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20200206

晩秋の北関東をドライブしました 13: 旅を終えて



*1


今回で、この旅行記を終えます。
この旅行を通して感じたことを記します。


 
< 2. 旅行のルート >

茨城空港からレンターカーで草津温泉と鬼怒川温泉に宿泊した2泊3日の旅でした。
赤線が航空路で、茶色線がドライブコース、赤四角が宿泊地です。
2019年11月17日から19日に旅行しました。

快晴に恵まれ、多くを見聞し、充実した旅になりました。
温泉に浸かり、紅葉を愛で、歴史遺産や絶景を堪能しました。
ただ、一人でこのコースをすべて運転するのはきつかった。





< 3. 史跡足利学校と富岡の祭り >

足利の山裾に最古の学校があり、その発展保存の経緯から北関東の歴史が見えたような気がした。

富岡の祭りに偶然出会えて感激した。
その土地の温もりを直に感じられる良い機会だった。



 
< 4. 草津温泉と吹割の滝 >

夜の湯畑は凄い賑わいで、寒さも忘れてしまいました。
念願が叶った一時でした。

吹割の滝は、予想外の素晴らしさでした。
紅葉に包まれた川縁を散策していると、別世界にいるようでした。



< 5. 中禅寺湖と日光東照宮 >

噂にたがわぬ建築でした。
さらに紅葉と晴天が、さらに美しさを惹き立ててくれました。


 
< 6. 弘道館と予科練平和祈念館 >

弘道館では水戸藩徳川斉彬・慶喜の親子の意気込みを知ることが出来た。

予科練平和祈念館と雄翔館では、予科練と特攻の関わりを知ることが出来た。
また、当時追い立てられるように散っていた若者の気持ちに少しは寄り添えた。



 
< 7. 赤城山と榛名山 >

ドライブをしながら北関東の街並みと山河を見ることが出来ました。
平野部の高速道路を走り、山に入り林間の道を抜け、川沿いを進み、雪が微かに残る峠を越して来た。

平野に点在する林と小山、急峻な山肌を持つ山々、火山の多い北関東。
建築物にしても中世、江戸時代、そして明治初期のものまで見ることが出来た。

いままでぼやけていた北関東のイメージが、やっと纏まって来たようだ。
奈良時代に遡る歴史を持ち、繁栄を得ていた北関東の姿が。


訪問して頂きまことにありがとうございました。
これで終わります。




20200131

晩秋の北関東をドライブしました 12: 予科練平和祈念館






*1

今回は最後の訪問地、予科練平和祈念館を紹介します。
ここで太平洋戦争で散った若人達の生きざまを知ることが出来ます。
霞ヶ浦の淵、自衛隊駐屯地の脇に記念館はあります。




 
< 2.予科練平和祈念館の位置、上が北 >

赤の四角が、記念館の位置です。
この土浦の阿見町には、大正時代から霞ケ浦海軍航空隊が置かれ、第二次世界大戦開始共に、ここに予科練が移転し、全国の予科練教育の中心となった。
戦時中の爆撃で施設は壊滅したが、現在、跡地に陸上自衛隊の駐屯地があり、その中に予科練戦没者の遺書や・遺品を収めた雄翔館がある。
この駐屯地に隣接して広大な公園があり、その中に近代的な記念館がある。

私は雄翔館を見てから記念館を訪れました。


 
< 3. 雄翔館を目指す >

私は予科練平和祈念館の前の駐車場に車を置き、雄翔館に向かう。
ここに行くには駐屯地に入らなければならず、衛兵に挨拶して向かった。
雄翔館は16:30に閉館します。

上: モダンな建物が祈念館。
下: 駐屯地に並ぶ戦車群(現役ではないようです)。



 
< 4. 雄翔館 >

上: 雄翔館の正面。

下: 雄翔館の入口から駐屯地を望む。

建物は大きくはない。


 

< 5. 雄翔館、遺書の展示 >

彼らの遺書を見て目頭を熱くしたが、以前訪れた鹿児島の知覧特攻平和会館でも同様でした。
予科練と言えば颯爽とした若き航空兵と言うイメージだったが、彼らも多くは特攻兵になった。
終戦までの15年間で24万人が入隊し、うち2万4千人が戦地に赴き、特攻に進んだものも多く、戦死者は8割にのぼった。


