20210215

没落を食い止める! 9: 世界はなぜ悪化しているのか? 1

  






*1

 

欧米の経済が停滞し、格差が拡大しているのは明白です。

しかし、その元凶はカモフラージュされており見難い。

身近な例から読み解きます。

 

 

* 身の回りで起きている摩訶不思議な現象

 

1. なぜ株価は乱高下するのか? 

2. なぜ賃金は上がらないのか?

3. なぜ物価は上がらないのか?

4. なぜ政府の累積債務は増え続けるのか?

5. なぜ経済は良くならないのか?

 

これらの疑問から経済の問題点が見えて来ます。

 

* なぜ株価は乱高下するのか? 

 

現在、株や土地、金、石油、為替など、あらゆる物が投機対象になっている。

売買に投じられる投機資金は、今や需要に必要な額の10倍を越え、さらに世界の投機資金は年々増加している。

 

現代は製造ではなく、利益率の高い金融で儲ける経済になってしまった。

金融商品には経済活動に必要なものもあり、国民の多くの保険や年金などの運用はこれに頼っている。

経済界や富裕層だけでなく政府も金融依存から抜け出せなくなった。

 

しかし、やがて購入が過熱し暴騰が続いたある日、突如として暴落を始めることになる。

(世界は暴落の予想と予防が出来ない)

暴落が始まると銀行は融資していた投機資金を競うように引き上げる。

この連鎖反応が全経済の資金の流れを止め、瞬く間に世界は金融危機に陥る。

(日本のGDPは540兆円だが、株の時価総額は600兆円、1/3に暴落すれば半年で400兆円が吹き飛ぶ)

これが大量の倒産と失業を生む。

 

政府はこれを食い止めるべく、主に銀行などの金融業に毎回GDPの10%を越える救援資金を注ぎ込む(年々増加)。

もし国が金融危機を放置すれば、大恐慌が起こる事は歴史が示している。

こうして富裕層は投機で所得を増やし、かつ暴落後も政府のお陰で所得を急回復させる。

一方で、投機に縁の無い多くの人は前述の救援資金を税金と赤字国債の形で負担することになる。

 

 

 

< 2.GDPと株式時価総額の推移 >

https://media.moneyforward.com/articles/2519?page=3

上のグラフ:

1980~2017年の世界GDPと株式総額の成長は7.2倍と31.6倍です。

さらに株式総額は1985年以降、増加の一途で、遂にはGDPを越え、今後さらに上昇する。

 

下のグラフ:

1982年から、日本はバブル経済に突入し株式総額は鰻登りの後、急降下し、乱高下を繰り返している。

これを境にGDPは停滞したままで、株式総額に越されてしまった。

実は、格差の酷い国、米英日では既に株価総額はGDPを越えており、格差の少ない国、独仏では越えていない。

 

 

 

< 3. 欧米日の株価推移 >

 

グラフ:

2000年までは日本の株価は、独歩高だったが、それ以降は、欧米と足並みを揃えた値動きになっている。

これは投機資金が世界を駆け巡り、世界の株式が同じように動き、かつ拡大している証左です。

 

 

* なぜこんなことになったのか?

 

一番は、投機家が商品価格の上下だけで莫大な利益を得るようになったからです。

本来、株式は企業資金の調達手段に過ぎないはずが、今や国の経済規模を越えて拡大しつつある。

 

資金量が多ければ多いほど、またコンピューター・情報を駆使出来れば出来るほど、莫大な利益が生まれる。

(先物で仕手: ファンドが恣意的に価格を上下させ、それを売買するだけで数千億円を稼ぎ、その資金は手持ち資金の50倍ほどまで借りることが可能)

こうして投機資金と情報が超富裕層に益々集中し、商品価格の乱高下が大きくなって行く。

 

 

 

それだけではない。

政府と中央銀行は連携し、金融危機後に景気回復の為と称して投機を煽る政策をとる。

当然、腐敗した政府・議員はこの富裕層の資金力に操られることになる。

こうして貨幣供給量の増大に拍車をかけ、企業と富裕層に大幅減税を行い、金融の規制緩和を加速させて来た。

 

