20140819

私達の戦争 27: 戦争は何をもたらすのか 4

 
    


これまで見てきた戦争被害は死者や金額の多寡で表現出来ました。
戦争による兵士と民間人の傷病者の数は死者を遙かに凌ぐことになるが、不明瞭です。
しかしもっと恐ろしく、社会の更生を拒む根深いものがあります。

その他の被害
これまで扱っていない被害を列記します。



< 2. 結合双生児の分離手術後、家庭を持ったドクさん >

1.       ベトナム戦争での枯れ葉剤散布: 現在も約30万人の奇形児がいる。
2.       戦場に埋設された地雷: 世界に1億個ある対人地雷で、和平後も死傷者が出ている。
3.       毒ガス、都市爆撃、火炎放射器、原子爆弾など: これら無差別殺戮手段は主に今次大戦で開発されたもので、大量の民間人が死亡した。
4.       精神を犯される兵士: 米国のイラク・アフガン戦争の結果、帰還兵の14%(10万人以上)が精神的な治療を受け、5万人以上が心的外傷後ストレス障害になった(資1)。日本でも太平洋戦争末期になると、還送戦病者の精神病患者比率は最大22%(学者により8%)になった(資2)。これは戦後の研究結果であり、当時、兵士が精神病に罹ることに気づいた医者は希だった。
5.       人権や自由が無くなる: 戦争が始まるとあらゆる国家は戒厳令や様々な統制令を敷くことになる。徴兵制や言論統制などにより、否応なく国民を戦争遂行に向かわせる。 


< 3.映画「ディア・ハンター」、ベトナム戦争帰還兵の心の傷を描いた >

日本の場合
アジア・太平洋戦争時、戦時体制が何をもたらしたのかを見ます。

1.国民精神総動員法: 1937年、日中戦争開始共に施行。「国家の為に自己犠牲を尽くす国民」を育てる目的で大規模な宣伝広報が行われることになった。

2.国家総動員法: 1938年施行。政府はこれによって労務・資金・物資・物価・企業・運輸・貿易・言論などほとんどの国民生活と企業活動を勅令で統制可能になった。つまり議会を通さず天皇の命令により、政府は戦争遂行へと大きく舵を切ることが出来るようになった。

3.大政翼賛会: 1940年、太平洋戦争開始の1年前に結成。すべての政党を解体し、この会に一本化し、総裁である首相が、各都道府県から末端の町内会までを統括した。

4.治安維持法: 1941年、太平洋戦争開始の9ヶ月前に大幅強化。これによりあらゆる政府批判を最大死刑で弾圧し、有無を言わせぬ体制が完了した。


< 4.治安維持法 >

この軍部主導の全体主義的な計画経済がなければ苛酷な戦争を継続出来なかっただろう。
少ない食料と資源を国民で分かち、老若男女がすべての力を出し切り、資金・家財道具を供出し、お国のために身を捧げてこそ可能だった。
この過程で、地主制衰退や企業の利益抑制、技術学校設立などプラス面も無いではなかった、ほとんどは限定的だが。
このような一体化を成し得たのは一重に、国民の期待を担った貴公子近衛公と天皇制(統帥権干犯)のおかげだったろう。


いくつかのエピソード
1942年の翼賛選挙の無効票に書かれていた批判を見ます(以下、資4)

「軍官専制世は真っ黒、資本家便乗搾取に踊る衆院萎えて色無し」(政治批判)
「翼賛会は国賊にして且つ憲法の大敵だ」

「南進して成果は挙がっても泣くは国民ばかりなり」(軍部批判)
「軍政をたおせ、戦争やめろ」

「債権の押し売りやめてくれ」(統制経済批判)
「米をあたえずんば死を与えよ馬鹿」
「産めよ増やせと言っても白米不足で生まれた子供は栄養不良だ。将来の日本民族を考えないか」

