< 学生の反戦デモ >
当時、米国民は大規模な反戦運動を行った。
しかし、すぐ終戦とはならず戦火は拡大した。
それはなぜ起こったのだろうか?
この間の事情を追っていくと、見えてくるものがあります。
米国の反戦運動
60年代は米国のキング牧師に代表される公民権運動に始まり、女性解放運動も盛り上がりました。
フランスの学生運動に始まり、日本も感化され、世界で市民や学生の示威行動に火が着いた。
65年の北爆開始頃から米国の反戦運動が始まり、67年から70年へと活発化した。
反戦集会、デモ、ストライキの規模は全米で最大50~100万人に達した。
< 選挙戦のニクソン >
人々は大統領に何を望んだのか
軍隊を最初に送ったケネディは、公民権法案の上程中に暗殺された。
引き継いだジョンソン(63~69年)は、ベトナム反戦の世論や報道機関の批判にさらされ、次期大統領選への不出馬を表明することになった。
69年にニクソンが「名誉ある撤退」「栄誉ある平和」を唱えて勝利し大統領になる。
この選挙戦で、第三党の候補者がベトナム戦争強硬策を主張したが、二大政党の両候補は戦争終結で一致し、互角に闘った。
彼は軍の段階的撤退、キッシンジャーの秘密外交による中ソとの宥和策(デタント)で実績を示し、72年、2期目の大統領選で大勝した。
4年かかった北ベトナムとの和平交渉が73年に実を結び、米軍の全面撤退がなった。
< カンボジア戦線の説明 >
どこに問題が潜んでいるのか
反戦運動が盛り上がり、大統領は非難され、戦争の幕引きに向かわざるを得なくなった。
しかしこの盛り上がりは、皮肉なことに、さらなる悲劇を影で生み、さらなる長期化につながった。
反戦世論を受けて、大統領は戦略的に矛盾する「米兵の撤退」と「栄誉ある平和」(不名誉な敗戦ではない)を国民に約束せざるを得なかった。
それが、効率の良い米空軍によるカンボジアとラオスへの侵攻と北爆となった。
結局、米兵完全撤退はケネディの米軍の戦闘開始から13年後になった。
厳しい言い方だが、反戦運動により大統領府を動かし米兵完全撤退を得たが、それに比べインドシナの戦火拡大を容認していたように思える。
< 北爆 >
もし米国民が真実を知っていたら
国民はインドシナに無関心だったのだろうか?
実は、当時、国民は戦場の真実を知らせていなかった。
真実を知っていたら、別の選択を行ったかは不明だが。
マスコミは戦争報道を行っていたが、戦争遂行に都合の悪い情報は国民に流れ難かった。
やがて幾多の戦場特班員の闘いが実り始め、不都合な真実が国民に知らされるようになった。
「正義と自由の為に戦い、勝利すると思っていた戦争が、実は凄惨で、腐敗した傀儡政権を助けるだけで、泥沼の膠着状態である。」
国民はおぼろげながら実態を知るようになるが、多くの人々は最後までベトナムの真実を知ることはなかったようだ。
なぜ真実が伝わらないのか
私は、欧米の戦争報道は、日本のものとは格段に違うものと思っていました。
第二次世界大戦中、ヒトラーの扇情的なニュース映画も、日本の大本営と新聞の虚偽報道も、酷いものでした。
それと比べると米英の戦争報道は真実を伝えようとしていた。
ベトナム戦争でも、太平洋を越えてアメリカに生の情報が一部伝わっていた。
しかし、そこには万国共通の戦場報道の問題がありました。
政府の圧力、困難な現地取材、報道マンのジレンマ、国民のムード、報道各社の立場が絡みあい、真実はぼやけてしまうのです。
次回より、具体的に戦場の特班員と報道の様子を見ます。
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