20200426

中国の外縁を一周して 32: 少数民族と歴史の町、麗江に到着






*1

これから数回にわたり、世界遺産の麗江を紹介します。
標高2400mの秘境に明清代の町並みが、疏水と共に今も息づいています。
かつて麗江古城のナシ族は、ここを通る茶葉古道で繁栄していた。
ここは本物の歴史の町と言えるでしょう。


 
< 2. 麗江の位置、上が北 >

上: 赤四角が麗江で、黒線が550km離れた成都からの航路です。
麗江が属する雲南省は東南アジア各国と国境を接し、西でチベット自治区とも接しています。

下: 麗江三義国際空港に着陸(借用写真)
成都から1時間半の飛行で空港に到着した10時半頃は晴れていたのですが、だんだん曇って来ました。


 
< 3. 麗江三義国際空港 >

上: 空港全景(借用写真)
手前が国内線ターミナル、奥が国際線用。

中央: 上の写真で黄矢印の方向から見ている(借用写真)
丽江三义机场国内航站楼の2階が見えている
私はエアチャイナで国内線ターミナルに到着。
ターミナルは2階建で、到着したら1階に降りる。
小さな空港なので分かり易い。

下: エアポートバス(借用写真)
私が乗ったのは机场巴士市区线(民航蓝天宾馆(福慧路方向)行き)。
上の写真でピンク矢印辺りが、ターミナルの1階を出た所にあるバス乗り場です。
ここから麗江の中心部まで約50分で着きます。
バスの発車は飛行機到着に合わせて発車します。
エアポートバスの切符売り場(小屋)はターミナルを出た所にあります。



 

< 4.麗江の俯瞰図、上が北 >

麗江は険しい山岳地帯の小さな盆地にあり、近くを長江が大きく蛇行しながら流れています。
お目当ては麗江古城と呼ばれる町並み保存区で、大きさは約1km四方です。

上: 赤矢印が今回のホテル、黒矢印が民航蓝天宾馆、赤丸が空港です。


ここで少し注意点があります。

エアポートバスが到着した民航蓝天宾馆(小さなバスターミナル)には、タクシーが数台停車していた。
ホテルまで500mぐらいしかないが、タクシーに依頼すると快諾してくれた。
ところがホテルは麗江古城内にあり、車が入れない為、手前で下ろされ、歩いて行くことになった。
これは仕方がないのですが、私のホテル、嵌雪楼客栈は小高い丘の上にあります。

そこに登る階段がきつく、とてもスーツケースを持って上がれない。
仕方なく、ホテルまで手ぶらで行き、フロントに荷物の運搬を頼んだ。
フロントは英語が喋れて、快諾してくれた。
やがて屈強な男が出て来て、二人分のスーツケースをホテルまで運んでくれた。

私は、事前にメールでホテルが高台にあるので、近くまでタクシーで行けるかと問い合わせしたら、「問題ない」との返事で安心していた。
何とか事なきを得たが、通じないものです。


下: 俯瞰した衛星写真(グーグルアース)
奥の白い山が標高5596mの玉龍雪山です。
赤矢印が麗江古陳で、赤丸が空港方面です。

全長6300kmの長江は麗江の左(西)20kmまで近づいた後、北上し玉龍雪山の後を回り、また南下し、東に流れて太平洋に注ぎます。
長江の源流はまだ2千kmほど先で、玉龍雪山の遥か左奥に始まる。
長江を麗江から遡って120kmほど先の、ちょうど玉龍雪山の裏の方向に、香格里拉(シャングリラ)のチベット仏教の巨大寺院、松赞林寺がある。
茶葉古道は雲南省南部の普洱茶の産地から麗江と香格里拉を通り、最終ラサに至ります。


 
< 5. 今回紹介する所、上が北 >

左: 赤丸1がホテルで、麗江古陳(古城)のほぼ北の端になる。
ピンク枠がおおよその麗江古陳の観光範囲。
赤枠が黑龙潭景区(玉泉公园)。
赤線が黑龙潭までの徒歩ルート。

右: 今回紹介する黑龙潭の散策ルート、赤線です。


 
< 6. 嵌雪楼客栈 >

上: 入口の一つ。

下: 入口の前から玉河广场を見下ろす。

麗江に数あるホテルの中から、ここを選んだのは、ここが高台にあり古陳を見渡せることが一番でした。
それに造りが納西族(ナシ)の重厚な館風で、場所が古陳の北端にあるので便利だと考えたからです。
スーツケースの持ち運び以外は、予想以上に良かった。


