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20140928

私達の戦争 45: 核攻撃 2


広島の原爆ドーム 


< 1. 広島の原爆ドーム >

今日は、米ソの核兵器競争を振り返ります。
この競争には立派な抑止論が唱えられていましたが、常識から外れていました。


キューバ危機
< 2. キューバ危機 >

冷戦時代の核兵器競争とは
大戦前、欧米にとってソ連は脅威で、その抑えを期待してドイツの軍事化を容認していました。
しかし日独伊が牙を剥くと、米国はソ連と手を握りました。
これも大戦が終わるまでで、米国はソ連の通常戦力の優位を恐れ、核兵器武装で対抗し始めた。
遅れて、ソ連も核開発を成功させ、互いに配備競争に突入します。
この競争が一息つくのは、ソ連の崩壊まで待たなければなりませんでした。

米ソの核弾頭備蓄量 
< 3. 米ソの核弾頭備蓄量 >

米国の動き―グラフ3の青線
物理学者アイシュタインがヒトラーの核開発に先んじるように米国に進言した。
こうして米国が核兵器を生みだしヒトラーが去り、世界は救われたように思えた。

米は大戦後、ソ連の工業力を過大評価し、ソ連の通常兵器による欧州侵略が可能とし、核兵器による壊滅的な報復(抑止)が必要と判断した。
1953から61年在任のアイゼンハワー米大統領は、報復手段として核兵器が安上がりで、「全面核戦争に拡大してしまう大量報復の恐怖」は、ソ連や自国も含めた世界の紛争の抑止になると考えた。
これがグラフの急上昇を示す。
やがて60年代に始まる二つの軍事技術により核備蓄は低下する
偵察衛星によりソ連の実情を正確に把握出来るようになった。
潜水艦発射弾道ミサイルは奇襲攻撃を受けることなく反撃出来るので、破壊されることを前提にした核備蓄が不要になった。

ソ連の動き――グラフ3の赤線
米国は60年代にベトナム戦争に介入し、75年まで泥沼へと深入りしていった。
ソ連は、この時期に米国より優位に立とうとし、核兵器を増産した。
しかしこれはGDPに占める軍事費を20%まで高め、経済を大きく圧迫していた。
この状況の打破を期待されてゴルバチョフ大統領が誕生した。
彼は平和外交を目指し、1990年、米ソの合意により冷戦が終結した。

潜水艦発射弾道ミサイル
< 4. 潜水艦発射弾道ミサイル >


核戦略の変遷―しどろもどろの抑止論
54年、米国はソ連大都市への核兵器による大量報復能力を持つことで、ソ連の核攻撃と通常兵器による侵攻を抑止する「大量報復戦略」を唱えた。
57年、ソ連は、米国の爆撃機の核攻撃に対抗して大陸間弾道ミサイルで先制核攻撃上優位に立った。
こうして米ソはミサイル競争に突入した。
60年代始め、米国は、敵から発見され難い潜水艦発射弾道ミサイルを配備した。
62年、キューバ危機が発生し、米国で「核の大量報復は狂気であり、威嚇として通用しない」と批判が起きた。
そこで米国は、いきなり全面核戦争に陥らないように、攻撃を軍事目標に限定する「柔軟反応戦略」を唱えた。
これ以降、米国は対軍事力に絞った小型の「戦術核兵器」を生みだしていく。
65年、急に米国はソ連の人口1/3と産業施設2/3を確実に破壊出来る「確証破壊戦略」を発表した。
この戦略転換は、増大する軍事費への苦肉の策であった。

しかし双方の迎撃体制が進む中、新たな問題が起きた。
互いがあるゆる核攻撃に対して迎撃可能になり、何処か防御に弱点が露わになると、そこを先制攻撃する誘惑に駆られ、むしろ抑止が不安定になるとの考えが出て来た。
そこで米国は、互いの迎撃ミサイルを自制し、先制核攻撃にも生き残れる潜水艦発射弾道ミサイルを保有し合うことで抑止力を残す「相互確証破壊戦略」を唱え、ソ連もこれに同調した。

一方、ソ連が巨大な核爆弾を開発し戦略核戦力を急速に増大させ、70年代半ばに米国を凌ぐようになった。
これで疑心暗鬼に陥った米国は、ソ連へのあらゆる核攻撃で、ソ連が想定するだろう米本土攻撃の損害と相殺させるとした「相殺戦略」を唱えた。
その後、弾道数で勝っていたソ連ではあったが経済が低迷し、軍事技術で劣勢になった。

83年、レーガンが強気のスターウォーズ計画(ミサイル衛星)を発表したことにより、ソ連は核兵器競争を諦めることになった。
こうして85年、米ソは「抑止のための核兵器」の考えで始めて正式に一致し、核兵器削減を始めた。



