20160728

Visiting from Tajima shore to Tango Peninsula 10:  Visiting Tango Peninsula 2


但馬海岸から丹後半島を巡って 10: 丹後半島を巡る 2




 


< 1.  Lighthouse of Kyougasaki cape >
< 1. 経ケ岬の灯台 >

I introduce scenes from Tango-matushima to Kyouga-cape.

今日は、丹後松島から経ケ岬までを紹介します。






< 2.  map of places we visited >
< 2.今回の訪問地MAP >
Upper photo:  this shows the range that we visited this time.
The map’s top is the north.
We started from the left side ( west side).

Lower photo: this shows the range I introduce with my photos.
The map’s top is the south.

No.1= Inugasaki park.  No.2= a cape.  No.3=Kyougasaki cape.

上の地図: 今回走った範囲です。上が北です。
左側(西側)からスタートしました。

下の地図: 写真で紹介する範囲です。上が南です。
番号1=犬ケ岬園地。番号2=岬。番号3=経ケ岬。









< 3.  Views of Tango-matushima from Inugasaki park >
< 3. 犬ケ岬園地から丹後松島を望む >
 A cape thrusting into distant sea is Kyougasaki cape that is the northern end of Kyoto prefecture.
As we rotate around that cape, we go along Wakasa Bay.

https://www.youtube.com/watch?v=H5ox3RKQYSk
It is the video of 19 seconds that I shot here.

遠くに突き出している岬が京都の最北端になる経ケ岬です。
あそこ回ると若狭湾に沿って進むことになります。

この場所から撮影した19秒のビデオです。






< 4.  the cape 1 >
< 4. 岬から 1 >
When we are driving a car, I found a favorite cape.
This cape was shown No.2 of the map.

車で走っていて、気に入った小さな岬を見つけました。
この岬は地図番号2です。






<  5.  the cape 2 >
< 5.岬から 2 >
I was surprised that people have made many fields on top of the narrow cape, and moreover have built their graveyard on the tip.
It was just time of the rice planting.
Their village stretches long and thinly on the mountain-side slope across the road.

私が驚いたのは、海に突き出した細い岬の上に田畑を作り、その突端に墓地を設けていたことです。
ちょうど田植えの時期でした。
村は道路を挟んで山側斜面に細長く広がっていました。






< 6.  the cape 2  >
< 6.岬から 3 >

It is a view of the west side from the cape.
Inugasaki cape is seen distantly.
A small fishing port is seen on the way.

岬の突端から西側を望む。
犬ケ岬が遠くに見える。
途中に中浜漁港が見える。






< 7.  Views from the observation deck on the Kyougasaki cape >
< 7. 経ケ岬の展望台から >
I overlook the west side from the observation deck.
Upper photo:  Tango-matushima.
Lower photo:  an expansion of the upper photo.
A yellow arrow shows the cape having the graveyard.
The sea side of the graveyard is covered in the trees of windbreak.

展望台から西側を見下ろしている。
上の写真: 丹後松島を見ている。
下の写真: 上の写真の拡大。
黄色い矢印が、先ほどの墓地がある岬を示している。
墓地の海側は風除けの木々で覆われている。








< 8.  at the front of Kyougasaki cape  >
< 8. 経ケ岬の手前から >
Upper photo: a hill of Kyougasaki cape is seen.
We climbed from the parking area to the observation deck being in the top.

Lower photo: I look at the opposite direction (the west side).
A bathing beach and fishing village are seen.

Untouched nature remains on the shoreline that we drove a car along, and this is a wonderful place for sea creature (Takeno Beach etc.).

上の写真: 経ケ岬の山が見える。
私達は駐車場からあの頂上にある展望台まで登った。

下の写真: 逆方向(西側)を見ている。
袖志海水浴場と村が見える。

今回、走った海岸線には自然が多く残っており、海の生き物にとって素晴らしい所(竹野海岸など)です。






<  9.  Kyougasaki cape >
< 9. 経ケ岬から >
A parking area is seen at the lower right.
The back of this sea is Wakasa Bay.

This continues the next time.

