20151122

I visited colored leaves of Nara prefecture 1


奈良の紅葉を訪ねて 1



 
*1

I went to see colored leaves of Nara on November 19.
Today, I introduce the colored leaves of Shoryakuji temple in Nara prefecture.

この11月19日に奈良県の紅葉を見に行きました。
今日は奈良市菩提山町の正暦寺の紅葉を紹介します。


< 2.  Main hall and bell house >
< 2. 本堂と鐘堂 >

It was cloudy unfortunately.
The colored leaves in here seem to be at their best around this time yearly, but it in this year was not very good because it was warm.
However, I enjoyed red and yellow autumnal scenery.
I used a sightseeing tour.

この日はあいにくの曇りで、今にも雨が降って来そうでした。
寺のある谷間の紅葉は例年今頃が盛りなのですが、暖かいせいか良くないそうです。
今回は、四国発の日帰り観光ツアーに便乗しました。
1年1度の紅葉見物では当たり外れがあり、少し残念でした。
それでも赤や黄色の秋色を楽しみました。




< 3.  Bell house >
< 3. 鐘堂 >



< 4.  Memorial towers >
< 4. 供養塔 >

There are these memorial towers below the open space of the main hall.
It seems to be the priest’s grave of this temple.

この供養塔は本堂の広場を降りた所にあります。
この寺の僧侶の墓だそうです。




< 5. An approach >
< 5. 参道 >





< 6,7,8.  Views from the gardens of a reception of the temple >
< 6、7、8. 福寿院客殿の庭先から >



< 9.  Colored leaves and a small stream >
< 9. 紅葉とせせらぎ >



< 10.  Colored leaves of Ginkgo
< 10. 銀杏と紅葉 >

Next time, I introduce Chogakuji temple.

次回は、長岳寺を紹介します。








20151121

社会と情報 63: 戦った報道 20




< 1.青島の居留地 >

記事の投稿順序を間違いましたので、差し替えします。

前回、国内の窮状を見ました。
しかし、なぜ国内問題の解決が満州侵攻だったのかが明確ではありません。
今回、その背景を経済的側面から見ます。

はじめに
私は、これから大陸侵攻の経済的側面、特に植民地化と産業貿易について見ていきます。

ところで、あなたは台湾人が日本の植民地統治をどのように見ていると思いますか?
参考に台湾大学の歴史学科教授のコメントを記します。文献1.

「台湾は、日本の統治下で、近代化と植民地化の二重の歴史過程を経験した。一般的に植民地化は完全にマイナスの経験とされ、近代化と言えば、プラスの評価が強調されることが多い。しかし、・・これは二重奏のようなもので、・・この両者の関係をなおざりにするならば、台湾人が日本統治に対して抱いている心情の複雑さを理解することは出来ないだろう」



< 2. 関東軍参謀の石原莞爾 >

満州事変前後の代表的な発言
最初に、当時の人々は1931年の満州事変をどのように捉えていたのかを見ます。
六つの意見を要約しました。

A: 1929年、満州事変の首謀者石原莞爾の「満蒙問題解決案」より 文献2.
「満蒙の合理的開発により、日本の景気は自然に回復し有識失業者を救済することが出来る」

B: 1931年10月、大企業を中心とした財界4団体の申し合わせより 文献2.
「協同一致排日行為の絶滅、対支懸念および満州問題の根本的解決を期す」
この年の9月の満州事変を受けての反応です。



< 3. 1935、36年、上海の抗日運動を報じる新聞 >

C: 1931年11月、山形県のある軍人後援会の設立趣意書より 文献2.
「今やわが国は空前の難局に際し、満蒙はおろか全支にわたり武器を採って先陣を進めつつあり、・・本村から出征している軍人は6名の多数に上っているのであります。この我等村民は挙村一致してこれら軍人を後援し・・・億兆一心義勇奉公の誠を表したいと思います」

D: 1932年8月、日本中小商工会連盟の決議より 文献2.
「中小商工業者の満州移民進出のために政府は急遽積極的方策を確立すべし」


E: 1932年6月の第62帝国議会への誓願活動の要約、自治農民協議会による 文献2.
「農家の負債を3カ年据え置くこと。肥料資金として反当たり一円の補助を出すこと。満蒙移住費として5千万円の補助をだすこと。」

