20161216

Bring peace to the Middle East! 52: religion and persecution 6: Persecution of Jewish people 4

中東に平和を! 52: 宗教と迫害 6: ユダヤ人の迫害 4



 
*1

We were looking at the situation of persecution of Jews until now.
This time, I chase why establishment of Christianity provoked the persecution of Jews.
This is the last time.

今まで、ユダヤ人迫害の経緯を見て来ました。
今回は、キリスト教の誕生がユダヤ人迫害に如何に結びついたかを追います。
これで最後となります。


 
*2


Process of the establishment of Christianity 
When Jesus was born, the history of the Judaism was already over one thousand years. 
He criticized decayed Jewish rabbis and the law overemphasis of the Judaism, and the  Jewish believers who sympathized with him increased.
The Jewish ruling class incriminated Jesus as a leader of revolts to the governor-general of the Roman Empire, and he became the crucifixion (about A.D. 30).


キリスト教成立の経緯
イエスが生まれた時は既にユダヤ教の歴史は千年を越えていました。
彼はユダヤ教の腐敗した祭司達や律法偏重を批判し、それに共感するユダヤ人信徒も増えて行きました。
ユダヤ人の支配層はイエスを反乱の指導者としてローマ帝国の総督に訴え、彼は磔刑(紀元30年頃)になった。


 
*3

Jesus' resurrection caused an enthusiastic faith in resurrection in Palestine, and Christianity even extended to the gentile of the Roman Empire by activity of St. Paul etc. before long.
In 66 A.D., the Jewish-Roman wars of aiming for independence arose, but the Jews were defeated.
Therefore the Temple in Jerusalem was destroyed, and Jewish people again had to break up.
The region of the Roman Empire had been an emperor worship in those days, but the Judaism had been allowed, and early Christianity was considered one part of it.
The Christians were often persecuted because they were a heretic for Judaism and doubtful pagans for the people of Rome.
In addition, the Roman Empire also persecuted Christians because having been determined as seditious groups to not obey the emperor worship.
However, in the Rome society in a declining mode, the people who looked at large number of Christianity martyrs were attracted by Christianity.

At last, at the end of fourth century, the Roman Empire certified Christianity as the national religion in order to take in Christians who increased, and prohibited other religion.
After this, the Christianity grew mature in Europe, and extended to the world 


イエスの復活によりパレスチナに熱烈な復活信仰が起こり、やがてパウロなどの活躍によりローマ帝国内の非ユダヤ人にもキリスト教は広まっていった。
しかし、紀元66年、独立を目指したユダヤ戦争の敗北によってエルサレム神殿は破壊され、ユダヤ人はまたも離散することになった。

当時、ローマ帝国は皇帝崇拝であったが、ユダヤ教は認めれらており、初期のキリスト教はその一部と見なされていた。
キリスト教徒はユダヤ教にとって異端者であり、ローマの民衆にとって怪しげな異教徒であったので、度々迫害された。
またローマ帝国はキリスト教徒が皇帝崇拝に従わない不穏分子であったので、これまた迫害した。
しかし、衰退し続けるローマ社会にあって多数のキリスト教殉教者を見た民衆はキリスト教に惹かれていくことになった。

ついに4世紀末、ローマ帝国は増大するキリスト教徒を取り込む為に、これを国教とし他の宗教を禁止した。
この後、キリスト教は西欧で成熟し世界へと広まっていった。


 
*4

During this time, what had happened to Christianity?
After the destruction of the Temple in Jerusalem, in the stream of making the comeback, the Judaism assumed Christianity heresy and Palestinian Christianity fell into a decline.
Along with a progress of missionary work to the Jews (Greek speaker) that broke up and gentile at each place, the doctrine and customs of various paganism came to mix with Christianity. 
In addition, an increasing number of Jewish conversion to Christianity caused regression toward Judaism.

Church fathers of Christianity at each place had to deal with troubles from within and without, made a definite distinction between heresy and orthodoxy, and did explanation for the persecution to the emperor.
They did theorization and unification of the doctrine, then established the confession of faith and the Bible.  Annotation 1.
In this way, an unified church system was completed in the about third century.  Annotation 2.

Syncretism and opposition almost happened among much religion, as if the birth of the Islam, the Buddhism, and the Taoism.
However, the intensity of the heresy was different among each religion.


