期のキリスト教はその一部と見なされていた。
キリスト教徒はユダヤ教にとって異端者であり、ローマの民衆にとって怪しげな異教徒であったので、度々迫害された。
またローマ帝国はキリスト教徒が皇帝崇拝に従わない不穏分子であったので、これまた迫害した。
しかし、衰退し続けるローマ社会にあって多数のキリスト教殉教者を見た民衆はキリスト教に惹かれていくことになった。

ついに4世紀末、ローマ帝国は増大するキリスト教徒を取り込む為に、これを国教とし他の宗教を禁止した。
この後、キリスト教は西欧で成熟し世界へと広まっていった。


 
*4

During this time, what had happened to Christianity?
After the destruction of the Temple in Jerusalem, in the stream of making the comeback, the Judaism assumed Christianity heresy and Palestinian Christianity fell into a decline.
Along with a progress of missionary work to the Jews (Greek speaker) that broke up and gentile at each place, the doctrine and customs of various paganism came to mix with Christianity. 
In addition, an increasing number of Jewish conversion to Christianity caused regression toward Judaism.

Church fathers of Christianity at each place had to deal with troubles from within and without, made a definite distinction between heresy and orthodoxy, and did explanation for the persecution to the emperor.
They did theorization and unification of the doctrine, then established the confession of faith and the Bible.  Annotation 1.
In this way, an unified church system was completed in the about third century.  Annotation 2.

Syncretism and opposition almost happened among much religion, as if the birth of the Islam, the Buddhism, and the Taoism.
However, the intensity of the heresy was different among each religion.


この間に何が起きたのか
エルサレム神殿の破壊後、ユダヤ教は再起を図る中でキリスト教を異端とし、パレスチナのキリスト教は衰退していった。
各地に離散したユダヤ人(ギリシャ語話者)や非ユダヤ人への布教が進む中で、異教の教義や習俗がキリスト教に混じることになった。
またキリスト教へのユダヤ人の入信は、ユダヤ教への後戻りを招き始めた。


各地のキリスト教の教父達は、異端と正統の区別や、皇帝への迫害の弁明などの内憂外患に対処した。
彼らは教義の理論化と統一を行い、信仰告白と聖書を確立した。注釈1.
こうして3世紀頃には一体化された教会制度が成立した。注釈2.

多くの宗教、仏教、道教、イスラム教の誕生時にも、既存宗教との間で習合や対立が起こった。
しかし、異端への激しさは宗教によって程度の差があった。


 
*5


Peculiar things in Christianity
I think that it is related to "Jesus' resurrection" and "the Catholic Church" that Christianity is strict with the heresy in particular.

The miracle called "Jesus' resurrection" is hard to believe to our pagan, but Christian is  most attracted.
If it becomes the Jew to have murdered Son of God Jesus, the hatred reaches a peak.

Furthermore, the existence of the unified church of the Roman Empire conduced to an succession of the firm doctrine, furthermore, the posture to eliminate heresy was also maintained strongly.
Thus, the persecution continued for 2000.


begin a different theme from the next time.


キリスト教に特有なこと
私は、キリスト教が特に異端に厳しいのは「イエスの復活」と「カトリック教会」に関係すると考える。

異教徒には信じがたいイエスの復活という奇跡は、最もキリスト教徒を魅了する。
その神の子イエスを殺したのがユダヤ人となれば、憎しみは頂点に達する。

さらにローマ帝国の一体化された教会の存在は、ゆるぎない教義の継承と共に、異端を排する姿勢も貫かれた。
こうして、迫害が二千年も続くことになった。


これで「宗教と迫害」は終わり、次回より別のテーマを始めます。


注釈1.
信仰告白は、教会などで自身の信仰を神と人とに告白することです。

カトリック教会の信仰告白の例: 使徒信条

「天地の創造主、全能の父である神を信じます。

父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます

聖霊を信じ、
聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます
アーメン。」

私が太字にしました。

注釈2.
ここで言う教会制度とは、キリスト教圏のすべての教会とそれを監督する司教らが一人の教皇を頂点に一体化されていることを指します。
時には全域から司教以上が集まり公会議を開き、教義・典礼・教会法について話し合うことも行われた。




20160625

地中海とカナリヤ諸島クルーズ 20: テネリフェ島 2







 