米国の核兵器総保有数と作戦配備数 
< 5. 米国の核兵器総保有数と作戦配備数 >

現代の状況
今だ、米ソ合わせて16000発の核弾道を保有し、ミサイルや爆撃機により作戦配備されているものはその内、計4000発ある。
核爆弾の威力は人口密度により異なるが300ktの大都市投下で、40~220万人の被害、死者は半数と予想される。
広島に投下された原爆は15ktだった。
したがって米ソ核兵器の2009年の総出力19200Mtが総べて使用されたら、26~140億人が被害を受け、13~70億人が死亡するだろう。

米ソの核兵器競争のジレンマ―不思議な抑止論
大戦後、米ソは互いに抑止力と称して核兵器の製造に血眼になった。
そしてピーク時には、双方合わせて地球人口を7度死滅させるだけの威力を保有するようになった。
「総べてが死滅する恐怖こそが抑止力である」
これこそが冷戦時代、核戦争を逃れた理由だと主張する人々がいる。
この手の軍事研究者は米国で官民学合わせて1万人を超えるのではないか、私にはこれを間違いだと言い切る力は無い。

しかし、単純に考えていただきたい。
抑止と言いながら、自国も自滅する兵器を造り続ける判断は正常だろうか?
増大する軍事費は自国経済の足枷となった、ソ連は特に深刻であった。
その権威ある核抑止理論だが、辻褄が合わなくなり幾度も様変わりした。

抑止で始めた核兵器であったが、やがて先制攻撃が主眼になり、互いに破壊し合い、残った核ミサイルによる反撃を想定するようになった。
その時、既に国民は死滅し、放射能で生命は永久に誕生出来ないにも関わらず。
ある時は、互いに配備の弱点を曝し確認し合うことにより、先制攻撃の誘惑を排除しようと信頼の手を差し伸べた(相互確証破壊戦略)。
ここまで行くなら、後一歩で和平交渉になるのではないだろうか?

もっとも、核開発にばく進した米国もキューバ危機とベトナム戦争の苦さを噛みしめ、それに猛追したソ連も経済悪化に耐えきれず、やっと競争の無駄に気がつき始めた。
それに40年から70年を要し、未だに真の反省に至っていないように見受ける。

何かがおかしい、頭が良すぎて、現実が見えないのか、軍事的職務に忠実なだけなのか。
軍産共同体で生きる人ならいざ知らず、一般人には不合理この上なく、抑止論は言い訳にしか聞こえないだろう。

より深刻な問題
オバマ大統領のがんばりで米ソの核兵器は減るだろうが、まだまだ多い。
それよりも核兵器が拡散し9ヵ国まで広がり、後続を止めるのが困難な状況にある。
銃社会で検討したように、今後、偶発事故やテロ、狂信的な指導者による核戦争の恐怖は増していくだろう。

抑止を単純に信じることの愚かさから抜け出して、新たな平和戦略を生みださないと、それこそ手遅れになる。

もう一つは、原発事故で経験したように、核兵器の廃棄も問題です。
ニュースにはならないが、米国のハンフォード・サイトでは放射能汚染が起きている。

次回は、別のテーマを扱います。







20140926

私達の戦争 44: 核攻撃 1

北朝鮮のミサイル発射

< 1. 北朝鮮のミサイル発射 >

今日は、身近な軍事的脅威、核攻撃について見ます。
これは人類が高々ここ半世紀ほどで生みだしたパンドラの箱のようなものです。
ここにも落とし穴があります。

日本のミサイル防衛システム 

< 2. 日本のミサイル防衛システム >

核ミサイル攻撃を防御する
多くの日本人は北朝鮮からの核ミサイル攻撃を現実の脅威と感じておられるはずです。
自衛隊はこれに対応した迎撃システムを持っています。
簡単に、迎撃するとはどのようなものかを見ます。

この迎撃は日本海のイージス艦(SM3)と陸上配備(PAC3)の2種類のミサイルで行います。
核ミサイルは北朝鮮から5~10分で日本に到達します。
飛来する核ミサイルを同時に数発~十発(?)打ち落とせるイージス艦が数隻、日本海で常時待機しています。
陸上のPAC3の迎撃半径は25kmなので、全土(四大島のみ)をカバーするには220発以上が均等配備されることが必要です。
同じ場所に5発飛来すると仮定したら、5倍の1100発以上が必要になります。
おそらく現在、全域をカバーせず、重要拠点で同時2~6発までの迎撃を目指している。
攻撃が朝鮮半島北部からPAC3配備地点に2発程度に限定されていれば迎撃可能でしょう。