 
< 7. ホテルから黑龙潭に向かう >

左上: 階段上の右側がホテル。

右上: 階段下の細い通りから別のホテル入口を望む。
この通りの高台側にはホテル、谷側には売店が多い。

下: 同じ通りから玉河广场を見ている。
この通りの左側に小さな小屋があり、そこで麗江古陳保護費を支払う。
黑龙潭への入場は、麗江古陳保護費の領収書があれば良い。
保護区の麗江、束河、黑龙潭に入るには80、40元が必要ですが、私達は65歳と70歳以上なので、パスポートの提示で無料になります。


 
< 8. 玉河广场 >

広場は観光客、ツアー客で一杯だ。
日本人の団体観光客を見ることは無かったが、日本人観光客らしい一組の夫婦を見た。

下: 右上にホテル嵌雪楼客栈が見える。


 
< 9. 川に沿って黑龙潭に向かう >

上: 水は透き通り、川藻が揺れている。
この水は黑龙潭から流れている。

下: 川の右側は、古風な建物や売店が並んでいる。
川の左側は、モダンな店らしい建物の建設ラッシュでした。
私には興覚めですが。

 
< 10. 川沿いの散策 2 >


 
< 11. 入口が見えて来た >

黑龙潭は、18世紀、清のの乾隆帝によって玉泉龍王廟として作られたのが始まりです。


 
< 12. 得月楼 >

上: 湖の端に辿り着いたら、対岸に有名な得月楼が見えた。
右手前に五孔橋が見える。

実は、天気が良ければ、得月楼の左奥に雪を被った玉龍雪山が聳え立ち、この湖面に雄姿を映すはずでした。
この写真を一番撮りたかったのですが、残念無念!


 
< 13. 途中、出会った人々 >

上: 中国の女性三人組
今回、中国を観光していて北京と麗江の観光地で漢服を着ている若い女の子をよく見かけた。
今、流行のようです。
それで記念と思い、一緒に写真をお願いしたら、快諾してくれた。

下: 散歩しているナシ族のお婆さんと孫がいたので、写真をお願いした。
喜んで被写体になってくれた。
お婆さんの服が民族衣装です。

散策していると観光している東南アジアの若い男女グループを見たので不思議に思い、声をかけました。
彼らはベトナムから来たとのことでした。
なにせ雲南省はベトナムと国境を接していますので近い。
写真はありません。




 
*14.

 
< 15. 得月楼を反対側から見ている >

下: 奥が麗江古陳の方向です。


 
< 16. 公園内でゲーム楽しむ人々 >

下: ここから折り返し、湖の反対側を周ります。

ここで一度、后门を出て直ぐ前にある丽江东巴文化博物馆に行きます。

これは次回、紹介します。



20200422

福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる : 大江山の自然とロマン







*1

今回は、京都府福知山市の歴史と自然を訪ねました。
大江山にまつわる神代の伝説と平安歌人の想いを紹介します。
また大江山八合目から宮津街道の自然を紹介します。


 
< 2. 今回の訪問地、上が北 >

上: 太い線は宮津街道を示します。
私が訪れたのは赤枠の大江山周辺と矢印4の福知山の城下町です。
城は明智光秀が造りました。
訪問地は、いずれも宮津街道に接しています。
訪問したのは2020年4月15日です。

宮津街道は江戸時代、宮津藩が参勤交代で使った宮津と福知山を繋ぐ道でした。
古代より、大江山近くの峠を越える道は丹後方面を結ぶ主要な街道でした。
現在は両地点を舞鶴若狭自動車道と京都縦貫自動車道で結んでいます。

下: 上の地図の赤枠を拡大した地図。
太線が今回紹介するドライブルートです。

矢印1とG: 大江山山頂近くの鬼嶽稲荷神社。
矢印2: 日本の鬼の交流博物館。
矢印3: 元伊勢内宮と天岩戸神社。
S:  京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅。 
 
私は福知山から宮津街道をドライブし、鬼の交流博物館を見学の後、頂上に向かいました。
それから折り返し元伊勢内宮までドライブしました。
この時の写真がGからSまで順番に並んでいます。