 
< 6. 雄翔館、遺品の展示 >

 
< 7. 山本五十六連合艦隊司令長官の書簡 >

これは彼がこの予科練の司令官に送ったもの。
彼はこの書簡を書いた18日後に撃墜されている。

文面は予科練司令官に、ガダルカナル島撤退以降の日本の苦境を吐露しながらも、米軍の物量優位に勝るには、「立派に死ねる闘士を育てることが肝要」と訴えている。
当時、真珠湾攻撃からほぼ1年が経ち、ミッドウェー海戦からガダルカナル島撤退へと日本の敗戦色は濃厚になっていた。
当然、国民は真実を知らず、まだ勝利に酔いしれていた。

理知的で知られる最高指揮官の彼ですら、精神論を振りかざすしか手がないのが如何にも口惜しい。
もし国民が真実を知らされていたなら、違った国の舵取りが行われただろう。
そして若い人々は、死に急ぐことはなかった。

いつも思う。
彼らの国に殉じる思いは尊い、当然命も。
しかし、殉じることで国は救えず、圧倒的な物量の前では無駄な死と言えるだろう。
何も知らない若者をそんな境遇に追い込んだ時代が悲しい。

二度と馬鹿げた軍事国家を作ってはいけないと唇を噛み締める。


 
< 8. 人間魚雷、回天 >


 
< 9. 予科練平和祈念館 >

上: 外観。
下: フロア図。
内部は撮影禁止なので、ホームページから写真を借用しました。

展示室は7カ所に分かれています。
この番号に従って、次の写真にテーマ紹介があります。


 
< 10. 展示室のテーマ >

記念館は大きくなく、見学時間はそうかかりません。
斬新な展示だが、今一つ要領を得ていない。
史実を分かり易く伝えると言う意味では中途半端だと感じた。
それでもこの手の展示は必要だと思う。


 
< 11. 当時の全国予科練の設置状況 >


 
< 12. 霞ヶ浦の夕陽 >

一度は訪れて見たかった霞ヶ浦だったが、記念館の閉館(17:00)共に外に出ると辺りは暮れていた。
直ぐ裏手の淵に辿り着くと、正に夕陽が沈む所でした。

雲に覆われ、微かに赤い西の空が予科練生の生きざまを象徴しているようでした。
悲しくも美しい生き様がここにはあった。

次回に続きます。


20200125

晩秋の北関東をドライブしました 11: 水戸の弘道館




 
*1

今回は、明治維新の立役者、水戸徳川家の弘道館を紹介します。
その建物の大きさと気概に感銘しました。


 
< 2.弘道館MAP、方角は矢印通り >

上: 水戸城と弘道館を示す。
現代の地図に江戸時代の配置を重ねている。
白色部分の右が水戸城、左が弘道館で、濃い茶色が堤、橙色が空堀。
弘道館の大きさに驚くばかりです。

赤線が見学したルートで、Sからスタートした。


下: 弘道館の拡大図で、上と向きが違います。
下側の茶色い部分が講道館の中心的な建物、正庁で創建当時からのものです。
黒線が見学したルートでSからスタートし、茶色線で戻った。

写真は見学した順番に並んでいます。




 
< 3. 弘道館の駐車場と入口 >

上: この広い道路を挟んで、向かいに水戸城の大手門があります。
この日、ちょうど大手門の復元整備完了に合わせて見学会が行われていました。



 
< 4. 正門 >

上: 藩主が来館する際などに使用した正門。

下: 見学者はその右手にあるこの門から出入りします。


 
< 5. いよいよ正庁に入る >

上: 門をくぐると正庁が見えた。

下: 成長の玄関。
見学者は右手の小さな玄関から出入りする。



 
< 6. いよいよ正庁内を歩く >


上: 玄関を内側から見た。

下: 来館者控えの間、諸役会所。
「尊攘」の掛け軸は、1856年、斉昭の命で書かれたもの。

江戸末期、180年前の建物がほぼ無傷で残っている。
素晴らしい!
この廊下や部屋から徳川斉昭や慶喜の息遣いを感じることが出来るような気がした。


 
< 7. 対試場に面した廊下 >

上: 廊下から正門を見る。

下: 対試場に面した廊下。
左の広場で武術の試験などが行なわれ、藩主は廊下右手の正庁正席の間から見た。


 
< 8. 正庁正席の間 >

上: 正庁正席の間。
藩主が臨席して、正席の間や二の間で学問の試験や対試場で武術試験が行われた。


 
< 9. 至善堂御座の間 >

上: 至善堂御座の間。
大政奉還後の明治元年(1868年)、慶喜は水戸へ下り、幼少時代を過ごしたこの至善堂にこもり、静岡に移るまでの約4ヶ月間、厳しい謹慎生活を送りました。