「官吏極楽商工地獄せめてなりたや守衛さん」(官吏、商工政策批判)
「あたらしい共産主義者岸(信介、商工大臣)を打ち殺せ」
「中小商工業者は犬猫にあらず、殺されてたまるか」
当時、軍需優先のため中小企業を強制的に改変・統合させ財閥系企業の系列に組み込んだ。これが現在の下請け制の原形となった。

*5

国民の発言が露見するとどうなったのか、1942年の事件から(以下、資4)
「面白い話をこもごも聞きます。今日本は負戦さばかりだそうですね。発表ばかり勝った様にしているが、本当は負けているとのことだ」(職工の発言、誣告罪で送検)
「天皇の奴は暑い目寒い目を知らずに・・・、国民を奴隷扱いにして、・・いつかは政体が変わる」(新聞記者の発言、刑法で送検)
「俺は招集されて天皇陛下のために死ぬのは嫌だ。日本は皇室を倒さんと本当の幸福は来ないのだ」(事務所員の発言、不敬罪で懲役1年)

当時、学者や思想家、活動家の国策に沿わない著作は次々に発禁となった。
新聞は、当局に逆らうと新聞紙の供給制限(配給制)で脅され、さらに徹底した検閲で真実報道や批判が出来なかった。
それを越えて訴える者は獄中死を覚悟しなければならなかった。
国民は虚偽広報の中で真実から閉ざされ、疑うことも批判も出来ず、当然、改革を望むことは出来なかった。
こうして戦争開始と共に、国民はズルズルと国家と無理心中を強いられた。

次回は、「戦争は何をもたらすのか」を締めくくり、これからのために最も注意すべきことを書きます。


参考資料
資1:「世界を不幸にするアメリカの戦争経済」スティグリッツ共著、徳間書店、2008年刊。
資2:「戦争と罪責」野田正彰著、岩波書店、1998年刊。
資3:「概論 日本歴史」佐々木潤之介編、吉川弘文館、2000年刊。
資4:「アジア・太平洋戦争 日本の歴史20」集英社、森武麿著、1993年刊。












20140818

Kobe shopping area and a concert




     


On this August 3, I attended a concert.
To Kobe Harborland of the concert hall, I walked through the arcade of Sannomiya and Motomachi in rain.
I introduce you to the shopping area and a concert today.

About the concert

My wife belonged to amateur's string music ensemble, and it was the regular concert on that day.
Matukata hall to hold the concert was approximately full in spite of rain.
All programs were the music of Vivaldi and "four seasons" was also performed.
“L'estro Armonico” was fresh and was good for me.


この8月3日、私は演奏会に行きました。
演奏会場の神戸ハーバーランドまで、雨の中、私は三宮と元町のアーケードを歩いて行きました。
今日は、ショッピング街と演奏会を紹介します。

演奏会について
私の妻は、アマチュアの弦楽アンサンブルに所属しており、この日はその定期演奏会でした。
会場の松方ホールはほぼ満員で、雨にも関わらず有難いことでした。
演目は、すべてヴィヴァルディの曲で、「四季」も演奏されました。
私には「調和の霊感」が新鮮で良かった。

2. the building of Matukata hall, a intermission, the lobby after the performance

There is always good feeling of strain before a performance begins.
The lobby after the concert bustles with the chatting of the players and the visitors.

This ensemble is formed only by women of Kobe.
If having interest in this, please click to the HP of Ensemble Joint.
http://www.geocities.jp/ensemble_joint/top.html

演奏が始まる前は、いつも良い緊張感が漂います。
演奏会が終わったロビーは、演奏者達と来場されたお客様達の談笑で包まれます。

このアンサンブルは神戸の女性ばかりで結成されています。
関心のある方はアンサンブル・ジョワンのHPまで。

The arcade of Sannomiya and Motomachi

I introduce overseas tourist to some shops peculiar to Japan.