途中の茶色の矢印は、分岐して北上する宮津街道です。


 
< 3. 百人一首と鬼伝説 >

上: 和泉式部の娘の小式部内侍の歌です。
私は当初、平安貴族がこんな山奥について歌う理由が分からなかった。
理由は、母の和泉式部が夫の赴任地の丹後で暮らしており、その寂しさを天の橋立に通じる宮津街道に思いを馳せて詠ったからでした。
生野は福知山よりも京都よりの地名です。

下: 源頼光による鬼退治、酒天童子伝説。
なぜ大江山は鬼退治で有名なのか?
それは鬼の交流博物館に入って分かりました。


 
< 4. 日本の鬼の交流博物館 >

上: 日本の鬼の交流博物館の外観
左の大きな鬼瓦のモニュメントが、駐車場がある入口側です。
この博物館は酒天童子の里にあり、周囲には多くの野外レクリエーション施設があります。

下: 内部

 
< 5. 鬼瓦と鬼の面 >

如何におおくの寺院の屋根に鬼瓦が使われていたがよく分かりました。
また日本全国の民俗芸能や神事、能で使われた鬼の面が展示されています。


 
< 6. 日本の鬼、世界の鬼 >
上: 岩手県の山村に今も伝承されている鬼の人形。
この男女のシンボルは、天明の飢饉以降、災いから村を守ってもらいたいと鬼に願を掛けて作っているものです。

下: 世界中の鬼の面。
写真には中国や韓国、南アジアの面が見えます。


* 大江山の鬼退治伝説 *

この初出は古事記の土蜘蛛退治で、次いで聖徳太子の弟による土熊討伐、最後に源頼光の酒天童子征伐があります。
実は、この「酒天童子の里」は銅鉱山の跡地に作られています。
この大江山一帯には古くから銅などの鉱物が産出していた。

そこで二つの説があります。
一つに、村人は鉱山から流れる鉱毒を恐れ、鉱山の職人集団を恐れた。
今一つに、朝廷が北辺の恭順しない部族を討伐し、さらには鉱山を奪う為に鬼退治と称した。

どちらにしても鉱山が重要な役割を果たしていたようです。


 
< 7. 鬼嶽稲荷神社 >

上: 展望台から望む東側
ここは標高832mの大江山の八合目にあり、東側に視界が広がっています。
秋の早朝の雲海が絶景だそうです。
写真中央に見える三角錐の山は日室ケ嶽(標高427m)だと思います。
実は、後に元伊勢内宮に行きますが、そこの日室ヶ嶽遥拝所から逆方向にこの山を見上げることになります。

下: 鬼嶽稲荷神社

この前で達者な老人と出会いました。
彼は私達を見ると、寄って来て話しかけて来ました。
「これから頂上に行くのは良いが、クマザサには入らないように」
私がなぜかと聞くと。
「熊が出るから」
納得してしまった、それで熊笹と書くのかなと(?)。

彼がカメラをぶら下げていたので聞くと。
彼はブナの花の撮影に行くと言って、一人で急峻な山道を登って行きました。
次の写真の山道です。
今が季節のようです。


 
< 8. これから元伊勢内宮を目指してドライブです >

上: 山頂に向かう道。
下: 麓から鬼嶽稲荷神社まで車で行ける道路。

 
 
< 9. 酒天童子の里までの道 >

桜の多くは終わりでしたが、まだ見頃のものもありました。

 
< 10. 酒天童子の里 >

ここには多くの施設がありますが、コロナの関係でほとんど閉まっていた。
私はトイレを探して日本の鬼の交流博物館に借用に行ったのですが、入館できますよと言われて入りました。
コロナ危機以降、出来るだけ入館せず、店にも寄らず、ハイキングとドライブだけにしようと心掛けていましたが。
入館して良かった。


 
< 11. 宮津街道と二瀬川渓流 >

上: 中央を左に延びる道が9号線で、左に行くと宮津に出ます。
私達はこの9号線を三叉路で右に曲がり、二瀬川渓流沿いに元伊勢に向かいます。
現在は舗装された幅の広い道ですが、当時の旧宮津街道は細い山道で、石畳の道などが山林を抜け、峠を越えながら現在の道と並行したり重なったりしており、今でも残っているようです。