NHKの大河ドラマ「西郷どん」の徳川慶喜のシーンが蘇ります。



 
< 10. これで一周しました >


 
< 11. 正庁を出て >


 
< 12. 孔子廟 >

上: 孔子廟の門。

下: 鹿島神社。


弘道館について

水戸藩の藩校である弘道館は、藩主徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施策のひとつとして開設されました。
弘道館建学の精神は、「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」とされていました。
弘道館は、1857年に開館されました。
藩校当時の敷地面積は約10.5haで、藩校としては全国一の規模でした。
敷地内には、正庁・至善堂・文館・武館・医学館・天文台・鹿島神社・八卦堂・孔子廟などが建設され、馬場・調練場・矢場・砲術場なども整備され、総合的な教育施設でした。
弘道館では藩士とその子弟が学び、入学年齢は15歳で40歳まで就学が義務づけられ、生涯教育といえます。
学問と武芸の両方が重視され、多彩な科目が教えられていました。
また、医者を養成する医学館では、種痘や製薬なども実施されていました。

を要約

感じた事

藩校の弘道館と名のつくものが、江戸時代に10校造られた。
また足利学校のように儒学の学校に併設されていた孔子廟は、今も各地に10ヶ所ほど残っている。
栃木県の足利学校と言い、この弘道館と言い、孔子の儒学、朱子学は長期に渡り武家教育で重要な位置を占めていたことを実感した。

一番感銘を受けたのは、弘道館の広さが、水戸城の御城とほぼ同じだと言うことです。
江戸末期、徳川斉昭が武家屋敷の地に、この弘道館を建てた意気込みに感じ入りました。
それほど日本の危機を感じとり、そして改革の中心に教育を持ってきたことが素晴らしい。

いいものを見学しました。

次回に続きます。




20200116

晩秋の北関東をドライブしました 10: 日光東照宮







*1


今回紹介するのは日光東照宮です。
今回の旅行のハイライトの一つがこの陽明門です。


 
< 2.日光山の地図、上が北 >
前回と同じ地図。

上: 日光東照宮、日光荒山神社、日光山輪王寺、大猷院霊廟などがある。
右側S(駐車場)から赤線に沿って進み、輪王寺三仏堂1を見て、参道2に出た。
参道を北上し、東照宮の境内3に入り、拝殿4に入館した。
そこを出て青線に沿って進み鳴竜5を見て、元の駐車場に戻った。

下: 私が訪れた日光東照宮。
赤線は往路、青線は復路です。

写真はほぼ散策順に並んでいます。


 
< 3. 鐘楼 >

私が気に入ったのは、陽明門の右手前にある鐘楼のある風景でした。

上: 左手に極彩色の花鳥の透かし彫りが施された回廊と石灯篭が連なり、右手に鐘楼、そして奥に、朝陽を浴びて今が盛りと輝く一本の銀杏、青空に映えて実に美しい。

陽明門の左手に鼓楼があり、さらに奥に薬師堂(本地堂)があり、そこに鳴き龍があります。


下: 逆方向から見た。


 
< 4. 鐘楼と回廊 >


 
< 5. 念願の陽明門 >

上: 階段下から見上げた陽明門。
無数の龍と獅子が門に群がり、そこに住み着いているようです。
目を見開き、牙をむき恐ろしい顔をしているようにも見えるが、不思議に愛くるしい。

日光東照宮は徳川家康の霊廟ですが、神様として祀られている。
家康は、この地に質素な社殿を建てるように遺言したが、後の1636年に、家光が現在の豪華絢爛たる社殿にすべて作り替えた。
そして昭和の大修理を終え、今また平成の大修理が進んでいる。


 
< 6. 陽明門 1 >

陽明門を飾る彫刻は500を越える。


 

< 7. 陽明門 2 >




< 8. 陽明門の裏側 >


 


< 9. 拝殿と唐門 >

上: 手前に唐門とその両側に透塀が見える。
その奥に最重要の御本社の拝殿が見える。

下: 唐門は胡粉で白く塗られ、上部の彫刻群は中国の故事を表している。



 
< 10. 拝殿に入る >

上:  唐門の左側を望む。
左に祈祷殿、右に神楽殿が見える。
この中央を進むと有名な左甚五郎作の「眠り猫」がある。
ここは別料金で、私は行かなかった。

祈祷殿の手前を左に入り、靴を脱ぎ、回廊を歩き拝殿に入る。
拝殿の座敷に入ると、一人の巫女が、大勢の観光客に前に詰めて座るように促した。
ここでひとしきり拝殿の説明があった。

私はちょうど一番前に座ることが出来た。
目の前には、飾り気のない大きくもない暗い空間が広がるだけでした。
しかし、かつて私が座っている場所に家光などの歴代の将軍家が座り、その後ろには譜代大名が続いていたとは・・・。
不思議な感覚でした。