イージス艦より迎撃ミサイル発射 

< 3. イージス艦より迎撃ミサイル発射 >

都合の悪い攻撃だったら
いつもそうですが、攻撃側は相手の裏をかくもので、最悪の事態を想定することも必要です。
例えば、四発が同時か連続的に発射されたらどうでしょうか。
もし近距離であれば5分で飛来しますので、首脳部の判断が間に合わずイージス艦の発射が間に合わない可能性があります。
残りは陸上の迎撃率75%のミサイルで撃ち落とすとして、確率的に1発は着弾してしまいます。
そうすれば数十万人から百万人は被害を受けることになるかもしれません。
しかし、これも迎撃ミサイルが配備されている所に飛来した場合に限ります。
軍事専門家が指摘する北朝鮮の攻撃ミサイルは命中率が低いので問題ない、軍事拠点についてはそうですが、国民にとって核爆弾とはそのようなものではありません。

いくらでも、防御をくぐり抜ける攻撃方法が工夫されるでしょう。
核ミサイルを朝鮮半島北部からでは無く、偽装艦艇や潜水艦、日本海以外からの発射もあり得ます。
さらにおとり弾や高弾道を使うかもしれません。
もっと言えば、爆撃機による核爆弾投下、原発を狙ったテロ攻撃でも、同規模の被害は起こるでしょう。
ミサイルの迎撃率(現在70~80%)が将来向上すると軍事専門家は言明するが、相手のあることを無視してはいけません、いたちごっこになるでしょう。

大雑把にみても、けっして迎撃システムが日本本土を核爆発から救ってくれることはないのです。
もっとも無いよりはましですが。

陸上で迎撃ミサイルPAC3発射

< 4. 陸上で迎撃ミサイルPAC3発射 >

一つの問題は費用対効果・・現実的な想像力で
既に、レーダー網や艦艇などの基本配備や研究開発費(数兆円から将来10兆円)は概ね済んでいますが、今後増やすにはPAC3一発5億円、SM3一発20億円、イージス艦一隻1千数百億円の費用が必要になります。
当然、軍事技術は日進月歩し、さらに軍拡競争が始まれば、今後、更新費用は膨大になるでしょう。

実は、核ミサイルの方が高精度な迎撃ミサイルより安いので、北朝鮮が核ミサイルを10から200発所有していると言われているが、200発の可能性も充分あります。
ちなみに北朝鮮のGDPは4兆円に過ぎませんが、軍事費は1兆円ですので。
これは驚くに値しないのです。
現在、地球上で2万発の核ミサイルが陸上のサイロと潜水艦で、核爆弾が爆撃機で臨戦態勢にあるのです。
当然、これらすべてを迎撃することなど不可能です。

ここで感じて頂きたいことは、核ミサイルの迎撃は非常に分が悪いことです。
実は、「攻撃は最大の防御なり」孫子か信玄の言葉だと思うのですが。
攻撃、戦争を推奨しているわけではありません。
実はこのジレンマにはまり込んだのが、冷戦時代の米ソの無謀な核開発競争だったのです。

*5

次回、冷戦時代の米ソの核開発競争を見ます。
そこには恐ろしいほどの人間の創造力と途方もない愚かさが共存しているのです。




20140924

私達の戦争 39: 抑止力とは


 *1

防衛を語る際、よく抑止力が使われます。
理解しているはずの抑止力ですが、これがまた危うい。
落とし穴を見ていきます。

抑止とは
身近な例を挙げると。
適度な運動をし、効能のある食品を摂取し続ければ、病気を抑止することになる。
犯罪の罰則を強化し、警察が逮捕を確実にすれば犯罪が減り、犯罪を抑止することになる。
よく使われる抑止だが、意味合いは単なる予防から、他者の意志を操作して損害を防止する段階まである。

*2

攻撃に対する抑止とは
危害や攻撃を加えるおそれのある相手(国)に対して、報復の形で、より大きな損害を与えうることを相手にわからせて,その行為を思いとどまらせることを期待する戦略をいう。
これを聞いただけでは、疑いの無い実効ある戦略だと納得してしまいます。

少し例を見てましょう。
日本は米国との戦争を避ける為に、日独伊三国同盟を締結しましたが、1年後、太平洋戦争を開始せざるを得なくなりました。
この同盟の目的は、快進撃しているドイツが世界の覇者になることを確実視した日本が、その軍事力を背景に米英の戦意を挫くことでした(他の理由もあり)。
しかし逆に、中国からの撤退を日本に要求していた米英は、それにより日本が更なる中国侵攻の意志を強めたと考え、大打撃を与える経済制裁に出た。

この抑止が逆効果になった理由は、日本が予想していた通りには米国が認識しなかったことにある。
日本は、日独の軍事力が米国に大きな脅威を与えると予想したが、米国は意に介さず、日本が引き下がらないなら早く開戦し叩くべきであると判断した。
この例からわかるように、互いの認識が予想と異なると逆効果になりうるのです。