下: 三叉路を曲がって9号線を福知山に向かって走る。
左は二瀬川渓流です。


 
< 12. 二瀬川渓流沿いを走る >

 
< 13. 京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅 >

上: ここも三叉路で、ここを奥に進むと毛原の棚田に行くと看板があります。
私はここを右に進みます。

下: 京都丹後鉄道宮福線の大江山口内宮駅。

元伊勢内宮は直ぐです。


次回に続きます。




20200421

世界が崩壊しない前に 21: コロナは我々日本の弱点を教えてくれた 6





*1


今回は、大きな視点からコロナ危機を見ます。
歴史的に見れば、この災厄は古い体質を打破する好機です。


 
*2

* ペストと宗教改革 *

人類は誕生以来、病の克服に悪戦苦闘して来た。
病は、人の負の心理に深く作用し、宗教やタブーなどの形成に大きく関わって来た。
そして最悪のペストが、逆に宗教に大打撃を与え社会に転機をもたらした。

ペスト菌による伝染病は14世紀から16世紀にかけて、幾度も猛威を振るい、ヨーロッパの多くの町を全滅させ、全人口の30%以上の命を奪った。

当時、人々はどう対応したのか?

当然、まだ病因が菌だとは知らなかった。
多くは怪しげな行為、毒蛇の肉、香草、便所の悪臭などで避けようとした。
信仰心の篤い人は、これを神の怒りと捉え、身体に鞭打つ行者集団も現れた。
またユダヤ人が毒を撒いたとのデマが流れ、多くが虐殺された。

有効な処置は、発症者の隔離、渡航者の約1ヵ月の隔離、村の通行遮断ぐらいでした。

こうして人々は悲惨な状況が好転しないのを見て、神と教会への信仰に疑いを持ち始めた。

一方、ヨーロッパでは幾つかの要因が引き金となって、聖書を客観的に見る風潮(人文主義)や医学(外科)の萌芽が起きていた。

こうした中、神学者ルターが1517年、ローマ教皇を正面切って批判した。

これが当時、体制に不満を抱いていた農民や諸侯に火を付けた。
農民は一揆を起こし、暴利を貪っていた修道院などを襲い、また諸侯は守旧派(カソリック)の領地を奪った。
こうして百年に及ぶ戦争がヨーロッパに拡大し宗教改革も拡大した。

その結果、キリスト教はプロテスタントとカソリックの二派に分かれた。

プロテスタントの聖書の原点に戻る姿勢は、1500年もの間に巨大で強固になっていた教会制度と信仰形態(ミサ)を拒否し、また皇帝の上に立つ教皇の存在も否定した。
これは人々の意識に大変革をもたらした。

宗教改革後、欧米の人々は、より自由な生き方を求め、さらに理想の政体を求めるようになった。、
これがフランス革命や共産主義思想の誕生などに繋がった。

人々は伝染病に敗れはしたが、何が真実で何が無意味かに気付き、さらなる進歩を手に入れたのです。


一方、日本はどうでしょうか?

実は、日本は大きな変革のチャンスを失ってしまった。
大戦突入と言う大きな失敗に対して真摯に反省しなかった。

問題の要点を例えで説明します。
ブラック企業は勤める人にとっては悪夢ですが、まだ辞める手もあるし、告発することも可能です。
しかし、国の軍事独裁を一端許すと、逃げる手も正す手もありません。

つまり問題は敗戦より、何が独裁化と戦争突入を招いたかを理解することが重要です。
これなくしてはまた悲劇が再来することになる。


私達が力を合わせてコロナ危機を乗り越えた暁には、より良い社会を目指して政治を変えて行きましょう。


次回から、また本来の課題に戻ります。



20200420

世界が崩壊しない前に 20: コロナは我々日本の弱点を教えてくれた 5







*1


今回は、皆さんがニュースを見て感じている日本の大いなる弱点を考えます。


 
 
< 2. 両者の食い違い >


* 政府と自治体首長の心構えと手腕の違い *

今回、政府と自治体首長のやり取りを見ていると、両者の危機意識の違いが目立ち、結局は首長の手腕が事の正否を決めそうです。
政府と東京都はオリンピック開催と経済に目を奪われ、初動から道を誤り、未だに迷走し続けている。
しかし、今や全国の自治体首長の勢いは政府を動かしつつある。

日本は主に税制が原因で、自治体が自ら財政をコントロール出来ず、中央政府(与党議員と官僚)に従属し、自主性と活力を失って来た。
しかし大阪、神奈川、北海道、和歌山、愛知などの首長を見ていると、光明がある。

