20140207

社会と情報 18: 報道特派員の苦闘 3

 戦場カメラマンの沢田、ピューリッツァー賞作品の前で

< 1.戦場カメラマンの沢田、ピューリッツァー賞作品の前で >

真実を発信出来ない理由は戦場に、真実を掴めない理由は記者の心中にあった。

戦場は真実を嫌う
ベトナム戦争の場合、記者が真実を知るには、ジャングルと南ベトナム政府が最大の壁であった。
63年当時、メコン川デルタ地帯とサイゴン間の道路は、日が暮れると南ベトナム解放戦線(ベトコン)のものだった。
記者の取材は、米か南ベトナム政府の軍隊同行が安全で、それが嫌なら死を覚悟する。

ピューリッツァー賞、「サイゴンでの処刑」

< 2.ピューリッツァー賞、「サイゴンでの処刑」 >

例え、記者は多くの嘘や都合の良い情報に付き合わされていることがわかっていても、現地政府や米軍に逆らうと取材が困難だった。
告発したエルズバーグは高官であり、言語に堪能であったので、現地政府に批判的なベトナム人にも接触し、2年間、現地事情を詳しく知ることが出来た。

62年、ある米紙の記者が、「ベトナム 不快な真実」と題する記事を書いた。
これには、負け戦、不適切な現地政府、不十分な訓練しか出来ない米軍などが、書き連ねてあった。
これが掲載されると、彼は現地政府によって国外追放を受けた。
その数週間後、あるTV局の記者が、「現地政府の大統領インタビューが時間の無駄だった」と同僚に言ったため国外追放となった。

特派員は、現地政府のお膝元サイゴンで暮らすことになる。
秘密警察が暗躍しており、スパイとして逮捕され抹殺される可能性があった。
すでに何十万の南ベトナム人がそうされていた。
むしろ、米国の援助物資横流しで私腹を肥やしていた現地政府は記者達を抱き込んだ。


戦場カメラマンの石川

< 3.戦場カメラマンの石川 >

記者の葛藤
私はこれを読んで、日中・太平洋戦争時、日本の記者達がなぜ軍の意向に沿うようになったかが少しわかった。

前回紹介したタイム紙の記事差し替えで辞めた記者が後に語っている。
彼は反戦の英雄に祭り上げられたことに当惑していた。

「私が戦争に反対だから現地を離れたとみんなが考えていた。
私はただ戦争がうまくいっていないと考えただけだった。
最後の最後まで私は戦争が非道徳的だとは思いもしなかった」

前回紹介した、大統領によって配転されかけたニューヨーク・タイムズの記者も語っている。
彼も含めて特派員が問題にしたのは、米国の介入そのものではなく、介入の有効性であった。
とくに南ベトナムの腐った傀儡政権を米国が支援することだった。

「戦争が順調に推移しており、最後には勝利におわるだろうと信じることが我々の望みだった。
しかし我々の感じたものを否定しない限り、そう信じることは不可能だった」

たとえ記者に真実を求め批判的視点があっても、その多くは米国にとってのものになる。



戦場カメラマンの岡村

< 4.戦場カメラマンの岡村 >

戦後、特派員が振り返って
前述のニューヨーク・タイムズの記者は言う。
「・・インドシナ戦争の単なる派生物でしかないものを、ニュースとして取材するため毎日追いかけていたところに問題があった。
そこでそれぞれの記事に一段落を設け、次のような文を入れるべきだった。
『これらすべては何の意味もないくだらない事項である。
なぜなら、われわれはフランス軍の轍を踏み、彼らの経験にとらわれているからである』・・」

ある老齢の記者は言う。
「検閲制度が無いため、現地報道官は口をつぐみ、記者は得るものがなかった。
ベトナムと比べ第二次世界大戦では独創的な報道があり、記者はバーで多くの時間を費やすことはなく・・・」