< 1. 外輪山の一つ >

今日は、テイデ山のカルデラを紹介します。
前回の雪景色とはまったく異なる別世界が広がります。





< 2.カルデラの地図、上が北 >
青丸が前回紹介したレストランで、赤丸が今回、下車観光した地点です。

このカルデラは標高2100mにあり、広さは東西15km、南北10kmです。





< 3.車窓から1 >
レストランを出発し、地図の赤丸地点に向かう。
進行方向の左側、主に南側を撮影したので、真昼の日差しが非常にまぶしかった。



< 4.車窓から2 >
上の写真: 右上に前を行くバスが見える。
下の写真: 中央に一際高くそびえる標高2715mの外輪山が見える。
その右下が目的地(赤丸)です。

バスが進むに連れ、雪は無くなっていく。
このカルデラはテイデ山頂の南側にある為、強い日差しで雪が融ける。




< 5.下車観光の始まり >
雪を頂いているのがテイデ山頂です。




< 6.岩山からの眺望1 >
駐車場から少し岩場を登り、東南側と北東側を撮影した。
下側の写真は北東側で、左奥の方から私達は来た。
ここにはまったく雪が無く、むしろ砂漠の始まりのようです。
ここでSF映画の地球外惑星の舞台として数々の映画撮影が行われている。



< 7.岩山からの眺望2 >
同じ岩場から、北側と西側を撮影した。



この場所で撮影した22秒の映像です。



< 8. 駐車場周辺を散策 >
日差しはきついが爽やかだった。



< 9. 帰りの車窓から1 >
またバスに乗り、来た道を戻る。




< 10.帰りの車窓から2 >
この2枚はテイデ山頂の南斜面の下部を写している。
ところどころ、この雪原で遊ぶ人達を見た。

次回は、港近くのサンタ・クルスの町を紹介します。










20150226

社会と情報 43: 新聞と検察、相克と癒着 4






< 1. ベトナム戦争 >

記者クラブは誰にとって利益なのだろうか? 
新聞か検察か、それとも国民か・・


記者クラブは政府や官僚にとって都合がよいか?
記者クラブの加盟社が特権を手放したくないのは当然と言えますが、情報発信側にも利益があります。

外国の例を見ます。
第二次世界大戦当時、米国は戦争報道のすべての記事を徹底的に検閲していました。
一方、ベトナム戦争において、検閲ではなく現地で記者クラブのような「アメリカ合同広報局」が戦局報告を毎日行い、他からの情報収集を不可能にして管理しました。
フィリップ・ナイトリー著「戦争報道の内幕」において、後者の方が戦争報道を阻害したとしている。

その理由は、概ね以下の通りです。
大戦時の記者は情報収集が比較的自由で、記事を工夫することにより検閲官を出し抜くことが出来た。
しかしベトナム戦争では、広報局からだけの隠蔽された一律の情報を待つ記者達は、工夫も意欲も無くしてしまった。
他にも、報道を歪曲する力がホワイトハウスから働いていたが、この「記者クラブ」の悪影響は大きかった。
一方、テレビ報道は新たな役割を果たし、戦争の真実を伝え始めていた。

連載16~18:報道特派員の苦悩1~3、に詳しい。



< 2. 裁判所 >

なぜ癒着が蔓延し、自律回復が困難なのか?
これまでの説明でも、納得出来ない方はおられるかもしれません。
例え新聞に期待出来なくても、他に救いがあるはずだと。

     裁判官や弁護士は、なぜ問題を明らかにしないのか?
これについて、「検察が危ない」で著者は明快に「出来ない」と述べています。
著者は例外ですが(笑い)。
この公僕達は実態を知ってはいるのですが、職業的に繋がっているため(転職しあう仲間だから)、互いに傷付け合うことは避けているのです。

     なぜ検察は横暴になっていくのか?
これについて著者は、検察の不甲斐なさを責め立てる新聞(世論)が一端になったことを挙げています。
政界を大きく巻き込む疑獄事件があって、それを検察がうまく暴けない時などがそうです。
このような時、検察は被告側が弱ければ生贄(冤罪)にし、被告側が巧みであれば法の適用を逃してしまいます。
郷原氏は、これについて、検察はセクショナリズムに陥っており、法適用が旧態依然だからと指摘しています。
こうなると、次の事件で名誉挽回に躍起となり、検察一丸となり軍隊式の白兵突撃を敢行することになる。
そして、特捜部が快挙(被告有罪)を成せば、検察上層部は出世に繋がると指摘する人もいます。