右下に駐車場が見える。
この海の奥は若狭湾です。
駐車場から展望台に登る途中で撮影した。


次回に続きます。


20160725

地中海クルーズとカナリヤ諸島クルーズ 24: マデイラ島 2

















< 1. ラヴラドーレス市場の花屋 >


前回に続いてマデイラ島のフンシャルの街を紹介します。


 

< 2. カテドラル >
1590年代に造られたマヌエル様式の教会。
この様式はポルトガルが16世紀の大航海時代の繁栄の中で生み出した過剰な装飾を施した建築様式で、リスボンのジェロニモス修道院、ベレンの塔が有名です。
しかし、私には外観は質素で素朴な建物に見えた。


 

< 3.カテドラルとザルコの像 >
下の写真: アリアガ通りに立つザルコの像。

このザルコが、ポルトガルの大航海時代初期の1420年に、このマデイラ島を発見し、半分を領地として与えられた。


 

< 4. サン・ローレンソ要塞とラヴラドーレス市場 >
上の写真: サン・ローレンソ要塞。
15世紀に建てられらた要塞ですが、外観は白亜の宮殿のイメージでした。

下の写真: ラヴラドーレス市場の外観。
観光客に一番人気かもしれません。
地上2階、地下1階のスペースにエキゾチックな花、果物、土産品、魚介類が売られています。


 

< 5. ラヴラドーレス市場 >
さすがに地下の鮮魚店には観光客は少ない。



 

< 6. 三つの通り >

この三枚の写真は、ラヴラドーレス市場を出て、アリアガ通りまでのスナップです。


 

< 7. アリアガ通り1 >
上の写真: ポルトガルらしいアズレージョ(装飾タイル)。
下の写真: サン・フランシスコ庭園からアリアガ通りを見る。


 

< 8. アリアガ通り2 >
下の写真: 天測儀の噴水。



 

< 9. サンタ・カタリーナ公園 >

海を見下ろす丘全体が公園になっている。


 

< 10. 公園から港を見下ろす >

これでマデイラ島ともお別れです。


次回に続きます。

20160723

Bring peace to the Middle East! 22: about terrorism 2 : an assassination

中東に平和を! 22: テロについて 2: ある暗殺




< 1. Assassination of President Sadat >
< 1. サダト大統領の暗殺 >

From today, I use some examples as a reference and will look at the situation that massacre has been spread over in the Middle East.
This massacre includes battle, and terrorism (assassination, suicide attack) by the government side or the anti-government side.
we see the assassination of an important person by an extremist first.

今日から、中東で殺戮が蔓延していく状況を幾つかの事例を取り上げて見ていきます。
この殺戮には戦闘状態、政府側と反政府側によるテロ(暗殺、自爆攻撃)などがあります。
最初に、過激派による要人暗殺を見ます。





< 2.  Sadat and Mubarak (the later President) at this incident >
< 2. この事件当時のサダトとムバラク(後の大統領) >

The assassination incident
In 1981, the Sadat President of Egypt was assassinated at the commemorative ceremony of the Fourth Middle East War (1973) that he began.
By this war, the Middle Eastern War (since 1948) between the Arabic countries and Israel that had been repeated for four times became the end.
However, Egypt first approved Israel among the Arabic countries by the conclusion of peace accords (1979), and cut off the Palestinian problem.
This seemed like a big betrayal from people and the Arabic countries.

暗殺事件
1981年、サダト・エジプト大統領は自ら始めた第4次中東戦争(1973年)の記念式典で暗殺された。
この戦争で、4回続いたアラブ諸国とイスラエルの中東戦争(1948年~)は終わった。
しかし、エジプトは平和条約締結(1979年)により、アラブで最初にイスラエルを承認し、パレスチナ問題を切り捨てた。
これは国民とアラブからすれば大きな裏切り行為に映った。





< 3. the Fourth Middle East War  >
< 3.第4次中東戦争 >

I introduce a sentence of a thinker of an Islamic fanaticism that this assassination group had believed in.

"It is important that we fight against a near enemy than a far-off enemy.
We must flow the blood of Muslim until the achievement of the victory by the jihad.
...
It isn’t useful that we started the battle against the imperialism

It is our duty to concentrate on great cause of Islam, and establish divine law in our country, ...

The battlefield of jihad exterminates the leaders of the unbeliever and is to replace it with complete discipline of Islam. "
( from "What Went Wrong" )

They think that the leaders who held hands with Europe and America made own country and Arab countries confusing and slumping.