逆に、一強を良いことに公私の失策を隠蔽・捏造・証言拒否で逃げ、さらにはマスコミとウヨの懐柔で批判を抑え続けて来た政府は、足元の国民の現状を見る気がないようです。
経済対策も、危機終息後の復興策(旅行クーポンや牛肉券)は早々と声高に唱えたが、今まさに迫っている倒産や失業を回避する補償には踏み切れなかった。

これは半世紀に及ぶ自民党政権が招いた政治の弛緩が大きいが、これに加えて、中央政府と地方自治の役割分担が機能していないことも大きい。


北欧では、軍事や外交は中央政府の管轄だが、国民に直結する社会福祉などは自治体が財源を持ち施策する。
日本の今の体制では、中央政府はしどろもどろで決断できず、各首長の施策にブレーキが架かるだけです。
どうしても今回露見したように中央政府は市民目線から外れたのものになる。

例えば、大阪都構想もしかりです。
自治体の二重行政を解消し、大きな都に格上げすることは、理に叶っているように見える。
しかし、国からの交付金支給などの制度を根本的に変えない限り、実はあまりメリットがないのです。

今は米国はロックダウンの解除と継続で対立しています。
トランプ大統領は経済と選挙が優先で、ニューヨーク知事は市民の命を優先し対立している。
従わない州に対して大統領は、ウヨ的な市民を煽り抗議デモで揺さぶりをかけている。
日米共にポピュリズム政権は対立を煽り、目的を達しようとしますが、これが間違いをもたらすことは既に見ました。

今回の教訓から、政府の強制力云々より、自治体と首長が大幅な権限を持てる体制へと転換すべきです。
それが先進国の趨勢であり、日本の再生に不可欠です。



次回に続きます。



20200419

中国の外縁を一周して 31: 麻婆豆腐、武侯祠、その他情報






*1

今回は、老舗中華料理店と武侯祠、夕食のレストランを紹介します。
また成都旅行と空港の情報も記します。
これで成都の紹介は終わります。


 
< 2. 陈麻婆酒楼(金沙店) >

ガイドの説明では元祖麻婆豆腐の店です。
落ち着いた格調ある内装で、ゆったり食事が出来ました。


 
*3


 
< 4. 料理の数々 >

左上が麻婆豆腐です。
辛さはそれほどなくて、山椒が効いて深みのある味でした。
今回の中国旅行で、もっとも中華料理らしいものでした。
フリーでレストランに入り、はらはらドキドキしながら料理を注文し、新しい味を発見した時の喜びも良いが、ガイドの薦めで代表的な料理を食べるのも良いものです。


 
< 5.武侯祠 >

上: 武侯祠の地図。
三国志で有名な諸葛孔明の廟です。
3世紀に孔明が仕えた蜀王の劉備の廟が創建され、後に孔明の廟と一緒にされた。
清代に再建された建物が並んでいる。

この見学時、最も雨が酷くなり、詳しく見ることも写真撮影も出来ませんでした。
感じたのは、諸葛孔明の方が劉備玄徳より圧倒的に人気があり、中心的な配置になっていました。


 
< 6. 孔明を中心に蜀で活躍した人物の像 >


 
*7

 
< 8. 錦里古街 >

上: 武侯祠の中。

下二枚: 錦里古街。
武侯祠のすぐ隣にある、明や清時代の建物が再現された飲食店や土産物店の通りです。
この日は寒く、雨に濡れたせいもあり体調を崩してしまったので、ここは素通りした。


 
< 9.鲍师傅糕点(春熙路店) >

土産と夕食の為に、ガイドに頼んで一番の繁華街、春熙路に連れて行ってもらった。
この店は人気だそうで、日本への土産に買いました。
小さな店内で10種類ほどのお菓子を大量に作って販売していました。
饅頭、パイ、シュークリームのようなもので、新しい味で美味しかった。

一番驚いたのは、雨の中、多くの客が列をなして並び、次から次へと売れて行くのですが、客は無くなりません。
またその間にも、頻繁に様々なバイク便のドライバーが注文品を大量に引き取って行きます。
彼らは店員にスマホを見せ、素早く受取ります。
ここでも中国の新しい業態(バイク便による宅配業)の浸透を見た。


 
< 10. 春熙路の百貨店内のレストラン >

地下鉄駅春熙路の近くには多くの百貨店や大型スーパーがひしめき合っています。
中に、イトーヨーカ堂と伊勢丹もあります。
私達は、この中に入って土産を買い夕食をとりました。