F: 1937年元旦、貴族院議長近衛文麿(後に首相)の発言記事より 文献3.
「天賦の資源を放置して顧みないというのは、天に対する冒涜ともいい得るが、日本は友人として開発をなさんとするものである」
この年の7月に日中戦争の戦端を開くことになるが、上記は中国のことを指す。



< 4. 満州開拓の夢と現実 >

説明
農家や中小企業、大企業、政府を代表し国論を牽引した人々は満州事変を契機にして、移民の増大、現地の排日行為根絶、中国からの干渉阻止、中国の資源開発を訴えた。
そして多くの人が横暴で未熟な現地を軍事で制圧することに賛成した。

軍部や政府は大陸の情報を捏造し続けていたので、国民はそうだと思うようになっていた。注釈1.
この態度はFのように近衛の発言にも現れている。
一方、末端の人々はCのように政府や軍に対して従順であった。
実は、Cは在郷軍人会、Dは左翼、Eは右翼が関わっていた。
こうして左翼も右翼もこぞって戦争に足を突っ込んだ。
まだ満州事変の段階では、日本政府は戦線不拡大の方針のはずだったが、既にCの発言には中国侵攻が謳われていた。

次回は、具体的に経済的な背景を見ます。


文献1:「図説台湾の歴史」周著、平凡社刊、p123。
文献2:「集英社版日本の歴史20」p22、27、28、31、77。
文献3:「図説日中戦争」河出書房新社刊、p9。

注釈1: 満蒙で起きていた1928年の張作霖爆殺事件、1931年の中村大尉事件、万宝山事件、満州事変などが典型です。
どれも政府、特に軍部が国民に事実を知らせないだけなく、敵意を煽るために情報を捏造していた。
国民が真実を知るのは戦後になってからでした。




20151119

Went around Croatia and Slovenia 12:  Seafaring country Dubrovnik 2


クロアチア・スロベニアを巡って 12: 海洋都市ドゥブロブニク 2



< 1. Viewpoint A. I overlook the old port from rampart >
< 1.視点A。城壁から旧港を見下ろす >

Today, I introduce a walking on the rampart of Dubrovnik.
Unfortunately I didn’t go all the way around it, but even part of it was worth seeing.

今日は、ドゥブロブニクの城壁の散策を紹介します。
残念ながら一周はしていませんが、その一部でも見応えのある景観でした。




< 2.  Whole view of Dubrovnik from Mt. Srd >
< 2.スルジ山から見たドゥブロブニク >

We walked the promenade of rampart of the near side from the left side to the right side.
I wanted to walk the rampart of the seaside, but couldn’t go on the grounds of our tour.
We walked it from 10:00 to 10:20.

私達は手前側(山側)の城壁の遊歩道を左側から右側に歩きました。
私は海側の城壁を歩きたかったのですが、ツアーの都合でいけませんでした。
城壁を歩いたのは10:00~10:20でした。



< 3. Our sightseeing route >
< 3.私達の観光ルート >

Legend:
A yellow line shows a walking route of the rampart.
Yellow arrows and alphabets indicate approximate photography point and direction.
Red stars are main sightseeing spots seen from the rampart.
Blue lines are our sightseeing routes.

凡例:
黄色線は私達の城壁の散策ルートです。
黄色の矢印とアルファベットはおおよその撮影地点と方向を示しています。
赤の星印は、城壁から見える主な観光スポットです。
青線は私達の観光ルートです。



< 4.  Viewpoint A >
< 4.視点A >

I saw the old port from the top of the stairs that I had climbed up to.
The stone wall of the left hand is a part of Revelin fortress surrounding an east gate.

階段を登り詰めた所から旧港を望む。
左手の石垣は東の門を囲んでいるレヴリン要塞の一部です。



< 5.  Viewpoint B >
< 5.視点B >

Upper photo:  Saint Ivan fortress on the left end was a cornerstone of protection for old port.
There is Lokrum Island in the back.
Lower photo:  Dominikanski monastery and bell tower are near the entrance of the rampart.