この間に何が起きたのか
エルサレム神殿の破壊後、ユダヤ教は再起を図る中でキリスト教を異端とし、パレスチナのキリスト教は衰退していった。
各地に離散したユダヤ人(ギリシャ語話者)や非ユダヤ人への布教が進む中で、異教の教義や習俗がキリスト教に混じることになった。
またキリスト教へのユダヤ人の入信は、ユダヤ教への後戻りを招き始めた。


各地のキリスト教の教父達は、異端と正統の区別や、皇帝への迫害の弁明などの内憂外患に対処した。
彼らは教義の理論化と統一を行い、信仰告白と聖書を確立した。注釈1.
こうして3世紀頃には一体化された教会制度が成立した。注釈2.

多くの宗教、仏教、道教、イスラム教の誕生時にも、既存宗教との間で習合や対立が起こった。
しかし、異端への激しさは宗教によって程度の差があった。


 
*5


Peculiar things in Christianity
I think that it is related to "Jesus' resurrection" and "the Catholic Church" that Christianity is strict with the heresy in particular.

The miracle called "Jesus' resurrection" is hard to believe to our pagan, but Christian is  most attracted.
If it becomes the Jew to have murdered Son of God Jesus, the hatred reaches a peak.

Furthermore, the existence of the unified church of the Roman Empire conduced to an succession of the firm doctrine, furthermore, the posture to eliminate heresy was also maintained strongly.
Thus, the persecution continued for 2000.


begin a different theme from the next time.


キリスト教に特有なこと
私は、キリスト教が特に異端に厳しいのは「イエスの復活」と「カトリック教会」に関係すると考える。

異教徒には信じがたいイエスの復活という奇跡は、最もキリスト教徒を魅了する。
その神の子イエスを殺したのがユダヤ人となれば、憎しみは頂点に達する。

さらにローマ帝国の一体化された教会の存在は、ゆるぎない教義の継承と共に、異端を排する姿勢も貫かれた。
こうして、迫害が二千年も続くことになった。


これで「宗教と迫害」は終わり、次回より別のテーマを始めます。


注釈1.
信仰告白は、教会などで自身の信仰を神と人とに告白することです。

カトリック教会の信仰告白の例: 使徒信条

「天地の創造主、全能の父である神を信じます。

父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます

聖霊を信じ、
聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます
アーメン。」

私が太字にしました。

注釈2.
ここで言う教会制度とは、キリスト教圏のすべての教会とそれを監督する司教らが一人の教皇を頂点に一体化されていることを指します。
時には全域から司教以上が集まり公会議を開き、教義・典礼・教会法について話し合うことも行われた。




20161214

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 16: ナルヴァ城




*1

今日は、エストニアとロシアの国境にあるナルヴァ城を紹介します。
この小さな城は素晴らしい景観に恵まれるだけでなく、バルト三国を象徴する歴史を秘めていました。
訪れた時は夕暮れが迫っていたが、秋晴れでした。


ナルヴァ(Narva)について
エストニアの都市ナルヴァは、かつて「バルト海の真珠」と称される美しい街並みを誇った。
しかし第二次世界大戦時、ソ連の爆撃で歴史的な街並みの多くは失われた。
人口は約66000人で、人口規模ではタリン、タルトゥに次ぐエストニア第3の都市です。




< 2. ナルヴァ城の外壁 >

この城はナルヴァ川を挟む検問所の直ぐ横にあり、ナルヴァの町をナルヴァ川の対岸のロシアから守るように立っている。
この城も第二次世界大戦で半壊状態になったが、修復されて博物館になっている。



 

< 3. ナルヴァ城(ヘルマン城) 1 >

上の写真: 城壁をくぐると左手にレストランがある。
この建物の直ぐ右手の木の向こうにレーニン像が立っている。
後に、このレーニン像がこの町の複雑な事情を教えてくれることになる。

中央の写真: この中心的な城は博物館になっているがツアーでは入場しなかった。

下の写真: この城の向こうに、対岸のロシア側の城(イヴァンゴロド要塞)が見える。


ナルヴァ城について
ここに最初に城を築いたのはデーン人(デンマークに居たノルマン人)で、1256年でした。
そして14世紀の初めに最初の石の城が完成した。
その後、ドイツのリヴォニア騎士団がこの城を1346年に購入し、その後長く所有することになった。


この地の観光情報
*ナルヴァ市の広報HP: ナルヴァやナルヴァ城の紹介もあり、英語表記選択可。

*ナルヴァ博物館HP: ナルヴァ城、博物館の紹介、英語表記選択可。

*ナルヴァ土塁の解説: 絵図などの資料が豊富、但しエストニア語表記?