こうして株価の乱高下の悪循環を断ち切れなくなった。

このような金融の利殖に群がる状況は異常だと気が付くべきだ。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

20210212

国境の島、対馬を訪ねて 5: 厳原の街を歩く 3

 



 

*1

 

今回は、宗氏の菩提寺万松院と歴代藩主の墓所を紹介します。

江戸開幕と共に対馬初代藩主となった、宗義智は怒涛の時代を生き抜いた。

 

 

 

< 2. 万松院と境内地図 >

 

上: 万松院の門

右手の石橋は墓所への階段に通じる。

 

下: 万松院と御霊屋の地図、上が概ね南

上が万松院、下が墓所御霊屋。

赤線が散策路で、現在地からスタートし戻った。

 

 

 

< 3.山門と御霊屋への石橋 >

 

上: この山門は残存する対馬最古の建築物で、江戸時代初期のものです。

仁王像も古い。

 

下: 御霊屋への石橋

 

 

 

< 4. 万松院に入る >

 

下: 本堂

この寺は、2代藩主義成が先代義智の為に1615年に建立したが、二度の火災で山門以外は消失した。

当時の隆盛を示す様々な建築物は無く、こじんまりしている。

内部の本尊や什器には鎌倉時代の作品もある。

 

 

 

< 5. 堂内に入る >

 

下: 三具足

朝鮮国より贈られた青銅製の祭礼用三具足(みつぐそく)、鶴亀の燭台と香炉、花瓶の3点。

 

朝鮮通信使が奉納した三具足は日光東照宮にもあったが、火災で消失し、現在の物は日本で造り直したものです。

すると万松院の三具足は貴重です。

(幕府の要望により、朝鮮通信使は江戸を経て日光東照宮まで参拝することがあった。)

 

 

 

< 6. 徳川家のお位牌 >

 

上: 徳川歴代将軍のお位牌

ガラス貼りで暗い為、良く見えないのですが、位牌は数多くありました。

ここに徳川家の位牌があるのは、対馬藩の大事件、柳川一件と関りがあります。

家光の裁可により無罪となった2代藩主は、徳川家に忠誠を尽くすとし、また朝鮮との交渉役との関係もあり、ここに位牌の安置を許された。

かつて境内にあった東照宮は火災で消失した。

 

下: 諫鼓(かんこ)

かつて諫鼓と呼ばれる鼓が置かれていて、君主に訴え(諫言)をおこす時に叩かれた。

鼓が鳴らないことは諫言の必要が無く善政の証しだとされたが、疑問が残る。

叩くことになれば目立つので、諫言(かんげん)を控えるはずだからです。

 

 

 

< 7. 御霊屋(おたまや)に向かう >

 

深い木々に囲まれて荘厳な雰囲気のある墓所でした。

ここは、金沢市の前田藩、萩市の毛利藩とともに日本三大墓地の一つらしい。

 

左上: 132段の百雁木(ひゃくがんぎ)と呼ばれる石段。

丁寧な石組みの段の横に石灯篭が並び、趣がある。

 

右上: もうすぐ最上部に着く

 

下: 階段を登り切ると、左右に歴代藩主の墓がある。

 

 

 

< 8. 天然記念物の大杉 >

 

上: 樹齢1200年と言われる大スギ

 

下: 階段を登る時、向かって左にある墓所

 

 

 

< 9. 初代藩主の墓 >

 

上: 初代藩主義智の墓

 

 

 

< 10. 下御霊屋 >

 

下: 石段の途中にある宗氏の墓地

 

 

* 宗義智と柳川一件にみる対馬の苦難と繁栄の礎

 

宗義智(そう よしとし)は宗氏19代目当主であり、対馬藩初代藩主でした。

彼は豊臣秀吉の九州征伐、続いて二度の朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに駆り出された。

また徳川の世になると、李氏朝鮮との和平条約に奔走し成立させ、この功績により家康から独自に朝鮮との貿易を許され繁栄の礎を築いた。

宗氏は明治まで続くことになった。

 

 

 

 

< 11. 2回の朝鮮出兵 >

 