*3

抑止の成立条件
抑止が効果を発揮するには、三つの条件があるようです。
A.       攻撃側(日本)よりも、防御側(米国)の軍備が優勢で、戦意が高い。
B.       攻撃側(日本)が、この防御側(米国)の軍備と戦意を正確に把握か、過大に評価している。
C.       攻撃側(日本)が、防御側(米国)を攻撃する時は、互いの軍事力や得失を合理的に判断している。

この三つの条件がすべて満足されていれば、通常、攻撃側は戦争を始めないはずで、抑止が効いて戦争が起きないことになります。

しかし太平洋戦争の開戦はどうだったでしょうか?
日本は上記成立条件のBで、自国と同盟側を過大評価し相手を過小評価した。
Cでは、自ら退路を断ち追い込まれたあげく、いたしかたなく短期決戦への奇襲攻撃となった。

このような例は、あらゆる開戦時や、戦火が拡大していく過程でいつも大なり小なり起こっているのです。

*4

理由は簡単
自国の軍事力を大きめに誇示したり、部分的に不明瞭したりすることはあっても、全体として小さめに見せることはありません。
要は、相手の戦力や戦意を適確に把握することは困難なのです。
さらに、戦争気運が盛り上がっている時や戦争継続中において、自国と相手国の軍備や戦意を合理的に判断することは至難の業です。
この問題は遙か昔からあったことで、歴史的に有名な軍師や戦略家は、自国の軍事力をカムフラージュすることで、敵将の判断を誤らせ勝敗を制した。

*5

抑止の問題はこれだけではない
現代では、異なる問題が重要です。
それは上記成立条件Aの「戦う意志を示す」にあります。
これをわかりやすく言えば「なめられてたまるか」「見くびられてたまるか」でしょうか。

かつてベトナム戦争の戦略についてエルズバーグ博士が国務長官のキッシンジャーに悲観的な見解を述べたことがありました。
この時、キッシンジャーは「見くびられると相手をつけあがらせるから」と、より強硬な戦略立案を要求した。
一世を風靡したキッシンジャーですが、戦争を有利に終わらせる為には、こちらがより強硬に戦う意志を示すことが重要だと信じていたのです。
ベトナム側も巨悪を撃退するには、同様だと信じていたのです。
これでは戦争の終結は遠のくばかりです、後に気づいて異なる戦略を採りますが。

実は、仮想敵国と想定した時から抑止を考慮し始めるので、両国は戦意や敵意を相互に高めていくのです。
例を見ます。
三国同盟を締結した松岡外相は、帰国後、一気に外務省から親米派を根こそぎ排除しました。
通常なら、米国を最大の仮想敵国としたのですから、米国の情報通を温存すべきなのですが。
彼にとっては、それよりも親独派で一本化することの方が政局を乗り切れると考えたのです。
この例は少しわかりにくいですが、他国を敵とし抑止を想定することは、互いに警戒、情報隠蔽、干渉を始め、ついには疑心暗鬼に陥るのです。


まだ問題があります
それは自衛の項で説明したように、この抑止力程度からやがて無限連鎖のように軍備拡大競争に陥るのです。
米ソの核開発競争が最近の例でした。

もう一つは、米国の銃社会で見た問題です。
各人の銃所持が犯罪を抑止する程度よりも、衝動的で容易に銃犯罪を増加させることにより、結果的に銃死亡者が増えました。
同様に自由な軍事力保持は、抑止力よりも国家間の戦争や内戦も増加させるはずです。

つまり抑止は戦争を減らすよりも、潜在的に戦意を高まらせ、軍拡競争を行わせ、最後はちょっとした切っ掛けで戦争を始めさえもするのです。
抑止とは単純に信じられるものではないのです。








20140918

達の戦争 42: 質問に答えて「日本の失敗とは・・」4

       

今日が、「日本の失敗」について最後の考察になります。
前日の記事から続いています。

      

軍部の動き
陸海軍が定める方針(国策遂行要領)が、これまた不思議なものだった。
真珠湾攻撃の年、幾度も出される大方針は平和交渉と日米開戦準備の両論併記。
軍の派兵は中国侵攻の続行、満州への大幅増派(対ソ威圧)、日米開戦に備えて南方攻略(資源確保)の3論併記だった。
米国との和平交渉と言えば聞こえは良いが、米国が譲らない中国撤退を無視して妥協の余地なしとし、期限まで決めて進展するはずがない。
絶体絶命の経済封鎖をまったく予想せず、南方攻略で米英を怒らせ、それを自ら招いた。
2年前のノモンハンの惨敗に懲りず、自ら望み日ソ中立条約を結んだ2ヶ月後、裏切られたはずの独ソ戦好調に気分は変わり、満州に演習と称して大量派兵し再度ソ連を威圧した。
ドイツとの同盟が米国を押さえ、米国は交渉で譲歩し経済封鎖などの強気の手段を取らないはずだと確信し、当然手を打つこともなかった。