三宮と元町のアーケード
海外の旅行者に日本独特のお店を紹介します。

3. A: Uniqlo of casual wear, B: Sannomiya center street, C: drugstore, D: tax-free shop >

< 4. store >
A: “Takoyaki” is Octopus dumplings. It seems that octopus dumplings are soaked in soup and are eaten. There was a queue in front of a store.
B: “Arare” is cubic rice crackers. This cracker is a kind of confectionery of baked rice cake. I like it being covered by soy sauce.
C: “Wagasi” is Japanese cake. It is a lot of pasted sweet cakes by older Japanese method.
D: Lacquerware is traditional crafts. It is a lot of lacquered wooden tableware.

A:たこ焼き。たこ焼きをおつゆに浸けて食べるようです。店の前に行列が出来ていました。
B:あられ。お米の焼き菓子で、醤油を塗ったものは私の大好物です。
C:和菓子。日本の昔からある甘い練ったお菓子が多い。
D:漆器。昔からの漆塗りの木製食器です。 

< 5. store >
A: “Houcyou” is kitchen knife.
B: “Butudan” is a family Buddhist altar. Family condoles with the dead near relative. 
C: “Kimono”.  There are many traditional Japanese high-class kimonos.
D: “Ocya” is Japanese green tea.

A:包丁。料理に使うナイフです。
B:仏壇。各家庭にある仏教式の祭壇、弔い用です。
C:着物。日本の伝統的な高級な着物が多い。
D:茶葉。日本の緑茶です。

< 6. store >
A: ”UFO catcher” is a stuffed animal game machine. It is a game machine that children can catch toys and dolls by.
B: Portrait. The portraitist draws a portrait with your laughing face.
C: Meat of Kobe cow. There was a queue to buy croquettes.
D: Camera store.

I walked in a crowded arcade in unfortunate rain after so long, but was nice for a change.


A:UFOキャッチャー。これは子供がおもちゃを掴み取りするゲーム機です。
B:爆笑似顔絵。笑った顔で似顔絵を描く。
C:神戸牛の肉。コロッケを買う行列が出来ていた。
D:カメラ店。


あいにくの雨でしたが、久しぶりに都会の人混みの中を歩き、気分転換になりました。





 

20140816

私達の戦争 26: 戦争は何をもたらすのか 3

 
    

今回は、戦争による日本の経済的損出を見ます。
主に日中戦争と太平洋戦争による国内の損出になります。

    

日本の経済的損出とは
これらの戦争によって日本経済は、中国と東南アジアの資源と市場を手中に収めたことにより、一時は回復した。
しかし敗戦と共に、流血によって獲得した広大な占領地を一瞬にして失い、さらに全国200以上の都市が半年ほどの空襲で焼野になってしまった。
しかしこれだけが損失では無い。
戦争が深まるに連れて国民の暮らしは困窮し、また過去数十年間の血税と借金による巨額の軍事支出は無に帰した。
さらに戦時中から終戦かけて訪れたハイパーインフレと経済混乱は、さらに国民に追い討ちをかけた。

おそらく入手出来るはずだったものより、遙かに失ったものが多く、人的損害を考慮すると、その差は更に拡大する。


*3

失ったものとは
日本の国富(金融資産含まず土地含む資産)の戦争被害額は643億円(空襲、艦砲射撃などによる直接被害額486億円)であった(資1)
被害額は日中戦争が始まる2年前(1935年)の国富の34%だが、土地評価を除くと実に49%(資2)、その年の国民総生産の3.9倍資(資2)に達した。
国富被害額の大きいものは、壊滅的打撃を受けた船舶(被害率81%)と工業用機械器具(同34%)、建築物(同25%)で他は7~17%だが、この船舶不足は別の深刻な被害を招いた(資3)

