20151125

社会と情報 65: 戦った報道 22



< 1. 憂国の志でありファシズムを牽引した人々 >

今回は、軍部や右翼がなぜ大陸侵攻(満州)を目指したかを見ます。
この地は経済的にも重要だったのですが、それ以上に軍事的な狙いがありました。
この事を当時の軍部と右翼の思想などから探ります。

何がくすぶっていたのか
1931年に満州事変が起こり、国内で1932年の血盟団事件と五・一五事件が発生した。
前者は中堅の将校が国防と自給圏確立を目指した国防方針の刷新だった。
後者2件は国内の窮状を憂い、右翼と急進派青年将校が共同して政府要人を暗殺し、政治の刷新をもくろんだ
1936年の二・二六事件で軍部独裁に拍車がかかり、1937年の日中戦争へと進み、戦争に歯止めがかからなくなった。
これを契機に日本はファシズム一色となって世界大戦へと突き進んだ。



< 2. 北一輝 >

この国内事件の理論的支柱となった北一輝の「日本改造法案大綱」(1919年)は何を目指していたのか。
彼は3年間の憲法停止、戒厳令施行、軍人中心の改造内閣を目指し、政策としては特権的官僚閥・軍閥の追放、労働者の企業経営参加、限度以上の私有財産の国有化などをうたった。
さらに植民地朝鮮や台湾の分離を認めず、「持たざる国」日本は「持てる国」大国に対して戦争によって日本の領土とすることを当然の権利とした。
彼は武力使用について共産主義革命に倣って正当化したが、実施には天皇の大権に頼った。

このファシズムの経典は、社会主義と資本主義、帝国主義の折衷案に見える。



< 3. 「世界最終戦論」を著した石原莞爾 >

一方のファシズムの旗頭、関東軍参謀として満州事変を牽引した石原莞爾は何を目指していたのか。
これを1928年「我が国防方針」、1929年「関東軍満蒙領有計画」から見る。
世界は最終戦争に向かい対米戦争で決着する、その為には満蒙から始め全中国を領有し、この資源をもってすれば20年、30年は戦争を続けられる。
またソ連の脅威を食い止めるべく防衛ラインを北上させる必要がある(海軍とは異なる)。

この方策は当時の陸軍の中堅エリートがほぼ共有するものだった。
すでに1920年代より日本の国防方針は最大の仮想敵国をそれまでのソ連から米国に替え、弱体化している中国を手始めにアジア全土を掌中に収めてこそ勝機があると考えていた。
この時点では軍上層部と文民の指導者は米国との戦争を望んでおらず、米国は強硬な態度に出ないと踏んでいた。
この軍事戦略の一環としての満蒙侵略で、国民の窮状打開は二の次であり、宣伝文句だった。

ここに当時の情勢判断の甘さが出ているのだが、火付け役の軍事の天才と言われた石原は、後に中国侵攻や対米戦争に強く反対することになり、一時左遷されることになった。
如何にも情報収集や戦略が稚拙だったように思えるが、その真相はもっと根深く、実につまらないものだった。

次回、政府や軍部の首脳が当初から抱いていた大陸領有と中国の状況を検討します。


参考文献
「日本を滅ぼした国防方針」黒野耐著、文芸春秋刊、p23、26.
「中国文明史」エーバーハルト著、筑摩書房刊、p319~333。
「近代国際経済要覧」宮崎編、東京大学出版会刊、p116.
「集英社版日本の歴史19」
「集英社版日本の歴史20」p19~59。
「図説日中戦争」河出書房新社刊。
「アジア太平洋経済圏史1500―2000」川勝平太編、藤原書店刊、p145~164。
「Wikipedia」<石原莞爾><日本改造法案大綱>
「世界大百科事典」<石原莞爾><日本改造法案大綱>



20151124

The total number of visitors exceeded 250,000 people. Thank you very much.


25万人突破に感謝します。ありがとうございます。


 


< 1.  "aquacompass" of eo 
< 1. 「アクアコンパス」eo 

Today is a very glad day for me.
It is because the total number of visitors of my blogs exceeded 250,000 people, and the number of the accesses is approximately 470,000.

