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20140913

私達の戦争 38: 自衛とは




*1

これから、戦争にまつわる基本的な概念について見ていきます。
例えば、自衛、集団的自衛権、抑止力、核迎撃システムなどです。
私達は、何気なく聞いていますが、これらはかなり不正確で矛盾を含んだ概念です。

    

自衛とは何か
自衛は自分で防衛することで、特に不明瞭さがあるとは思えない。
相手が攻撃してくれば、それを防御し、必要ならば相手を打ち負かすこともあります。
前者は自衛であり、後者は正当防衛と呼ばれるものです。
しかし、正当防衛のつもりが過剰防衛になることもあります。

日本は自衛隊を持っていますが、日本国憲法第9条では陸海空軍の戦力保持が否認されています。
自衛隊が戦力ならば憲法違反になるでしょう。
一方、日本が加盟している国連憲章第7条では、安全保障理事会が必要な措置をとるまでの間、自衛権の行使は出来るとされる。
国際的には自衛の戦力なら問題は無いことになります。
日本は憲法と国連憲章とどちらに制約されるのだろうか。
取り敢えず、日本の現状を容認する為に国連憲章の立場で話を進めます。
つまり自衛隊の戦力は自衛用であれば良いわけです。

    

自衛の戦力とは
それでは自衛用の戦力とは何を指すのでしょうか?
戦闘機、艦船、ミサイル、核兵器は自衛用でしょうか、それとも攻撃用でしょうか。
それぞれの兵器の能力、例えば航続距離1000km以下なら自衛用でしょうか。
それとも兵器の数量、例えば1万トン以下の艦船で5隻まででしょうか。

仮想敵国の戦力が巨大であれば、それに対抗すべき自衛の範囲は変わるのでしょうか。
そうとするなら、仮想敵国が加盟する軍事同盟の戦力はさらに巨大となるでしょう
当然、逆も真なりで、最小の自衛戦力しか持たない国が、強大な戦力を有する国と軍事同盟を結ぶと、仮想的国から見れば自衛戦力を逸脱したことになるでしょう。
例えば、核兵器を持たない国が核兵器保有国と同盟すれば、仮想敵国からどのように見なされるでしょうか。

何か変ですよね
問題点を整理します。
各国の自衛(防衛)と攻撃の境界は、個別の自衛力に限定しても、あらゆる想定をするなら不定となります。
さらに同盟国全体の自衛力で見るなら、その境界の判定はほとんど絶望的です。
結論は簡単で、各国の戦力を自衛の範囲内と規定することに無理があるのです。

当時、国連憲章第7条に個別的・集団的自衛権を盛り込むかで、大いに紛糾したのです。
国連において、中小国はこの条項にかなり反対したのですが、米ソ大国を署名させるために妥協せざるを得なかったのです。
これを単に言葉の綾ではないかといぶかるかもしれませんが、取り敢えず、憲法や国際条約で自衛権を規定することに矛盾があることに気が付いていただければ幸いです。

    

真の問題とは
当時の各国代表は、法文の矛盾に反対したのではなく、二度の大戦の失敗を繰り返さない為に反対したのです。
歴史が示すように、各国は仮想敵国の戦力と競うように軍拡競争する宿命にあったのです。
その始まりは漠然とした自衛の戦力からでした。
つまり不確定な自衛力を認めてしまうと、暴走し軍拡競争に陥りやすいのです。
このことが最大の反省点だったのです。

防ぐ手はあるのか
一つの例を見ましょう。
日本国内では、銃刀法により自衛出来る武器が大幅に制限されています。
多くの国では、拳銃の所持が認められており、自衛権が擁護されているように見えます。
米国ではさらに、州兵だけでなく民兵組織(小規模な集団的自衛権)まで認められています。
日本は、当然、破防法等により、これは認められていません。
この連載「銃がもたらすもの」でも考察したように、どちらが国民の安全保障に有利だったかは、一目瞭然です。

ポイントは、自衛権の制約と統一した武器の制約にあります。
これが最も成功しているのは、世界広しといえども日本だけです。

*5

しかし自衛の問題はこれだけではない
過去と現実に起きている問題を箇条書きします。

1.軍事衝突時の原因: 満州事変、ベトナム戦争のトンキン湾事件、ドイツ軍のポーランド侵攻のように正当防衛、挑発、虚構かの判定が困難です。紛争当事国が互いに正当防衛(自衛)と称することになる。