国家予算に占める軍事費は1928年の30%から上昇し続け、日中戦争中75%、太平洋戦争末期の1944年には80%に達した(資3)
戦争期間中の国家予算(平均単年度)に対する総軍事費は、日清戦争で3.8倍(年分)、日露戦争で4.2倍、日中戦争・太平洋戦争で9.6倍に達した(資2)
この三度の軍事費合計は国家予算の17.6倍(年分)になり、この無駄になった額は結局、国民の生活と命を奪うものでしかなかった。
当時の軍事費は、現在の常識とはかけ離れており国民所得に占める割合は、低い時の1926年で12%、満州事変開始の1931年で14%、太平洋戦争開始の1941年46%、末期の1944年には最高の151%にもなった(資2)
(国民所得(間接税を除く)は当時の国民総生産の約80%前後だった。(資2)
これを可能にしたのは増税と赤字国債の大量発行だった。
国債発行額は終戦後の1949年までの15年間膨張し続け200倍になり、当然、卸売物価は日増しに高騰し200倍となり、戦後、ハイパーインフレが高止まりした(資4)
政府は徹底した経済統制と物価統制を行ったが、焼け石に水だった。
この戦時体制により、行政費の圧縮、生活物質の欠乏が進み、生活は困窮していくことになった。
その一方で軍需優先は関連財閥を肥やし、1930年度国家予算の1/4の利益を三菱重工1社で出すようになっていた(資5)

*4

国民はどれほど困窮したのか
太平洋戦争末期のエピソードを紹介します(資6)
週刊誌記事の「食べられるもの色々、虫の項」に「ゲンゴロウ虫の羽、足、頭をもぎ取り、腹だけ醤油漬けにして煮付ける」とある。
新聞記事に、「人間の小便から塩を採る方法」があり、これは政府が塩不足を克服する為に、始めていた自給製塩運動の一環であった。
井伏鱒二の小説に、「魚は、配給のものは、平気で焼いたり煮たりしたが、闇買いのものは焼くことを遠慮して煮ることにしていた。」
これは隣り近所に匂いが行くのをはばかったためです。

*5

数字で確認すると
1941年に米が配給制になり、成人男子1人当たり主食配給量が330gから45年には300gになった(以下、資7)
これに麦やトウモロコシなどの混ぜものが増え、さらに代用食として芋類が配給されようになった。
魚の配給は、36gから10gへと減少した。
当時の必要摂取カロリーは1日2200kカロリーだが、1400kカロリー(36%不足)に過ぎなかった。
敗戦後の51年には1200kカロリーの地域もあった(以下、資5)
小学生の体重は8年間で1割減り、国民は栄養不良状態に落ち込んでいった。
為に公定価格の10倍から200倍の闇価格であらゆる生活物資を買わなければならなかった。
衣類も配給制になり、靴下は1人1年に1足、男物のパンツは13人に1枚となった。

*6

なぜこのようになったのか
複雑な事情が絡むのだが、大きく三つの要因がある。
一つは強大な米国と広大なアジア・太平洋地域で戦う為に、すべてを軍需生産に向けなければならなかった。
ゆえに生活関連物資の生産に資金と労働力を割けなかった。
一つは、成人男性が戦場にとられたことによる農家の労働力不足と化学肥料不足が、農作物生産を低下させた。
今一つは、輸入物資の途絶です。
1935年(日中戦争の2年前)の国民総生産に占める輸入額は15%あった(資2)
そのほとんどが米国とアジアで占めていた。
しかし日中戦争から太平洋戦争に進むにしたがって、最初は連合国の経済封鎖、次いでほとんどの輸送船を失ったことにより、輸入額はピーク(1938年)の1/5.5となった(資4)
せっかく手に入れた東南アジアからの資源も届かなくなっていた。
さらに輪をかけて、東南アジアも連合国からの経済封鎖に喘いだ。

こうして総合農業生産指数は、1940年から急激に下がり、敗戦の1045年には60%に落ち込んだ。
味噌、石鹸、衣類などの生活必需品の生産指数は、同期間で、50%から数%に落ち込んだ。

最後に
私には理解出来ない。
当時の相次ぐ、世界的な戦争と恐慌の繰り返しの中で、日本政府は必死の金融・経済政策で苦難を乗り越えようとした。
その解決策として満州に手を出し、次いで中国に向かった。
しかし、どう考えても中国から米国までを相手に戦うことは、無謀に過ぎる。
正に狂気としか言いようがない。
それが一度、戦争への道を歩み出した帝国の末路かもしれない。
古代アテネやローマ帝国、秦帝国と同じ轍を踏んだのだ。