ピューリッツァー賞「戦争の恐怖」

< 5.ピューリッツァー賞「戦争の恐怖」>

最も詳しい報道がなされたのはベトナム戦争であった。
一時は最大700名に上る特派員がいた。
検閲制度はなく、特派員は自由に行動出来たと言える。
しかしカンボジアの戦争は1年間にわたり隠されていた。
爆撃機の同乗が禁止され、パイロットにかん口令がしかれてしまえば、遙か彼方のジャングルで爆撃されていることを確認することは無理だった。
さらに米国のほとんどの記者はフランス語とベトナム語が出来なかった。

極論すれば
記者達は、過去の遺物のドグマ-共産主義封じ込めやアメリカの正義を信じ、その視点でしか真実を切り取ることしか出来なかった。
またジャングルでの最新兵器による戦争や現地の人々に肉薄する記事は書けなかった。

次回、真実の報道と国民の関係を追います。












20140206

社会と報道 17: 報道特派員の苦闘 2

 ニュース番組「60minutes」

< 1.ニュース番組「60minutes

戦場の真実が伝わらない最大の理由は、政府や軍部の圧力です。
ベトナム戦争において、米国の特派員は比較的自由に取材出来たようです。
それでも真実は、米国民には伝わり難かった。


伝説のニュースキャスター、クロンカイト 

< 2.伝説のニュースキャスター、クロンカイト >

テレビ報道のエピソード
ある日、CBSの社長は電話の音で目を覚ました。
「フランク、おれに嫌がらせをするつもりかね。昨日の放送だが、君の所の若い者が星条旗をなぶるようなまねをするとはな。」
ジョンソン大統領からの電話だった。
後にその社長はその記者に含むところがあったと言われている。
この記者はCBSの有名ニュース番組「60minutes」のスタッフで、この番組が96年、タバコ産業の内部告発(本連載3~6)を放送することになる。

CBSの「イヴニング・ニュース」の有名キャスターのクロンカイトは仕事を終えると、度々大統領から電話を受けることがあった。
このクロンカイトが、682月、ニュースで、ベトナム戦争でアメリカは勝利しないと宣言した。
ジョンソン大統領は、「クロンカイトを失えば、アメリカの中核を失う」とその影響力を高く評価していた。

ここに報道への圧力と報道マンの良心が微妙にバランスしている様子が見える。


ジョンソン大統領と南ベトナム政府首脳 

< 3.ジョンソン大統領と南ベトナム政府首脳 >

新聞報道のエピソード
現地ベトナムの特派員は、南ベトナム政府、米使節団の抵抗に遭いながらも、本国に記事を送った。
そこでケネディ政権は、本国の編集陣の上層部に働きかけた。

63年、仏教僧が南ベトナム政府に抗議して焼身自殺した。
これを見て、南ベトナム大統領の義理の妹が「あれは単なる坊主のバーベキュー料理だ」とテレビで公言し、それを知ったケネディは激怒する。
その1年前、ある記者が、この悪名高い女性を、「極度に嫌悪された人物」と記事にした。
すると、ニューズウィーク紙は政府の圧力に負けて、替わりの特派員を送った。
その特班員はその女性を「かの美しく意志強気女性」と報じた。


戦時中の報道写真:サイゴン市内と郊外の様子

戦時中の報道写真:サイゴン市内と郊外の様子

< 4.5.戦時中の報道写真:サイゴン市内と郊外の様子 >

次ぎは、タイム紙の番だった。
63年、二人のサイゴン特派員が長い戦況報告を本社に送った。
それは「ベトナムでの戦争は敗北しつつある」で始まっていた。
この記事が掲載されたとき、この1行は消えていた。
そして「ベトナムの事態は好転しており、政府軍部隊はこれまでになく、よく戦っている」に替わっていた。
その二人の特派員は、記事の差し替えに抗議し、受け入れられず辞めた。

現地で必死に伝えようとする特班員と圧力に屈する本社編集部があった。


ホワイトハウス 

< ホワイトハウス >

政府は如何にして真実が漏れるのを防いだのか
特派員は都合の悪い記事(南ベトナム政府の腐敗や圧政の指摘、軍事顧問団の戦闘行為)を書けば、現地の官憲から忌避された。
また、現地の米軍報道官は本当の大失態を言わず、頻繁に起こる小さな失態だけを発表した。
一方、米国の編集者は、ホワイトハウスと国防総省の見解とベトナム特派員の記事が異なる場合、後者の記事を無視した。
後日、特派員が事実を書いていたことは、暴露されたペンタゴン・ペーパーズから判明している。