今日は私にとって大変嬉しい日になりました。
私のブログへの訪問者累計が25万人(アクセス数約47万)を突破したからです。



< 2.「アクアコンパス3」goo、「アクアコンパス2」seesaa、「学のブログ」Ameba

From the first to the present time

First, I began to contribute to my blog "aquacompass" on April 2012.
Thereafter, I contributed the articles from 2 to 4 times in a week without almost taking a rest.
The total number of the articles became approximately 610.
At present, I establish 7 blogs for Japan and 2 blogs for foreign countries.
I attach the English translation for foreign countries as much as possible.
 
初めから現在まで
最初に、ブログ「アクアコンパス」に投稿を始めたのは2012年4月でした。
それ以降、ほぼ休まず1週間に2から4回の記事を投稿して来ました。
投稿数の総計は610件ほどになりました。
現在、国内向けに7ブログ、海外向けに2ブログを開設しています。
海外向けには、出来る限り英語訳も添付しています。





< 3.「アクアコンパス5」YAHOO、「アクアコンパス4」livedoor、「アクアコンパス8」FC2 >

About my blog
The half of my articles was about history and history of humanity, and I introduced my travel sketches of foreign countries and Japan with my photo.
In addition, I wrote fable and criticism, and introduced Kobe, Awaji-island, book, and movie.
My main theme was war, politics, economy, religion, psychology, history of art, and history of medicine.
I'm intentionally providing plain and short article for the blog.

I'm hoping to contribute to " peace of the world" and " prevention of social deterioration ".
Therefore, I send the information, and hope to talk it with people of the world.



私のブログについて
記事の多くは歴史や人類史について、または写真を使って国内や海外の旅行を紹介しています。
また寓話や辛口の批判、神戸や淡路島、本や映画を紹介します。
私が取り上げて来た主なテーマは戦争、政治・経済、宗教、心理、美術史、医術史でした。
私は手短にわかり易いことを心がけています。

私は「世界の平和」と「社会の悪化防止」に貢献することを願っています。
その為に、私は情報を発信し、世界中の人々と対話をしていくことを願っています。




< 4.” aquacompass 7 ” of WordPress” aquacompass 8 ” of Blogger

Doing blog was good thing

There were a few persons who wrote dissenting views for my article, I was very stimulated much by it, and render thanks for it.
In particular, there were much of unexpected indications from foreign countries.

In “Go around the world of Buddha statues 7”, when I introduced Asyra’s statue, I received an objection indications from a Hindu man in India.

In “Go around the world of Buddha statues 6”, when I introduced the fearful face of Buddha statue, a teacher in Africa threw doubt on it.

In “the society and the information: News media has fought“, when I introduced the process of the outbreak of war between Japan and the United States, and the Meiji Restoration, I received unexpected indications from Americans.

In “History of sickness and medical art 14”, when I introduced Set expressed with a pig, I received an objection indications from a man in Egypt.

Because these opinions from foreign countries are English language, I tired, but learned much.

I'll be counting on you.


やっていて良かったこと
私の記事に反対意見を頂戴することがあり、大変刺激になり感謝しています。
特に海外からは予想外の指摘を受けることがあります。

「仏像を巡って 7」で阿修羅像を取り上げた時、インドのヒンドゥー教徒から異論が出ました。

「仏像を巡って 6」で憤怒相を紹介した時、アフリカの教師からなぜ神聖な宗教に怒りの顔を表現するのかと疑問視されました。

「社会と情報 *: 戦った報道 *」で日米開戦の経緯と明治維新を紹介した時、思わぬ指摘を米国の数人の方から受けました。

「病と医術の歴史 14」でセト神が豚の頭で表現されることを紹介した時、エジプトの人から異論が出されました。

海外から頂戴する意見は英語なので疲れるのですが、非常に勉強になります。


今後もがんばりますので、よろしくお願いします。




20151123

社会と情報 64: 戦った報道 21



< 1. 天津の居留地、右のドームは日本企業の建物 >

今回は、満州に侵攻しなければならなかった経済的な理由を探ります。
主に満州と中国を中心に見ます。



< 2. 旧満州国 >

はじめに
「戦った報道 20」で見たように、満州事変勃発を受けた民間の主張は概ね「中国での排日行為と干渉を抑えて、移民促進と資源開発を行うこと」でした。
前者は既に中国に居留し商売や産業に従事している人々の安全と経済活動を守ってくれというものです。
後者は、国内の窮状を救う為の貧農と失業者の救済策であり、経済発展と軍需産業に必要な輸出入の促進を意味しています。

