*1
今回は、旅行の最初に訪れた史跡足利学校を紹介します。
当初、期待していなかったのですが、見応えのあるものでした。
さらに素晴らしい秋晴れと紅葉が迎えてくれました。
また北関東の歴史を少し知ることが出来ました。
< 2.地図、概ね上が北 >
上: 足利市大観、鳥瞰図
南側の西から東に渡良瀬川が流れており、その北側中央に足利学校があります。
中央の山の奥、北側に宇都宮、日光があり、昔は日光街道、さらには奥州街道に至り、逆に向かえば江戸に至る。
下: 足利学校の地図。
現在の姿は平成2年に復元されたものです。
堀に囲まれた、凡そ一辺120mの敷地に様々な建物があります。
ここは日本遺産、近世日本の教育遺産群として全国で4カ所、内関東で二ヵ所の水戸の弘道館と共に足利学校が認定されています。
< 3.足利学校の全景 >
下: 学校を陸橋から見下ろした。
< 4. 同じ陸橋から南北を望む >
上: 北側を見ている。
左に足利学校、さらに奥に足利氏館跡・鑁阿寺(ばんなじ)がある。
下: 南側を見ている。
直ぐ手前、大きな銀杏の木がある所が無料駐車場です。
さらに向こうには渡良瀬川が流れている。
< 5. 足利学校に入る >
上: 最初の門、入徳門です。
ここを入ると右手に料金所があります。
下: 次いで学校門です。
< 6. 中に入った >
上: 学校門を内側から見た。
この反対側には孔子廟があり、その前に杏壇門(きょうだんもん)があるのですが、工事中でした。
実はこの孔子廟が重要な役割を果たしていたのです。
下: 上と同じ撮影場所から方丈(ほうじょう)と庫裡(くり)を望む。
方丈とは禅寺の本堂です。
< 7. 方丈と築山のある庭 >
庭の銀杏が黄色に輝いて美しかった。
< 8. 庫裡から中に入る >
庫裡は竈のある土間と板敷きの台所がある所ですが、館内見学はここから入ります。
入って左側に方丈の大広間が見える。
< 9. 真直ぐ進むと書院に至る >
上: ちょうど市民による論語の書写体験が行われていました。
下: 書院の外観。
庫裡から書院にかけて、足利学校の歴史が展示されています。
< 10. 書院の景観 >
< 11. 方丈の大広間と庭先 >
上: 大広間ではちょうどかるた会が行われていました。
市民が文芸に関心を持ち、ここを利用していることに感銘を受けました。
歴史の重みを感じます。
*足利学校に想う
16世紀、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして最も有名な坂東の大学」と称したのが足利学校です。
なぜここに日本最古と言われる学校があるのか?
このような北関東のさらに北部の山裾にあり、中山道や日光街道からも少し外れているこの地に、なぜ。
ここのボランティアの説明員に問うと、幾つか理由を挙げてくれた。
その中で気になったのが、この地は足利氏発祥の地であり、交通の要衝だった、また昔から文芸を大事にする土地柄との答えでした。
ここは源氏姓足利家発祥の地であり、後に将軍家足利尊氏が出ることになる(生誕の地は異なるが)。
足利学校誕生の経緯は定かではないが、大まかに言うと以下のようでしょう。
古くは平安時代、足利家がここに学校を建てたらしい。
後に将軍家に連なることが存続に幸いしたことでしょう。
室町時代に転機が訪れます。
関東管領の上杉氏が、この学校の再興に尽力し、孔子の儒学を中心とした教育を行います。
彼は金沢文庫も再興している。
この後、学徒三千といわれる事実上日本の総合大学、最高学府となって行きます。
しかし江戸時代には既に足利家が滅んでいたこと、また学問が時代遅れになっていたことで衰微していった。
ポイントは、当時から足利氏の荘園が関東で優勢であったこと、またこの地が文芸に造詣が深い関東管領上杉氏の領地になったことが大きいようです。
さらに中山道と日光街道から離れているとは言え、江戸時代、その両街道を結ぶ日光例幣使街道が足利を通っていた。
つまり、ここは渡良瀬川もあり古くから交通の要衝だったのでしょう。
< 12. 昼食 >
足利学校の門前にある「麦とろ銀丸本店」で昼食をとりました。
ここを選んだのは、足利学校内でボランティアの説明員の方に、足利の名物と聞くと、蕎麦だと言われ、この店を薦めてくれました。
< 13. 二人が頼んだ蕎麦のセット >
かなり待たされたが、手の込んだ美味しい料理でした。
店の作りと雰囲気も良かった。
< 14. 渡良瀬川の上流を望む >
川の上流に赤城山が見える。
その遥か遠くに、今日の宿泊地、草津温泉がある。
茨木空港から足利に来るまでの高速道路沿いの紅葉は綺麗だったのですが、自分が運転しているものですから写真が撮れなくて残念でした。
次回に続きます。