2.核ミサイル迎撃: この抑止理論(防衛理論)も千変万化であり、結論としては自衛ではなく攻撃が主になる。後に扱います。

3.諜報活動: 代表的なのが米国の国家安全保障局NSAと中央情報局CIAの暗躍です。これらの行うクーデター幇助、暗殺、情報操作、武器援助などによる他国の政敵排除は何処まで自衛なのでしょうか。CIAのある幹部は自衛の範囲と自著に記しているし、秘密裏に行われるので手の打ちようもない。

これらはどれも放置出来ない問題です。

最後に
少しややこしい話になりましたが、現実の適用や戦史を見る限り、その複雑さは想像を越えます。
大事なことは、当たり前と思っている大前提でも、これほど脆いのです。
それだけに社会の平和を維持することは困難なのです。




20140910

私達の戦争37: 摩訶不思議な解釈9 「自虐史観は・・」

     

「自虐史観は日本を貶(おとし)めるものだ」
この手の文言には、大いなる勘違いがひそんでいます。
そこにはアジア、特に島国である日本の精神風土が深く関わっています。

自虐史観とは
「自虐史観」は、戦後の歴史学会の主流だった歴史観を否定するために用いられた蔑称でした。
分かりやすく言うと、否定側の要望は、日本の失敗や悪口を告げ口するな、良い所を探せでした。
否定側から発行された「国民の歴史」は当時、一斉を風靡しました。
私も読みましたが、あまりにも見え透いた我田引水が多く、大学教授の書いた本とは信じ難かった。
要は、日本文化は中国や朝鮮半島から学んだものではなく、固有の洗練されたものであると言うことに尽きます。
美術工芸や建築については、現地を旅行すれば多くの継承が存在することは一目瞭然であり、世界の美術史とはそのようなものです。
継承を否定することには無理があります。

要は、日本は素晴らしい、隣国など比較に値しないと言いたかったようです。
当然、この手の論調は愛国の心情を揺さぶり感動すら与えるでしょうが。

    

不思議なこと
私は機械技術者として、企業の技術革新を担って来ました。
幾つかの日本初や世界初の加工品を立ち上げて来ました。
その経験から言うと、成功には「失敗を生かす」と「手堅く挑戦する」姿勢こそが不可欠でした。
私は困難な挑戦に立ち向かうべき時ほど、成功例よりも多くの失敗例から問題点を学び、事にあたりました。
技術的に成長しない人を見ていると、そこには共通して「失敗を徹底的に考察し、問題点を抽出する」姿勢が欠如していました。

ここで勘違いをしてはならないことは、「失敗が萎縮を生む」のではなく「失敗を生かさないから萎縮を招く」のです。
確かに、失敗を知らない人ほど大胆な行動に出ることはありますが、その結果は明らかです。

そうは言っても、やはり失敗ばかりでは萎縮してしまいます。
挑戦する気力は成功体験の積み重ねから生まれて来ます。
だからと言って、やる気を削がない為、「自信」や「誇り」を育てるために「失敗」から遠ざけることは本末転倒です。

    

世界では
「ヨーロッパの歴史 欧州共通教科書 1994年版」から、第二次世界大戦について書かれている「犯罪」p345より抜粋します。

「ドイツ軍によって占領された国々の国民は、虐げられ、搾取された。数百万の人々が、ドイツの戦争経済のために働かなければならなかった。抵抗はことごとく暴力的に押さえ込まれ、ほんの少しでも疑いを持たれることは、そのまま死を意味していた。人質の処刑は組織的に行われた。中でもドイツ軍の占領が苛酷を極めたのは、東ヨーロッパにおいてであった。・・・『劣等民族としてのスラブ人』は、ドイツ人の奴隷にならなければならなかったのである。」

以前のドイツ国内向け教科書も、この共通教科書と同様に、生徒らに戦争の真実を知らせ、真摯に向き合わせる姿勢があった。

欧州各国、フランス、ベルギー、スイス、ドイツ、オーストリア、他に6ヵ国には、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の否認を禁止する法律がある。
これは表現の自由を侵害すると指摘されることもあるが、この手の歴史的事実を虚偽とする行為は民族主義(反ユダヤ主義)やファシズム(ナチズム)を再発させるとし、毅然とした態度を取っている。
つまりドイツを含め欧州は戦争の真実を知るだけではなく、否定しないことも重要だと考えている。

    

素晴らしい日本の精神風土
自虐史観と罵り同調する人々は、日本の精神風土に誇りを持っている方が多いはずです。
もしこの精神風土が自虐史観とピッタリと一致していたらどうでしょうか?