 
< 11. モンゴル料理店 >

なぜかこの百貨店のレストランフロアはすべてが新装開店でした。
珍しいのでモンゴル料理を選びました。

上の写真: 店の前に置かれていた骨付き肉の塊が鍋の蒸気で蒸されており、食欲をそそります。
妻が注文しようとしたら、大きいままで小分けが出来無いと言うことで、諦めました。
結局、普通の中華料理を注文しました。

この後、地下鉄を乗り継いで、空港からタクシーでホテルに帰りました。
次の日は、8:50の飛行機で麗江に飛びます。



* タクシーの利用について *

 
< 12. 金沙遗址博物馆前から >

成都観光では、8時間の日本語ガイドを雇い、蘭州と違って車をチャーターしませんでした。
移動は地下鉄とタクシーを使い、効率よく回れると想定していたのですが、上手くいかなかった。
てっきりガイドは滴滴出行などのライドシェア(配車サービス)を使うと思っていたのですが、まったく使わなかった。
写真のように通りに出て、タクシーを拾うのですが、タクシーが通らなかったり、先に別の客に取られたりと散々でした。

ここで面白いことがありました。
ガイド曰く、最初、タクシーを待った場所には監視カメラがあるので、タクシーは寄って来ないと言い、次へと歩いて移動することになった。

ガイドがライドシェアを使わない理由は分からないが、1日で成都を観光する場合は、車もチャーターする方が良いでしょう。


 
< 13.空港とホテル間の移動について >

上: 成都双流国际机场(赤矢印)と成都空港商务酒店(黒矢印)の地図。
赤矢印は第2ターミナルで私が蘭州(中国東方航空)からと麗江(エアチャイナ)への両方で使いました。
ターミナルは3階建てです。
成都空港商务酒店が宿泊したホテルで便利で問題もなく、高くないので良かった。

中央: ストリートビュー。
上記地図の赤星印、高架道路上から成都双流国际机场(赤矢印)と成都空港商务酒店(黒矢印)を見ている。

下: タクシー乗り場の雰囲気(借用写真)。

蘭州から空港に到着したのは23:00でした。
当初、深夜の到着でタクシーが拾えるかと心配したのですが、無事に乗ることが出来ました。
しかし、嫌な経験をすることになった。

深夜であっても、非常に多くのタクシーが待機しており、配車係の指示でスムーズに乗れます。
タクシー乗り場は第二ターミナル1階を出た所にあるので分かり易いです。
タクシーに乗って行先を伝えるのですが、運転手は困惑し、分からないと繰り返します。
しかたなく、私がスマホを見ながら道案内することになりました。

翌日、成都観光を終えて、空港第2ターミナルの地下鉄駅を降りて、また同じ所からタクシーに乗ったのですが、また運転手がけたたましく抗議する。
無事ホテルには着いたのですが、どうやらホテルまで歩いて行けと言っているらしい。

結局、さらに翌日早朝の出発はホテルから空港まで1km弱を歩きました。
中国で乗車拒否には遭わなかったが、うるさいのにはうんざりした。


* 成都観光の感想 *

丸1日で成都の中心部を観光するのは無理でした。
四川博物院や青羊宮に行くことが出来なかった。
事前の打ち合わせで無理とはわかっていたのですが、残念でした。

もう一つ残念だったのは、劉備玄徳が蜀の国に拠点を置いた理由を実感出来なかったことです。
蜀の国が肥沃な広大な盆地で、かつ険しい山岳に囲まれていることを自分の目で確認したかった。
私は成都の出入りを両方とも飛行機にしたのですが、どちらか一方を列車にしておくと自然の景観が分かった。

もっとも蘭州ー成都ー麗江を鉄道で行くのはかなり遠回りで、それぞれ10時間以上かかり、夜行になるので採用できなかったのですが。
さらに麗江行きの飛行機便が予約後、航空会社より午後発が朝発に変更されたことで成都滞在が短くなったのも痛かった。


次回に続きます。



20200418

桜舞い散る城下町、龍野を散策 3


  *1

今回は、龍野城から古い町並み、お寺を見て、
駐車場に戻るまでを紹介します。
今回で龍野の紹介は終わります。


 
< 2. 龍野城の門 >

上: 城の西側の門。

下: 門の前から西側の山を望む。
山の中腹に野見宿禰神社の鳥居が見える。

 
< 3. 本丸御殿 >

龍野城は戦国時代に赤松氏が鶏籠山頂に築城したのが始まりでした。
鶏籠山は写真の御殿の裏山です。
江戸時代に脇坂氏が、この御殿のある地に政庁を建てた。
当時の物で残っているのは石垣のみで、隅櫓や埋門、御殿は再建されたものです。

*4.


