20140211

社会と情報 19: 国民にとって真実とは

 ホーチミン(旧名サイゴン)

< 1.現在のホーチミン(旧名サイゴン) >

今まで、ベトナム戦争を通して真実が如何に国民に伝わらないかを見て来ました。
一方で、必ずしも国民がすべての真実を欲しているわけではないのです。
今回、この問題を見ます。

何が真実なのか?
戦場の記者にとって真実とは何か?
一枚の華々しい戦闘シーンの写真、それとも残虐シーンでしょうか?
それとも戦略の適否か、兵士や人々の苦境でしょうか?
テレビや日刊紙の記者は日々追われるように、眼前に広がる光景を切り取るだけだった。
また記者にとって、戦争は最大の事件であり、その記事や写真は商品でもあった。
本国の編集者にとって、それは視聴率や購読量を増やすネタに過ぎないのかもしれない。

もし真実があるとしたら
戦争の正否や非人道性を判断し、その意味でどの記事が最適だと決めることは難しい。
南ベトナムの民衆の立場に立てば、記事は虐殺行為を訴えるのが最適かもしれない。
一方、米国民にとっては、犠牲を払って共産勢力を食い止めているのだから、記事は自国の被害と勝利こそが重要です。

1973年、和平による米兵の帰還

< 2.1973年、和平による米兵の帰還 >

伝わる真実とは
政府と戦場に都合の悪い情報は遮断され、都合の良い虚偽の情報が国民に与えられる。
記者と編集者の偏見や悪意のない選択が情報の偏りを生む。
しかし、さらに大きな障害が最後に待ち構えていた。
それは国民のムード、知りたい知りたくないことの揺らぎです。
これは日本も含めて、世界に共通する現象と言える。


ソンミ村事件

< 3.ソンミ村事件 >

ある虐殺事件を通して
一つの虐殺事件が世論を反戦へと押したが、ことはそう簡単ではなかった。
68年、ベトナムのソンミ村で、米兵の無差別射撃により無抵抗の村民(男女、乳幼児、妊婦)約500人が虐殺された。

その1年後、状況の改善を求めて、一人の兵士がその事件を多数の議員に手紙で告発した。
それを受けて一人の下院議員が軍事法廷を開始させたが、陸軍はもみ消そうとしていた。
元国防総省詰めのフリー記者が、これを嗅ぎつけ調査し、各新聞社に発表を働きかけた。
しかし、どこも本気で取り上げず、やがて半年が経とうとしていた。
その頃、ヨーロッパではこれが主要記事になり、米国の一地方紙が大量虐殺場面の写真を掲載した。
その後一気に米国を「良心の呵責」へと追い込んだ。
その後、急に多くの虐殺事件が報道されるようになった。

一方、この年、公約通りに米軍撤退が開始されていた。
政府は、爆撃による戦争拡大を秘密にし、終結に向かっていると国民を信じさせた。
すると、やがて国民は虐殺事件に関心を示さなくなっていった。


ベトナム戦争における米軍死者の推移

< 4.ベトナム戦争における米軍死者の推移 >

この現象の背景にあるもの
先ず、戦場では残虐行為は日常茶飯事であり、記者にとってニュースではなかった。
ソンミ事件以前にも、残虐な事件がわずかに報道されてはいたが、注目されなかった。
また報道の編集部は、国益に反し、国民の忌避が予想されたので、最初に残虐な写真を扱うには抵抗があった。
ところが68年から69年にかけて急激に死傷者が増え、30万人以上に達し、国民に厭戦気運が高まっていた。
そこで一気に火がついた。

しかし、国民が終戦は時間の問題だけと考え、関心を持たなくなると、編集部は、それを見越し戦場の報道を急速に減らしていった。
その結果、虐殺への関心は色褪せていった。
虐殺写真で一世風靡した写真家はその名声ゆえに、戦後、何処にも就職出来なかった。

それはあたかも、最大に膨らんだ風船を大きく破裂させる針の一刺しも、その前後では威力がないようなものです。

次回は、戦争当事国が互いに情報を持たないことで起こる失敗を見ます。












20140209

History of sickness and medical art 20:  Table of contents and abstract of the articles 1~19

 

I wrote the article of 19 episodes, and about 1/3 was over until now.
I make a table of contents and the abstract of the past article a list.

これまで19話の記事を書き、約1/3が終わりました。
これまでの記事の目次と要約を一覧にします。


A table of contents and abstract  /  目次と要約


 



Neanderthal man has supported a disabled person for a long time.
Chimpanzees cured a diarrhea by itself and performed the care of health or healing each other.