ホワイトハウスのある報道官が声明を出した。
「ベトナム発のニュース記事は感情的で不正確である」
国家安全保障担当顧問が残したメモから、上記発言の目的が読める。
「コミュニケ(声明)は何も言うべきではない。常に報道陣の目をくらませ、からかう術に長けるべきだ」

しかし、これら圧力に抗したケースもある。
ケネディはニューヨーク・タイムズの発行者に、ベトナムへの介入政策に反対する記事を書き続ける現地特派員を、配転するように依頼した。
その発行者は、それを拒否し、逆に記者の要求する休暇を取り消し、続投させた。

次回、特班員の葛藤を追います。
















20140205

Go around the world of Buddha statues 10: the statues of Korea and Japan 2

 a Wisdom King(Myouou) of Tibet

< 1. a Wisdom King(Myouou) of Tibet >

The last time, I found that the statues of Korea and Japan in after ages have been different between those.
When the Buddha statue was brought from China to both countries, it was seldom different.
I infer why the difference appeared.

前回、韓国と日本の仏像が後代になると異なることを見ました。
仏像が中国から両国に伝わった時点では、あまり違っていなかった。
なぜ違いが出たのかを推理します。


Look at Four Heavenly Kings of Japan

日本の四天王像を見ます。



Earliest statues of Four Heavenly Kings  

<  Earliest statues of Four Heavenly Kings  
Left  :  Horyu-ji, Nara, Asuka period, about 650 years.
Right :  Tima-ji, Nara, Asuka period, the 7th century.
The left is earliest statue in Japan, and has a gentle face.
The right is the second oldest statue, opens a mouth a little, and has severe expression of the face.
This seems to be on the way to the statue that would have a raging face, as the images below indicates.

左: 法隆寺、奈良、飛鳥時代、650年頃。
右: 当麻寺、奈良、飛鳥時代、7世紀。
左が日本の最古の四天王像で、柔和な顔をしている。
右はそれに次ぐもので、少し口を開け、厳しい表情をしている。
これは、下図の憤怒相を持つ仏像への途上のように思える。


statues of a raging face in Japan

3.  statues of a raging face in Japan 
Left  :  Four Heavenly Kings in To-ji, the 9th century.
Right : Varjrapani(Shitukongoushin) in Hokke-do, the 8th century.

左: 東寺の四天王像、9世紀。
右: 法華堂の執金剛神、8世紀。


How about in ancient China?

古代中国ではどうだろうか


statues of Knogorikishi in China

< 4.  statues of Knogorikishi in China 
left  : Baiseki-zan, Gansu, China, Song period, the 1012th century.
Right: Guimet Museum, the 78th century.
As for statues of Knogorikishi in China, the statues of two above and a below image have common characteristics of a face that goggles and greatly opens mouth.
The statues of Knogorikishi of China in the 7-12 centuries are common to it of Japan after the 8th century about the raging face.
Furthermore, the Four Heavenly Kings of Japan also became the same raging face.
On the other hand, the statues of Four Heavenly Kings of China and Korea goggle but haven’t raging face compared with the statues of Knogorikishi.


左: 麦積山、甘粛省、宋時代らしい、10~12世紀。
右: ギメ美術館、7~8世紀。
中国の金剛力士像について、上図と下図の龍門石窟の像では、目を丸く剥き、大きく口を開いている共通の表情がある。
これから分かることは、7~12世紀の中国と8世紀以降の日本の金剛力士像は恐い顔で共通している。
さらに日本の四天王像も同じ恐い顔を持つようになっている。
一方、下図の中国、韓国の四天王像は目を剝いていても口は閉じ、金剛力士像に比べて恐い顔ではない。


statues of Knogorikishi and Four Heavenly Kings 

< 5. statues of Knogorikishi and Four Heavenly Kings >
Upper :  Longmen Grottoes, China, the 7th century. The left is Four Heavenly Kings. The right is Knogorikishi.
Lower : Four Heavenly Kings, Korea. The left is in Beomeosa temple. The right is in Pulguksa temple.
It seems that the difference with the statues of the Four Heavenly Kings in both countries was generated along the way in each of Korea and Japan.