この暗殺グループが信奉していたイスラム過激思想家の文を紹介します。

「近い敵と戦うことは遠い敵と戦うよりも重要である。
ジハードではムスリムの血は勝利の達成まで流さなければならない。
・・・
帝国主義に対する闘争を開始することは誇るべき有用な仕事ではなく、時間つぶしであっ
た。

イスラムの大義に集中するのが我々の義務であり、我々の国に神の法を確立し、・・・。
ジハードの戦場は、不信仰者の指導部を根絶して、完全なイスラム的秩序と置き換えることにある。・・・」
(「イスラム世界はなぜ没落したのか?」p161より)

彼らは自国とアラブが低迷し混乱したのは欧米と手を結んだ指導者によると考えている。





< 4.   Nasser made a coup d'etat succeed >
< 4. クーデターを成功させたナセル >

Why did they go to extremes?
I cannot lump innumerable extremists, but as for the birth, there is peculiar circumstances of Middle Eastern and Arab.
It is Middle East war (between Israel and Palestine), the military intervention by Europe and America (supporting Israel and the Iraqi War etc.), and the despotic governance of Arab countries.
Here, I easily look back on the Egyptian sufferance history.

Egypt had experienced the long history of colonial ruled by different ethnic groups.
After Islamic Empire that achieved great unification, Egypt was ruled by Turkish dynasty since the thirteenth century, then by Osman empire, and was invaded by Napoleon in the 18th century.
Subsequently, it was governed by the Albanian dynasty (Muhammad Ali), next became a colony of Britain in the late 19th century, and became an token independence kingdom in the early 20th century.

An epoch of revolution began before long.
In 1952, an officer corps expelled an king by a military coup and worked on the modernization.
In 1956, President Nasser declared the nationalization of the Suez Canal, and after the second Middle East war against the Israel, Britain and France forces, he obtained this.
He received help of the Soviet Union for Aswan High Dam construction, and pushed forward construction of an Arabic socialist state.
However, in 1967, Nasser was defeated completely by the third Middle East war against Israel and reduced his prestige.

Military regimes like this in Egypt continued in common with other Arabic countries.

This continues the next time.



彼らはなぜ激化したのか?
無数にある過激派を一括りに論ずることは出来ませんが、その誕生には中東アラブに特有の事情があります。
それは中東戦争(イスラエルとパレスチナの対立)、欧米の政治・軍事介入(イスラエル支援、イラク戦争など)、アラブ諸国の強権的な政体などです。
ここでは、エジプトの苦難の歴史を簡単に振り返ります。

エジプトは悲運な長い歴史、異民族による支配の歴史を背負っていた。
大統一を果たしたイスラム帝国だったが、エジプトは13世紀からトルコ系王朝、次いでオスマン帝国に支配され、さらに18世紀ナポレオンに侵攻された。
続いてアルバニア系王朝(ムハンマド・アリー)の支配を受け、19世紀後半になると英国の植民地になり、20世紀初めに形だけの独立王国となる。

やがて画期が訪れます。
1952年、将校団が軍事クーデターで国王を追放し、近代化に取り組みます。
1956年、ナセル大統領はスエズ運河の国有化を宣言し、イスラエル・英仏軍との第2次中東戦争の末、これを手に入れた。
彼はアスワン・ハイ・ダム建設のため、ソ連の援助を受け、アラブ社会主義政策を進めた。
この時、エジプト国民とアラブ諸国は民族の隆盛が間近だと沸き立ち、エジプトはアラブの盟主となった。
しかし、1967年、ナセルはイスラエルとの第3次中東戦争で完敗し、名声を落としていった。

エジプトも他のアラブ諸国と同様に軍事独裁政権が続くことになった。


次回に続きます。


20160721

地中海クルーズとカナリヤ諸島クルーズ 23: マデイラ島 1

  

 


< 1.ボタニカルガーデン >

今日から大西洋に浮かぶマデイラ島を紹介します。
我達が訪問したのは2016年3月9日10:00~15:00です。
この日は快晴に恵まれました。



 

< 2. 朝、寄港 >
上の写真: 遠くに島影が見え始めた。
中央の写真: マデイラ島の東側。
下の写真: フンシャルの港から西側を望む。



マデイラ島について
ここはカサブランカから西に900km、テネリフェ島から北に500kmの位置にあります。
この島はポルトガル領マデイラ諸島の主島で、最大長さは57kmあり、人口は27万人です。
今回は、最大都市で首都のフンシャルに寄港し観光します。