最後に
一番重要なことは、こと検察と新聞の癒着だけの問題ではなく、社会全体が網の目が張り巡らされたように癒着を起こし停滞し、やがて腐敗していくのです。
このような、官僚化=官僚制の逆機能(責任回避、秘密主義、権威主義、セクショナリズムなど)はいつの世にも起こります。
しかし、それを見張り、国民に知らせる立場の新聞(マスコミ)が、癒着してしまえば自力回復は不可能です。

これを打破するには、新聞(マスコミ)が本来の機能を果たせるように、何が重要であるかを国民が正しく認識することから始めないといけない。




20140928

私達の戦争 45: 核攻撃 2


広島の原爆ドーム 


< 1. 広島の原爆ドーム >

今日は、米ソの核兵器競争を振り返ります。
この競争には立派な抑止論が唱えられていましたが、常識から外れていました。


キューバ危機
< 2. キューバ危機 >

冷戦時代の核兵器競争とは
大戦前、欧米にとってソ連は脅威で、その抑えを期待してドイツの軍事化を容認していました。
しかし日独伊が牙を剥くと、米国はソ連と手を握りました。
これも大戦が終わるまでで、米国はソ連の通常戦力の優位を恐れ、核兵器武装で対抗し始めた。
遅れて、ソ連も核開発を成功させ、互いに配備競争に突入します。
この競争が一息つくのは、ソ連の崩壊まで待たなければなりませんでした。

米ソの核弾頭備蓄量 
< 3. 米ソの核弾頭備蓄量 >

米国の動き―グラフ3の青線
物理学者アイシュタインがヒトラーの核開発に先んじるように米国に進言した。
こうして米国が核兵器を生みだしヒトラーが去り、世界は救われたように思えた。

米は大戦後、ソ連の工業力を過大評価し、ソ連の通常兵器による欧州侵略が可能とし、核兵器による壊滅的な報復(抑止)が必要と判断した。
1953から61年在任のアイゼンハワー米大統領は、報復手段として核兵器が安上がりで、「全面核戦争に拡大してしまう大量報復の恐怖」は、ソ連や自国も含めた世界の紛争の抑止になると考えた。
これがグラフの急上昇を示す。
やがて60年代に始まる二つの軍事技術により核備蓄は低下する
偵察衛星によりソ連の実情を正確に把握出来るようになった。
潜水艦発射弾道ミサイルは奇襲攻撃を受けることなく反撃出来るので、破壊されることを前提にした核備蓄が不要になった。

ソ連の動き――グラフ3の赤線
米国は60年代にベトナム戦争に介入し、75年まで泥沼へと深入りしていった。
ソ連は、この時期に米国より優位に立とうとし、核兵器を増産した。
しかしこれはGDPに占める軍事費を20%まで高め、経済を大きく圧迫していた。
この状況の打破を期待されてゴルバチョフ大統領が誕生した。
彼は平和外交を目指し、1990年、米ソの合意により冷戦が終結した。

潜水艦発射弾道ミサイル
< 4. 潜水艦発射弾道ミサイル >


核戦略の変遷―しどろもどろの抑止論
54年、米国はソ連大都市への核兵器による大量報復能力を持つことで、ソ連の核攻撃と通常兵器による侵攻を抑止する「大量報復戦略」を唱えた。
57年、ソ連は、米国の爆撃機の核攻撃に対抗して大陸間弾道ミサイルで先制核攻撃上優位に立った。
こうして米ソはミサイル競争に突入した。
60年代始め、米国は、敵から発見され難い潜水艦発射弾道ミサイルを配備した。
62年、キューバ危機が発生し、米国で「核の大量報復は狂気であり、威嚇として通用しない」と批判が起きた。
そこで米国は、いきなり全面核戦争に陥らないように、攻撃を軍事目標に限定する「柔軟反応戦略」を唱えた。
これ以降、米国は対軍事力に絞った小型の「戦術核兵器」を生みだしていく。
65年、急に米国はソ連の人口1/3と産業施設2/3を確実に破壊出来る「確証破壊戦略」を発表した。
この戦略転換は、増大する軍事費への苦肉の策であった。