Wikipediaナルヴァ城(Hermann Castle):英語表記のみ。




< 4. ナルヴァ城 2 >

中央の写真: ナルヴァ川の対岸にロシアの城塞が対峙している。
左の橋は、私達が通過して来た国境の橋で、その右手の建物はロシア側の検問所です。

私達がバスに乗って橋を通過する時、多くの一般人が徒歩で行き来するのを見た。
彼らはロシア人で、エストニア側のスーパーなどでショッピングする為だそうです。

下の写真: ナルヴァ川の上流側の岸から二つ城塞を写しているライブカメラの映像。
この写真は2016年12月13日、8時10分のもので、現地気温マイナス12℃と表示されていた。
日本との時差はマイナス7時間です。

ライブカメラ: NARVA CASTLE AND IVANGOROD FORTRESS




< 5. ナルヴァ川 >

上の写真: 対岸はロシアです。
下の写真: 川の右手はエストニア側です。

低くなった陽の光を浴びて黄葉が輝き、空と川面はあくまでも青く映え、冷たい川風が吹き抜けていきます。
心洗われる一時でした。



エストニアの歴史について


 

< 6.ナルヴァとエストニアの歴史 >

上の写真: ナルヴァ城を矢印で示しています。
写真上側はおおよそ東方向で、中央を流れるナルヴァ川の左が下流で、下側がエストニアになります。 

中央の写真: ナルヴァ城(ヘルマン城)を矢印で示しています。
かつてエストニアの都市ナルヴァは大きな城壁で囲まれていた。
私達が見たのは、破壊後のほんの一部なのです。

対岸の城塞はロシア側のイヴァンゴロド要塞で、1492年にロシアによって造られた。


下の写真: これはエストニアの支配者の移り変わりを示す年表です。
年表を見ると、支配者の移り変わりに驚かされる。

13世紀から西欧各地のキリスト教団(司教と騎士団)とデンマークが支配し、
16世紀からスウェーデンとポーランドが、18世紀からロシアが支配した。
さらに20世紀に入ると、一度独立を果たすが、ドイツ軍とソ連による支配を受けた後、再度独立を果たし、今に至っている。

バルト三国の数奇な運命は、バルト海に面し、ロシアに繋がっていることによる。
端的に言えば、これらの国は西欧のキリスト教団の侵略を受けた後、西欧(ドイツ)の商人によって栄えた。
これがヨーロッパ化とキリスト教化を生んだ。
これらの国が小さく南北三つに分かれたのは、北欧(スウェーデン、フィンランド)と東欧(ポーランド)の文化が両側から影響したからです。

バルト三国は各々の異なる言語を持つが、幸いなことにキリスト教徒の国で共通し、周辺国もキリスト教国(正教会)です。
但し、北部はプロテスント、南部はカトリックと異なる。




 

< 7. ナルヴァの戦い >

上の絵: 1700年のナルヴァの戦いの絵と思われる。
これは大北方戦争中(1700年~1721年)、ロシア軍がナルヴァに進攻しスウェーデン軍との戦いです。
右手遠方に城塞が見える。

ロシア帝国が、サンクトペテルブルグ発展の端緒になる城塞建築はこの大北方戦争の為でした。

下の写真: ナルヴァ城での戦闘シーンの再現のようです。




< 8. ナルヴァの俯瞰図 >

上の絵: これも1700年のナルヴァの戦いの絵です。
ロシア軍がナルヴァ城を取り囲んでいる。

下の絵: 繁栄している19世紀半ばのナルヴァの様子らしい。



 

< 9. エストニアの歴史地図 >

上の地図: 1260年の支配地図。
13世紀になると西方から騎士団や十字軍が侵攻して来て、エストニア軍は戦うが破れ、エストニアはローマ教皇の下、6つのキリスト教団の司教領、リボォニア帯剣騎士団などに分割された。

下の地図: 1260年~1410年の支配地図。
これはバルト三国の支配を争った一方の勢力であるドイツ騎士団(チュートン騎士団)の支配地域を示す。



 