当然、政府(軍部)や国民が予想していなかった効果や失敗もあった。



< 3. 日本人の海外移住の推移。(株)ギアリンクスより >

移民と居留民 文献1.
日本人の移民(永住者)は1868年のハワイを皮切りに北米・南米へと増えていった。
さらに二つの戦争で獲得した植民地(朝鮮、台湾、南樺太、南洋諸島)へと移住者が増え、1910年30万人、1930年頃には移民総勢100万人に膨れ上がっていた。
ちなみに在朝日本人は1900年末で1万6千人から日露戦争後の1905年に4万2千人に膨れ上がっていた(移民、居留者)。
敗戦による日本への総海外引揚者数は軍人を除いて320万人に上った。
明治時代から多くの人が海外に移住し、植民地や租借地に居留し、あらゆる仕事に従事していた。



< 4. 拓務省による満州移民の募集 >

満州農業移民は満州事変の翌年に始まり、関東軍主導で敗戦までに約25万人が送り出され、多くは国内の小作貧農や子弟で、原野で農業に従事した。
1938年以降、満蒙開拓青少年義勇軍9万人(15~18才)がさらに送り込まれた。
彼ら移民の敗戦に伴う死亡者は8万人に上った。

これには理由がある。
軍は最初から「屯田兵制移民案要綱」を作成し、移民の5割はソ満国境の最前線、4割は抗日武装部隊が荒れ狂う地に送り込んだ。
つまり軍は、必要とあれば武器を持って盾となり、日常は農業者である屯田兵を目論んでいた。
さらに「満州移民500万人移住計画」を打ち挙げて、これにより満州人口の1割を日本人で占めることを目指した。
強壮な青年を集めて送り込めば満州は安泰になるかもしれないが、国内の農民と兵員が不足するのは明らかだった。
さらに悪いことに、日本移民用の土地は収奪に近く、また多くは地主となって中国人を使役したので現地人の憎しみは増すばかりだった。
こうしてソ連が侵攻してくると悲劇が起こった。

中国への居留民(一時滞在者)は1873年の上海から始まり、日露戦争、第一次世界大戦を経て、奉天などの中国東北部と青島などの都市に居留地が出来ていった。
1913年の中国の居留民総数は約4万人で、その内訳は物品販売業、鉄道などの運輸、工員の順に多く、これで50%を占めた。
つまり一攫千金をねらった中小商人の進出が居留民の代表的な姿だった。


資本進出                  文献2.
植民地の民族資本の割合を見る。
1929年、台湾の工場数で90%、職工数で62%、1928年、朝鮮の工場数で52%、従業者数で29%であった。
つまり残りは概ね日本資本で大企業ほど所有されていることになる。
満州では1932年、工場数の80%が民族資本であった。
しかし中国本土の紡績工場を国別の資本割合で見ると、1925年で中国56%、日本38%、英国6%で、1905年では日本は4%に過ぎなかったのが急速に伸びている。

何が言えるのか
日本が既に如何に経済的、人的に植民地と結びついていたかが分かります。
こうして農民も商工業者も大企業も、日本軍による満州と中国の支配を歓迎したのです。
また満州移民は軍事が優先であり農民の救済は二の次だった。



< 5.殖民地貿易と経済成長http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/06-0j_hori_j.pdf > 
解説: 図―3より、満州事変後(赤枠)、満州は日本からの輸入が40%から85%へと著しく増大している。
図―4より、日本の植民地への輸出が他国への輸出を圧倒するようになって行く。
2-bより、日本と植民地が共に経済成長を遂げている。
(ただし植民地の利益の大半は日本資本が握り、民族による経済格差が酷かったと考えられる)


それでは満州を手に入れたことで日本経済にメリットがあったのか? 文献3.
答えは、満洲を含めて植民地がなければ日本は立ち行かなかった。
そのメカニズムは複雑ですが、要点だけを記します。