上の写真: 左端にあるのが聖イヴァン要塞で旧港の守りの要だった。
その奥に見えるのがロクルム島です。
下の写真: 城壁の上り口のすぐ隣にあるドミニコ修道院と鐘楼。



< 6.  Viewpoint C, D, E are arranged in order from the top >
< 6. 上から順に視点C, D, E >

Upper photo: Two gray dome roofs seen in the center are Saint Blaise church and Dubrovnik Cathedral from the near side.
The thin tower on the left side is a bell tower in Luža Square.

Lower photo: The brown square roofs and bell tower in the center are Franciscan monastery.
There is Pile Gate that we entered through the rampart on the right side.
Furthermore, there is Lovrijenac fortress beyond an inlet on the right side.

上の写真: 中央に見える二つのドーム状の灰色屋根は、手前から聖ヴラホ教会、大聖堂です。
その左側の細く高い塔はルジャ広場にある鐘楼です。

下の写真: 中央の方形をなす茶色屋根と尖塔はフランシスコ修道院です。
その右側の城壁に私達が入って来たピレ門があります。
さらに右の入江を挟んでロヴリイェナツ要塞が見えます。




7. Viewpoint F,G >
7.  視点F, G >

Upper photo:  Minčeta Tower from the promenade of the rampart.
It was built in the 14th century and was rebuilt in the 15th century.
I didn’t climb it because I need to move forward fast.
A regret!

Lower photo:  There is Pila Gate in the center of the rampart, and Fort Bokar in the back.


上の写真: 城壁の遊歩道から見たミンチェタ要塞。
これは14世紀に造られ15世紀に再建された。
この上からの眺めは期待出来たのですが、先を急いで行かなかった。残念!

下の写真: 城壁の中央にピレ門、その向こうにボーカル要塞が見える。



< 8.  Viewpoint H
< 8.視点H >

The left side is the rampart that we just walked on.
There is the Adriatic Sea beyond the old port, and furthermore the Mediterranean Sea in the back.

左側が今歩いて来た城壁で、旧港の向こうにアドリア海、さらにその向こうに地中海がある。




< 9. Viewpoint I >
< 9.視点I >
I look down Placa street from the top of Pila Gate.
A church and Franciscan monastery lined up on the left side from the near side.
There is a bell tower of Luža Square at the end of the street.

ピレ門の上から、プラツア通りを見下ろす。
通りの左側、手前から救世主教会、フランシスコ修道院と並ぶ。
通りの突き当たりにルジャ広場の鐘楼が見える。



< 10.  Viewpoint I >
< 10.視点I >

I look down the right side of Placa street from the top of Pila Gate.
The dome structure of the lower right is the upper part of Big Onofrio's fountain.

ピレ門の上から、プラツァ通りの右側を見下ろす。
右下のドーム状の構造物はオノフリオの大噴水の上部です。

About the rampart
It is the about 8th century when this old town was born that this rampart surrounding it was built.
After that, it was expanded and became its current form in the about 16th century.
The max height is 25 m, the width of the sea side is 1.5 – 3 m, and it of the mountain side is 4 – 6 m.
Walking on the promenade of the rampart takes one hour by making a circuit.
The entrances are four, and four fortresses are established at four corners.
At the entrance of the Lovrijenac fortress (viewpoint E, G) on the western outside, the following message had been carved on the castle wall.
" It isn’t in the right that we sell our freedom for even every gold "
Here is the spirit of a seafaring country that traded over the world of the Middle Ages.


城壁について
旧市街を取り囲む城壁が築かれたのは町が誕生した8世紀頃です。
その後、拡張され16世紀頃に現在のような姿になった。
城壁の高さは最高25m、巾は海側で1.5~3m、陸側で4~6mもある。
城壁の上の遊歩道は一周約2kmでゆっくり歩いて1時間です。
入口は4ヵ所、要塞は4つの角に設けられている。
城壁の外、西側のロヴリイェナツ要塞(視点E,G)の入口に
「あらゆる黄金をもってしても自由を売るは正しからず」と刻まれている。

まさに中世、世界を股に掛けた海洋国家の心意気が見えます。

Afterword
My dream was to look at a city of seafaring country that thrust in the sea.
This city was an independent nation once, and was a perfect city that had left a feature of the Middle Ages.
How could such small country continue with the independent nation between large countries for approximately seven centuries?
Phoenicia and Miletos must have been similar, too.
This history romance tempts me into next meditation.

