20180908

沼島を訪ねて 2







*1


今回は沼島の中心部、漁村にある神社を紹介します。
なぜか小さい島に神社が多い、そこには沼島ならではの歴史があります。



 
< 2. 散策ルート、上が北 >

下の地図: 赤線が今回紹介する散策ルートで、Sは高速艇乗り場です。
赤丸は上から厳島神社、沼島八幡神社、梶原五輪塔、沼島庭園を示します。


 
< 3. 厳島神社 >

別名弁天さんと呼ばれ、また戎神社も祀られている。
立派な石組みや石段、巨大な松がありました。
漁師たちが安全を祈願する神社として、当時は岬の先端に建てられていたのでしょう。


 
< 4. 港に沿って歩く >

上の写真: 遠くに厳島神社が見える。

下の写真: 進行方向を見ている。


 
< 5.沼島八幡神社 1 >

上の写真: 村のほぼ中央、山の裾野の小高い丘の上に神社が見える。
これが沼島八幡神社です。

下の写真: 石段を上り切った境内から。


 
< 6. 沼島八幡神社 2 >

上の写真: 境内から見下ろす。
港と漁村が一望できます。
遠くの山影は淡路島、右下に神宮寺が見えます。

下の写真: 境内にある本殿です。


 
< 7. 沼島八幡神社の本殿 >

上の写真: 沼島八幡神社の本殿内側正面に掛けられている大きな絵。
この絵は「賤ケ岳合戦」(1583年)を描いており、これが淡路島、沼島の歴史と深く関わっているのです。

この合戦で秀吉は柴田勝家との雌雄を決した。
この合戦で活躍した賤ヶ岳の七本槍の一人、猛将脇坂甚内安治は秀吉から淡路島を与えられます。

淡路島と沼島は古くから、大阪湾の守りの要であり、瀬戸内海に往来する海路の要衝でした。
またこの海峡沿いには由良水軍、鳴門水軍、そして沼島には沼島水軍が存在しました。
後に朝鮮出兵で、脇坂は水軍を束ねる三人の将の一人となります。

淡路島は奈良王朝の時代から天皇家の直轄地で、海水産物を献上する御食国でした。
実は、淡路島、沼島には海人族(海運や漁労を生業とする外来の集団)がいたのです。
このことが漁労や水軍の発展に結びついたのです。
沼島には縄文人の土器が見つかっており、古くから人々は暮らしていた。

古事記の国生み神話に出てくる「おのころ島」の候補地の一つとして、沼島が挙げらています(候補は淡路島島内と周辺の島を含めて11ヵ所)。
この国生み神話の原型は中国の長江流域の稲作文化にあります。
おそらくは大陸から、(対馬)、九州、瀬戸内を経て淡路島に到達した海人族が神話を伝承し、それを天皇家が自らの創世神話に拝借したのでしょう。

沼島と淡路島は、大陸と日本の古代を結ぶ架け橋の一つだったのです。


下の写真: 梶原五輪塔を示す看板。
漁村特有の密集する民家の路地を奥まで進むと、右手にこの看板がありました。
この右手に空き地があり、村人に聞くと、昨日ここで地蔵盆を行っていたとのことでした。


 
< 8. 梶原五輪塔 >

下の写真: 右手に二基ある五輪塔の右側が梶原景時の墓と言われています。

梶原景時は源頼朝に仕え、今の明石から広島までの山陽道の守護に任じられ、幕府宿老まで上り詰めていた。
しかし後に義経と対立し、幕府から追放され一族は滅ぼされた(1200年)。
彼は後世、義経の判官びいきとは逆に大悪人と見なされて来た。

梶原景時の墓と呼ばれるものは鎌倉にもあるが、真贋は如何に。

「梶原一族と沼島水軍」によると、以下のように説明されています。

滅ぼされた年に梶原景時の一族が、沼島城主になった。
これは水軍つながりだそうです。
後に梶原家が沼島八幡宮を創建した。
1521年、足利十代将軍義植が流浪の末、沼島に来て梶原の庇護を受ける。
この将軍が梶原家に後に紹介する沼島庭園を贈呈した。
神宮寺は梶原家の菩提寺でした。
しかし16世紀末、滅ぼされて梶原の治世は終わる。