朝鮮出兵前、彼は秀吉から朝鮮を服属させよとの命を受けていた。

そして彼は、秀吉の全国統一の祝賀使節を朝鮮に要請し、来日した朝鮮使節を秀吉には服属使と偽った。

結局、朝鮮出兵は決まり、前回記したように清水城を築き、5千の兵を出し、対馬は7年に及ぶ戦役で大打撃を受けた。

 

秀吉が死に関ヶ原の戦いが起きた。

彼の妻は西軍の大名、共に戦った小西行長の娘、小西マリアでした。

家康が天下を取ると、彼は朝鮮の交渉役を期待され、罪は問われなかったが、恭順の意を示す為、戦いの翌年、妻を離縁した。

 

以前から、対馬の宗氏が朝鮮との交易を一手に引き受けて来たが、江戸時代も続くことになり、農耕に適さない地で繁栄することが出来た。

だが、朝鮮との外交交渉は、昔から綱渡りで、息子の代に大事件、柳川一件が起きた。

 

対馬藩2代目藩主の世になって、徳川は対馬に朝鮮出兵の後始末の交渉を任した。

ここでも対馬は幕府と明・李氏朝鮮とのかけ離れた要求の間に立ち、嘘と国書の改竄で逃れようとした。

 

朝鮮出兵の際に王陵を荒らした戦犯を差し出すように朝鮮から要求された。

すると、出兵とは全く無関係の藩内の罪人の喉を潰して声を発せられなくした上で「朝鮮出兵の戦犯」として差し出した。

お陰で他の要因もあり、朝鮮側は融和的になった。

 

朝鮮が徳川家から先に国書を送るように要求すると、対馬藩は国書を偽造し朝鮮へ提出した。

朝鮮が派遣した「回答使」を、対馬藩は幕府に「通信使」と偽り、江戸城で家康らと謁見させた。

対馬藩は回答使の返書も改竄し、三次に渡る交渉でもそれぞれ国書の偽造、改竄を行い、貿易協定(和平も)を何とか締結させることが出来た。

 

ここまでは良かったのだが、20年を経て、対馬藩の家老が己の出世の為に幕府に改竄を訴えた。

 

だが家光の裁可により、藩主は無罪、家老と他に関わった要人は流罪となり、決着した。

 

対馬は、このように日本の中央政府と大陸の狭間で、戦役と外交で苦労を重ねて来た。

対馬の外交を見ていると、如何に日本の中央は海外に無知だと言うのが分かる。

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

20210209

没落を食い止める! 8: 現状を見る 2

  

 

*1

 

前回に続いて、世界と日本の現状を見ます。

はじめに、起こるであろう経済危機について、

次いで日本一国だけが衰退している状況を見ます。

 

 

* 世界的な経済危機!!

 

今後数年以内に想定される金融危機について考えます。

 

多くの方、特に若い方は金融危機の恐ろしさを知らない。

一言でいうと、株価が暴落し、多くの金融業に始まり、全産業で企業の倒産が相次ぎ、巷に失業者が溢れることです。

これはここ半世紀、ほぼ10年毎に起こり、その経済ダメージは益々酷くなっている。

これは19世紀後半の英国、20世紀始めの米国でも起こり、世界が戦争へと駆り立てられていった要因の一つでした。

 

この危機がなぜ迫っていると言えるのか?

 

 

 

 

 

< 2.世界全体のGDPと主要国中央銀行の貨幣供給量の推移 >

https://www.rieti.go.jp/jp/columns/s15_0010.html

 

グラフから、赤の破線が示す赤線の急上昇が金融危機発生直前に起きているのがわかる。

つまり中央銀行による急激な貨幣供給量の増加があった。

しかもリ―マンショック後の金融緩和による貨幣供給量は、歴史上始めてGDPを越え、急上昇している。

これが次に起きる金融危機の巨大さを暗示している。

これまでは、貨幣供給量はGDPに見合うものだったのだが。

 

なぜこのようなことになったのか。

日米英などが金融を野放し、かつ依存するようになり、金融危機と緩和の泥沼に陥ったからです。

 

 

 