その後、その巫女はお守りの売り込みを始めました。
私もその気になり、妻に買うように促しました。


下:  神輿舎(しんよしゃ)。
唐門に向かって左手にある、祈祷殿の反対側。


 
< 11. 鳴き龍 >

上: 薬師堂(本地堂)の天井に描かれた鳴き龍。
写真は借用です。

後に家康は薬師如来の生まれ変わりと信じられ、ここに薬師瑠璃光如来が祀られているのですが、すっかり鳴き龍が有名になった。

私達が列を作って堂内に入ると、一人の僧が、鳴き龍の下を囲むように並ばせ、拍子木を打ち始めた。
最初は部屋の端で鳴らしたが普通の音だった。
しかし中央で叩くと、甲高い鈴の音が余韻を残し鳴り響いた。
これが鳴き龍だと納得し、造営者の左甚五郎は凄いと思った。

その後、かの僧もまた新たな御守りを薦めた。
それは先ほどのものより更に御利益があると言う。
妻はまたここでも買った。

天井の鳴き龍の顔の辺りが凹んでいることで反響し鳴くようです。
この現象は1905年に偶然発見されたものでした。
左甚五郎が計画的に作ったものか、経年変化かどうかは不明です。


 
< 12. 美しい紅葉 >

これで日光とはお別れです。

次回に続きます。



20200111

晩秋の北関東をドライブしました 9: 日光山輪王寺





*1

今回と次回で、日光山を紹介します。
素晴らしい天気と鮮やか紅葉に恵まれました。
訪れたのは2019年11月19日、9:00~11:00です。


 
< 2.日光山の地図、上が北 >

上: 日光東照宮、日光荒山神社、日光山輪王寺、大猷院霊廟などがある。
右側S(駐車場)から赤線に沿って進み、輪王寺三仏堂1を見て、参道2に出た。
参道を北上し、東照宮の境内3に入り、拝殿4に入館した。
そこを出て青線に沿って進み鳴竜5を見て、元の駐車場に戻った。

下: 私が訪れた日光東照宮。
赤線は往路、青線は復路です。

写真はほぼ散策順に並んでいます。


 
< 3. 輪王寺三仏堂 1 >

周囲の紅葉が青空に映えて実に美しかった。


 
< 4.輪王寺三仏堂 2 >
 
上: 日光三所権現本地仏(右から千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)。
撮影禁止なので借用。
制作年代等は不明。
2019年修復されたばかりの金色が眩い、高さ7.5mの三体の仏像は暗い堂内を圧倒していた。
大きな堂内が狭く思えた。

下: 輪王寺三仏堂から大護摩堂を見る。
右手の紅葉がまた素晴らしかった。

この輪王寺の歴史は古く、奈良時代、勝道上人がここに輪王寺を開山した。
彼は今の栃木県辺りで活躍し、中禅寺も創建した。
平安時代あたりから天台宗寺院として歩み始める。
江戸時代になると、家康の側近として活躍した天海(天台宗の高層)が貫主となり復興が進んだ。
そして徳川家康の霊を神として祀る東照宮が設けられた。

後に徳川家光の霊廟になる輪王寺大猷院には、時間が無かったので行きませんでした。


 
< 5. 輪王寺三仏堂と参道 >

上: 右が輪王寺三仏堂、左が大護摩堂。

下: 参道の下り方向を望む。


 
< 6. 石鳥居 >

1618年、筑前(福岡県)藩主黒田長政が奉納した。

上: 東照宮側を望む。

下: 反対側を望む。


 
< 7.五重塔 >

右: 五重塔。
1650年、小浜藩主酒井忠勝によって奉納された。
後に焼失したが再建された。

左: 表門。
仁王像が安置されている東照宮最初の門です。
ここで入場券を確認します。


 
< 8. 表門を抜ける >

上: 表門の反対側。

下: 少し境内に入って進行方向を望む。


 
< 9.神厩舎・三猿 >

上: 神厩舎・三猿。
ここは御神馬をつなぐ厩で、猿は馬を守るとされ、人生を風刺した猿の彫刻が上面に飾らている。
中でも「見ざる・言わざる・聞かざる」が有名。

下: 階段の奥に陽明門が見えて来た。


 
< 10. 御水舎 >

心身を清める為の建物で水盤が見える。


 
< 11. 輪蔵 >

上: 階段を上がると陽明門の前に至る。

下: 階段の手前、左側にある経典の蔵。
経典の棚が回転式の為、この名がついた。


 
< 12. 階段を昇った所 >

次回に続きます。