A: 1920年代までの貿易体制が崩れ、日本は殖民地内の貿易に依存しなければならなかった。
米国への生糸輸出が世界恐慌と米国の人絹工業の発達によって決定的に縮小し、それまでの輸出超過から逆に輸入超過となった。
これにより外貨が入らずインドや欧州から原料や機械の購入が出来なくなった。
また金融政策変更(高橋蔵相)による円安で輸出が伸びたのだが、ブロック化していた世界各国と軋轢を生んだ。
また育ちつつあった日本の重化学工業も欧米の第一次世界大戦後の立ち直りによって競争力を失っていた。
当然、欧州からの設備購入は円安で手が届かなくなっただろう。
こうして日本の製品と資本の輸出は円ブロック(外貨不要、恣意的な関税で有利)の満洲・朝鮮・台湾に集中していった。



< 6. 朝鮮の日本窒素の肥料工場と満州の撫順炭鉱 >

B: 現地での搾取による高収益
例えば、朝鮮で水力発電を利用した日本の窒素肥料会社が巨額の利益を上げた。
これは土地を奪い安い労賃で朝鮮人をこき使うことで可能になった。
実は、日本では労働運動が盛んになったことで、日本企業は規制の無い朝鮮に行ったのです。
一度は朝鮮にも規制を設けた日本だったが、外して日本企業に便宜を図った。

同様なことは満洲の日本鉱山でも起こった。
中国人の日当は朝鮮半島よりもさらに安く日本人賃金の1~2割で、粗末な食事でこき使われ、1日に40~50人が死んで埋められた。
撫順炭鉱だけでその数は30ヶ所に上った。

結局、植民地への巨額投資は軍事上か、さもなければ日本経済や企業の為であったと言える。





< 7. 軍需産業の躍進、http://www.meijigakuin.ac.jp/~hwakui/newkokusai.html >
解説: 破線が日本、赤枠が満州事変の翌年を示す。日本は満州を手に入れたことで、軍需産業を急速に発展させることが出来たようです。

まとめ
結論として以下のことが言える。

多くの人は、満州を支配することで経済的な恩恵があると漠然と思ったことだろう。
ほとんどの満州移民は満州の実態も農業も知らなかった。
それよりも中国と満州に関わる事業家や商工業者、海外居住者にとっては、現地の安泰は絶対であった。

しかし、それ以上に国防を先取りする人々が、国際関係の空隙を突いて、今しかないと戦端を開き、国策の変更を迫った。
こうして軍の移民政策と民間の期待した移民とは異なったものになった。
一方、満州や中国、東南アジアの支配は貿易悪化から好転へと導き、さらに軍需産業発展をもたらした。

その後の展開
しかしその好転は思わぬ不幸の始まりだった。
やがて、当初軍部が恐れていながらも楽観視していた事が立て続けに現実となり、太平洋戦争へと突き進んだ。
それは自らの侵攻ですべての仮想敵国を敵に回し、予想しうる最大の巨大兵力と戦うことになったからでした。

後追いで歴史を見ると軍部は実に都合の良い想定を繰り返し戦争に突入している。
初めに「最大の敵は攻めてこない」として満州に侵攻し、さらに「敵一国と短期決戦で決着する」とし太平洋戦争に突入したことに驚かされる。
まるで原発の想定外「大きい津波は起こらない」と同じ思考でした。

次回は、この軍部の驚くべき思考(戦略)の背景を追います。


文献1: 「岩波口座 近代日本と植民地 3」「岩波口座 近代日本と植民地 5」岩波書店刊。
文献2: 「日本経済史」石井寛治著、p278.「岩波口座 近代日本と植民地 3」p45.
文献3: 「集英社日本の歴史 20」p42~。






20151122

I visited colored leaves of Nara prefecture 1


奈良の紅葉を訪ねて 1



 
*1

I went to see colored leaves of Nara on November 19.
Today, I introduce the colored leaves of Shoryakuji temple in Nara prefecture.

この11月19日に奈良県の紅葉を見に行きました。
今日は奈良市菩提山町の正暦寺の紅葉を紹介します。


< 2.  Main hall and bell house >
< 2. 本堂と鐘堂 >

It was cloudy unfortunately.
The colored leaves in here seem to be at their best around this time yearly, but it in this year was not very good because it was warm.
However, I enjoyed red and yellow autumnal scenery.
I used a sightseeing tour.