This continues next time.


あとがき
私はこのような海に突き出した海洋都市国家を見ることが夢でした。
ここは独立した海洋国家で、中世の面影を残している申し分のない都市でした。
このような小国が如何に大国の狭間で約7世紀もの間、存続出来たのだろうか?
かつてのフェニキア、ミレトスも同様だったに違いない。
歴史ロマンは私を次へと誘う。

次回に続きます。








20151116

社会と情報 62: 戦った報道 19



< 1.日露戦争の凱旋 >

今回は、1900年代から1930年代、明治末期から昭和初期にかけての国民の窮状を具体的に見ます。


三つの時期について窮状を見ます



< 2. 傷痍軍人 >

1900年代を中心に 文献1.
日清・日露の戦役が世の中を変えた。

廃兵(傷痍軍人)
日露戦争(1904、05年)によって、死傷病者は出征兵士の49%、46万に上った。
当時、人口4600万人、就業者2500万人の66%が農林業従事者で農家数540万戸であった。
特に農家の場合、彼らは主要な働き手であったので、その家族は路頭に迷うことになる。

苛税
国民総生産に占める全政府支出は1890年に11%であったが、1900年19%、日露戦役以降の1910年に38%に上昇してから、1920年25%、1930年38%となった。
1910年、国の一般会計歳入の内訳は、直接税の所得税・営業税が8.5%にしか過ぎなかった。
地租税11%と残り間接税の類80.5%が多いため、低所得層(庶民と農民)の負担が大きく、益々生活は苦しくなっていく。 注釈1.
累進性の無い税制、間接税中心の当時の税制は富裕層や企業には有利だった。 
これは当時の選挙民は一握りの富裕層だったので直接税導入が猛烈な反対に合い困難だったことによる。

この上、戦時公債の引受、「愛国心」を計られる半強制的な軍資献納金が追い討ちをかけた。
その結果、税金を払えないことによる財産の差し押さえは1900年代の10年で約10倍に増加した。


< 3. 村の身売り相談 >

1920年代前半を中心に  文献2.
第一次世界大戦の好景気の反動による戦後恐慌が世の中を変えた。 

農民の困窮
1922年頃、自作農家で32戸中11戸、小作農家で35戸中14戸が、赤字に陥っていた。
小作人は小作料と高利の借金に喘いでいた。
農民は寄生虫やトラホームに罹患し健康者は1割しかいなかったし、小学児童の弁当の副食は8割が梅干しだけであった。
こうして小作争議は1918年に全国で256件であったのが、1926年には2751件と膨れあがった。

農家の苦境の背景に何があったのか。
1910~40年の自作農は約30%に過ぎず、他は小作(一部自作も含む)であった。
またこの時期、米の反収が伸びない上に、1920年の戦後恐慌から1930年の間に米価は60%下落した。
この間、消費者物価は26%下落した。
1918年の米騒動以降1930年代前半までに、朝鮮米の徴発量は日本の産出量の約4%から14%に増え、昭和東北大凶作(1931~1932年)では不足分の7割を賄った。
しかしこれが日本の長期米価低下を招き、朝鮮半島の人は40%もの消費減に耐えなければならなかった。
彼らは満州に脱出するか、満州からの稗や粟でしのいだ。

もっとも、第一次世界大戦の好景気では、米価の高騰で農村は潤ったこともあった。
同時に、都市部では大正デモクラシーを謳歌し、労働者の賃金は上昇し、1920年代前半はまだ賃金水準が維持されたので恐慌の影響が少なかった。
むしろ都市部ではインフレ時に苦しむことになった。



< 4. 昭和恐慌、銀行の取り付け騒ぎ >

1930年代前半を中心に 文献3.
1923年の関東大震災、1927年の金融恐慌、1929年の世界大恐慌、1930年の昭和恐慌が続き社会は悪化の一途を辿った。

失業
企業の利益率は半分になり、賃金も2割減となり、会社の倒産が相次ぎ、賃金の不払いも増加し、大量解雇が発生した。
失業者は1930年から増え始め、31年に280万人、失業率8.9%でピークに達した。
労働争議は1925年に全国で293件だったのが、1931年998件とピークを迎えた。
この膨大な失業者のうち、工場労働者の約4割、鉱山労働者の約2割が帰農した。
ただでさえ貧しい農村に人が溢れ、困窮は極限に達した。
こうして農村部で人口過剰が問題となり、移民が説かれた。