*3

世界情勢、特に敵である英米情勢を無視し、運を天に任せ情勢変化があっても、誰も決断せずズルズルと成り行きに任せた。
奇襲攻撃で初戦を叩けば、南方の石油を手に入れ勝算ありとしたが、直ぐに制海権と制空権を握られ、タンカーが沈められ最後の頼みの南方からの石油は絶たれた。
これも戦史上繰り返されたことだが、一斉風靡した古き良き戦闘教義―日本の場合は海上で大艦巨砲、陸戦の突撃で島を占拠―に拘り、連敗を重ね、気づいても時既に遅しであった。
それにもまして奇襲攻撃は米国民の敵愾心を煽り、米英首脳は晴れて軍事協同を行えるようになった。
こうして米国は膨大な物量を持って独伊、ソ連と中国も見方につけて日本を追い込むことになった。

*4 

蟻地獄で
日本の首脳は、あがけばあがくほど深みにはまり抜け出せない蟻地獄に落ちたようなものでした。
軍上層部の脳裏にあるのは、「勝てると進言し裁可を頂き続けた天皇や、犠牲にした幾多の英霊(太平洋戦争前で数十万人)、扇情で盛り上がった国民に、いまさらどの面下げて、領土と神国の名誉を捨てろと言えるものか」でした。
とことんやって、国土が焦土と化しても生まれ代わることが大事だ、そんなことを口にする軍人もいた。
政府首脳にしてみれば、自ら無謀な戦端を開くことは避けたいが、精一杯駆け引きをしていると、なぜか戦争になってしまった。
まさにそんな感じだった。

当時、国民は真の情報、必要な情報からは完全に閉ざされ、戦意高揚と国民一丸への教育宣伝が官民一体となって行われていた。
国民は、この政府や軍部首脳の実態を知ることはなかった。
こうして日本は無責任な軍部主導の政府によって戦争へと突き進んだ。

*5

それでも真因は別にある
なぜ、このような政治状況になったかと言う問題が残る。
統帥権干犯、御前会議、軍閥支配の矛盾は目に余るが、なぜこうなったのか?
これら開戦時の政治状況は、明治維新に起因にしたものもあるが、日本が軍拡路線を推し進める過程で、主に軍人達が手に入れて来たものでした。
初期は、大国ロシアを仮想敵国とし、その橋頭堡として朝鮮半島を手に入れるべく日清、日露を戦い、圧勝した。
しかし満州を手に入れ、第一次世界大戦で漁夫の利でドイツから青島を手に入れた頃から、本土防衛より領土欲が増していくことになる。
かつて英国は日露戦争時、助けてくれた同盟国で、ドイツは第一次世界大戦では敵国だった。
やがて軍部は中国政策でうるさく干渉し始めた英米をソ連よりも仮想敵国とするようになった。
この間、幾度もあった冷害や恐慌に喘いだ国民は連戦連勝する内に、領土拡大に希望をつなげ、身内が敵国で殺されるに及んで戦争への抵抗感は消えていった。
当時、子供の出世の最上位は軍人となっていた。

政治制度(旧憲法)や政治文化など日本固有の問題もあるが、国家も国民も上記の歴史上繰り返されて来た「戦争の罠」にはまっていったのでした。

このことを皆さんに少しでも実感していただければ幸いです。
話はわかりやすさを優先し、厳密さを欠いていますのであしからず。

次回から、別のテーマになります。













20140917

私達の戦争 41: 質問に答えて「日本の失敗とは・・」3


    

今日は、日本の失敗について考察します。
狭義には、太平洋戦争による大敗を指します。
だが重要なのは無謀な戦争をなぜ行ったかにあります。


日本の失敗とは何か?
多くの方は、太平洋戦争を失敗と見なすことで異論はないでしょう。

この戦争によって日本は多くの生命と生活、資産を失った。
遡る1世紀の間、国民の血と汗を注いで得た海外権益を一瞬のうちに消失した。
さらに隣国の怨念は消えるどころか、再燃しつつある。
おそらくこれが最も厄介な失敗になるだろう。

しかし、失敗と言われることに憤然とされる方もおられます。
少し、この点を検討しましょう。

    

「もし勝っていれば」
おそらく結果は同じでしょう。
世界に、かつての併合や植民地の後遺症はあるが、現在、植民地を持つ国は無い。
世界は、両大戦を契機に植民地を解放し、無法を粛正する趨勢になったのです。
日独伊は遅れて帝国主義の夢を追ったが、時代は変わり、大量破壊兵器と総力戦による大量殺戮と甚大な被害が世界を襲った。
一方、国民国家と海運の発達は、世界が協力して無法を正すようにもなった。