上: 龍門石窟、中国、7世紀、左は四天王、右は金剛力士。
下: 四天王、韓国、製作年代不明。左は梵魚寺、右は仏国寺。
明言出来ないが、両国の四天王像の違いは、韓国と日本のそれぞれで途中から変化が起きたようである。


Were the Buddha statues of Korea affected by others?

韓国の仏像が他からの影響を受けたのではないか


Bodhisattvas in Tibet and Korea

< 6.  Bodhisattvas in Tibet and Korea >
Left  :  India.
Right :  Eunhaesa Temple, Korea, Joseon period, the 15th century.
There is a common appearance in between two statues with the crown and the decoration, and there isn't it in the Japanese Bodhisattva statues.
The crown of this Korean Bodhisattva statue seems to appear since Kingdom of Joseon came into existence.

左図: ラダック、インド、所蔵寺院と製作年代不明。
右図: Eunhaesa Temple, 韓国、朝鮮王朝時代、15世紀。
この2体の宝冠と飾りには共通点があり、日本の菩薩像には無いものです。
この韓国の菩薩像の宝冠は、概ね朝鮮王朝が興った時から始まったようです。


Four Heavenly Kings in Mongolia

< 7.  Four Heavenly Kings in Mongolia
The musical instrument that the left statue has, the crown that the right statue wears, and the figuration of eyes are common appearance in Four Heavenly Kings of Korea, and there isn't it in Japan.
Furthermore, the crown is the same as it of Bodhisattva statue of Tibet.

This shows that an incident to affect a broad area including Tibet, Mongolia and Korean Peninsula had happened before Kingdom of Joseon began.

Next time, I look at the big incident and the influence of it.


左の像が持つ楽器、右の像の宝冠、目の形は韓国の四天王像に共通で、日本には無いものです。
さらにその宝冠はチベットの菩薩像と同じです。

これは、朝鮮王朝が始まる直前に、チベットからモンゴル、朝鮮半島の広大な地域に影響を与える事件が起きたことを示しています。

次回、その大きな事件と影響を見ます。




20140203

社会と情報 16: 報道特派員の苦闘 1


沢田が撮ったベトナム戦争、1966年のピューリッツァ賞

< 沢田が撮ったベトナム戦争、1966年のピューリッツァ賞 >

米国の報道マンがベトナムの真実を如何に伝えようとしたかを見ます。
“The first casualty when war comes is truth.”
「戦争が起これば最初の犠牲者は真実である。」

これは米国の上院議員が、第一次世界大戦に米国が参戦した1917年に語ったものです。
真実が見えなくなるメカニズムを追って行きます。
それは日本でも起こったことであり、放置すれば、将来繰り返すことになるでしょう。

参考文献
「戦争報道の内幕」フィリップ著、1975年刊。
主にこの本を参考しました。
この本は、英国の一新聞記者が世界の戦争報道の実態を調査したもので、多くの資料を渉猟し、特に関係者へのインタビューが貴重です。
扱っているのは、新聞が普及した19世紀中頃以降からベトナム戦争までを扱っています。

ベトナム戦争

< ベトナム戦争 >

注意していただきたいこと
話を分かり易くする為に、共産圏の動きを省き、要点だけを指摘しています。
従って、米国が一方的に悪いと印象を受けられるかもしれませんが、私の本意ではありません。
オリバーストーン監督は、現在、米国の青年の51%はベトナム戦争を失敗でないと考えていると指摘している。


特派員

< 特派員 >

当時の報道の状況
当時の報道と国民の関心を端的に示すエピソードを紹介します。
1972年、ホーチミン(旧サイゴン)での作戦説明会で、攻撃目標の質問について、答えようとしないスポークスマンに米紙の特派員が噛みつきます。