この日はあいにくの曇りで、今にも雨が降って来そうでした。
寺のある谷間の紅葉は例年今頃が盛りなのですが、暖かいせいか良くないそうです。
今回は、四国発の日帰り観光ツアーに便乗しました。
1年1度の紅葉見物では当たり外れがあり、少し残念でした。
それでも赤や黄色の秋色を楽しみました。




< 3.  Bell house >
< 3. 鐘堂 >



< 4.  Memorial towers >
< 4. 供養塔 >

There are these memorial towers below the open space of the main hall.
It seems to be the priest’s grave of this temple.

この供養塔は本堂の広場を降りた所にあります。
この寺の僧侶の墓だそうです。




< 5. An approach >
< 5. 参道 >





< 6,7,8.  Views from the gardens of a reception of the temple >
< 6、7、8. 福寿院客殿の庭先から >



< 9.  Colored leaves and a small stream >
< 9. 紅葉とせせらぎ >



< 10.  Colored leaves of Ginkgo
< 10. 銀杏と紅葉 >

Next time, I introduce Chogakuji temple.

次回は、長岳寺を紹介します。








20151121

社会と情報 63: 戦った報道 20




< 1.青島の居留地 >

記事の投稿順序を間違いましたので、差し替えします。

前回、国内の窮状を見ました。
しかし、なぜ国内問題の解決が満州侵攻だったのかが明確ではありません。
今回、その背景を経済的側面から見ます。

はじめに
私は、これから大陸侵攻の経済的側面、特に植民地化と産業貿易について見ていきます。

ところで、あなたは台湾人が日本の植民地統治をどのように見ていると思いますか?
参考に台湾大学の歴史学科教授のコメントを記します。文献1.

「台湾は、日本の統治下で、近代化と植民地化の二重の歴史過程を経験した。一般的に植民地化は完全にマイナスの経験とされ、近代化と言えば、プラスの評価が強調されることが多い。しかし、・・これは二重奏のようなもので、・・この両者の関係をなおざりにするならば、台湾人が日本統治に対して抱いている心情の複雑さを理解することは出来ないだろう」



< 2. 関東軍参謀の石原莞爾 >

満州事変前後の代表的な発言
最初に、当時の人々は1931年の満州事変をどのように捉えていたのかを見ます。
六つの意見を要約しました。

A: 1929年、満州事変の首謀者石原莞爾の「満蒙問題解決案」より 文献2.
「満蒙の合理的開発により、日本の景気は自然に回復し有識失業者を救済することが出来る」

B: 1931年10月、大企業を中心とした財界4団体の申し合わせより 文献2.
「協同一致排日行為の絶滅、対支懸念および満州問題の根本的解決を期す」
この年の9月の満州事変を受けての反応です。



< 3. 1935、36年、上海の抗日運動を報じる新聞 >

C: 1931年11月、山形県のある軍人後援会の設立趣意書より 文献2.
「今やわが国は空前の難局に際し、満蒙はおろか全支にわたり武器を採って先陣を進めつつあり、・・本村から出征している軍人は6名の多数に上っているのであります。この我等村民は挙村一致してこれら軍人を後援し・・・億兆一心義勇奉公の誠を表したいと思います」

D: 1932年8月、日本中小商工会連盟の決議より 文献2.
「中小商工業者の満州移民進出のために政府は急遽積極的方策を確立すべし」


E: 1932年6月の第62帝国議会への誓願活動の要約、自治農民協議会による 文献2.
「農家の負債を3カ年据え置くこと。肥料資金として反当たり一円の補助を出すこと。満蒙移住費として5千万円の補助をだすこと。」

F: 1937年元旦、貴族院議長近衛文麿(後に首相)の発言記事より 文献3.
「天賦の資源を放置して顧みないというのは、天に対する冒涜ともいい得るが、日本は友人として開発をなさんとするものである」
この年の7月に日中戦争の戦端を開くことになるが、上記は中国のことを指す。