参考資料
資1:「日本経済史」宮本又朗編、放送大学刊、2008年。
資2:「数字で見る日本の100年」矢野一郎監修、国勢社、1981年刊。
資3:「図説日本史」東京書籍、2006年刊。
資4:「図説日本経済史」竹中靖一編、学分社、1972年刊。
資5:「アジア・太平洋戦争 日本の歴史20」集英社、森武麿著、1993年刊。
資6:「戦後世界経済史」猪木武徳著、中公新書、2009年刊。
資7:「日本経済史」石井寛治著、東京大学出版会、1991年刊。
















20140815

私達の戦争 25: 戦争は何をもたらすのか 2



    

前回は人的損出を見ました。
今回は経済的損出を見ます。


    

最初に知って欲しいこと
戦争を始める為政者がよく使う台詞に、「我が国の国益や人命が奪われることは耐え難い」があります。
皆さんには、戦争によって得るものと戦争によって失うものを冷静に比べていただきたい。

米国の南北戦争で82万人が死にました。
後にある経済学者が試算しました。
「もし南部の奴隷所有者から国が奴隷を買い取り、その奴隷に土地と家畜を買い与えたとしても、その費用総額は戦争で失ったものよりも少なかった。」

ヒトラーは国民に、失った広大なドイツ帝国の領土を回復し、経済を飛躍させると約束し、軍事侵攻を正当化しました。
日本の為政者も、中国の資源と市場を得ることで、低迷する経済から脱することを企図しました。
その結果は、さんざんなものでした。

為政者が始める多くの戦争に共通していることは、「戦争を楽勝と見て、損出を無視し、かつ得るものは不明朗で、強いて言えば名誉など」ではないでしょうか。

*3

驚くべき戦争コスト
スティグリッツの「世界を不幸にする戦争経済」から戦争のコストを見ます。
詳しくは「戦争の誤謬 15: 戦争による損出」にあります。

開戦直前、米国の国防長官は「必要なイラクの戦費は550億ドル(7兆円)」と言った。
(以下、2001年の為替レート125円で換算します)

イラク・アフガン侵攻による米国のコストを見ます。
総額58110億ドル(726兆円)にもなる。
これは2001年、米国の歳出18632億ドルの3.1倍になる。
また2001年、日本の実質GDP477兆円の1.5倍になる。

*4

コスト内訳(2007年までの計算で、実際はさらに膨らむ)
1.     2001~2007年の実際の支出   : 6460億ドル  (81兆円)
 ここで既に12倍にもなっており、如何に矮小化しているかが分かります。 
2.     将来必要な撤退、武器交換などの費用  : 9130億ドル (114兆円)
3.     退役軍人の医療、障害補償、社会保障費用: 7170億ドル  (90兆円)
4.     その他軍事費(隠された国防費など)  : 4040億ドル  (51兆円)
5.     利息コスト(ほとんどが借入金)    : 8160億ドル (102兆円)
6.     費用見直し(低い兵士補償額など)   : 4150億ドル  (52兆円)
7.     マクロ経済の損出           : 19000億ドル(238兆円)
 戦争による原油高が世界の景気低迷を招き、米国の輸出を減らしGDPが低下し税収が減る。さらに莫大な戦費の出費により国の負債総額が増えた。このような機会損出額は計り知れなく大きい。

この結果、米国と世界が得たものは・・・
私の知る限り、世界も米国も得たものは無かった。
安全保障は向上したでしょうか?
益々、米国は憎まれ、テロを誘発することになる。
イラクとアフガンは平和になったでしょうか?
予想以上に、混乱が続き、先は見えません。