「大東亜共栄圏、植民地の解放と言う大義名分があった」
これが侵略のカモフラージュだったことは、被支配国の教科書で既に見ました。
もっとも被支配国には先客の侵略者がおり、日本が肩代わりしたとも言えなくもない。
どちらの被害が少なかったかは様々だろうが、残念なことに日本が最後だったのは痛い事実です。

    

「米国にはめられて戦争をしてしまった」
これは一理あるが、並み居る皇軍の将や参謀が、ころっと騙されたとは・・。
日英米の軍縮会議で日本の軍艦は米の6割しか持てず、全量輸入に頼る石油(米から7割輸入)を突如禁輸される中で、勝利への一縷の望みは奇襲攻撃しか無かったと日本は考えた。
同情出来そうですね、しかし、少し待って下さい。
日本の軍艦所有量は国力差を示しており(実際は一桁違う)、日本の戦争意欲を挫く為に英米が石油禁輸に出ることは当然予想出来たはずです(以前から経済封鎖は段階的に進められていた)。
日本は、米国が要求を呑めば勝ち目の無い戦争を止めても良いと戦争準備をしたが、経済封鎖が始まると、後になればなるほど勝ち目は無くなると慌てふためいた。
単純に言えば、読みが甘すぎる、その場しのぎのつけが最後に回って来た。

ざっと見ても、失敗を取り繕うことは難しい。
重要なことは、なぜ無謀な戦争に突き進んだかにあります。

    


太平洋戦争は如何に始まったのか
既に、この連載「当事者が振り返る戦争とは」で見たように、軍中堅層は戦争で沸き立っていた。
満州や中国、仏印などで、現地の参謀などが独断で多くの戦端を開き、軍中央が渋々追認して来た。
しかも、彼らは罰せられることがなかった。
1930年代の相次ぐクーデターにより、軍の政権支配が始まり、血気と銃剣が国を動かすようになったのか。
天皇や政府、軍の首脳が彼らに振り回される、そんなことが考えられるだろうか。

外交では日英同盟破棄(1921年)、国連脱退、日独伊三国同盟締結、日ソ中立条約締結(1941年)が真珠湾攻撃の年まで進められていた。
これら政策は、当時破竹の勢いであったドイツと結び、中国侵攻に反対する米英を押さえ、隣国のソ連を鎮める算段であった。
しかし日本の読みはことごとく逆に作用し最悪の事態へと進んだ。
太平洋では役に立たないドイツとの同盟は、米国をむしろ態度硬化させただけで、さらにヒトラーの裏切りによるソ連侵攻は、米ソによる日本の挟み撃ちを招く結果となった。
しかも真珠湾攻撃の2日前、ドイツは半年前に始めたソ連への快進撃で20万人の死者を出してモスクワを目前に撤退を始め、早くも陰りが生じていた。

真珠湾攻撃を決する御前会議の前日(攻撃の9日前)、天皇は海軍のトップ二人を呼んで質問された。
「ドイツが欧州で戦争をやめたときはどうかね」
嶋田海相は答えた。
「ドイツは真から頼りになる国とは思っていません。ドイツが手を引きましても、差し支えありません」

    

この質疑には、この戦争主導体制の特徴がよく出ている。
海軍は、創設時の経緯で英米寄りであり、英米の情報量が多く、勝ち目のない戦争に反対であった。
陸軍は、これも創設時の経緯によりドイツ信奉で、米英を軽んじていた。
ここ20年ほど、政府と軍部内で、上記の対立を繰り返しながらも、ドイツの威光を借りて英米を黙らせる方向で進んでいた。
その前提が無くなることは国策の根幹が崩れるのであるが、大臣には当然のように対案もなく諦め口調であり、責任感も無い。
天皇も心配になり言葉を交わすが、軍指導部の提案を御前会議で予定通り裁可するのが常であった。
このような事例は枚挙に事欠かない。
国策の最高決定機関となっていた御前会議(天皇と政府首脳)の実態はこのようなものだった。


次回も続きます。







20140916

私達の戦争 40: 質問に答えて「日本の失敗とは・・」2


     


今日は、戦争の失敗について考察します。
奥深い問題なので、要点だけを見ます。

    

戦争の成功と失敗(取り敢えず)

多くの人が成功と認める戦争
A.古代ギリシャが連合してペルシャの侵入を阻止した。
B.高句麗が隋の侵入を阻止した。
C.日本が元(元寇)の侵入を阻止した。
D.米国が連合してナチス・ドイツの侵攻を阻止した。

敵の侵略意図が明確で外交も含めて他に方策が無ければ、侵攻に対する自衛の戦争は当然です。
すべての戦争を否定し、失敗と言うわけではありません。

    