< 4. 満州開拓の夢と現実 >

説明
農家や中小企業、大企業、政府を代表し国論を牽引した人々は満州事変を契機にして、移民の増大、現地の排日行為根絶、中国からの干渉阻止、中国の資源開発を訴えた。
そして多くの人が横暴で未熟な現地を軍事で制圧することに賛成した。

軍部や政府は大陸の情報を捏造し続けていたので、国民はそうだと思うようになっていた。注釈1.
この態度はFのように近衛の発言にも現れている。
一方、末端の人々はCのように政府や軍に対して従順であった。
実は、Cは在郷軍人会、Dは左翼、Eは右翼が関わっていた。
こうして左翼も右翼もこぞって戦争に足を突っ込んだ。
まだ満州事変の段階では、日本政府は戦線不拡大の方針のはずだったが、既にCの発言には中国侵攻が謳われていた。

次回は、具体的に経済的な背景を見ます。


文献1:「図説台湾の歴史」周著、平凡社刊、p123。
文献2:「集英社版日本の歴史20」p22、27、28、31、77。
文献3:「図説日中戦争」河出書房新社刊、p9。

注釈1: 満蒙で起きていた1928年の張作霖爆殺事件、1931年の中村大尉事件、万宝山事件、満州事変などが典型です。
どれも政府、特に軍部が国民に事実を知らせないだけなく、敵意を煽るために情報を捏造していた。
国民が真実を知るのは戦後になってからでした。




20151119

Went around Croatia and Slovenia 12:  Seafaring country Dubrovnik 2


クロアチア・スロベニアを巡って 12: 海洋都市ドゥブロブニク 2



< 1. Viewpoint A. I overlook the old port from rampart >
< 1.視点A。城壁から旧港を見下ろす >

Today, I introduce a walking on the rampart of Dubrovnik.
Unfortunately I didn’t go all the way around it, but even part of it was worth seeing.

今日は、ドゥブロブニクの城壁の散策を紹介します。
残念ながら一周はしていませんが、その一部でも見応えのある景観でした。




< 2.  Whole view of Dubrovnik from Mt. Srd >
< 2.スルジ山から見たドゥブロブニク >

We walked the promenade of rampart of the near side from the left side to the right side.
I wanted to walk the rampart of the seaside, but couldn’t go on the grounds of our tour.
We walked it from 10:00 to 10:20.

私達は手前側(山側)の城壁の遊歩道を左側から右側に歩きました。
私は海側の城壁を歩きたかったのですが、ツアーの都合でいけませんでした。
城壁を歩いたのは10:00~10:20でした。



< 3. Our sightseeing route >
< 3.私達の観光ルート >

Legend:
A yellow line shows a walking route of the rampart.
Yellow arrows and alphabets indicate approximate photography point and direction.
Red stars are main sightseeing spots seen from the rampart.
Blue lines are our sightseeing routes.

凡例:
黄色線は私達の城壁の散策ルートです。
黄色の矢印とアルファベットはおおよその撮影地点と方向を示しています。
赤の星印は、城壁から見える主な観光スポットです。
青線は私達の観光ルートです。



< 4.  Viewpoint A >
< 4.視点A >

I saw the old port from the top of the stairs that I had climbed up to.
The stone wall of the left hand is a part of Revelin fortress surrounding an east gate.

階段を登り詰めた所から旧港を望む。
左手の石垣は東の門を囲んでいるレヴリン要塞の一部です。



< 5.  Viewpoint B >
< 5.視点B >

Upper photo:  Saint Ivan fortress on the left end was a cornerstone of protection for old port.
There is Lokrum Island in the back.
Lower photo:  Dominikanski monastery and bell tower are near the entrance of the rampart.

上の写真: 左端にあるのが聖イヴァン要塞で旧港の守りの要だった。
その奥に見えるのがロクルム島です。
下の写真: 城壁の上り口のすぐ隣にあるドミニコ修道院と鐘楼。



< 6.  Viewpoint C, D, E are arranged in order from the top >
< 6. 上から順に視点C, D, E >

Upper photo: Two gray dome roofs seen in the center are Saint Blaise church and Dubrovnik Cathedral from the near side.
The thin tower on the left side is a bell tower in Luža Square.

Lower photo: The brown square roofs and bell tower in the center are Franciscan monastery.
There is Pile Gate that we entered through the rampart on the right side.
Furthermore, there is Lovrijenac fortress beyond an inlet on the right side.