< 3.世界主要国の実質経済成長率の比較 >

http://aruconsultant.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/gdp-b314.html

 

グラフを見ると、赤線の日本が一人負けしているのがわかる。

2008年の金融危機後の巨大な緩和策で、2012年以降世界経済は持ち直した。

しかし、騒がれたアベノミクスに成果はなく最下位を続けている。

 

 

 

 

< 4.日本の実質GDP、実質経済成長率の推移 >

https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h24/hakusho/h25/html/n1112000.html

 

1970年中頃から日本経済は低下し始め、80年代後半には一段と下げた

グラフにはないが、1990~2019年は平均1%を維持出来たが、2020年以降はパンデミックでさらに悲惨な状況になっている。

黒田日銀が世界に類を見ない金融緩和を行っても、せいぜい株価が上昇したに過ぎない(むしろこれが今後災厄になるかも)。

 

70年代の落ち込みは、米国の圧力による円高と、米国が介入した中東戦争が引き起こしたオイルショックが切っ掛けになった。

次いで米国の要求による内需拡大策が仇となり1990年にバブル崩壊、米国発の2008年リーマンショックを経て日本経済は成長しなくなった。

(ただ戦後の日本発展は米国のお陰であることを忘れてはならない)

 

しかし、これだけでは日本だけの落ち込みを説明できない。

 

ここ30年、多くの国際的指標で日本は先進国から脱落し、さらに悪化続けている。

かつて日本の世界ランキングは、ベスト20以内もあったが、現在は30から100半ばまで落ち特に社会政治については安倍政権になってからの悪化が著しい。

OECD加盟国37か国、ランキングされる国は約200)。

 

悪化の例としては、相対貧困率、勤労所得、財政赤字、所得格差、生産性、産業と企業の競争力、デジタル技術、エネルギーと食料の自給率、人口減と高齢化、報道の自由度、ジェンダー指数、幸福度、政治腐敗認知度などがある。

 

良いのは治安と長寿命、失業率ぐらいだが、日本では金融危機の年に失業した世代の再起が難しいなど固有の問題もある(就職氷河期世代)

 

これに加え、日本では地方の過疎化と経済衰退が著しい、また自治体の自律的な動きも封じられている。

 

 

次回に続きます。

 

 

20210206

国境の島、対馬を訪ねて 4: 対馬のフェイクニュース

  


*1

 

今回は、対馬を貶めたフェイクニュースについて。

以前、対馬は韓国人に荒らされていると報道されていた。

私は多くの島民にお話を聞き、予想もしなかった事実に出会いました。

 

 

 

*2

 

私は対馬に強い歴史的な関心を持っていました。

しかし、一部マスコミは対馬が韓国人観光客に荒らされていると報道しており、私も不安になっていました。

この手の煽られた恐怖心を韓国旅行の前にも感じたことがあったのですが、行ってみて、まったくの嘘だと知った経験がありました。

 

そこで今回、コロナ騒動で韓国人が減っていると知って、事実を確認すべしと考えた。

 

 

*3

 

* 街角でのインタビューを紹介します。

 

A 厳原のショッピングモール内で

二人の女性店員の感想です。

 

韓国人観光客は、日本茶やコーヒーをよく買ってくれた。

彼らにまったく嫌な感じを持ったことがない。

やはり彼らが来なくなったのは辛い、また来て欲しい。

 

店員さん達は、私が感じていて不安を吹き飛ばしてくれた。

 

 

B 厳原の観光情報館にて

対馬の観光事情に詳しい担当者と話した。

私は韓国人の来日客が無くなったことについて聞いた。

 

彼は問題がないと断言した。

なぜなら対馬を訪れる人の多くは日本国内からで、韓国人はその内の数割に過ぎないとのことでした。

私がネットで調べた訪問者数や、他の情報を勘案すると、やはり経済的影響は少なくないはずです。

 

私は、彼が韓国人観光客をことさら問題にすることに苛立っているように思えた。

 

 

C 厳原の街を散策中に

通りすがりの女性に道を聞いたついでに、韓国の旅行者で気になる事はありますかと質問した。

 