心理学に文化心理学と言う分野があり、国や地域毎に異なる心理(国民性)を研究しています。
これによると米国は楽観主義で、東アジア(日本、中国、韓国)は悲観主義の傾向が強いのです。

「あるテニスプレーヤーがトーナメントで決勝戦に進出した場合を考えて下さい」
実験者が、各国の被験者に上記のシナリオを想定してもらい。
A:「この試合に勝つとタイトルを獲得し、トロフィーが授与されます」
B:「この試合に負けるとタイトルは取れず、トロフィーはもらえません」
次いで、どちらが被験者にとって重要であるかを評定してもらった。
米国人はAを、東アジアの人はBを選ぶ傾向がある。
これは東アジアの人々は、成功よりも失敗回避を重視していることを示している。

失敗を念頭に置き、社会へ気配りしながら行動することが悪い習性とは言えません。
それぞれの国の国民性に優劣はなく、その国の歴史や風土によって育てられたものです。
過去において、それが社会に適応した行動や意識だったのです。

*5

つまり、本来、日本人は失敗を生かす国民性なのです。
日本の「改善活動」は正にそれです。
抜きんでた個人の成果ではなく、皆が関わる不具合部分を皆で改善し成果を得るのです。

いつの間にか、一括りに自虐史観と蔑称する人が現れると、周囲を気にして「失敗を反省する」ことから萎縮してしまうのです。
それこそ日本の良さを自覚できずに「恥ずかしい」ことをしているように思えるのですが。






20140908

私達の戦争36: 摩訶不思議な解釈8 「冷戦のおかげで・・」


    


「冷戦が世界の紛争を防いだ」、この手の真相を確認します。



< 2.2012年度、世界の武力紛争、茶=戦争、赤=小規模武力紛争、by UCDP 

私が最初に抱いた疑問
「冷戦後、世界で武力紛争が多発するようになった」
「冷戦の米ソ均衡が武力紛争を回避していた」
この手の言説を見聞きし、私は長らく答えを出せずにいました。
日頃、世界の紛争報道から察するに、この指摘は正しいようにも思えました。
しかし一方で、冷戦当時、米ソによる軍事援助と代理戦争が頻発していたのも事実でした。
アフガン、ベトナム、ソマリア、イラン、イラクなどの戦争・紛争がその例です。

私の推測では、冷戦は地域紛争を多発させたはずであり。
冷戦後は大量の武器が出回り、大国のたがが外れたことにより紛争が増えたのだろうと私は理解していました。
しかし、確信はなかった。


そこでデーターを探しました
今回紹介するグラフは、スウェーデンのウプサラ大学の平和紛争研究部(Uppsala Conflict Data Program)が収集・作成したものです。
このUCDPの資料は紛争解決学の分野で信頼出来るものだそうです。


< 3. 武力紛争の頻度、by UCDP >
用語: Extrastate =国家外、Interstate=国家間、Internationalised=国際化した内戦、Intrastate=内戦。

このグラフを見ると、第二次世界大戦後の冷戦期(1945~1989年)において内戦は増加し続け、1991年をピークに減少傾向にあることが明白です。
「冷戦が武力紛争を多発させていた」のは事実のようです。

一方で、大戦後、国家外(灰)と国家間(黄)の武力紛争は長期減少傾向にある。
1975年に国家外(灰)は無くなり、国家間紛争(黄)と国際化した内戦(黒)も一度大きく低下した。
この年はベトナム戦争が終結した年であり、この終結は72年にニクソン大統領による米中関係正常化が図られた結果です。