成功とは言えない戦争
E.ペロポネソス戦争:全ギリシャがアテネとスパルタに分かれて70年間戦った。
F.第一次世界大戦:欧州全土で、欧州各国とロシアが二手に分かれて戦った。
G.ベトナム戦争:分断されたベトナムの一方に米国が加担し15年間戦った。
H.イラク戦争:米国と同盟国が武装解除を掲げイラクに侵攻し8年間戦った。

これらの戦争に共通しているのは、大義名分も無く、被害が甚大であったことです。
EとFでは、互いが領土や利権の拡大を狙い対立が深まった末の戦争でした。
互いに相手を悪の枢軸と見なしたが後で勘違いと判ることが多い。
勘違いとは、米国が、Gでベトナム側の戦う意図を民族独立では無く、恐怖視していた共産化と見なし、Hで大量破壊兵器が存在すると見なしたことです。
大抵、戦端は戦争被害の甚大さに思いが至らず開かれることになった。
あれよあれよと始まった戦争が全土を焦土にし、社会が疲弊し、人心が乱れ、悪くすれば次の戦争を招いた。
戦争を牽引した人々は、予想もしなかった被害の甚大さに、おそらく呆然としたことでしょう(私の考え過ぎかも)。

    

これらの戦争を失敗と呼んでよいのではないでしょうか?
それでは何が失敗なのでしょうか。
それは戦った国々、勝者も敗者も互いに損耗し、特に国民のほとんどが辛酸を舐めただけだからです。
唯一ベトナム戦争では、数百万の人命と引き換えに独立と統一を得ることが出来た。
しかし、これも両国の反省の弁によれば、初期の段階で誤解を解く姿勢があれば、無傷に目標を達成出来たはずなのです。

戦争の何が問題なのか
上記の戦争は、真の勝者が無い戦争と言えます。
それでは勝利した戦争は、成功した戦争と言えるのでしょうか?
実は、最初のA・B・C・Dの戦争には後日談があるのです。
おおまかに言うと、これら大勝利した戦争が軍拡路線へと向かわせたのです。

A. 古代ギリシャは、アテネを盟主に軍事同盟化が進み、ギリシャ全土で利権を軍事力で奪い合う戦争と侵略が160年間続き、分裂と衰退を深め、最後はマケドニアに占領された。

B. 朝鮮半島は絶え間なく北方民族と中国から侵入を受け続け、その度に独力で跳ね返して来た。
軍事力は増したのだが、国土と民衆は疲弊していくばかりだった。
しかし2千年間で統一新羅と李朝鮮王朝は上手く侵略を逃れた。
国土の疲弊を救ったのは名誉と戦争を捨てた苦渋の外交にあると言えるだろう。

C. 真剣に受け取ってもらうとまずいのだが、日本はこの時をもって「神風」を大国と戦う時の精神的支柱とした。
不思議なことに、あの巨大な米国と戦ったベトナムにも「神風」信仰はあった。
日本と同じ頃、元寇がベトナムの海岸にも押し寄せ、同様に神風(台風)が吹き、撤退したことがあった。
地政学的に似ているベトナムと朝鮮半島は頑強なまでに侵略者に抵抗した。

D. 長らく孤立主義を任じていた米国は第一次世界大戦の軍需景気と末期の参戦から第二次世界大戦にかけて、一気に軍事超大国に変貌した。
その直後の朝鮮戦争において米国の力無しでは、今の韓国はなかった。
しかしその後、幾たびか世界の警察として貢献したこともあったが、やがてCIAの謀略や身勝手な軍事介入が増えつつある。

おぼろげながら、戦争を体験する事が、更なる恐ろしい悲劇を呼び込む様子を見てとれたと思います。

    

戦争による最大の問題とは何か
必要な派兵もあるし、受けて立たなければならない戦争もあるだろう。
その中にあって、繰り替えされる戦争の罠に国民はいつも注視すべきです。
それは、戦争の勝敗ではなく、戦時体制や軍事国家となって、歯止めが効かなくなる政治状況に陥ることです。

世界史を振り返ると、アッシリア、秦、古代アテネ、ローマ帝国、スペイン、イギリス、ドイツは軍事力により覇者となり、逆にその軍事依存体質により瓦解する宿命にあったと言えるだろう。
個々に見れば、多少事情は異なるだろうが。
要は、一度軍事国家となり戦争を経験すると政府も国民も、やがて戦争の甘い熱情の罠にはまり、抜けだせなくなるのです。
この経緯は、経済・心理・社会・政治・情報文化等のすべてが関わり進行します。
詳しくは連載「戦争の誤謬」「社会と情報」で扱っています。

失敗から学んだつもりでも、民主度が発展しても、時代や武器が変わっても、安心した頃にまた戦争の罠に取り憑かれるのです。

次回は日本を例に見ていきます。





20140914

私達の戦争 39: 質問に答えて「日本の失敗とは・・」


     


