今日が、「日本の失敗」について最後の考察になります。
前日の記事から続いています。
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軍部の動き
陸海軍が定める方針(国策遂行要領)が、これまた不思議なものだった。
真珠湾攻撃の年、幾度も出される大方針は平和交渉と日米開戦準備の両論併記。
軍の派兵は中国侵攻の続行、満州への大幅増派(対ソ威圧)、日米開戦に備えて南方攻略(資源確保)の3論併記だった。
米国との和平交渉と言えば聞こえは良いが、米国が譲らない中国撤退を無視して妥協の余地なしとし、期限まで決めて進展するはずがない。
絶体絶命の経済封鎖をまったく予想せず、南方攻略で米英を怒らせ、それを自ら招いた。
2年前のノモンハンの惨敗に懲りず、自ら望み日ソ中立条約を結んだ2ヶ月後、裏切られたはずの独ソ戦好調に気分は変わり、満州に演習と称して大量派兵し再度ソ連を威圧した。
ドイツとの同盟が米国を押さえ、米国は交渉で譲歩し経済封鎖などの強気の手段を取らないはずだと確信し、当然手を打つこともなかった。
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世界情勢、特に敵である英米情勢を無視し、運を天に任せ情勢変化があっても、誰も決断せずズルズルと成り行きに任せた。
奇襲攻撃で初戦を叩けば、南方の石油を手に入れ勝算ありとしたが、直ぐに制海権と制空権を握られ、タンカーが沈められ最後の頼みの南方からの石油は絶たれた。
これも戦史上繰り返されたことだが、一斉風靡した古き良き戦闘教義―日本の場合は海上で大艦巨砲、陸戦の突撃で島を占拠―に拘り、連敗を重ね、気づいても時既に遅しであった。
それにもまして奇襲攻撃は米国民の敵愾心を煽り、米英首脳は晴れて軍事協同を行えるようになった。
こうして米国は膨大な物量を持って独伊、ソ連と中国も見方につけて日本を追い込むことになった。
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蟻地獄で
日本の首脳は、あがけばあがくほど深みにはまり抜け出せない蟻地獄に落ちたようなものでした。
軍上層部の脳裏にあるのは、「勝てると進言し裁可を頂き続けた天皇や、犠牲にした幾多の英霊(太平洋戦争前で数十万人)、扇情で盛り上がった国民に、いまさらどの面下げて、領土と神国の名誉を捨てろと言えるものか」でした。
とことんやって、国土が焦土と化しても生まれ代わることが大事だ、そんなことを口にする軍人もいた。
政府首脳にしてみれば、自ら無謀な戦端を開くことは避けたいが、精一杯駆け引きをしていると、なぜか戦争になってしまった。
まさにそんな感じだった。
当時、国民は真の情報、必要な情報からは完全に閉ざされ、戦意高揚と国民一丸への教育宣伝が官民一体となって行われていた。
国民は、この政府や軍部首脳の実態を知ることはなかった。
こうして日本は無責任な軍部主導の政府によって戦争へと突き進んだ。
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それでも真因は別にある
なぜ、このような政治状況になったかと言う問題が残る。
統帥権干犯、御前会議、軍閥支配の矛盾は目に余るが、なぜこうなったのか?
これら開戦時の政治状況は、明治維新に起因にしたものもあるが、日本が軍拡路線を推し進める過程で、主に軍人達が手に入れて来たものでした。
初期は、大国ロシアを仮想敵国とし、その橋頭堡として朝鮮半島を手に入れるべく日清、日露を戦い、圧勝した。
しかし満州を手に入れ、第一次世界大戦で漁夫の利でドイツから青島を手に入れた頃から、本土防衛より領土欲が増していくことになる。
かつて英国は日露戦争時、助けてくれた同盟国で、ドイツは第一次世界大戦では敵国だった。
やがて軍部は中国政策でうるさく干渉し始めた英米をソ連よりも仮想敵国とするようになった。
この間、幾度もあった冷害や恐慌に喘いだ国民は連戦連勝する内に、領土拡大に希望をつなげ、身内が敵国で殺されるに及んで戦争への抵抗感は消えていった。
当時、子供の出世の最上位は軍人となっていた。
政治制度(旧憲法)や政治文化など日本固有の問題もあるが、国家も国民も上記の歴史上繰り返されて来た「戦争の罠」にはまっていったのでした。
このことを皆さんに少しでも実感していただければ幸いです。
話はわかりやすさを優先し、厳密さを欠いていますのであしからず。
次回から、別のテーマになります。