この諸島はローマ時代から知られていたが、15世紀初め、大航海時代にいち早く乗り出したポルトガルによって植民地とされた。
その後、新大陸との重要な中継地として発展する。
交易で訪れたコロンブスがこの地の領主の娘と結婚し、フンシャルで航海論を学んだ。
現在は、ヨーロッパのリゾート地として、観光産業が主要産業になっている。



 

< 3.地図、すべて上側が北側 >
上の写真: マデイラ島。
黄色枠が今回観光するフンシャル。

下の写真: フンシャルの拡大。
赤い楕円がクルーズ船、No。1はボタニカルガーデン、No.2はラヴラドーレス市場です。
黄色の線はフリーで徒歩観光したルートで、約2.5kmです。



 

< 4. 街並み >
上の写真: 観光するフンシャルの中心部。
中央の写真: 海岸沿いの道路。
下の写真: 上記道路から山側を望む。


 

< 5. ボタニカルガーデンに向かう >

私達のバスは曲がりくねった急峻な坂道を上って行く。



 

< 6. ボタニカルガーデン1 >

至る所、色とりどりの花が青空に映えていました。
ここはかって個人の別荘だった。


 

< 7. ボタニカルガーデン2 >

緑も豊かです。




< 8. ボタニカルガーデン3 >

さすが「大西洋の真珠」と謳われている景観です。

この公園を映した40秒のビデオ映像です。



 

< 9. ボタニカルガーデン4 >



 


< 10. ボタニカルガーデン5 >

ガーデンで出会った人々。


次回に続きます。



20160720

Visiting from Tajima shore to Tango Peninsula 9:  Visiting Tango Peninsula 1



但馬海岸から丹後半島を巡って 9: 丹後半島を巡る 1




 < 1.  The island of Taiza fishing village >
< 1. 間人(たいざ)の城島 >

From today, I introduce Tango Peninsula in North Kyoto.
今日から、京都北部の丹後半島を紹介します。






< 2. maps of Tango Peninsula and Amino >
< 2. 丹後半島と網野の地図 >
Upper map:  the red line is our route of Tango Peninsula.
The top of the map shows the north.
Today, I introduce No. 1 Amino, No. 2 Taiza, and No. 3 Tateiwa rock.

Lower map: this is a satellite photo that is a expansion of Amino (NO.1) in the upper map.
The top of the map shows the south.
No. 1 is the ancient burial mound of Choshi mountain I introduce today.
NO.2 is a peninsula with an ancient burial mound in the lake, NO.3 is the beach, and No. 4 is Amino fishing port that I introduced previous time.

上の地図: 赤線が私達がドライブした丹後半島のコースです。
上が北です。
今日、紹介するのはNo.1の網野、No.2の間人、No.3の立岩です。

下の図: 上図のNO.1の網野を拡大した衛星写真です。
上が南です。
今日、紹介する銚子山古墳はNO.1です。
NO.2は離湖の古墳がある半島、NO.3は八丁浜、NO.4は網野漁港で、前回紹介しました。







< 3.  the ancient burial mound of Choshi mountain >
< 3. 銚子山古墳 >
Upper map:  this ancient burial mound was built on the edge of the small hill at the end of fourth century.
The top of the map shows the north.
We walked along the brown line.

Lower map:  a detailed map of the ancient burial mound.
The large keyhole-shaped tomb mound in the center is 200 meters in the total length, 20 meters in height, and has two small ancient burial mounds at the both sides.
This ancient burial mound is the largest in the Sea of Japan side, and “ three ancient burial mounds by the Sea of the Japan” including it are all in this Tango Peninsula.

It suggests this area were connected to Yamato sovereignty in Nara, and this king had extensive authority.
In addition, we saw this area were connected with the continent at previous time.

上の地図: この古墳は小高い丘の端に、4世紀末に造られた。
上が北です。
私達は茶色の線を歩きました。

下の地図: 古墳の詳細図。
中央の前方後円墳は全長200メートル、高さ20メートルで、その両側に二つの小さな古墳を持っている。
この古墳は日本海側で最大級であり、丹後半島にはこれを含めた日本海三大古墳がある。

如何にこの地が奈良のヤマト王権に繋がり、ここの王が力を持っていたが伺える。
また、大陸とも繋がりがあったこも前回見ました。




< 4.  walking on the top of the ancient burial mound  >
< 4.古墳の頂上を歩く >
Upper photo:  walking the northeast side of the burial mound.
You can see the steps at the end of the road.

Lower photo: a view of top like circle mound from under the steps.