< 5. 御殿を見学 1 >






 
< 6. 御殿を見学 2 >



 
< 7. 埋門 1 >

下: 埋門
この門へ下りず、真直ぐ進むと龍野歴史文化資料館があります。
この館は開館していたのですが、コロナを心配して入りませんでした。

 
< 8. 埋門 2 >

上: 埋門を抜けてから振り返った。

下: 埋門から町の方を望む。
この坂を下って左に曲がる角に三木露風の生家があります。


 
< 9. 三木露風の生家 >

上: 三木露風が6歳まで暮らした家です。
中に入りましたが、庭のある小さな家でした。

下: 醤油工場


< 10. 醤油の郷 大正ロマン館 >

上: 十字路の角にある大正ロマン館。
ここは元醤油会社の研究所跡を展示館やショップにしている。
前述の醤油工場の向かいにある。

下: 如来寺
寺の右側の道を歩いて来ました。
横を流れる疏水に、散った桜の花びらが流れて綺麗でした。


 
< 11. 白壁の通りを行く >

上: この白壁に囲まれた道の奥に如来寺が見える。

下: 龍野御坊 圓光寺。
右側の石碑に「宮本武蔵 修練の地」とありました。
宮本武蔵は一時期、ここの道場で圓明流の師範をしていた。
宮本武蔵は、ここを通る因幡街道を下ったところで生まれている。


 
< 12. 圓光寺 >


 
< 13. 揖保川に戻って来ました >

駐車場を11:00に出て、14:00に戻ってきました。
今回の町歩きは、桜が満開で、天気も良く、素晴らしかった。
歴史的に興味深いものに出会え、楽しみました。

これで終わります。


20200417

世界が崩壊しない前に 19: コロナは我々日本の弱点を教えてくれた 4




*1

今回は、コロナ危機で感じた悲哀について記します。


 
*2


* クラスター班の活躍と苦悩 *

先日、NHKのドキュメンタリーで、日本の新型コロナウイルスのクラスター対策班の奮闘を見ました。

2ヵ月が経ち、これからも続く疲労困憊の中での東北大学押谷教授と北大西浦教授らの熱意と誠意には感動を覚え、感謝してもし切れない。

西浦氏は感染の第一波をクラスター分析と隔離で抑えたが、第二波を防止出来なかったと言い、言外に我々は絶望の淵に立っていることを示唆していた。
確かに、3月中旬までの少ない感染者数と3密を避ける提案は、この班の業績かもしれない。
一方で彼らは、人形浄瑠璃の黒衣(くろご)のようで目立たず、今は非難もされている。


何点か残念に思ったことがある。

彼は、第二波は空港での検閲と隔離が上手くいっていないからだと言葉すくなく指摘していた。
また人員不足で寝る暇も無いクラスター班への増員が無く、政府の無理解に一言嘆いていた。

さらに不思議なのはドキュメンタリーで、NHKが上部機関(新型コロナ対策本部、厚生省、政府)との連携や対応をほとんど描いていなかったことです。

常識で考えて、感染対策の執行機関の協力なしでは彼ら対策班の苦労は報われず、それこそ孤軍奮闘で終わってしまう。
むしろ私には彼らは人身御供として晒されているように思えた。
それでも彼らは実に謙虚で他者をまったく非難しない。


もう一つは、西浦氏はまだCR検査の制限に拘っていることです。

明らかに状況が変わっているのに手法を変えない事には無理がある。
この件の説明では、急に歯切れが悪くなった。

本来なら、第二波の状況悪化に備えて、政府がPCR検査の拡大や空港の検疫体制の強化を行うべきで、西浦氏がその評価を語ってこそ対策班と言える。
ここでも、何か他者への遠慮が働いているように感じた。

結局、コロナ危機に対して、重要な役割(感染対策の立案)を果たすべき班が、協力も支援もなく孤軍奮闘していることが露呈した。

まさに80年前の日本の再現です。
戦況全体を俯瞰し指揮する最高責任者がおらず、各指揮所(天皇、政府、海軍、陸軍、現地派遣軍)がバラバラに行動し、長期視点が無く、遂には補給が途絶え、玉砕で有終の美を飾ることが国民に求められた。


次回に続きます。