農村の窮乏
都市部の購買力減はさらに農作物の価格を1929年から31年かけてさらに約60%低下させた(32年にかけてほぼボトム)。
さらに1931年、34年に東北・北海道が凶作に見舞われ、自作農で60%、小作農で75%が赤字農家に転落した。
税金が納められず、土地や収穫物を差し押さえられる農家が続出した。

こうして昼食抜きの児童が増え、東京へ娼婦として売られる娘が続出した。
1934年の身売りは約2万人で、娘を一人売ると親は約1年分の所得を得ることが出来た。
小作争議はこの年に更に最大を更新し6824件となった。


< 5. 所得格差 >
解説: 日本(赤線)は明治から太平洋戦争が始まるまで所得格差は高いままだった。
ドイツ(青線)では第一次世界大戦以後の社会主義政権で所得格差は是正されたが、ヒトラーの独裁が始まってから所得格差が急増したが、それでも日本よりもましだった。


まとめ
満州事変に至る約30年間の庶民の困窮状態を見ました。

この間、農家は日本の一人当たり実質成長1.3倍(注釈2)の経済発展から取り残され、さらに悪化し、豪農と貧農の格差も開いていた。
一方、都市と工業は大きな発展を遂げたが、第一次世界大戦の好景気と戦後恐慌を経て、経済格差が広がった。
労働者では熟練度や企業規模(産業の二重構造)などによって賃金格差が生じ、また軍需産業重視の施政によって財閥化が進んだ。
肥大化する財政と累進性の無い税制(注釈3)は低所得者を益々追い詰めた。
こうして欧米先進国と比べて所得格差は群を抜いて高くなった。

さらに政府と軍需産業との癒着、疑獄事件、大企業や財閥優先の経済政策は国民の怒りと失望を買った。
こうした不満の爆発から、1931年に満州事変が起こり、日本は戦争への道を突き進んだ。

次回は、経済的な謎、なぜ国民は満州侵攻を受け入れたのかを探ります。


注釈1: 上記間接税の類には郵便電信収入なども含めている。1910年一般会計歳入の公債・借入金は0.5%に過ぎないが、特別会計の規模は一般会計の1.7倍あった。この特別会計でさらに莫大な軍事費が支出され、収入は公債・借入金が大半であった。いずれこの支払いも国民の税金とならざるを得なかった。日清戦争だけは賠償金で国民の負担は減った。また個人消費が国民総生産に占める割合は90~70%なので、庶民の税負担率はさらに増す計算になる。

注釈2: 「世界経済の成長史 1820~1992年」マディソン著、(p77、p143)によると1913~50年の一人当たり実質GDPの平均複利成長率は0.9%、人口は1.6倍となる。つまり30年間で実質GDPは一人当たり1.3倍、全体で2.1倍になる。この一人当たりの成長率は同期間のアジア11カ国(台湾、タイ、韓国、中国など)の中で群を抜いて良かった。

注釈3: 高所得に比例する所得税などの直接税が低く、酒税などの消費に比例した間接税が高かったので、低所得者ほど税率が高くなり貧富の差は開くことになる。
 
文献1:「集英社版日本の歴史18」p202~210。「日本経済史」石井寛治著p193~196.「数字でみる日本の100年」国勢社刊、p276~。

文献2:「数字で見る日本の100年」国勢社刊、p116,p270。「経済学大系7 日本経済史」学文社刊、p147、p159。「日本経済史」放送大学教育、p100、p150。振興会刊。図説日本史、東京書籍刊、p201、p221。






20151114

Went around Croatia and Slovenia 11: Seafaring country Dubrovnik 1


クロアチア・スロベニアを巡って 11: 海洋国家ドゥブロヴニク 1



< 1.  A top-down view of old port in Dubrovnik >
< 1.ドゥブロヴニクの旧港を見下ろす >

I introduce world heritage Dubrovnik in installments from now.
This place is praised as a pearl of the Adriatic Sea.
Please fully enjoy the beauty of Dubrovnik from the outside today.