ネアンデルタール人は障害者を長期に養って来た。
チンパンジーは下痢などの治療を自分で行い、仲間の養生や癒しを行っていた。




The animal is performing various kinds of pediculicidal measures.
It may be said that the most primitive curing of others is the behavior of the cleaner fish of the coral reef.
Can the mouse feel the pain of others?

動物は種々のシラミ対策を行っていた。
最も原始的な他者への養生は、珊瑚礁の掃除魚かもしれない。
マウスは他者の痛みを感じることが出来るのか。




The recognition for the disease of indigenous people resembles that of ancient civilization.
The appearance was varied in accordance with the peoples, but the magician and medicinal herb were important in everything. 

先住民の病気に対する認識は、古代文明のそれと似ている。
その様子は民族によって異なるが、すべてにおいて呪術師と薬草は重要であった。




I look at the role and the treatment of magicians (shaman) of the world.

世界中の呪術師(シャーマン)の役割と治療を見ます。



  
I look at how a pastoral tribe in Kenya deals with the disease.
They have some recognition that is slightly different from others.

ケニヤの牧畜民の病気への対処を見ます。
彼らは他と少し異なる認識を持っている。




The sickness and medical treatment of the nonliterate society are summarized.
There was an intersection of early religion and science.

無文字社会の病気と治療について、まとめます。
そこには原初的な宗教と科学の交わりがあります。




I look at the oldest medical art that was performed in ancient civilization.
It exists surprisingly from time immemorial.

古代文明が行っていた最古の医術を見ます。
それは驚くほど古くから存在します。




I look at what kind of medical art have spread in the oldest civilization.

最古の文明ではどのような医術が普及していたのかを見ます。




  
The flamen and the doctor performed medical treatment and the medicines and a prayer were important means.
Even so, the medical art advanced markedly, and the medical system was made, too.

治療は神官と医者が行い、薬剤と祈祷が重要な手段だった。
それでも格段に医術は進み、医療システムも出来ていた。



  
Egypt left a lot of oldest medical books.

エジプトは最も古い医学書を数多く残していた。




They had the many names of the disease and the prescription thanks to the record of an abundant papyrus.

彼らは豊富なパピルスの記録のおかげで、数多くの病名と処方を持っていた。



  
They used some versatile theory for the understanding of the sickness, and considered that a specific internal organ is important.
In Egypt, some skilled physicians have left the name to the history.

彼らは病気に理解に汎用的な理論を用い、特定の内臓を重視した。
エジプトでは名医が歴史に名を残している。




I seek an origin of the religious precepts of a circumcision and the pork evasion, and the mandragora of medicinal herb.

薬草のマンドラゴラ、戒律になっている割礼と豚肉忌避の起源を追います.




I survey the Israeli history and look at the characteristic.
The Bible is the only one of source of medical information.

ここではイスラエルの歴史を概観し、その特徴を見ておきます。
聖書が唯一の医術の情報源です.




I look at the situation of the doctor, and the trust for medical treatment.

医者の立場、医術への信頼がどのようなものだったかを見ます。




About medical treatment and medicines, I look concretely.

医術と薬剤について、少し具体的に見ます。





The medical treatment was not important in the Bible, but the miracle of Jesus played a big role.
This was a great transformation in respect of the recognition to sickness, and about the religion too.

治療は聖書で重視されていないが、イエスの奇蹟が大きな役割を果たす。
これは宗教的にも、病気への認識の点でも大転換だった。



In this land, I see the disease was recognized very much religiously.
Thank you and please let me know if you have any questions.

この地では非常に病気が宗教的に認識されていたことを見ます。
今後もよろしくお願いします。




20140208

Travel to South Korean 9: In Soul

 A gate of Changdeokgung ”昌徳宮” 

 1.A gate of Changdeokgung ”昌徳宮 
I introduce sightseeing spots and the town of Seoul.

Changdeokgung
It was fine on that day, and the green of pine and the vermilion of the royal palace stand out against the blue sky.
This is the royal palace that was founded as a detached palace of the Joseon Dynasty in 1405.
However, it was used also as a primary palace and various buildings and gardens remain well in the large site.
In the back, there is a beautiful garden with colored leaves, and a photographing of the TV drama “Dae Jang Geum” was done.
This time we didn't look in it.



ソウルの観光地と町歩きを紹介します。

昌徳宮
この日は天気が良く、空の青と松の緑、宮殿の朱が映えていました。
これは李氏朝鮮王朝の離宮として1405年に創建された宮殿です。
しかし正宮としても使用され、種々の建築物、庭園が広い敷地内によく残っている。
奥には紅葉で美しい庭園があり、テレビドラマ「チャングム」の撮影でも使用されていました。
今回は立ち寄りませんでした。


Main hall ”仁政殿” where formal events were performed in

 2.Main hall ”仁政殿” where formal events were performed in 


a throne in the main hall ”仁政殿” 

 3.a throne in the main hall仁政殿 


Buildings in the royal palace

 4.Buildings in the royal palace 
Upper: the place of the life of the King.
Lower: the place where the princess who married from the Japanese imperial family lived in, and maids also.