上の写真: 古墳の前方部(北東側)を歩いている。
奥に階段が見える。

下の写真: 階段下から後円部の頂上を見ている。





< 5. Views from the burial mound  >
< 5. 古墳からの眺め >
Upper photo:  a view of seaside from the circle mound.
When it was built, under this mountain was a lagoon.

Lower photo: a view of the mountain side (southeast side) from the road.

上の写真: 後円部頂上から海側を見ている。
これはパノラマ合成写真で、通常より視野角は広い。
古墳が造られた当時は、この直ぐ下が潟湖だった。

下の写真: 前方部から山側(東南側)を見ている。
丘の上は畑作が行われていた。






< 6.  seashore on the way to Taiza >
< 6. 間人までの海岸 >
Upper photo:  a small hill thrusting into the sea is around Taiza.
Lower photo:  looking back at our road from Taiza.

上の写真: 海に突き出した小山が間人の城島です。
下の写真: 間人側から来た道を振り返る。





< 7.  Taiza fishing village >
< 7. 間人(たいざ) >
Upper photo: a small island connecting the village with a bridge.
Central photo: a shrine in the island.
Lower photo: the fishing port.

This port is famous for snow crab, and this area has many legends concerning Prince Shotoku ( the 6th -7th century).
In addition, there was once a custom of facing a dead person toward continent and burying it.
This also indicates the connection with an Imperial Court of Nara in ancient times and with the continent.

上の写真: 城島。
中央の写真: 城島の神社。
下の写真:  間人漁港。

この地はズワイガニ(間人蟹)で有名で、聖徳太子に纏わる伝説が多い。
また、死者を大陸に向けて埋葬する風習がかって残っていた。
ここにも、奈良の古代朝廷と大陸の繋がりがあった。







<  8. inlet of the port >
< 8. 間人の入り江 >
we see colorful seaweeds in pellucid seawater.

透明な海中に色とりどりの海藻が見える。




< 9.  going a circuit of the island >
< 9. 島を一周 >




< 10.  Tateiwa rock >
< 10.立岩 >
高さ20mの柱状節理の岩が海岸に突き出している。

Impression
I was often surprised when I went round this peninsula without preparing.
This secluded area facing the Sea of Japan had ever the connection with continent and ancient Nara.
I find an ancient romance in original scenery of Japan.

This continues the next time.


感想
下調べもせずに、この地を巡っていると驚くことが多かった。
この日本海に面したへんぴな地が、かつては大陸と古代の奈良と繋がりがあったのです。
原風景の中に古代のロマンを見た。


次回に続きます。


20160718

Bring peace to the Middle East! 21: about terrorism 1 : at the beginning



中東に平和を! 21: テロについて 1: はじめに 






< 1. November 2015 Paris attacks >

< 1.パリ同時多発テロ >



From now, we consider miserable incidents happening in the Middle East and terrorism happening frequently in the world.

We will understand what is necessary to keep on our peace by knowing about the backdrops of these miserable incidents.



これから、中東で起こっている悲惨な事件や世界で頻発するテロについて考察します。

これら悲惨な事件の背景を知ることにより、平和を守るためには何が必要かがわかるでしょう。




 

< 2. Invasion of the Israeli military >

< 2. イスラエル軍の侵攻 >



At the beginning
Many suicide attacks are repeated in the Middle East, and terrorism killing many citizens occurs frequently in Europe and America.

We feel resentment at the suicide bomb attacks that kill many citizens and it is above the comprehension to person living peacefully.

Recently, it becomes provocative and increases.

For half a century, in the Middle East, governments in many countries did military incursions and slaughtered many people, against them radical extremists massacred private citizen, and assassinations of main persons occurred also.

There isn’t a sign of their stopping.



There are two measures for this situation.

One of these is to make the arrest or a clean sweep of the radical extremists.

It is necessary to perform this by the armaments and police force, but it falls into the vicious circle, and it shows no sign of the settlement.

There is examples that succeeded by drastic treatment if looking back on history, but in this time the background of the terrorism becomes gigantic and spreads over the world.



Then other one of these is to remove the background generating the terrorism.

It is necessary to cut off the present vicious circle, but very difficult.



In first step, while performing the former measures, we understand the background of the terrorism, and people of the world need to acknowledge what we have to do to cut off the vicious circle.