今日から数回にわたり世界遺産ドゥブロヴニクを紹介します。
ここはアドリア海の真珠と讃えられている。
今日は、外から見たドゥブロヴニクの美しさを堪能して下さい。


< 2.  Whole view of Dubrovnik from a observation deck of Srd mountain >
< 2.スルジ山の展望台から見た全景 >

Inside the rampart, a medieval city that thrusts in the sea is Dubrovnik.
The gray rampart surrounds innumerable orange roofs, and azure sea and sky wrap it.
On the left side of the fort city, an old port that innumerable ships anchored in brought prosperity to this city once.

We visited here from 8:40 to 12:40 on Wednesday, September 2.
It was a refreshing morning, and fine weather.

城壁に囲まれ、海に突き出した中世都市がドゥブロヴニクです。
無数のオレンジ色の屋根とそれを取り囲む灰色の城壁、紺碧の海と空がそれらを包み込んでいます。
この城砦都市の左側に、船が無数に停泊しているのがこの都市に繁栄をもらした旧港です。

ここを訪れたのは9月2日(水)、8:40~12:40でした。
快晴で爽やかな朝でした。



< 3.  Map of Dubrovnik >
< 3. ドゥブロヴニクの地図 >

Legend:  The upper side of all maps is the north. Two yellow arrows indicate its location.
Upper map:  Dubrovnik is the most south end of Croatia.
Central map:  Dubrovnik is a strategic location between the sea and Srd mountain.
Lower map:  Two black arrows indicate the east-west end of Placa street within the city, and the length is 280 m. 

凡例: すべての地図の上側が北です。黄色の矢印がその場所を示します。
上の地図: ドゥブロヴニクはクロアチアの最も南端にあります。
中央の地図: ドゥブロヴニクは海とスルジ山に挟まれた要害の地にあります。
下の地図: 黒い矢印は城壁内のプラツァ通りの東西両端を示し、その長さは280mです。



< 4.  Cable car toward Mt. Srd >
< 4. スルジ山に向かうケーブルカー >

Firstly, we went to an observation deck of Mt. Srd on the cable car.
始めに、ケーブルカーに乗ってスルジ山の展望台に行きました。




< 5. The right-side view of Dubrovnik from the observation deck >
< 5. スルジ山展望台からドゥブロヴニクの右側を見た >



< 6. The left-side view (the east side) of Dubrovnik from the observation deck >
< 6. スルジ山展望台からドゥブロヴニクの左側(東側)を見た >

In here, the mountains of Balkan Peninsula directly sink into the sea, and there are no plains.
ここ一帯はバルカン半島の山々が海に落ちており、平野はありません。



< 7.  A top-down view from our gondola >
< 7. ゴンドラから都市を見下ろした >
Things seen in the center are the rampart and Minčeta Tower.
中央に見えるのが城壁とミンチェタ要塞です。


< 8. The outside of the northern rampart >
< 8. 北側城壁の外側 >

We got off the cable car, and we began walking along the rampart about 9:25.
ケーブルカーで降りてきた後、山側の城壁伝いを歩き始めたのは9:25頃でした。



 


< 9.  We went in Pile Gate >
< 9. ピレ門からいよいよ内部に入る >]

Pile Gate is the biggest gate.
Thing on the gate is a Blaise statue of Dubrovnik's patron saint.
I passed through the gate, but thick rampart still stood, and I was surprised at the strictness.

いよいよ最大の城門から入ります。
城門の上にあるのはこの都市の守護聖人ブラホ像です。
城門を抜けても、まだ分厚い城壁が待ち構えており、厳重さに驚かされます。



 10.  Sunset of Dubrovnik 
< 10. ドゥブロヴニクに沈む夕陽 >
The gulf that sunset reflects in is the old port.

This continues next time.


コトルに寄ってホテルに向かう途中でちょうどドゥブロヴニクの旧港に沈む夕陽に巡り合えました。
夕陽が反射している湾が旧港です。

次回に続きます。