複数国同士による大規模な武力紛争(灰)の減少は、冷戦期、米ソ2強が均衡したからだと主張する軍事専門家がいる。
しかし、冷戦後、均衡が破れ米一強と中露の時代になっても国家外や国家間の武力紛争は増えなかった。
それに対して、彼らは核抑止力が現在も効いているからだと補足する。
しかし現在、核兵器の均衡は米露だけで、核保有は9ヵ国まで拡散し、不安定状態は深まっている。
既に銃社会で見たように、あてにならない抑止力よりも暴発の危険が増している。
むしろ米中、米ソの相互理解(関係正常化)が大規模な紛争を無くしたと言うのが事実ではないだろうか。

残念ながら、内戦(赤)は起こり続け、国際化した内戦(黒)は若干増加傾向にある。



< 4.地域毎の非国家的紛争の頻度、by UCDP >

このグラフから、非国家的紛争がアフリカで大きく増加し、ここ数年は中近東でも急増していることがわかる。
冷戦後、新しい形態の紛争が増加している(以前の資料がないので不正確)。
この非国家的紛争とはテロや武装集団による紛争を指しているらしい。


冷戦をどう見たらよいのか
冷戦(二大覇権国の均衡)は、第三次世界大戦を防いだかもしれないが、数多くの地域紛争を招いた。
大戦が起きれば1億の人命を失うだろうが、ベトナム戦争だけで800万人が死んだ。
また冷戦期と冷戦後も含めて、難民の数は膨大である。
現在の非国家的紛争(テロなど)の火種は冷戦期に大きくなったように思える。
それは、2大強国が傘下の小国で、傀儡政権や転覆派に継続的で大規模な軍事援助を行い、対立を煽ったからで、アルカイダ、イラク、ソマリア、ベトナムなどはその例です。
さらにその火種は、両大戦に遡る植民地政策や領土・国境確定にあった。

つまり、単純に言えば、過去の戦争や侵略の後遺症、軍事力均衡頼みだけの対立が、災いを生み続けたと言える。
それを和らげたのは相互理解(関係正常化)であった。
第三次世界大戦の防止や核抑止力については、大国に近い軍事専門家の希望的観察であって、確実なことではない。


残念なこと
「冷戦が世界の紛争を防いだ」と声高に主張する人の著作を読んで思うことがある。
著作の中で、すべてをなで切りにし、「平和呆け」をなじるが、行き着くところは軍事力信奉と日本優位に尽きる。
この手の人は、雑多な知識を売り物にしているが、論理は稚拙で、データー提示も少なく、説得力に欠ける。
それこそ古代中国の孫子に始まり、18世紀のプロイセン軍人のクラウゼヴィッツが顔を覗かせる。
非常時に備え軍事力と戦略の必要性は理解出来るが、結論はことごとく過去の延長線上にある。
そこには紛争を解決するために人類が生みだした外交術や法概念の発展、近年の紛争解決学への関心が微塵も無い。
当然、視野の狭い戦争論に終始することになる。

このような論調に安易に乗らないこと願ってやまない。





20140906

私達の戦争 35: 摩訶不思議な解釈 7










    

今回で国益は最後になります。


幾つかの注意点
国益に関して幾つかの注意点を記します。

    

政府やマスコミが訴える国益には、真意が隠されていることがある。
既に見た英国首相の発言や鳩山外交バッシングには「米国との同盟堅持」がありました。しかしなぜか日本ではその真意を隠すようです。
昔、左派が共産圏(コミンテル)との密着を隠そうとしたのと同じかもしれません。

    

国益をみる時、時間的な尺度(確実性)を考慮すべきです。
前回、ベトナム戦争介入の米国の動機をトルーマン・ドクトリン(共産主義封じ込め政策)にあると記しました。
これが観念的な国益である理由は、この遙か離れた地点での戦争介入が遠い将来の防衛を意図しており、現実に起こるかは不確実だからです。
つまり不確実な数十年先の恐れに対して現実の損害と比較勘案すべきです。

    

国益を論じる時、多くは自国の国益だけを問題にします。
前述の名誉を重視する人々にとって、他国の名誉は自国の名誉よりもかなり低いものでした。
しかしそれでは外交が成り立たず、まして対立や紛争を予防することは不可能でしょう。
情けない例えですが、いじめを行っている子供の多くは自分の感情や立場だけに囚われ、いじめられる側の子供の心を理解しません。
些細ないじめと思っていても、自殺者が出ているのです。
他国の国益も自国同様に理解する度量が不可欠です。