< 10. バルト三国の歴史地図 >

上の地図: 1560年~1711年のエストニア。
スウェーデンに分割支配された。

下の地図: 現在のバルト三国。


あとがき
私はなぜレーニン像がナルヴァ城の中庭に立っているのか不思議に思った。
その像の下半分が写真3の一番上の写真に微かに見える。
バルト三国は第二次世界大戦後の独立に至るまで、ソ連に辛酸を舐めさされた。
その彼らがレーニン像を撤去しないことに疑問を感じた。

実は、ナルヴァのエストニア人は大戦時、ドイツ軍によって強制避難させられ、ソ連占領後も帰還を許されなかった。
その後、ナルヴァは工業で栄え始めると、ロシア語系住民が大挙移住して来た。
そして現在、ナルヴァの人口の95%はロシア語系住民が占めている。
ソ連の爆撃で廃墟となった町をロシアの人が再建して来たのです。

説明してくれた現地ガイドもロシアからの移民を親に持つていたのです。
彼は複雑な気持ちだと言っていた。

このような民族の混住がロシア周辺で起こり、紛争の火種になっているのかと思うと怖くなった。

次回に続きます。







20161213

Bring peace to the Middle East! 51: religion and persecution 5: Persecution of Jewish people 3

中東に平和を! 51: 宗教と迫害 5: ユダヤ人の迫害 3




<  1.  children of a Polish ghetto  >
< 1.ポーランドのゲットーの子供達 >


We saw the deep-rooted persecution of Jews in Europe last time.
We get closer to the origin from now on.

前回、西欧でのユダヤ人迫害の根の深さを見ました。
これから、その起源に迫って行きます。




<  2. Milan Cathedral  >
< 2. ミラノ大聖堂 >


Swear words of great Church Fathers

In the fourth century, a bishop of Milan said.
"The synagogue is a gathering place of infidel whom God forever convicted, a house of profane persons or a hideout of madman."

In the fourth century, a sermon by a bishop of Antioch.
“If the Jew is a demon or devil, shouldn't you escape from the Jew?
Getting friendly with the Jew who killed the son of your God and is a killer who crucified Jesus is to despise your God, doesn't it?”

In the 16th century, German religion reformer, Martin Luther wrote.
" The Jew is a beast that bears malice, viper, poison, devil incarnate,.... and dung of pig."
" Christian! You must not doubt that there is not person being more harmful and cruel than true Jew living next to you."
"We burn a synagogue, and we must throw sand and mud to whoever running away from the fire. "


偉大な教父の罵り
4世紀、ミラノ司教。
「ユダヤ教会堂は神ご自身の永遠の断罪の下にある不信心者のたまり場、不敬な者の家、血迷った男たちの隠れ家である。」

4世紀、アンティオキア司教の説教。
「ユダヤ人が悪霊、悪魔自身であるとしたらユダヤ人から逃れようとしないだろうか。
ヤダヤ人はあなたの主の子を殺した・・・・イエスを十字架につけた殺し屋を重んじたり、つき合いを深めることは主を侮蔑することになるではないか」

16世紀、ドイツの宗教改革者ルーター。
「ユダヤ人は悪意に満ちた獣、腹黒い輩、胸くそ悪いくず、害悪、悪魔の化身・・・豚の糞」
「キリスト教徒よ、あなた方の隣にいる本当のユダヤ人以上に残酷で有害で悪辣な者はいないことを疑ってはならない。」
「ユダヤ教会堂を燃やし、その火から逃げ出す者が誰であれ、砂と泥をかぶせねばならない」




<  3.  Crucifixion of Jesus >
< 3. イエスの磔刑 >

Why did the great Church Fathers repeat such swear words?

There is the grounds in “The Gospel According to Saint John”

7-1
“And after these things Jesus walked in Galilee: for he would not walk in Judaea, because the Jews sought to kill him.”

8-44
“Ye are of your father the devil, and the lusts of your father it is your will to do. He was a murderer from the beginning, and standeth not in the truth, because there is no truth in him. When he speaketh a lie, he speaketh of his own: for he is a liar, and the father thereof.”

In the Bible, this author made Jesus say that the Jew was a murderer of Jesus and a child of devil.
The hostility against the Jew already rose and overflowed.
It is thought that this book was completed in the end of first century.
Annotation 1.