『あなたはアメリカのことが恥ずかしくないのか。北ベトナム人、ソ連人、中国人は、どの目標が攻撃されたか知っている。攻撃は実際に行われている。・・。知らないのはアメリカ市民だけだ』
しかし彼らの抗議は役に立たなかった。インドシナでの航空戦は急激に増大したが、ほとんど報道されず、・・。

(これに続いて別の記者が書いている)
『・・宗教裁判が軽蔑されるように、ニクソンと彼の爆撃哲学もいつか軽蔑されるようになるだろう。しかし自国の行動に対してアメリカ人の関心がまったく欠如していること、そしてアメリカ人自身が爆撃をしながら死んでいくわけではないので、・・』

これは米国主導の隣国への侵攻と北爆再開を指している。


ベトナム戦争時、ある空挺部隊が行った残虐行為の裁判用の調書

< ベトナム戦争時、ある空挺部隊が行った残虐行為の裁判用の調書 >

兵士は何をしたのか
伝えてはならない不都合な真実の一つは、米軍兵士の残虐行為です。

ベトナムで米軍の虐殺事件が発覚し、それを受けてベトナム駐留の米軍大佐が述べた。
『ある人々は、日本軍は残虐行為を犯した、ドイツ軍も・・ロシア軍も・・、アメリカ軍だけは残虐行為を犯さないと思っている。ところがそうではない。アメリカ軍部隊も・・、残虐行為を犯す能力を持っている。』

ベトナムの航空戦に付きそった従軍記者が、米軍のパイロット達について回想している。
「90%はほぼ同じ考えだった。『共産主義を食い止めなければならないし、カリフォルニアの海岸よりはここベトナムでそれをやった方がいい』。ある爆撃機パイロットは、非武装地帯から始めて、北ベトナムの男、女、子どもを一人残らず殺すべきだと思っていると私に語った」
これはまだ戦争が始まった頃の話です。
後には、筆舌しがたい凄惨な状況になっていきます。
一つには、北ベトナム兵のゲリラ戦への報復もありました。
しかし、米軍の戦闘評価に、ベトナム人と米兵士の死者比率がありました。
当然、北ベトナムと南ベトナムの区別、ゲリラと農民の区別はつきません。


次回、なぜ真実が報道されなかったかを見ていきます。











20140202

社会と情報 15: 真実は如何にして


学生の反戦デモ 

< 学生の反戦デモ >

当時、米国民は大規模な反戦運動を行った。
しかし、すぐ終戦とはならず戦火は拡大した。
それはなぜ起こったのだろうか?
この間の事情を追っていくと、見えてくるものがあります。

米国の反戦運動
60年代は米国のキング牧師に代表される公民権運動に始まり、女性解放運動も盛り上がりました。
フランスの学生運動に始まり、日本も感化され、世界で市民や学生の示威行動に火が着いた。
65年の北爆開始頃から米国の反戦運動が始まり、67年から70年へと活発化した。
反戦集会、デモ、ストライキの規模は全米で最大50~100万人に達した。



< 選挙戦のニクソン >

人々は大統領に何を望んだのか
軍隊を最初に送ったケネディは、公民権法案の上程中に暗殺された。
引き継いだジョンソン(6369年)は、ベトナム反戦の世論や報道機関の批判にさらされ、次期大統領選への不出馬を表明することになった。
69年にニクソンが「名誉ある撤退」「栄誉ある平和」を唱えて勝利し大統領になる。
この選挙戦で、第三党の候補者がベトナム戦争強硬策を主張したが、二大政党の両候補は戦争終結で一致し、互角に闘った。
彼は軍の段階的撤退、キッシンジャーの秘密外交による中ソとの宥和策(デタント)で実績を示し、72年、2期目の大統領選で大勝した。
4年かかった北ベトナムとの和平交渉が73年に実を結び、米軍の全面撤退がなった。


カンボジア戦線の説明 

< カンボジア戦線の説明 >

どこに問題が潜んでいるのか
反戦運動が盛り上がり、大統領は非難され、戦争の幕引きに向かわざるを得なくなった。
しかしこの盛り上がりは、皮肉なことに、さらなる悲劇を影で生み、さらなる長期化につながった。
反戦世論を受けて、大統領は戦略的に矛盾する「米兵の撤退」と「栄誉ある平和」(不名誉な敗戦ではない)を国民に約束せざるを得なかった。
それが、効率の良い米空軍によるカンボジアとラオスへの侵攻と北爆となった。
結局、米兵完全撤退はケネディの米軍の戦闘開始から13年後になった。