米国の効果としては、J・ブッシュの一時的な人気と反テロへの熱狂、軍事産業の活況でした。
しかし、これは更なる災厄をもたらすことになった。
テロ対策として、アメリカ国家安全保障会議を中心に情報産業、マスコミ、議会が一体となり、無差別の情報収集(盗聴)と情報管理が秘密裏に進行されることになった。
これを告発したのがスノーデンでした。

    

まとめ
多くの戦争指導者は、当初得るものが多く、失うものが少なく見えるようです。
一つには、小競り合いだけで終わるとか、楽勝で勝利すると思いたがるようです。
いま一つは、目先に囚われて先の事を考えないか、反戦感情を生む詳細な被害予測など不要なのでしょう。

おそらく戦争をしたがる為政者は、政治力に長けているのでしょう。
彼は、真意を隠しながら自分の望む方向に持っていくには、国民に何を訴えれば良いのかが誰よりも理解出来、タイミングよく出来る人なのでしょう。
一方、そのような人は、俗に言う大局(?)は見えても、国民の痛みや先の損出は見たくないようです。
多くの戦争がそのことを物語っています。





20140814

私達の戦争 24: 戦争は何をもたらすのか

 
    

前回、国家がいとも簡単に戦争を始めることを見ました。
今回から、戦争が国民に如何に広範囲に甚大な災厄をもたらすかを見ます。
それは、想定していた国益や損出と比べもにならない悲惨な結果を招きます。


戦争による損出
戦争には人的損出、経済的損出、社会的損出が目立つが、人権や精神的な損出も著しい。
戦争の影響が、終戦後も長く災いをもたらし続け、これがまた次の戦争を呼び込むことになる。

人的損出

    

第二次世界大戦の場合、資2(末尾の参考資料の番号)
大戦の死者は総数5000万~8000万人で、軍人は2200万~2500万人、民間人は3800万~5500万人です。
軍人は戦闘、傷病、捕虜などで死ぬが、民間人は爆撃、虐殺以外に強制労働、難民、飢饉などによる病死や餓死も多く、飢饉病気で1300万~2000万が死んだ。

飢饉では、日本軍の統治時代(1944年)、ベトナム北部で民間人40万人が餓死した。
この主因は天候不順で、他の要因も絡むが日本軍の転作政策や徴発が災いした。
爆撃では、米軍による東京大空襲(1945年)によって、1日で民間人8万人が死に4万人が負傷した。
この都市爆撃はこの大戦からドイツ、日本、連合国により多用された。
捕虜の強制労働では、ソ連によるシベリア抑留で、各国からの捕虜390万人の内、57万人が死亡し、54万人が未帰還となった(日本の抑留者60万人)。
これは苛酷な環境での強制労働が原因だが、ドイツや日本も捕虜に対して同様だった。
虐殺では、ドイツ軍によるユダヤ人600万人が最大だが、規模に差はあるが日本や多くの国が行った。

中国の民間死者は700万人~1600万人と多い。
これは日本軍や国民党軍、共産党軍以外に地方軍閥、馬賊、ゲリラが割拠しており、各勢力の戦闘に巻き込まれ、食料徴発や焦土作戦による病死や餓死が多く出たことも一因です。

アジア太平洋戦争時の日本の人的損出、資1
太平洋戦争開戦の1941年の総兵力は241万人、終戦の45年は717万人だった。
アジア太平洋戦争を通して906万人(人口約7100万人)が兵士動員され、その29%(260万人資2)が死んだ。
45年以降の米軍の大空襲により、全国で死者約50万人、負傷者102万人、罹災者約970万人が出た。

 
3

太平洋戦争末期の沖縄戦の人的損出、資3
沖縄では本土決戦への時間稼ぎの為に、消耗戦を強いられた。
県民60万人の沖縄で連合軍18万人と日本軍9万が戦った。
日本の戦死者は軍人9万人、民間9万人で、このうち沖縄県民の死者は病死・餓死を含めると15万人に達した。
戦力不足を補う為に少年から老人まで沖縄男子2万人が根こそぎ動員され、さらに男女の学徒が動員された。
また県民は労働力・食料の徴発、戦闘中の壕からの追い出し、スパイ容疑処分、自決強要などを日本軍から受け死者が増大した。
結果、日本軍は壊滅状態、県民60万人のうち4人に一人が戦死した。