なぜ偉大な教父はこのような罵りをく返したのだろうか?

「ヨハネによる福音書」にその根拠が見える。

7章1節
「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。
ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」

8章44節
「あなたたち(ユダヤ人)は、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。
悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。
彼の内には真理がないからだ。
悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。
自分が偽り者であり、その父だからである。」

ここで、作者はユダヤ人がイエス殺しであり、悪魔の子だとイエスに言わせている。既にユダヤ人への敵意が満ち溢れている。
この書は1世紀末に成立したと考えられている。
注釈1.




< 4. Saint Paul image in front of San Pietro Cathedral >
< 4.サンピエトロ寺院の前に立つ聖パウロ像 >

From “The Epistle of Paul the Apostle to the Romans”

11-18
“ Glory not over the branches: but if thou gloriest, it is not thou that bearest the root, but the root thee.”

Saint Paul criticizes the Jew in another place, but says here that you must not look down on the Jew.

He developed Christianity into for foreigner from only for the Jew, and was an apostle who built a route to the world religion.
It is said that St. Paul wrote this letter in early 58.

When comparing these two sentences, the apostle seems to have not looked down on the Jew during the missionary work in the middle of first century, but the situation seems to have changed around the end in the first century.

This continues the next time.


パウロの「ローマの信徒への手紙」11章18節を見ます。

「折り取られた枝に対して誇ってはなりません。
誇ったところで、あなたが根(ユダヤ人)を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」
パウロはユダヤ人を別の個所で非難はしているが、ユダヤ人を見くだしてはならないとしている。

パウロはユダヤ人だけのキリスト教から異邦人のキリスト教に発展させ、世界宗教への道筋をつけた使徒です。
この手紙はパウロが西暦58年初頭に書いたとされる。

二つの書を比べると、1世紀中頃、まさに使徒が布教に専念している折は、ユダヤ人をそれほど敵視していなかったが、1世紀も末になると状況は変わったように思える。


次回に続きます。


注釈1.
「ヨハネによる福音書」の作者は12使徒のヨハネとは異なる人物で、後に伝聞によってこの福音書を書いたとされる。
また4つの福音書の中で、これは他の3つの共観福音書と内容が異なり、独自の考えで書かれており、福音書の中では最後のものと考えられている。

20161212

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 15: バスの車窓から見たロシア




*1


今日は、サンクトペテルブルグから国境の町ナルヴァまでの景色を紹介します。
2016年9月30日の午後、バスは140kmの道のりを3時間半かけて走りました。
ロシアを去るにあたり、ロシアの感想も記します。


はじめに
紹介する地域はロシアの北西端にあり、フィンランド湾に接しています。
私達の観光バスはロシアの原野に点在する町や村を抜けて行きました。
ナルヴァはバルト三国の最初の訪問国エストニアの国境の町です。
この日はあいにくの曇りで、時折、小雨が降り、また雲間から青空が覗く天気でした。
しかし、時折のぞかせる太陽光に黄葉が光り、不思議に高揚感のあるバスの旅になりました。

写真は撮影順に並んでいます。



*2




*3

上の写真: サンクトペテルブルグの郊外の一角に、一戸建ての住居が整然と並んでいる場所が幾つも見られましたが、これはその一部です。
これらはどうやら社会主義時代からの別荘地のようです。
これらは今も使われているようですが、私は林の中で放置されている物件が多いように思えた。



*4

これは途中の都市に隣接する公園です。
道路沿いのバス停は何処も質素で、寒くなると困るんじゃないかと思いました。



*5



*6

上の写真: 送電線が走っている所では森が切り拓かれていて、森の奥行が良くわかります。

下の写真: これは原野の中に点在する村の一角です。
道路沿いの村の多くはあまり大きくなく、住居は疎らに並んでいることが多い。
ここらでは住居当たりの敷地は広く、自然と共存している。



*7



*8


*9

ロシアもバルト三国もキリスト教の国ですが、道路沿いに教会を見ることは少なかった。
それは広大な原野に人が疎らに住んでいており、昔からある村は今回走った幹線道路から遠いせいかもしれない。


*10

上の写真: ロシアとエストニアの国境を流れるナルヴァ川。
ここからフィンランド湾の河口まで16kmです。
今、ちょうど厳重なロシア側の検問を終え、橋を渡ってエストニア側の検問所に行く所です。