厳しい言い方だが、反戦運動により大統領府を動かし米兵完全撤退を得たが、それに比べインドシナの戦火拡大を容認していたように思える。


北爆

< 北爆 >

もし米国民が真実を知っていたら
国民はインドシナに無関心だったのだろうか?
実は、当時、国民は戦場の真実を知らせていなかった。
真実を知っていたら、別の選択を行ったかは不明だが。

マスコミは戦争報道を行っていたが、戦争遂行に都合の悪い情報は国民に流れ難かった。
やがて幾多の戦場特班員の闘いが実り始め、不都合な真実が国民に知らされるようになった。

「正義と自由の為に戦い、勝利すると思っていた戦争が、実は凄惨で、腐敗した傀儡政権を助けるだけで、泥沼の膠着状態である。」

国民はおぼろげながら実態を知るようになるが、多くの人々は最後までベトナムの真実を知ることはなかったようだ。

なぜ真実が伝わらないのか
私は、欧米の戦争報道は、日本のものとは格段に違うものと思っていました。
第二次世界大戦中、ヒトラーの扇情的なニュース映画も、日本の大本営と新聞の虚偽報道も、酷いものでした。
それと比べると米英の戦争報道は真実を伝えようとしていた。
ベトナム戦争でも、太平洋を越えてアメリカに生の情報が一部伝わっていた。

しかし、そこには万国共通の戦場報道の問題がありました。
政府の圧力、困難な現地取材、報道マンのジレンマ、国民のムード、報道各社の立場が絡みあい、真実はぼやけてしまうのです。

次回より、具体的に戦場の特班員と報道の様子を見ます。












20140201

Winter Awaji island : Akashi Kaikyō Bridge at first light

before daybreak

< before daybreak
In the morning, I went to the north edge of Awaji island and photographed Akashi Kaikyō Bridge of first light.

When I arrived at the seashore, the area was a pitch-black.
The grass covered with frost has gleamed whitely by moonlight.
The far sea surface of Akashi Strait has shone white thinly.
The sound of the surf taught me that the seashore was near.



朝、淡路島の北端に行き、夜明けの明石大橋を撮影しました。

6時30分頃、海岸に到着した時、辺りは真っ暗でした。
月明かりが霜をかぶった草を白く照らしていました。
明石海峡の遠い海面は薄く白く光り、打ち寄せる波の音が、岸が近いことを教えてくれていた

sunrise

< sunrise >
In this day, a thin fog appeared, and the sunrise was not clear.
But, the crimson sun began to wrap the area warmly.

この日は、薄い霧がかかり、日の出は明瞭ではなかった。
だが、くれないの太陽が、辺り一面の冷気を溶かすように昇ってきた。


the change between 15 minutes from the sunrise

the change between 15 minutes from the sunrise

the change between 15 minutes from the sunrise

 the change between 15 minutes from the sunrise    
The sky began to be stained crimson soon from a pitch-black.
It had come to be stained pink color, and soon changed to light blue.

空は漆黒から碧へ、やがて赤みを帯び始め、ピンク色に染まったかと思うと、淡い青へと色を変えていった。


a mist raised from a breaker 

 a mist raised from a breaker 
I was able to feel a breath of nature.

始めカメラのレンズが曇ったのかと思いました。
思わぬ光景に巡り合いました。


many ships were coming and going at the straits 


 many ships were coming and going at the straits 
Maiko , Tarumi, and Suma of the opposite bank got a view.

対岸の舞子、垂水、須磨が見える。
対岸と行き交う舟、長い航海途上のタンカーなどが橋を通過する。

I overlooked the full view of Akashi Strait from a hill

I overlooked the full view of Akashi Strait from a hill

< I overlooked the full view of Akashi Strait from a hill
When Awaji island is winter, the island is occasionally covered with fog.
It was fine on this day, but some fog appeared, and the full view was veiled.
The left of the opposite bank is Akashi, and the right is Kobe.