はじめに

中東で自爆攻撃が繰り返され、さらに欧米で市民が殺害されるテロが続発しています。

私達は市民を巻き添えにする自爆テロに憤りを感じ、平和に暮らす者にとっては理解を越えます。

最近とみに、挑発的になり増加しています。

中東では、ここ半世紀、政権側からの軍事侵攻や虐殺、対して過激派による民間人殺戮が続き、また重要人物の暗殺も起きています。

止む気配はありません。



この状況に対して二つの対策があります。

一つは、テロ集団の逮捕か掃討でしょう。

これを軍事力や警察力で行う必要がありますが、悪循環に陥り、なかなか解決の目途がつきません。

歴史を遡れば、荒療治で成功した事例はありますが、今回はテロを生む背景が巨大化し世界に蔓延してしまっている。



次いで、テロを誘発している背景を取り除くことが考えれらます。

現状の悪循環を断ち切るには必要な事ですが、言うは易く行うは難しです。



とりあえず言えることは、前者の対策を実践しながら、テロ頻発の背景を理解し、悪循環を絶つ為に何をすべきかを世界の人が自覚することです。





 

< 3. radical extremists >

< 3.過激派 >



Questions about terrorists

“Why do they do suicide bombing attacks and assassination?"

"Are Muslims brutal?"

"Do they believe to go to heaven by terrorism (jihad)?"



In this serialization, I investigate the darkness of minds of people performing terrors and suicide bombing attack and the historic background where terrorism is repeated on.

As a result, you become to know the truth of the mentioned question, and will be to notice prejudice and preconception.



私達がテロリストに抱く疑問

「彼らはなぜ自爆テロや暗殺をするのか?」

「彼らムスリマは凶暴なのか?」

「彼らはテロ(ジハード=聖戦)によって天国に行けると信じているのか?」



この連載では、テロや自爆攻撃を行う人々の心の闇に迫り、テロが繰り返される歴史的背景を探ります。

このことにより、上記疑問に対する真実が見え始め、偏見や先入観に気づくことでしょう。







< 4. My Lai Massacre >

< 4.ソンミ村虐殺事件 >



What I would want you to doubt firstly

What does atrocity mean?

Is it a shooting rampage in America that happened recently and a terrorism by reckless driving truck in France ?

Is it one atom bomb dropped in Hiroshima or indiscriminate bombings in Chongqing or Dresden?

By their attacks, many citizens became victimized, but their attacks are different about under a non-wartime or wartime.



Dead people in the Vietnam War reached approximately 8 million people, but a incident when the United States had to withdraw from Vietnam was the slaughter of Son My village generated 504 dead people.

The degree that we cry with anger doesn’t depend on a number of dead people or massacre weapon, instead, depends on situation that we can feel it closely.



For example, it depends on whether the victim is accessible person or you can know the cruel situation by pictures.

In addition, the problem of “under wartime” is delicate, for example, the understanding about the Pearl Harbor attack is the opposite between Japan and the United States, and it is an indignation thing for the the United States.

We often justify own barbarity and try to escape from a sense of guilt.



It is difficult to judge slaughter fairly, and we often capture it superficially and emotionally

Nothing can be done about this, but it becomes to disturb the understanding and arbitration of dispute.



はじめに疑って欲しいこと

悲惨で残虐な行為とは何でしょうか?

最近起きた米国の銃乱射やフランスのトラック暴走によるテロでしょうか。

広島に落とされた一発の原爆、または重慶やドレスデンの無差別爆撃でしょうか。

非戦時下と戦時下の違いはありますが、これらは共に多くの市民が犠牲になっています。



ベトナム戦争で双方の死者は約800万人に達したが、米国が撤退をせざるを得なくなった切っ掛けはソンミ村虐殺事件の死者504人でした。



私達が悲憤にかられる度合は、死亡者の数や殺戮兵器によるのではなく、それが身近に感じられるかにかかっています。

例えば、被害者が身近であるか、残虐な状況が映像などによって知り得るかにかかっているのです。

また戦時下云々も微妙で、真珠湾攻撃は日米で捉え方が真逆で、米国民にとっては悲憤ものです。

人は往々にして、自らの残虐行為を正当化し罪の意識から逃れるものです。



私達は、虐殺を公平に判定することは難しく、多くは感情的で表面的に捉えることが多いのです。

これは仕方のないことですが、紛争の理解や仲裁には妨げになります。









< 5. one atom bomb dropped in Hiroshima >

< 5.広島原爆投下 >



This continues the next time.



次回に続きます。