中央の写真: エストニアの検問所を出た広場。
この建物は市役所と旅行案内所のようです。

下の写真: 今出て来たエストニアの検問所です。
この検問所の右横を進むとナルヴァ城に行くことが出来ます。


ロシアを去るにあたって
私にとってロシアは是非とも訪れて、自分の眼と耳で確認しておくべき国でした。

ロシア、ソ連は歴史的にも、超大国の隣国であることも私に関心を抱かせた。
この国は社会主義の実験場であり、ゴルバチョフの低迷後、プーチンでどのようになっていくのだろうか?
また明治維新後、日本が最も恐れたのはロシアでした。
ロシアは本当に拡張主義を取り続ける国なのだろうか?

それらを知るには、首都モスクワやクレムリンを知る必要がある。
また、サンクトペテルブルグや宮殿も見たい。

直観的に感じた最大のことは、都市部の生活が非常に豊かなことでした。
観光地とショッピングセンターしか行っていないが、商品が溢れ、値段も高くない。
都市部の経済状況は良いようです。

一方、郊外や地方は取り残されている感じがした。
郊外のアパート群や原野の中の農家は古いままのように見える。
外から見て生活の質はわからないが、自然と共存しゆったりと暮らしている可能性はある。

次に感じたことは、その国土の広さと未開発地域の多さです。
もしかすれば、かつての開墾地が放置されただけかもしれないが。
モスクワからサンクトペテルブルグ、エストニアへのルート沿いを見る限り、耕作地や牧場、植林地になりそうな原野が広がっていた。
これは大きな資産だと思う。

しかし心配なこともある。
それは現地の数人の人と話して感じたことです。

一人は熱烈なプーチンびいきの男性でした。
ゴルバチョフは経済を崩壊させ連邦を崩壊させ国土を失わせたとこき下ろし、一方、プーチンは経済を復活させ領土を取り戻したと絶賛した。
これは欧米での評判は前者が良く、後者が悪いと伝えた後の説明でした。
チェチェン紛争を取り上げると、彼は一蹴した。
「あれはロシアのものだから当然であり、問題にならない。」
他の話も、この調子で取り入るひまが無い。

人は好さそうで、怒って私に反論しているわけではない。
ただプーチンを信頼しているに過ぎない。
おそらくはゴルバチョフの大転換が無ければ、今の元気なロシアや明るさを取り戻した東欧は無かっただろう。
一方で、プーチンの剛腕は混乱からの脱出を可能にし、必要悪なのかもしれない。


また一人の若い女性との話も印象的でした。
彼女は失礼な質問にも親切に答えてくれた。

欧米や日本から見ればロシアは以前から侵略国に映り、今の動きに不安を持っていると伝えた。
彼女は、それは米国のプロバガンダに過ぎないと言った。
またロシア国民は侵略を望んでいないと断言した。

日本は明治維新後、軍事大国に進んだ理由の一つは、ロシアが最大の仮想敵国だったからですと説明した。
彼女は、最大の敵は米国だったはずですと私に言った。
それは日本が満州に乗り込んでからの事ですと私は答えた。
彼女は日本史を大学で学んだいたはずだが。

私はバルト三国の人々がロシアを恐れているように聞いているが、ロシア国民はどのように思っているのでしょうかと聞いた。
彼女は、質問に驚きを示した後、そのような小さな国のことは知らないと答えた。


二人との話は長いのですが、要点は以上です。


私の感想
ロシアでは情報が一方的になっている可能性が高く、特に米国に対しての偏見、悪い国とのイメージが強いようです。
おそらくはそれを正す情報が入手し難いのでしょう。

また、私達から見ればウクライナやチェチェン、クリミヤ問題は武力干渉や侵略に思えるのですが、ロシアから見れば歴史的な経緯がある領土問題です。
確かに1500年も遡れば、その境界は混沌として来ます。
ロシアの歴史を見れば、ロシアもかつては多くの異民族から侵略され、その対抗手段として強国になったとも言える。
また進出の矛先はバルト海(サンクトペテルブルグ)と黒海(クリミヤ)などで、交易と文明開化の為と言える。