まとめ
単純化すれば、国益には政府寄りと国民寄りがあります。

例えば、軍事(安全保障)や領土問題で言えば、命や国土があってこその国民の権利だとよく言われます。
これは大局を見ているように思えますが、確かに全部失えばその通りです。
しかし多くの戦争が示すように、ほんの小さな島や地域の奪い合いから、数百から数百万人の命を失う結果に至ります。
かつて、日本の移民60万人が暮らす満州国を国際連盟に移管することに我慢できず、260万人の日本兵の命を失いました。
国益は現実的な損得を勘案しなければ危険です。
そうは言っても、大概、国は戦争が簡単に勝利し終了すると思って始めるのが常なので、こちらの方が問題かもしれませんが。

最重要なこと
結論は、国民の権利保全が先で、その為に国体や政府をどうすればよいかを問うべきです。
そうは言っても、国民の希望や思いは多様なので、国の政策は場合によっては集約された国益を扱わざるを得ません。
この間にあって何が重要かと言うと、国民の権利が守られ、国民の意思で正しく政府を制御出来ることにあります。
これは個々の国益の前提となるものです。
この権利と方法は憲法に規定されおり、最低これが保全されることです。
何らかの国益の為と称して憲法を変え、知ら間に徐々に民主主義が破壊されるようなことが、最も国益を損なう第一歩なのです。

残念ながら、このような不幸な事態は、世界各国で過去も現在も起こっています。
けっして、今の日本に無縁では無いのです。


    

ここで一つ注意が必要です
それでは、なぜ政府よりの国益を唱えるマスコミが力を持つようになるのでしょうか。
大きく二つの理由があり、要点だけを述べます。

領土問題が絡むと、国民も政府もナショナリズムに傾倒し始めます。
この傾向は、日本の国民性、島国、政治風土が変わっていないので、今でも強いでしょう。
いつも政府よりのマスコミは存在しますが、ナショナリズムが勃興すると、それに呼応すれば売上げが伸び、さらに政府はそのマスコミに協力を惜しみません。
こうして国内が次第に熱気を帯びてくると、相手国も刺激され共振を始め、やがて政府は引き下がれなくなります。
当然、反政府側のマスコミは逆に窮地に追い込まれます。
このことは日本のアジア・太平洋戦争への過程、米国の9.11事件後の状況がよく示しています。
現実に、ここ8年間の日中世論調査によると、互いを嫌う度合いが両国呼応するように上昇を続けています。
このまま放置すれば危険な状態になるでしょう。
その時、加担したマスコミも政府も責任は取らないでしょう。
それが現実でした。
詳しくは、後で取り上げるか、連載「社会と情報」で扱う予定です。

次回は、別の事案を扱います。





20140904

私達の戦争 34: 摩訶不思議な解釈 6




    

前回に続いて、国益を考えます。

Newsweek(日本版)
1.2010年8月、菅の謝罪は日本の国益だ
内容:記者は「菅首相は日本の植民地支配が韓国に与えた苦しみを認めて謝罪した」ことは国益に叶うと記す。

2.2012年5月、鳩山外交バッシングを考える
内容:「日本のマスコミは「訪イランは国益に反する」で大バッシングを行った。この国益とは「米国に怒られない」である」と学者は論じた。

3.2009年10月、超大国中国の貫禄に英高級誌が逆ギレ
内容:「英紙が軍備の近代化を進める中国の無節操を批判するが、何処の大国も同じで、同様に「経済的な国益」を最優先することも同じだ」と学者が皮肉って指摘する。

ポイント
上の二つの記事は外交が相反する国益の板挟みになり、こじれている国際関係を自主的に修復する事と、名誉と日米同盟を守る事が対立していることを意味する。
日本の大半のマスコミは、紛争の火種拡大より、自国の名誉と日米同盟を重視している。

どこの国も大国の行動には敏感で苛立ち、安全保障や経済的な国益で振り回されることになる。


不明瞭な国益
こうも国益は多様で、立場により相反するものなのだろうか。
外交を論じる時、政府やマスコミは国益を多用するが、その真意を汲み取ることは困難です。

国益が唱えられる時、その損出が説明されることは少なく矮小化されるのが常です。
イラク戦争開始時、ホワイトハウスが宣言した戦費は実際の1/100でした。
日本政府も同様で、わざわざ正直に言わないでしょう。
それを解明するのがマスコミの役割でもあるのですが、残念です。