こうしてみるとこの小さな漁村に、多くの神社仏閣、沼島八幡宮、神宮寺、蓮光寺(居城)、西光寺があることが理解できる。
これらはすべて梶原家の創建によるものだそうです。
墓がここに建立された可能性はあるが、景時が討たれたのは静岡でした・・・。


 
< 9. 沼島庭園 1 >

上の写真: 路地を奥まで進むと看板が見えた。
この看板には「伊藤庭(沼島庭園)」と記されていた。
右手に入って行くと、雑草が生い茂る空き家があった。


下の写真: この空き家を迂回して裏に回る。
ここは個人宅の庭です。


 

< 10. 沼島庭園 2 >

すると打ち捨てられた石組みの小さな庭が見えた。
鬱蒼と茂る木々の陰になって、庭はいっそう暗く侘しい佇まいでした。

これが室町時代、戦乱と内紛を逃れた10代将軍が過ごした場所であり、庭だと思うと虚しさを感じる。

一方で、淡路島と沼島に不思議な存在感を感じた今回の散策となった。


 
< 11. 沼島庭園 3 >

久しぶりに見たサワガニです。
昔は、淡路島の小川では至る所で見られたのですが、ついぞ見なくなりました。
私があまり外出しなくなったからもしれないが。

沼島を散策して不思議に思ったのが、こんな小さな島なのに沢をよく見かけたことです。
水が豊富なようです。



次回に続きます。










20180904

北欧3ヵ国を訪ねて 24: ヴァーサ―号博物館へ







< 1. ヴァーサ―号の模型 >


今回は、ヴァーサ―号博物館と、この巨大な戦艦建造時のスウェーデンを紹介します。
写真の撮影は2018年6月2日(土)10:36~11:00です。




 

< 2. ユールゴーデン島内の観光ルート、上が北 >

訪れた所: オレンジ□印はビジターセンター、黒〇印は北方民族博物館、赤〇印はヴァーサ―号博物館、赤枠はスカンセン(野外博物館)です。

黒線は歩行ルートで、一つは最上端のバス停Djurgårdsbronから、北方民族博物館とヴァーサ―号博物館見学を経て、トラムとバスの停留所Nordiska Museet/Vasamuseetまでを示します。

青線はSkansenまでの7番トラム乗車を示します。
この間は67番のバス で行く事も可能です。
停留所Skansenを降りると、スカンセン(野外博物館)の大きなゲートが見えます。

ヴァーサ―号博物館退出以降は次回紹介します。



 
< 3. 北方民族博物館を出て >

北方民族博物館を出て、南側に進み、西側に曲がるとヨットハーバーが見えました。
今日は土曜日なので市民が芝生広場でくつろいでいました。


 
< 4. ヴァーサ―号博物館が見えた >

上の写真: ヴァーサ―号博物館。

下の写真: 北方民族博物館の裏側。


 
< 5. ヴァーサ―号博物館に入館 >

上の写真: ヴァーサ―号博物館の入り口付近。

下の写真: 博物館に入ると、最初に目に飛び込む光景。

ここも非常に暗い。
逆に、この暗さの中だからこそ輪郭が定かでなく、スポットライトで浮かび上がる戦艦に圧倒されることになる。



* ヴァーサ―号について

これは17世紀に建造された当時スウェーデン最大の戦艦でした。
マストの頂上から竜骨(底)までは52メートル、船首から船尾までは69メートル、そして重量は1200トンもありました。
また64門の大砲が装備されていました。