しかし双方の迎撃体制が進む中、新たな問題が起きた。
互いがあるゆる核攻撃に対して迎撃可能になり、何処か防御に弱点が露わになると、そこを先制攻撃する誘惑に駆られ、むしろ抑止が不安定になるとの考えが出て来た。
そこで米国は、互いの迎撃ミサイルを自制し、先制核攻撃にも生き残れる潜水艦発射弾道ミサイルを保有し合うことで抑止力を残す「相互確証破壊戦略」を唱え、ソ連もこれに同調した。

一方、ソ連が巨大な核爆弾を開発し戦略核戦力を急速に増大させ、70年代半ばに米国を凌ぐようになった。
これで疑心暗鬼に陥った米国は、ソ連へのあらゆる核攻撃で、ソ連が想定するだろう米本土攻撃の損害と相殺させるとした「相殺戦略」を唱えた。
その後、弾道数で勝っていたソ連ではあったが経済が低迷し、軍事技術で劣勢になった。

83年、レーガンが強気のスターウォーズ計画(ミサイル衛星)を発表したことにより、ソ連は核兵器競争を諦めることになった。
こうして85年、米ソは「抑止のための核兵器」の考えで始めて正式に一致し、核兵器削減を始めた。



米国の核兵器総保有数と作戦配備数 
< 5. 米国の核兵器総保有数と作戦配備数 >

現代の状況
今だ、米ソ合わせて16000発の核弾道を保有し、ミサイルや爆撃機により作戦配備されているものはその内、計4000発ある。
核爆弾の威力は人口密度により異なるが300ktの大都市投下で、40~220万人の被害、死者は半数と予想される。
広島に投下された原爆は15ktだった。
したがって米ソ核兵器の2009年の総出力19200Mtが総べて使用されたら、26~140億人が被害を受け、13~70億人が死亡するだろう。

米ソの核兵器競争のジレンマ―不思議な抑止論
大戦後、米ソは互いに抑止力と称して核兵器の製造に血眼になった。
そしてピーク時には、双方合わせて地球人口を7度死滅させるだけの威力を保有するようになった。
「総べてが死滅する恐怖こそが抑止力である」
これこそが冷戦時代、核戦争を逃れた理由だと主張する人々がいる。
この手の軍事研究者は米国で官民学合わせて1万人を超えるのではないか、私にはこれを間違いだと言い切る力は無い。

しかし、単純に考えていただきたい。
抑止と言いながら、自国も自滅する兵器を造り続ける判断は正常だろうか?
増大する軍事費は自国経済の足枷となった、ソ連は特に深刻であった。
その権威ある核抑止理論だが、辻褄が合わなくなり幾度も様変わりした。

抑止で始めた核兵器であったが、やがて先制攻撃が主眼になり、互いに破壊し合い、残った核ミサイルによる反撃を想定するようになった。
その時、既に国民は死滅し、放射能で生命は永久に誕生出来ないにも関わらず。
ある時は、互いに配備の弱点を曝し確認し合うことにより、先制攻撃の誘惑を排除しようと信頼の手を差し伸べた(相互確証破壊戦略)。
ここまで行くなら、後一歩で和平交渉になるのではないだろうか?

もっとも、核開発にばく進した米国もキューバ危機とベトナム戦争の苦さを噛みしめ、それに猛追したソ連も経済悪化に耐えきれず、やっと競争の無駄に気がつき始めた。
それに40年から70年を要し、未だに真の反省に至っていないように見受ける。

何かがおかしい、頭が良すぎて、現実が見えないのか、軍事的職務に忠実なだけなのか。
軍産共同体で生きる人ならいざ知らず、一般人には不合理この上なく、抑止論は言い訳にしか聞こえないだろう。

より深刻な問題
オバマ大統領のがんばりで米ソの核兵器は減るだろうが、まだまだ多い。
それよりも核兵器が拡散し9ヵ国まで広がり、後続を止めるのが困難な状況にある。
銃社会で検討したように、今後、偶発事故やテロ、狂信的な指導者による核戦争の恐怖は増していくだろう。

抑止を単純に信じることの愚かさから抜け出して、新たな平和戦略を生みださないと、それこそ手遅れになる。

もう一つは、原発事故で経験したように、核兵器の廃棄も問題です。
ニュースにはならないが、米国のハンフォード・サイトでは放射能汚染が起きている。

次回は、別のテーマを扱います。