    

一つ例を見てみましょう
「自国や先人の名誉を傷付けることは国益に反する」について

米国は第二次世界大戦終了からベトナム戦争まで、ある国益に囚われていました。
それは、巨大な共産帝国の侵攻を瀬戸際で粉砕することを仮想したドクトリンでした。
さらに、アジアの小国に侮られない為に力で押さえ込もうとする心理が働いていました(ホワイトハウス首脳達)。
これは黄色人種への偏見と表裏をなす白人の名誉意識と言えるかもしれません。
その結果、米国は多くの人命と税金を失った。
それは感情的・観念的な国益のために現実的・具体的な国益を無視したからと言えます。

9.11事件もそうですが、これ以降、米国はイラクやアフガンへの大規模な侵攻、一方で国内のマスコミ締め付けや国民の盗聴を秘密裏に進めるようになった。
名誉や復讐などの観念的・感情的な国益は国民に損出を無視させる強い効果があり、政治家は人気を手に入れ、強行策を打ちやすくなります。


    

今ひとつ、単純な矛盾があります
「日本はいつまで中国や韓国に謝らなければならないのか?」とよく聞きます。

これは、現在の人々には先人の犯罪の責任が無いとする考えです。
通例の法概念に照らせば当然のように思えます。
しかし前述の「自国や先人の名誉を傷付けることは国益に反する」では、一転して先人への名誉毀損は、現在の国民に関わることだと主張しています。
実は、この二つの発言は同じ人々のものなのです。
何処か矛盾していますよね。
しかし、この人々にとって矛盾では無いのです、なぜなら他国の名誉より自国の名誉が遙かに重いからです。

これらの発言の根本的な欠陥は、多国間の国民が法も含めて共通意識が無いことを無視していることです。
遺恨がある国家間で、そのような杓子定規な言動が紛争を触発することは自然の成り行きです。


    

名誉について
私は名誉を無視しろと言っているのではありません。
名誉は文化であり、歴史的にみて種々の役割を担って来ました。
しかし、時代の変化と共にその意味や価値は変わっているのです。
ここで名誉について簡単に説明します。

一つの機能に、侮られないと言う名誉は、かつて他者からの暴力を抑止する効果がありました。
これは日本にもありますが欧米の方で強く働いています。
しかし現代では暴力を抑制する機能が以前に比べ格段に働いています。
その名誉は価値を減じていますが、むしろ多くの喧嘩や紛争の火種になっています。

もう一つに、信頼されると言う名誉があり、個人が社会で安定的な立場を確保するには重要です。
これは欧米にもありますが、アジア、特に日本では重要で、現在も続いています。
国内の名誉毀損ならいざしらず、多国間の場合は判定も難しく、一方的に罵るだけでは本末転倒でしょう。

    

どちらにしても不明瞭な感情論や観念論で訴える国益には、冷静に対応する必要があります。

次回も続きます。






20140902

私達の戦争 33: 摩訶不思議な解釈5

 *1

今日は「国益」について考察します。
不思議なことに、「国益」は発言する人により意味がかなり異なります。
実例を挙げて見ていきます。

国益を巡る報道
2014年8月31日、各紙で「国益」を検索し、上位から目立った記事を取り上げます。


    

産経新聞
1.2014年8月、防衛庁長官時代から自衛隊を“軽侮”していた加藤紘一氏
内容:「加藤氏は『国益を損なう政治家』の最たるもので、防衛長官時代に自衛隊を軽視し、共産党と朝日が好きだ」と書いた本の紹介。 

2.2014年8月、『中国の大問題』丹羽宇一郎著 習政権のもろさから今後を分析
内容:「民間出身で中国をよく知る元駐日大使が、『中国の弱みに石を打て』と書き、経済的な国益を最優先に考えるべき」と書いた本の紹介。

3.2014年8月、慰安婦報道「事実ねじ曲げた朝日新聞」「日本の国益や先人の名誉傷付けた」 
内容:「朝日が慰安婦報道で、嘘の慰安婦証言や吉田証言を取り上げ、事実を歪曲し日本の国益や先人の名誉が傷つけられた」とする講演を紹介。