この戦艦が初航海で沈んだのは、王の命令でより多くの大砲を装備するために甲板を2層式に嵩上げし、バランスが悪くなったためでした。

この船は海中から引き揚げた本物ですが、そのまま展示すると自壊してしまうので全てに樹脂を浸透させています。


 
< 6. 左舷 >

まるでパイレーツ・オブ・カリビアンの世界! 不謹慎だが。
船体表面にこびりついたものがうねりながら光沢を放つ光景は実に生々しい。
この船が沈没したのは、初航海の1628年で、そして引き上げられたのは1961年でした。
まさに400年間の眠りから蘇った。


 
< 7. 船尾と飾り >

上の写真: 船尾部分。

下の写真: このカラフルな彫刻像は、上の船尾に付いている木製像を復元したものです。
この船には700体の彫刻品で飾られていました。


 
< 8. 最上階から眺める >

甲板や帆柱を見ることが出来る。


* ヴァーサ―号建造時のスウェーデン

私は初航海、それも内海を1kmほど帆走して横転沈没したと知って失笑しかけた。
しかしスウェーデン国民はこの戦艦を誇りにしており、確かに来館者も多い。

私にはこんなつまらない結果を招い王、グスタフ2世アドルフが滑稽に思えるのだが?
しかし歴史は面白い、この王こそが強国、最もスウェーデンがヨーロッパで輝いた時代を作り上げたのでした。

私が1年前、フランスのアルザス地方を訪れた時、宗教戦争(三十年戦争)でプロテスタント側のストラスブールはスウェーデンの軍事援助を受けていたと知った。
この時、スウェーデンはヨーロッパの雄、プロテスタントの旗手だったのです。

グスタフ2世アドルフ(在位1611-1632)はデンマークからの独立を果たしたヴァーサ―朝の第6代スウェーデン王でした。
彼が即位した当時、スウェーデンはバルト海の制海権をめぐってロシア・ポーランド・デンマークと交戦中であった。

当時ポーランドはリトアニアと共和国を成し広大な国で、かつスウェーデンと王位継承を巡り仇敵であった。
一方、宗教改革後、カトリック勢と神聖ローマ帝国はプロテスタント勢と熾烈な戦いを続けており、やがて北欧プロテスタントの国々を脅かす最大の敵となっていた。

そこで彼はポーランドとの泥沼の戦いを休戦し、カトリック勢と戦う為に三十年戦争に参戦した。
その嚆矢となったのがデンマークと同盟を組んで戦った1628年のシュトラールズント攻囲戦で、この勝利がスウェーデンの版図拡大をもたらした(この年にヴァーサ―号が沈没)。

残念ながら彼は1632年、38歳で戦死した。
このことがまた彼を宗教改革での殉教者にした。

彼は若くして王になり、生涯、戦場を駆け巡ったが、それだけではなかった。

彼の統治によりその後のスウェーデン国制が出来たと言える。
4つの身分からなる議会制度や司法制度、また地方行政を整えることにより徴兵制度を築いた。
大学やギムナジウムなどの教育機関を創設した。

また軍事教練、戦法、兵器を発展させ、ヨーロッパの軍事大国になった。
このことが巨大砲艦ヴァーサ―号への建造に繋がった。

経済力の貧弱なスウェーデン軍が、強大になれたのはその国家誕生に起因するかもしれない。
1523年、独立を戦ったのはヴァーサ率いる農民達でした。
このことが4つの身分(聖職者、貴族、市民、農民)からなる議会制度を可能にし、徴兵制度を容易にし、大陸のような費用の掛かる傭兵制度を不要にした。

こうしてスウェーデン帝国への道のりと、ヴァーサ号が結びついているのです。






 
< 9. グスタフ2世アドルフ治世の版図 >

白丸がシュトラールズント、黒丸がストックホルムです。
彼が帝国の礎を作った。


 
< 10. グスタフ2世アドルフとシュトラールズント攻囲戦 >

シュトラールズントはハンザ同盟に属する港湾都市で自治都市でした。
ここを神聖ローマ帝国軍(カトリック連盟軍)が攻めると、この都市はデンマークとスウェーデンに救援を求め、形勢は逆転した。