彼女は、すぐに答えることが出来ず、私が幾らか誘導するように聞くと。

彼らが道路脇に座って、食べている姿が気になると答えた。

 

日頃は韓国人旅行者を気にしていないようでした。

 

 

D 厳原のホテルのフロント係に聞いた

 

このホテルに、以前はかなりの韓国人観光客が宿泊したそうです。

特にマナーの点で気になることはなかったとのことです。

 

韓国人観光客に戻って来て欲しいようでした。

 

 

E 男性の観光ガイドから多くの事を学びました。

初老の彼は対馬の歴史と観光のガイドについては第一人者でしょう。

 

ここでは韓国人の観光について紹介します。

 

韓国人観光客は1泊か日帰りで、対馬での楽しみは海釣りと登山が多いそうです。

彼らの中には、たくさんの釣果を持ち帰り、釜山で販売する人もいるそうです。

彼の口から韓国人の悪口はまったく聞けなかった。

後で、分かるのですが彼は韓国人にまったく偏見を持っていない。

 

 

結局、5人に聞いた話を総合すると、韓国人観光客は対馬にとって迷惑どころか、賑わいをもたらす客でした。

 

 

*4

 

* 厳原や比田勝の街や港を見て

 

比田勝は釜山との間に幾つもの高速船が往来してる玄関口、厳原は観光の拠点です。

両方の街を見ましたが、韓国語の看板や、韓国人相手の店は少なかった。

報道のような、占拠され荒らされている雰囲気はない。

 

壱岐行きのフェリー乗り場に、釣り客に撒き餌を注意する掲示物がありました。

ことによるとこれに韓国人が関わっているかもしれませんが不明です。

 

 

* 私の目を開いてくれた情報

 

もう一台の観光バスの女性ガイドは韓国人名で、少したどたどしい日本語を喋っていた。

 

最後に、例の初老の観光ガイドが教えてくれたこと。

 

元々対馬には戦前から朝鮮半島の人々が多く住んでおり、まったく普通に近所付き合いをしていたそうです。

私は大戦時、朝鮮人への差別が起きた事を予想して質問したら、共に戦った仲間同志だから疑いの余地はなかったと、私をたしなめるように答えた。

(大戦時、沖縄戦で本土の軍人が沖縄人をスパイと疑った過去があった)

 

 

* まとめ

 

マスコミは不安を煽り、関心を呼んで視聴率を上げたいのか、右翼的な意図で韓国を悪しざまに罵りたいのか。

対馬にまったく問題が無い上に、さらに国内からの旅客を減らす事にもなり、踏んだり蹴ったりです。

偏向したマスコミ報道に腹が立ちます。

 

国境の島は、このような事でも災いを受けてしまう。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

20210204

没落を食い止める! 7: 現状を見る 1

  


*1

 

最初に先進国の現状を見ます。

まさに衰退しつつある文明と言えるかも。

今の日本は、例えれば先進国を押し流す濁流に、舵も櫂も無く沈むに任せている状況です。

 

 

* 世界の現状  

 

ある時期から、先進国のほとんどで経済成長が鈍化し、貧富の差が拡大し、巨大な金融危機がほぼ10年毎に繰り返すようになった

 

それに連れて米英日を筆頭に、社会の分裂が進み、右翼化し、煽情が得意なトップが歓迎され、間の協調体制に亀裂が入り、やがて抗争へと進む恐れが高まった

 

先進国が低迷する一方で、北欧4ヵ国、ベネルクス3ヵ国、スイス、カナダなどは幸福度や所得など多くのランキングで常に最上位を占めている

また多くの発展途上国は生活や衛生状態、治安等が向上し、人口増加落ち着きつつあ

中国の経済力と技術力が高まり、覇権国家間の均衡が崩れつつある。

 

要約すると、かつて繁栄した欧米先進国は、今や停滞し病んでいる。

その一方で、幾つかの先進国と多くの発展途上国は順調に発展を続けている。

 

 

* データーで確認します


 

< 2。主要国の格差の推移 >

 

1980年代から上位10%の富裕層の所得が米英日で急激に増えている。

 