ポイント
三つの記事から言えることは、国防を軽視することや日本国と先人の名誉を損ねることが国益に反し、中国を非難し、経済的国益を優先することが重要だとする立場が強調されている。
補足すれば、丹羽氏の「中国の大問題」は良書であり、記事「2.」の指摘は著者の主張全体とは逆になっています。

    

読売新聞
1.2014年4月、日米TPP、来週閣僚会議
内容:「菅官房長官は2日の記者会見で『国益をかけた最後の交渉をしている』と述べた」と報道。

2.2014年3月、『日ロ現場史』本田良一朝、書評
内容:「北海道根室漁民の拿捕との攻防を描き、北方領土問題を棚上げしておくことの愚策、また何を「国益」とみなすかも時代によって変化する、などの指摘」に評者は共感している。

ポイント
政府要人がここで言う「国益」はおそらく経済が主でしょうが、他の意味も含まれているでしょう。
後者では、領土問題が最たる国益であり、それを自ら勝ち取る姿勢こそが重要だとする立場が強調されている。

    

朝日新聞
1.2014年8月、戦争体験踏まえ反戦訴え
内容:「イラクから帰還した米兵が毎日18人前後も自殺する。『安倍首相には戦争の傷痕の大きさを考えたうえで、国益を考えてほしい』」とする講演を紹介。

2.2014年8月、米、シリア上空へ偵察機 「イスラム国」空爆拡大を検討
内容:国務省のサキ報道官は会見で、「米国の国益を守るときに、空爆にあたってアサド政権の承認は求めない」と述べた。

ポイント
戦争によって大いに国益が損なわれるが、その被害を被るのは主に国民であるとする立場が強調されている。
これまでの中東政策から察すると、ここでの米国の国益は、自国の将来に関わる安全保障が主であり、かつ経済的事由も含まれるでしょう。
もし世界平和を強調するなら、米国は「国益」の表現を使わなかったでしょう。

    

THE HUFFINGTON POST(日本版)
1.2014年5月4日、イギリスにおける国家機密と報道の自由について(3)
内容:記者はスノーデンによる米国の国家安全保障局NSAの機密暴露事件で「キャメロン首相は国益を損なうと非難した」を取り上げ、国民のプライバシー保護との関係を論じている。

2.2013年11月、小池百合子氏の「首相動静」発言をどう読むか?
内容:論者は「小池元防衛相のマスコミによる首相動静報道が、知る権利を超え、国益を失っている」の発言を批判し、問題無しと論じている。

ポイント
英国首相がここで言う国益は、米国との同盟堅持と英国の安全保障に関わっている。
この国益は、国民の権利―世界中の人々が不法に盗聴されプライバシー侵害を受けていること―よりも重要だとしている。
後者の発言は、公人の動静報道が安全保障上の障害か重要人物のプライバシー侵害を招くと指摘しており、国益とは安全保障か政府要人に関わっている。

要点
これで概ね傾向が掴めました。
国益とは、国体、政府、国民、国民の権利などがあり、具体的には領土、経済がありました。
しかし、中には過去の名誉から未来の安全保障(防衛)までも含んでいました。

次回、もう少し海外紙を紹介し、国益の意味をまとめます。





20140830

私達の戦争 32: 摩訶不思議な解釈4




    

「この島が日本の領土であることは明白であり、我々に正義あり」
この手の発言の落とし穴を探ります。

正義について
声高に「正義」だからと迫られると、多くの人は尻込みされるのではないでしょうか。
かつて暴力(クーデター)を正当化する時、「正義」がよく使われました。
しかし、本来、「正義」は人類が長い年月をかけ育て来た重要な理念です。
その理念とは、社会秩序維持のために人々が守るべき行為の規範であり、それを法に規定することでした。
そこには何ら疑わしいものはありません。

正義は、個人の判断に託されるものではなく、社会が熟慮を重ね共有してきたものです。
多くは、司法にその判断を委ねることになります。
最近、したり顔で訴える「正義」が巷に溢れています。
この手は、煽るものほど論理が浅いので、先ず疑ってみましょう。

領土問題の正義
現在、日本は三つの島で領土問題を抱えています。
多くの戦争は領土問題から始まっているので、急速に危機が迫っていると言えます。
大概、その始まりは「この島は我々の領土であることが明白である」にあります。
この発言に基づく一方的な行為に正義はあるのでしょうか。