 

< 11. 三十年戦争の変遷 >

番号③がグスタフ2世アドルフが参戦した経路です。
プロテスタント勢は英国と北欧、バルト三国、北ドイツです。

次回に続きます。





20180831

連載中 何か変ですよ 203: 暴露本「炎と怒り」の紹介 4: トランプタワー 2

 
*1


今回で、この暴露本の紹介を終わります。
初期の大統領首席補佐官を巡るドタバタを紹介します。








 
< 2.トランプ政権を去った人々 >

多くの人々-マチュア政治家、経済界の成功者、人気のポピュリストがホワイトハウスを賑わしては、早々と去って行った。
去った多くは政権への爆弾発言(トランプを無能呼ばわり)や暴露、非難を繰り返している。
この混乱は今も続いている。


* 初期の大統領首席補佐官を巡るドタバタ

大統領首席補佐官とは何か?
彼はホワイトハウスとその行政部門、軍人130万人を含む約400万人のトップに立ち、この組織の運営を大統領から任されることになる。
特にトランプ政権では。

しかしトランプの直情径行、専門家嫌い、家族重視、政治への無知が災いして、大統領首席補佐官選びは脱線を繰り返しながら、最後には政権内で差し障りのない人物が選ばれた。

そして初代の大統領首席補佐官プリーバスは半年で更迭された。







 

< 3. 相関図 >


* 「炎と怒り」の読後に思うこと

他国のことではあるが、怒りよりも深い絶望感にとらわれた。
それは今、日本も含めて欧米先進国が米国と同様の凋落の道を進んでいると思うからです。

少なくとも米国は1970年代初期までは、ホワイトハウスの暴走-ベトナム戦争やウォーターゲート事件に対して、マスコミは良識を持って立ち向かい、そして国民も遅ればせながら正しい道へと方向転換させることが出来た。

しかし、欧米先進国は80年代以降の経済金融政策の大転換による格差拡大、さらに戦後から始まっていた後進国での紛争拡大による大量の難民発生と移民の受け入れが相俟って、欧米社会は不満のるつぼと化した。

このことが特に米国では、度重なる規制緩和によって報道の自由度を失わさせ、その上、今のインターネット社会ではヘイト情報が世論を左右するようになった。

こうして容易にポピュリズム、今は右翼の煽情によって、不満を抱く人々は否定と排除の論理で強く結びつき、より強固になりつつある。

このことは全ての金融資本主義国家、欧米先進国を蝕みつつある。
北欧すら逃げることは出来ないだろう、災厄の到来は遅れるだろうが。
それは今の日本にも当てはまる。

欧米から離れた島国日本は、その影響が軽微であったが、アベノミクスによって格差拡大の現況である金融資本主義へと大きく舵を切ったことになる。
西欧の優良国であったドイツも経済格差では同様に蝕まれ始めている。

各国で進んでいる国民の政治不信、右翼ポピュリズム政党の台頭、格差拡大はすべて軌を一にする。

それはここ半世紀にわたる戦争と経済がほぼ規制されず放置され、悪弊が拡大し蔓延してきたからです。

このことが、今の惨めで馬鹿げたトランプ政権を生んでしまったのです。

私には、この先行き世界は着くところまで行ってしまうような気がする。

歴史にその例はいくらでもあった。
ドイツ国民が最初からヒトラーにドイツと世界の壊滅を託したのではない。
始め一部の熱烈な国民がヒトラーの人柄、煽情、政策に共感し、期待していた。
そのうち騙されてか、無謀な計画なゆえに行きがかり上、破滅の道を進むことになった。

いつものことだが、日本のファシズム、大陸進出と同様で、マスコミが沈黙し権力の集中が進み、後戻りが不可能になった。

まさに米国、日本、ドイツなでかつての優良な国で政治の劣化が起こっている。
その一つの現れがトランプ現象です。


これで終わります。