ここで知って頂きたいことがある。

格差はけっして自然では無く、特に人類はここ1世紀の間、政治的に解決を図り、また敗れもしているのです。

例えば、フランスとスウェーデンは格差拡大を抑え込んでいる。

 

19世紀までは格差の大きい時代が続いたが20世前半、米独等は格差を縮小させた。

しかし二つの大戦で世界的に格差は拡大した。

だが大戦後、先進国政府は以前よりもまして格差を抑え、成長をも手に入れる偉業を成し遂げた。

 

しかしやがて逆襲が始まった。

 

 

< 3. 米国の年収推移 >

 

年収層別に年収の推移を見たグラフ。

年収が多い層ほど年収は急伸しているが、最低年収層では40年間上昇していない。

別の資料で、上位年収層を見ると、上位5%よりは1%、さらに0.1%になるほど増加は著しい。

 

2008年のリ―マンショックで、すべての層の年収が低下したが、1991年の落ち込み後も上位年収層ほど急回復しているように、現在も同じことが起きている。

 

 

 

< 4. 世界の経済成長率 >

 

このグラフはインフレ分を除いた一人当たりGDPを示しているので、もっとも実態を反映している。

 

主要先進国OECD37ヵ国の経済成長率が1970年頃から低下し続けている。

一方、中所得国や低所得国は経済を伸ばしている。

(CRB指数、商品先物の価格は世界の景気やインフレを反映する)

 

ポイントは、先進国は格差が拡大するにつれて経済が低迷していることです。

先進国は、1950と60年代、格差も少なく素晴らしい成長を遂げていたにも関わらず。

これは単なる偶然ではありません。

 

 

* わかったこと

 

私達日本人は、いつの間にか30年以上のデフレや景気低迷に慣れてしまって、幾ら日本政府が頑張っても良くならないと諦めている。

 

しかし、見てきたように1970~80年代に何かが先進国で起きた。

これが今の状況を招いていることは明白だ。

 

きっと脱出の糸口があるはずです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

20210201

国境の島、対馬を訪ねて 3: 厳原の街を歩く 2

  


*1

 

今回は、厳原の二つの城跡と御船江を紹介します。

安土桃山時代から江戸時代の対馬の姿が蘇ります。

 

 

 

< 2. 厳原の地図、上が北 >

 

上: 厳原の中心部

赤枠が御船江跡で、黄色枠が金石城跡と清水山城跡のエリアです。

 

下: 赤矢印が御船江跡

四つの突堤が見える。

赤線が徒歩ルートです。

 

 

 

< 3. 御船江跡 1 >

 

上と中央: 湾岸を通る道路上から海側と御船江側を望む。

上の写真の左奥に厳原の金石城跡がある。

中央写真の右が御船江、左は川。

 

下: 御船江の奥の方を見ている

右に少し突堤が見えるが、思ったより浅い。

 

 

 

< 4. 御船江跡 2 >

 

上: 突堤が見える

ここは対馬藩の御用船を係留した船溜まりです。

現在の遺構は寛文3年(1663)に造られました。

築堤の石積みは当時の原形を保ち、正門、倉庫、休息の建物跡が残っている。

満潮時には木造の大船が出入でき、干潮時には干上がるように出来ている。

現在これほど原形を遺している所は全国でも珍しい。

 

中央: 御船江から湾に出る水路

水路の幅は最小約7mで、上の写真の小舟がある突堤間の広さは奥行きが約30m、幅が約8mです。

これから言うと船は最大で長さ27m、幅5mぐらいだったかもしれない。

この大きさの船で江戸や朝鮮半島まで行ったのだろう。

 

 

下: 御船江から出た湾側

 

 

 

< 5. 当時を偲ばせるもの >

 

上: 他の藩で使われた御座船の模型

これと似た船が対馬藩で使われたことだろう。

 

下: 1800年頃の厳原の古地図

左下に御船江が見える。

中央の一文字の堤が見える所が中矢来で、漂民屋も見える。

朝鮮通信使は、ここに着岸して広い通り(馬場筋通り)を北上し、直ぐ左に折れて金石城に入った。

 

 

