< 1.現在のホーチミン(旧名サイゴン) >
今まで、ベトナム戦争を通して真実が如何に国民に伝わらないかを見て来ました。
一方で、必ずしも国民がすべての真実を欲しているわけではないのです。
今回、この問題を見ます。
何が真実なのか?
戦場の記者にとって真実とは何か?
一枚の華々しい戦闘シーンの写真、それとも残虐シーンでしょうか?
それとも戦略の適否か、兵士や人々の苦境でしょうか?
テレビや日刊紙の記者は日々追われるように、眼前に広がる光景を切り取るだけだった。
また記者にとって、戦争は最大の事件であり、その記事や写真は商品でもあった。
本国の編集者にとって、それは視聴率や購読量を増やすネタに過ぎないのかもしれない。
もし真実があるとしたら
戦争の正否や非人道性を判断し、その意味でどの記事が最適だと決めることは難しい。
南ベトナムの民衆の立場に立てば、記事は虐殺行為を訴えるのが最適かもしれない。
一方、米国民にとっては、犠牲を払って共産勢力を食い止めているのだから、記事は自国の被害と勝利こそが重要です。
< 2.1973年、和平による米兵の帰還 >
伝わる真実とは
政府と戦場に都合の悪い情報は遮断され、都合の良い虚偽の情報が国民に与えられる。
記者と編集者の偏見や悪意のない選択が情報の偏りを生む。
しかし、さらに大きな障害が最後に待ち構えていた。
それは国民のムード、知りたい知りたくないことの揺らぎです。
これは日本も含めて、世界に共通する現象と言える。
< 3.ソンミ村事件 >
ある虐殺事件を通して
一つの虐殺事件が世論を反戦へと押したが、ことはそう簡単ではなかった。
68年、ベトナムのソンミ村で、米兵の無差別射撃により無抵抗の村民(男女、乳幼児、妊婦)約500人が虐殺された。
その1年後、状況の改善を求めて、一人の兵士がその事件を多数の議員に手紙で告発した。
それを受けて一人の下院議員が軍事法廷を開始させたが、陸軍はもみ消そうとしていた。
元国防総省詰めのフリー記者が、これを嗅ぎつけ調査し、各新聞社に発表を働きかけた。
しかし、どこも本気で取り上げず、やがて半年が経とうとしていた。
その頃、ヨーロッパではこれが主要記事になり、米国の一地方紙が大量虐殺場面の写真を掲載した。
その後一気に米国を「良心の呵責」へと追い込んだ。
その後、急に多くの虐殺事件が報道されるようになった。
一方、この年、公約通りに米軍撤退が開始されていた。
政府は、爆撃による戦争拡大を秘密にし、終結に向かっていると国民を信じさせた。
すると、やがて国民は虐殺事件に関心を示さなくなっていった。
< 4.ベトナム戦争における米軍死者の推移 >
この現象の背景にあるもの
先ず、戦場では残虐行為は日常茶飯事であり、記者にとってニュースではなかった。
ソンミ事件以前にも、残虐な事件がわずかに報道されてはいたが、注目されなかった。
また報道の編集部は、国益に反し、国民の忌避が予想されたので、最初に残虐な写真を扱うには抵抗があった。
ところが68年から69年にかけて急激に死傷者が増え、30万人以上に達し、国民に厭戦気運が高まっていた。
そこで一気に火がついた。
しかし、国民が終戦は時間の問題だけと考え、関心を持たなくなると、編集部は、それを見越し戦場の報道を急速に減らしていった。
その結果、虐殺への関心は色褪せていった。
虐殺写真で一世風靡した写真家はその名声ゆえに、戦後、何処にも就職出来なかった。
それはあたかも、最大に膨らんだ風船を大きく破裂させる針の一刺しも、その前後では威力がないようなものです。
次回は、戦争当事国が互いに情報を持たないことで起こる失敗を見ます。
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