第二次世界大戦の人的損出、資2
戦争当事国60ヵ国の軍民死者の人口比は平均3.6%でした。
主要国の軍民死者の人口比はソ連12.6%、ドイツ9.3%、日本4%、中国2.9%。
軍民死者の人口比が著しく高い国は、欧州ではドイツやソ連に接した東欧やバルト三国でポーランド17%、リトアニア14%。
アジアは軍民死者の人口比が総じて高く、インド、仏領インドシナ、フィリピン、シンガポールで4~7%となり、日本軍と連合軍が戦った東南アジアに多い。

4

最近の戦争での民間人被害、資2、資4
最近の戦争では、爆撃により民家、施設、環境が軒並み破壊され、生活物資が入手困難になり、餓死を待つか難民にならざるを得ない。
コソボ紛争(1996年~)では、全戦死者は数千人だが、難民は100万人を越えた。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年~)では、人口430万人で難民200万人が発生した。
民族問題が絡むと難民は増大する。
2003年に始まるイラク戦争では、全戦死者2万人だが民間死者は50万~100万人とされる。
1997年のコンゴ紛争では、飢饉や伝染病蔓延などで540万人以上が死んだ。

5

まとめ
全体主義に陥った国家(ソ連、ドイツ、日本)は第二次世界大戦を始め、他国の侵略だけでなく自国民にすら多大な犠牲を強いた。
これらの国は一党独裁、領土拡大、軍事優先、異民族蔑視で共通している。
このような体制の指導者は国益優先と称して、自国の兵士や民間人、まして他国民など眼中に無い。
沖縄戦のような惨状は、太平洋上のペリリュー島の戦い、インドのインパール作戦で既に始まっていた。

重要なことは、国が一人の異常者や主義によりミスリードされたのではなく、全体主義を招く風土が、これらの国にはあるのです。資5


参考資料
資1:「太平洋戦争 近代日本の軌跡5」由井正臣編、吉川弘文館、1995年刊
資2:Wikipedia「第二次世界大戦」他
資3:「アジア・太平洋戦争 日本の歴史20」森武麿著、集英社、1993年刊
資4:「よくわかる世界の紛争」毎日新聞社編、毎日新聞社、2011年刊
資5:「新ヨーロッパ大全Ⅰ、Ⅱ」エマニュエル・トッド著、藤原書店、1993年刊。この本はヨーロッパの宗教改革がなぜドイツ中西部で起きたかを、ヨーロッパ全土を人類学的に分析・解明したものです。中で全体主義に陥りやすい文化について触れています。













20140813

I thank for having risen above 150000 people. I hope you will take good care of this.

 
    

I am very glad today.
It is because the visitor total to my blog rose above 150,000 people (number of the access approximately 290,000).
I never knew it could be like this at first.

From the beginning to the present

At first, I began to create my blog post in April 2012.
Now, I have seven blogs for domestic, and two blogs for overseas.
For overseas, I have written in English with Japanese as much as possible.


今日は私にとって非常に嬉しい日になりました。
私のブログへの訪問者累計が15万人(アクセス数約29万)を突破したからです。
当初、このようになるとは夢にも思っていませんでした。

初めから現在まで
最初、ブログに投稿を始めたのは2012年4月でした。
現在、国内向け7ブログ、海外向け2ブログに投稿しています。
海外向けには、出来るだけ日本語と英語訳を併記しています。






    

About my blog
Most of articles are history, history of human and trips.
Then there is the introduction of Awaji Island, the opinion to society or current affairs, and the fable (social criticism).
There are many unfunny or boredom articles, nevertheless many people have visited my blog, and then I deeply appreciate.
I modify English sentence based on automatic translation in own way.
Two years has passed and I seem to be able to write English a little.