< 6. 金石城と清水山城 >

 

上: 黄線が山頂に沿って築かれた清水山城、赤枠が金山城(かねいし)です。

清水山城は三つの曲輪からなり、左から一の丸で始まる。

上部の黄矢印の方向、金山城から北に馬場筋通りを1.7km行った高台にかつて浅原城(さじきばら)があり、現在は自衛隊駐屯地になっている。

青矢印が宗氏菩提寺の万松院(ばんしょういん)、ピンク矢印が歴代藩主墓所です。

これら造営はすべて歴代宋氏による。

 

私達はピンク線に沿って右から左に進みました。

 

 

下: 金石城の古絵図、1804~1817年

赤矢印が櫓門、青矢印が「からめ手門」、茶色矢印が心字池のある金石城庭園です。

私達は黄色線に沿って右から左へと進みました。

 

 

 

< 7. 金石城の楼門 >

 

この門は1990年に再現されたものです。

 

上: 右の山頂に、わずかに石積みが見えているのが清水山城の一部です。

 

下: 左の道を真直ぐ進むと万松院に着く。

 

 

 

< 8. 万松院が見えた >

 

上: 奥に万松院の正門が見えた

川沿いに真っ赤な彼岸花が今を盛りとたくさん咲いていた。

 

下: からめ手門の石垣が見える

万松院の前の広場の右側にある。

 

 

 

 

< 9.からめ手門 >

 

上: 小川を渡る橋の上から万松院を望む。

この橋が金石城の南西の端になる。

 

下: 基礎になる石垣しか残っていない。

 

櫓門から「からめ手門」まで凡そ250mです。

10万石の対馬藩としては堅牢さを感じさせない平城です。

1665年、朝鮮通信使を迎える為に、戦国時代16世紀はじめに造営された金石屋形を城郭に改造した。

対馬藩は石高の割に、農地が少なく実際の石高が遥かに少なかったので、豪勢な城を造る事は出来なかっただろう。

宗氏は前述の浅原城を造り居館としていた。

 

 

 

 

 

< 10. 資料、すべて拝借した写真 >

 

上: 心字池のある金石城庭園

 

上から二つ目: 清水山城の「一の丸」

標高208mの峰に三つある曲輪の最も西のもの。

明や朝鮮の軍が、ここまで侵入することを想定していたのだろう。

 

上から三つ目: 18世紀の釜山浦草梁倭館図

対馬藩は朝鮮との交易を一手に引き受けており、朝鮮半島で三つの倭館を運営していた。

釜山の倭館は長崎出島の25倍以上の広さを有し、常時400~500人が滞在していた。

幕府は鎖国をしてはいたが、この交易は別だった。

 

下: 朝鮮通信使の船

全長三十数mはあったらしい。

 

 

* 宋氏、対馬藩と城について

 

宋氏は、代々朝鮮半島との交易と日本の中央政府との外交交渉を一手に引き受けて来た。

多くの朝鮮半島との紛争に巻き込まれ、また紛争の調停に重要な役割を果たしてきた。

この重要な役割があればこそ、関ヶ原で西軍に付きながらも宗氏は改易を逃れた。

 

対馬の宗氏の歴史は古く、渡来系の秦家の末裔で12世紀に遡る。

実は、宗氏は途中から平家の末裔と称し、厳原の西部に安徳天皇御霊墓地がある。

南北朝時代、一度、守護から外されたが、直ぐに再任され明治維新まで存続した。

 

前述の清水山城は、秀吉が朝鮮出兵に際し、中継拠点として宗氏に造営を命じたものだが、撤退後はすぐに廃城となった。

この時、第一軍出兵では小西軍の7000人に次いで対馬軍は5000人が駆り出された。

人口の少ない対馬では健康な男は、ほとんどいなくなっただろう。

(現在の人口は日本12000万、対馬3万で、1600年頃で日本2000万人とするなら、当時対馬は5000人となる)

戦争により主要な収入源である貿易が絶たれる一方、朝鮮語を話せる対馬の人が通訳として駆り出された。

 

対馬はこのような苦渋を幾度もなめることになった。

 

 

次回に続きます。