上の写真: 中央に見える二つのドーム状の灰色屋根は、手前から聖ヴラホ教会、大聖堂です。
その左側の細く高い塔はルジャ広場にある鐘楼です。

下の写真: 中央の方形をなす茶色屋根と尖塔はフランシスコ修道院です。
その右側の城壁に私達が入って来たピレ門があります。
さらに右の入江を挟んでロヴリイェナツ要塞が見えます。




7. Viewpoint F,G >
7.  視点F, G >

Upper photo:  Minčeta Tower from the promenade of the rampart.
It was built in the 14th century and was rebuilt in the 15th century.
I didn’t climb it because I need to move forward fast.
A regret!

Lower photo:  There is Pila Gate in the center of the rampart, and Fort Bokar in the back.


上の写真: 城壁の遊歩道から見たミンチェタ要塞。
これは14世紀に造られ15世紀に再建された。
この上からの眺めは期待出来たのですが、先を急いで行かなかった。残念!

下の写真: 城壁の中央にピレ門、その向こうにボーカル要塞が見える。



< 8.  Viewpoint H
< 8.視点H >

The left side is the rampart that we just walked on.
There is the Adriatic Sea beyond the old port, and furthermore the Mediterranean Sea in the back.

左側が今歩いて来た城壁で、旧港の向こうにアドリア海、さらにその向こうに地中海がある。




< 9. Viewpoint I >
< 9.視点I >
I look down Placa street from the top of Pila Gate.
A church and Franciscan monastery lined up on the left side from the near side.
There is a bell tower of Luža Square at the end of the street.

ピレ門の上から、プラツア通りを見下ろす。
通りの左側、手前から救世主教会、フランシスコ修道院と並ぶ。
通りの突き当たりにルジャ広場の鐘楼が見える。



< 10.  Viewpoint I >
< 10.視点I >

I look down the right side of Placa street from the top of Pila Gate.
The dome structure of the lower right is the upper part of Big Onofrio's fountain.

ピレ門の上から、プラツァ通りの右側を見下ろす。
右下のドーム状の構造物はオノフリオの大噴水の上部です。

About the rampart
It is the about 8th century when this old town was born that this rampart surrounding it was built.
After that, it was expanded and became its current form in the about 16th century.
The max height is 25 m, the width of the sea side is 1.5 – 3 m, and it of the mountain side is 4 – 6 m.
Walking on the promenade of the rampart takes one hour by making a circuit.
The entrances are four, and four fortresses are established at four corners.
At the entrance of the Lovrijenac fortress (viewpoint E, G) on the western outside, the following message had been carved on the castle wall.
" It isn’t in the right that we sell our freedom for even every gold "
Here is the spirit of a seafaring country that traded over the world of the Middle Ages.


城壁について
旧市街を取り囲む城壁が築かれたのは町が誕生した8世紀頃です。
その後、拡張され16世紀頃に現在のような姿になった。
城壁の高さは最高25m、巾は海側で1.5~3m、陸側で4~6mもある。
城壁の上の遊歩道は一周約2kmでゆっくり歩いて1時間です。
入口は4ヵ所、要塞は4つの角に設けられている。
城壁の外、西側のロヴリイェナツ要塞(視点E,G)の入口に
「あらゆる黄金をもってしても自由を売るは正しからず」と刻まれている。

まさに中世、世界を股に掛けた海洋国家の心意気が見えます。

Afterword
My dream was to look at a city of seafaring country that thrust in the sea.
This city was an independent nation once, and was a perfect city that had left a feature of the Middle Ages.
How could such small country continue with the independent nation between large countries for approximately seven centuries?
Phoenicia and Miletos must have been similar, too.
This history romance tempts me into next meditation.

This continues next time.


あとがき
私はこのような海に突き出した海洋都市国家を見ることが夢でした。
ここは独立した海洋国家で、中世の面影を残している申し分のない都市でした。
このような小国が如何に大国の狭間で約7世紀もの間、存続出来たのだろうか?
かつてのフェニキア、ミレトスも同様だったに違いない。
歴史ロマンは私を次へと誘う。

次回に続きます。