少なくとも、ロシアでは一方的な物の見方が定着しているように思った。
必要なことは、交流を深め、つまらない誤解を解き、互いに真実を知るべきです。
これは、欧米や日本にも言えることですが。

今回の旅行中、各国で歴史や社会について話している時、立場が悪くなると必ず口をついて出てくる言葉が「それはプロパガンダですよ!」と言って、話は終わってしまう。
この逃げの言葉は使いたくないものです。

それでも、今回の旅行では日本語で多くの方と忌憚のない意見交換が出来た。
話し合った方々に感謝します。


次回、ナルヴァ城を紹介します。



20161211

Bring peace to the Middle East! 50: religion and persecution 4: Persecution of Jewish people 2

中東に平和を! 50: 宗教と迫害 4: ユダヤ人の迫害 2



< 1. アンネ >

We looked at the Persecution of Jews by the Nazis last time.
We pursue the history of the Persecution of Jews in Europe this time.

前回、ナチスによるユダヤ人の迫害を見ました。
今回、西欧でのユダヤ人迫害の歴史を追います。




<  2.  An invasion of Palestine by the Crusade  >
< 2. 十字軍のパレスチナ侵攻 >


The history of the Persecution of Jews in Europe
Persecuting Jews was not limited to just Germany during the Second World War.
From a long time ago, the storm of the persecution of Jews had raged from Europe to Russia.

When motion of the Crusade became lively in the eleventh century, people who considered Jews the enemy of Christian turned into a mob and killed one-third of Jews in Germany and north France.

In the thirteenth century, anti-Judea riot happened, and Jews who had served British royal families became deportation.
But, in the 18th century, the U.K. established a Jewish district in London to win intense world trade competition.

Jews of France had lived as merchants or craftsmen in some cities, but in the 14th century, the motion of anti-Judea happened, and the Jews were ousted.
But, after the French Revolution, the Jews were endowed with equal right once.

When the pest was epidemic in the 14th century, the false rumor that Jews threw poisons into wells spread, and the persecution and slaughter against them happened in each place.
From this time, the Jew was forcibly segregated into ghettos.

When Reconquista was completed in the Iberian Peninsula in the 15th century, not only Muslim but also Jew was ousted.
And, the Inquisition was carried out against Christian converts who still stayed, and most of the execution by burning were Jews.

The Jew that was ousted from Europe flowed into Poland and Russia of the east side.
Whenever countries the Jew immigrated to were confused, here again the Jew was persecuted as an outlet for complaint and betrayer.



西欧でのユダヤ人迫害の歴史
大戦中のドイツだけがユダヤ人迫害を行ったのではありません。
西欧からロシアにかけて、遥か以前からユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れていた。

11世紀、十字軍運動が盛り上がると、ユダヤ人をキリスト教徒の敵とみなした民衆が暴徒化し、ドイツや北フランスのユダヤ人を三分の一を殺した。

13世紀、反ユダヤ暴動が起こり、英国王家に仕えていたユダヤ人が国外追放となった。
但し、18世紀、英国は激しい貿易競争に勝つためにロンドンにユダヤ人地区を設けた。

フランスのユダヤ人は幾つかの都市で商人・職人として暮らしていたが、14世紀になるとユダヤ人の迫害が進み、追放された。
但し、フランス革命後、ユダヤ人に平等の権利が認められたことがあった。

14世紀、ぺストが大流行すると、ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだデマが広がり、各地で迫害や虐殺が起きた。
この頃から、ユダヤ人をゲットー(居住区)に強制隔離するようになった。

15世紀、イベリア半島でレコンキスタが完了すると、イスラム教徒だけでなくユダヤ教徒も追放された。
そして残ったキリスト教改宗者に対して異端審問が行われ、火刑の多くはユダヤ人であった。

これら西欧から追放されたユダヤ人は東方のポーランドやロシア側に流入した。
ここでもユダヤ人は、移住先の国が混乱する度に、不満のはけ口や裏切り者として迫害されることになった。





<  3.  Jews were sacrificed when the pest was epidemic >
< 3. ペスト流行時、犠牲になったユダヤ人 >

Why was the Jew persecuted?
There are some common points about the background of above-mentioned persecutions.

When certain society fell into an difficult economic situation, the dissatisfaction of the people was turned to rich Jews, and their assets were often plundered.