私のブログについて
記事の多くは歴史・人類史と旅行です。
他に社会や時事問題への意見、寓話(社会批判)、淡路島の紹介もあります。
あまり一般受けしない記事が多いので恐縮しています。

英語は自動翻訳をベースに、自分なりに修正を加えています。
2年が経ち、少しは英語が書けるようになった気がします。
しかし、まだまだ海外ブログの英語を理解出来ず、苦々しい思いをしています。

What I understood by doing it

I recently knew that the reaction to article had greatly varied in each blog site.
If current affairs are dealt with, the number of accesses of the domestic blog will easily go up.
However, the difference of the number of the access greatly varied in each blog site, when I criticize the war and the government.
In addition, the avid criticism against my article is from a lot of right wing, but the approbation against it is few comparatively.
I feel that something is strange.

It was good to put in English translation with effort after all.
The visitor to the blog became 85 nations in the world.
All the people exchanging opinions are proficient in English.
I am regrettable that I have not the ability to do it although there is a countless language in the world.


やっていてわかったこと
ブログによって記事への反応が大きく異なることを知りました。
時事問題を扱うと、国内ブログのアクセス数は上がり易い。
しかし戦争や政府を批判すると、ブログによってアクセス数に差が出来ます。
また記事への非難は圧倒的に右派からが多く、不思議なことに左派からの賛同もありません。
何か不思議な感じがします。

やはり英語訳を苦労して入れたことは良かった。
ブログへの訪問者は世界85ヵ国になりましたが、意見交換する人は皆英語が堪能です。
世界には無数の言語があるのに、私が出来ないばかりに残念です。

Episode of the overseas
When I treated the Buddha statue of fearful face, an African commented the sense of incongruity about "God of a fearful expression”.
I noticed the specialty of the Japanese culture at that time.
When I described how the bullying of Japan was severe, an American taught the present condition of U.S. bullying, and I was ashamed to my shortage of study.
When I treated Asura statue, an Indian taught me carefully about Hindu God of the origin.
When I treated the statue of Olmec civilization in Mexico, a British archaeologist introduced me to the related article kindly.
At one time, an American Republican Party backer put in assistive comment "If something happen in Japan, our country will help".
When I introduced Hokuriku, there were many visits from France.

In this way, I am connecting with the world, and I am taught and my horizon spreads.


海外とのエピソード
怖い顔の仏像を扱った時、アフリカの人が「怖い表情の神」への違和感をコメントで書き込まれました。
日本文化の特殊性にハット気づかされた瞬間でした。
日本のいじめが酷い状況と記したら、米国の人が米国のいじめの現状を教えてくれ、私の勉強不足に恥じた次第です。
阿修羅像を扱った時、インドの人が、由来のヒンドゥー神について丁寧に教えてくれました。
メキシコのオルメカ文明の神像を扱った時、英国の考古学者が親切に関連記事を紹介してくれました。
ある時、米国の共和党支持者が「日本に何かあったら助ける」と支援のコメントを入れていただきました。
北陸を紹介するとフランスから、トルコを紹介するとロシアからたくさんの訪問がありました。

こうして世界と繋がり、教えていただき、私の視野が広がっていきます。

    

At the end

I am chased by writing my blog, and hectic day continues now.
However, it is worthwhile, there is hundreds of visitors every day and I keep trying.

I announce more attractive helpful articles at home and abroad, and will aim at making help that domestic and foreign people can understand together in future.
The next target is over 150,000 of annual visitors.

Thank you for your help and I'll be counting on you.

最後に
現在、ブログ記事を書くために追われ、大忙しの毎日です。
しかしその甲斐があり、毎日、数百名の訪問があり、それを励みに頑張っています。

今後、さらに魅力ある役立つ記事を国内外に発表し、国内外の人が共に理解出来る一助になることを目指します。
次の目標は、年間訪問者15万人を目指します。

これからも皆さんよろしくお願いします。