前回、「自虐史観は・・」を書いた折、「日本は何を失敗したのですか?」との質問がありました。
今日は、この質問を取り上げます。

コメントに感謝します
この連載を7月中旬から始めて、多くのコメントをいただきました。
賛否両論ありましたが、いずれも熱のこもった御意見をいただき感謝しています。
賛成のコメントは、当然ですが、私の理解と一致しており、安堵を得ます。
一方、反対の立場からの批判は厳しいですが、逆に、発憤することになります。
指摘された有用なポイントは、この連載で取り上げて解説してきました。
その意味でも、批判的な意見をありがたく思っています。
批判のコメントは私を悩ませますが、この連載をより深いものへと導いてくれるような気がします。
どうかこれからもどしどし賛否両論のコメントをお待ちしています。


    

今回の質問
今回の質問はYAHOO!ブログ、アクアコンパス5に記入されたコメントです。
この質問を見た時、私は正直びっくりしました。
この連載で取り上げている戦争―主にアジア・太平洋戦争、を失敗でないと捉えられている人がいたことに驚きました。
しかし、よくよく自問自答してみると、当たり前の指摘でした。
私がこの連載を始めなければならないと思った理由は、まさにそこにあったからでした。
世の風潮が、軍事に頼り戦争を肯定する傾向が強まったからでした。
そこには、過去の戦争を失敗とする気持ちが無いのは当たり前です。
この問題をいつか書かなければならないと思っていましたが、私は避けていました。
それで決心しました、感謝!感謝!

    

失敗について
ここでは質問者への解答も含めて、皆さんに「戦争から学ぶ」について語ります。
一般的な認識から始まり、最後は「日本の失敗」について説明します。
あることを失敗と見なすかは重要ですが、これまた自由です。

失敗の意味
「失敗」とは「人間の行為がもたらした仕損じ、やり損ない、上手く行かなかったこと」と定義しておきます。

例えば、地震が襲ったとしましょう。
皆は、倒壊した家の前で、呆然と立ち尽くしていたが、やがて復興に向けて動き始めました。
ある人は、これは天災であり、天罰だと諦めました。
彼は、悲しんでいても始まらないと考えたに違いありません。
別の人は、これは人災であり、家の強度不足や立地に問題があったと考えました。
彼は、現状復帰ではなく改良の上、再建することにしました。

本来、地震は天災ですが、人はそこからすらも、自らの行為に反省点を見出し、次ぎの行動に生かすものです。
この反省点を失敗と呼んでいいのではないでしょうか(責任はないでしょうが)。


    

歴史から得るもの
この連載への批判の中に、「歴史から学ぶべき事はない」「過去は過去でしかない」「歴史にIfは無い」と言う意見もありました。
これらをすべて否定出来ないことも事実です。

確かに、歴史学者が過去について軽々しく是非を断じるのは問題でしょう。
しかし、一方で実践を旨とする人々、スポーツの監督に始まり軍事戦略家(孫子、トゥキディデス、クラウゼヴィッツ)まで過去から多くを学びます。
この学ぶ対象は、勝因もありますが、重要なのは相手の弱点や敗因(失敗)でしょう。

おそらく「歴史や過去から学ぶ価値」が無いと考える意識の中に、歴史認識と言う体系的な論理と、過去と現在との繋がり(共通する文化・精神の存在)に疑問を抱いていることがあるのでしょう。
これは当然の疑問であり、そうであるからこそ歴史を鵜呑みするのは危険で、歴史外も幅広く読み、確認しながら自問自答する姿勢は不可欠です。

もっともそんな暇はほとんどの人には無いはずです。
結局は、広く受け入れられている良書だけは目を通すことが肝要でしょう。
もう一つ言えることは、批判のコメントを書かれた人も、実は日本の過去に好感を持ち、通じるものを感じておられるはずです。


*5

戦争から学ぶ
今次の戦争を経験された人々はまだ周囲にたくさんおられます。
敗戦を迎え、多くの人は何を思ったのでしょうか。
当時、終戦を受け入れられない軍人はいたはずですが、一部に過ぎない。
「勝てると思っていた」「二度と悲惨な戦争はしたくない」が大勢でしょう。

しかし、戦争を知らない人々にとってそうではありません。
これは米国でも同様で、ベトナム戦争から40年も経つと、若者の多くは肯定するようになりました。
当時、大統領選の最重要な論点は戦争の終結だったにもかかわらず。

どうやら戦争には不思議な魔力が潜んでおり、戦争を生きた人々には筆舌に尽くせない悲惨と不条理があるのですが、戦争を指揮する人々や戦争を始める前の国民にはそうでも無いのです。
これは世界共通のようです。
ここに戦争を学ぶ必要があるのです。
どちらかと言うと、戦争の勝敗やいきさつに関わりなく、大いなる闘志と悲惨のギャップにこそ学ぶ価値はあるようです。

次回も続きます。