淡路島は冬になると、島全体が時折、霧に覆われます。
この日は晴れていたのですが、少し霧がかかっており、遠景はかすんでいました。
対岸の左が明石で、右奥が神戸です。


 From roadside station "Awaji" at the daytime

< From roadside station "Awaji" at the daytime >
This photography excited me.
I was absorbed in cutting a beautiful scene to change every moment.
It was a good time.


今回の写真撮影は興奮しました。
刻々と変化する美しい情景を切り取ることに夢中になった。
楽しい一時でした。























20140131

社会と情報 14: 大統領府で何が起きていたのか? 2

 枯れ葉剤投下

< 枯れ葉剤投下 >

前日に続いて

空爆優先は、味方の消耗を減らし如何に敵を多く殺すと言う戦争の論理に叶っている。

だから、世界の批判を避ける為にトンキン湾事件を捏造してでも北爆をやることになった。
しかし北ベトナムとカンボジア、ラオスへの絨毯爆撃、ジャングルへの枯れ葉剤散布、無差別砲撃がインドシナに与えた損害は甚大だった。
これらは敵兵に打撃も与えたが、それ以上にベトナム国民と国際世論を敵に回すことになった。
これらが当時の難民150万以上、行方不明と死者800万、さらに40年後の今も枯れ葉剤による障害児70万がいる。
当時、米国はベトナム人の被害を調査することもなかったし公表することもなかった。
当時エルズバークは、米国の作戦による南ベトナム国民の被害や意識調査を進言したが無視された。


難民

難民

< 難民 >

軍部が主張する大兵力投入を最初から実施すれば良かったのだろうか。

軍部は、フランスに勝った北ベトナム軍を甘くは見ていなかった。
しかし終盤には、不可能な地上兵力百万を投じても勝てないと悟るようになっていた。
これは、予想よりも遙かに多くのベトナム兵を殺さないと、降参しないことを意味する。
当時の米国の将軍達はこの常識を越える独立への執念に、ついに思い至ることはなかった。
結局、軍部も誰も、ベトナムの歴史や民族を知らず、最後まで力で押さえることを信じて疑わなかった。
この他国への無理解については別に考察します。

キッシンジャーがベトナム戦争の打開策をエルズバーグ博士に諮問した時、彼の答えに勝利の方程式が無かった。
不謹慎だといぶかるキッシンジャーに、博士は「勝てるシナリオが見つかりません。原爆使用は論外なので・・・・」
博士には、吹っ切れるものがあった。

民間出身で、三代の大統領の下でベトナム戦争の采配を振ったマクナマラ国防長官は、ニクソン政権下の途中で辞めることになる。
それは、増派・増強、核爆弾の要求をエスカレートさせる軍部に懐疑的になり、一転して段階的縮小を大統領に提案したことによる。
結局、最後の大統領は、核爆弾以外の強硬策を採用し、一方で和平交渉を行った。


原爆投下 

< 原爆投下 >

問題は何か
暴走し逸脱していく戦争を、その時に如何に正せるかが重要です。
後になって、国のトップを戦争犯罪で告発しても、後の祭りです。

当時、大統領府は、都合の悪いことや下心を隠し、国民に対して希望を捏造し、良い印象を与え、時には戦意を鼓舞することもあった。
国民は大統領府の不穏な動き、戦地ベトナムの真実をかなり遅れて知ることになった。
64年のトンキン湾事件の捏造は、エルズバーグの機密文書暴露で、71年にやっと知ることが出来た。
当時、ホワイトハウス、国務省、国防総省、ランド研究所に総勢7万近いスタッフがおり、ベトナム戦争の真実を知る人は多くいたはずだが、その一部でも公開し、国民に訴える人は数人だった。

多大な影響を与える国の舵取りの情報が、防衛・外交機密を盾に、国民には届かなくなっているのです。

次回、当時の報道機関がどのような役割をしていたのかを見ます。
そこからは驚きと失望と、少し勇気がもらえるでしょう。