    

両国が納得出来る明白な領有の証拠はあるのだろうか?
単純な想定を見るだけで答えはわかります。

例えば、5千年前に倭人がその島に流れついて住んだとします。
その後、海賊がその島を襲い、倭人は逃げ出しました。
次いで、隣国の漁師がその島を拠点にするようになりました。
このようなことが幾度も繰り返され、やがて両国の文書や地図にその島が記載されるようになりました。
初期は、互いの国が隣国と争ってまで、数ある遠い離れ小島をすべて領土にしようと思わないでしょう。
やがて漁民や海賊、海上交易民、国の船が島々と関わる頻度が増え、中には彼らから訴えられて始めて国がその島の重要性を認識することになるでしょう。
注意が必要なのは、国が統一途上にある段階では、各国間の海は境界人と呼ばれる海賊・海上交易民(倭寇)や漁民の生活の場でした。
広く活躍する境界人ほど、その集団は混血や複数民族を含み、複数の国を行き来する国籍不明の民でした。
このような状況で、いつの時点をもって領有の証拠とするのでしょうか。


一方的な占拠は可能なのだろうか?
上記のような曖昧な論拠―曖昧な条約や古地図を証拠に一方的な占拠は正しいのでしょうか?
例えば、長崎県の対馬は九州より韓国に近いが、なぜ日本の領土なのでしょうか?
対馬には複雑な交流史と流血―日本の大名・幕府と倭寇、朝鮮王朝との歴史があり、その果てに日本の領土になったのです。
日本国内で県境の変更なら武力紛争にはならないでしょう。
しかし両国は民族が異なり、さらに過去の遺恨が存在する中で、いがみ合うことなしに一方的な行為が可能と考える方が非常識でしょう。
歴史上、境界線の多くは力ずくか、トップ間の妥協の産物でした。
双方が納得出来ない、こじつけで境界を定めたところで、紛争の火種は大きくなるばかりです。
パレスチナ問題がその典型です。

正義はあるのか?
残念ながら「正義」を問うのは不毛だと考えます。
正義を問うには、二国間で「正義」の理念が共有出来る状態にならなければなりません。これは領土問題などの対立点が消えた和解後のことでしょう。
矛盾していますが。

国際司法裁判所で争うのも一つの手ですが、今の世界は、日本のような領土問題に判決を下すことが出来ないでしょう。
一方が、裁判を受託しない以上強制も出来ません。
日本はかつて満州国を否認された時、それを不服として国際連盟を脱退しています。


*3,4,5

解決の道は・・、それは歴史にヒントがある
つい5世紀前までは、新しく発見した土地はその国のものだった。
コロンブスやマゼランらの探検によりポルトガルとスペインはアメリカ大陸を手に入れた。
南極大陸は、当初幾つかの国によって領有が主張されたが、現在、世界が共有し保護すべき地域となっている。

ドイツのザール地方は第二次世界大戦の導火線となった当時有数の炭田であった。
フランスは第一次世界大戦の恨みと賠償をここで果たそうとした。
ドイツはそれに対抗し、サボタージュさせた炭坑労働者に中央銀行で刷った給与を与え続け、その結果、巨大インフレを招いてしまい、ヒトラーに付け入る隙を与えてしまった。
両国の恨みは増すばかりであった。

第二次世界大戦後、フランスの提案により、その地域と隣接する国々が中心となり欧州石炭鉄鋼共同体を結成した。
これは石炭・鉄鋼の生産と市場を共同管理しようとするものでした。
提案はフランスだが、主要な炭田はドイツの領有であり、相互の信頼と譲歩がなければ事は成就しなかった。
これは仏独の1千年にわたる争いへの深い反省から生まれたものでした。
後に、これがEUに発展していくことになった。

まとめ
国境確定で意地を張り、憎しみを倍加させ、多大な犠牲を払ってから気づくより、初めから共同管理にすれば良い。
これからの地球では、少ない資源は世界の共同管理になっていくだろう。
幾つかの地下資源(希少金属など)は採掘可能年数が10年を切った。

素晴らしい前例を創った人類の智恵を、我々は生かすべきでしょう。