The reason why moneylender is outstanding to Jew is Christian could not enter the moneylending business because the Old Testament (Deuteronomy) had prohibited the interest rate.
On the other hand, all restrictions were imposed on the Jew of Europe, they could not go into agriculture or guild (trade association), and had no choice but to go into a moneylending business or entertainment.  Annotation 1.

The Jew was despised and was considered as a betrayer, then was often considered as a cause of epidemic or natural disaster.
Because the Jew had repeated Diaspora and emigration, when they were persecuted, they sometimes asked for help from other countries, and went over to the other side.
The same as many victims of discrimination , it came to develop the group's own identity to strengthen solidarity, and they became more remote from the neighboring society.

However, the largest cause is elsewhere.
It was closely related to the fact that the Jew had been able to coexist with Islam until one century ago.
In other words, it is the antagonism between Christianity and Judaism.
In an extreme instance, the Christianity was established by adding the New Testament to the Old Testament of the Judaism and was the religion like the brothers of it.
However, the establishment of Christianity made the Jew unfortunate.

This continues the next time.




なぜユダヤ人は迫害を受けたのか?
前述の迫害が起きた背景に幾つかの共通点がある。

社会が経済的苦境に陥ると民衆の不満が裕福なユダヤ人に向けられ、資産が略奪されることもあった。

ユダヤ人に金融家が目立つのは、旧約聖書(申命記)が金利を禁止していたのでキリスト教徒は金融業に参入出来なかったことによる。
一方、西欧のユダヤ人は、あらゆる制限を課せられ、農業やギルド(同業者組合)に参入出来ず、金融業や芸能などを生業にせざるを得なかった。注釈1.

ユダヤ人は蔑視され裏切り者と見なされており、疫病や天変地異の原因にされた。
ユダヤ人は離散と移住を繰り返していたので迫害されると、救いの手を他国に求めたり、また寝返ることもあった。
多くの被差別民と同様に、団結を強めることが集団の独自性を高めることになり、より周辺社会から疎遠になってしまった。

しかし最大の要因は別にある。
それは、一世紀前まで、ユダヤ教徒はイスラム世界で共存出来ていたことと関係があります。
つまり、キリスト教とユダヤ教の対立なのです。
キリスト教はユダヤ教の旧約聖書に新約聖書を加えて成立した兄弟のような宗教です。
しかし、キリスト教の誕生がユダヤ教徒に悲運を背負わせることになったのです。


次回に続きます。


注釈1.
申命記(旧約聖書)による金利の禁止はキリスト教徒よりもユダヤ人にとって重大なのですが、二つの逃げ道があった。

「同胞に利子を付けて貸してはならない。・・・外国人(異教徒)には利子を付けて貸してもよい・・」24章20-21より
ハムラビ法典でも、国内と国外で法律の適用を変えている。

「主はあなたを祝福されるから、多くの国民に貸すようになるが、借りることはないであろう。」15章06節より

またユダヤ人は中東において古代より高い文化を持ち王宮に仕え、離散によるネットワークを生かし貿易で活躍していた。
西欧において、キリスト教徒は金融業から締め出されたので、逆にユダヤ人は金融業で成功することになった。


ここで宗教に共通する現象がみられる。
それは金利や利益の扱いです。
ほぼ世界の経典宗教は、金利や商業を蔑視し禁止していた(実際には行われていた)。
これは当時の小さな同族社会では、利子や利益を貪る行為が融和を乱し、紛争を招くと考えられていたからです。
しかし、時は流れ、産業と貿易が発展すると偽装金利が横行するようになり、ついには金利を容認せざるを得なくなった。

それぞれの教団は聖典の解釈を変更せざるを得なくなった。
キリスト教では、13~14世紀にかけて、一部の利子を認めていくことになった。
16世紀の宗教改革以降、利子取得は容認されるようになった。

イスラムでもコーランは利子を禁止していた。
資金の貸与は利子以外の方法で利益が得られ行われていたが、商事会社の発達を阻害しいた。
19世紀後半、ファトワーが発せられ、ムスリムも利子や配当を受け取れる場合が認められた。
最近では利子取得を回避する手として、銀行と融資を受けた事業体が共同経営を行い、利益を配分する例がある。

ここで興味深いのは、聖典に遺存した古い規律が社会の変化に適合しなくなると、教団は何とか解釈の変更で問題解決を図っていることです。