上:熙政堂、王の生活の場。
下:楽善斎、女官や日本の天皇家から嫁いだ妃が暮らした場。


Myeong-dong
This is a shopping earea of the youth in comparison with Namdaemun and Dongdaemun.

明洞(ミョンドン)
ここは南大門や東大門市場と比べると、圧倒的に若者の向きの繁華街です。


Myeong-dong

Myeong-dong 

 5.6.Myeong-dong 


Insa-dong
Many of Antique stores, traditional-handicrafts shops, and souvenir shops were in line along the one street.
When I enter aside, it is dotted with old streets or small galleries.

仁寺洞(インサドン)
この一本の通りには古美術店、伝統工芸品店、土産物店が並ぶ。
脇に入ると、古い街並みや小さなギャラリーなどが点在する。


Insa-dong

Insa-dong
< 7.8.Insa-dong >

Cityscape

Jongno District
It is a central part of Seoul.


都市の景観
鍾路区(チョンノク)
ソウルの中心部になります。


Jongno District

 9.Jongno District 


Noryangjin
There is Noryangjin Fisheries Wholesale Market here.
I photographed two lower photos from Noryangjin Station.
This subway runs through underground with a center of Seoul, but becomes the elevated railway when it has crossed the Han River.

鷺梁津(ノリャンジン)
ここには鷺梁津水産市場がある。
下の2枚の写真は鷺梁津駅から撮影した。
この地下鉄はソウル中心部では地下を走っているが、漢江を渡ると高架になる。


a south side from the station 

 10.a south side from the station  


a north side from the station, and a direction of a center of Seoul

< 11.a north side from the station, and a direction of a center of Seoul >
Although traveling to Soul is the 3rd time now, I want to walk around this town more in various ways.
Including Soul, I want to know cultural heritages, museums of the whole land of Korea, and the life of people.
After all I want to taste delicious Korean food more.

On the next time, I write what I felt during this trip.


ソウルを観光するのは、これで3回目ですが、まだまだ色々町歩きをしたい。
もっとソウルを含め、韓国全土の文化遺産や博物館、庶民の暮らしを知りたい。
やはり一番は旨い韓国料理をもっと味わいたい。

次回は、旅行中に感じた事を書きます。










20140207

社会と情報 18: 報道特派員の苦闘 3

 戦場カメラマンの沢田、ピューリッツァー賞作品の前で

< 1.戦場カメラマンの沢田、ピューリッツァー賞作品の前で >

真実を発信出来ない理由は戦場に、真実を掴めない理由は記者の心中にあった。

戦場は真実を嫌う
ベトナム戦争の場合、記者が真実を知るには、ジャングルと南ベトナム政府が最大の壁であった。
63年当時、メコン川デルタ地帯とサイゴン間の道路は、日が暮れると南ベトナム解放戦線(ベトコン)のものだった。
記者の取材は、米か南ベトナム政府の軍隊同行が安全で、それが嫌なら死を覚悟する。

ピューリッツァー賞、「サイゴンでの処刑」

< 2.ピューリッツァー賞、「サイゴンでの処刑」 >

例え、記者は多くの嘘や都合の良い情報に付き合わされていることがわかっていても、現地政府や米軍に逆らうと取材が困難だった。
告発したエルズバーグは高官であり、言語に堪能であったので、現地政府に批判的なベトナム人にも接触し、2年間、現地事情を詳しく知ることが出来た。

62年、ある米紙の記者が、「ベトナム 不快な真実」と題する記事を書いた。
これには、負け戦、不適切な現地政府、不十分な訓練しか出来ない米軍などが、書き連ねてあった。
これが掲載されると、彼は現地政府によって国外追放を受けた。
その数週間後、あるTV局の記者が、「現地政府の大統領インタビューが時間の無駄だった」と同僚に言ったため国外追放となった。

特派員は、現地政府のお膝元サイゴンで暮らすことになる。
秘密警察が暗躍しており、スパイとして逮捕され抹殺される可能性があった。
すでに何十万の南ベトナム人がそうされていた。
むしろ、米国の援助物資横流しで私腹を肥やしていた現地政府は記者達を抱き込んだ。


戦場カメラマンの石川

< 3.戦場カメラマンの石川 >

記者の葛藤
私はこれを読んで、日中・太平洋戦争時、日本の記者達がなぜ軍の意向に沿うようになったかが少しわかった。

前回紹介したタイム紙の記事差し替えで辞めた記者が後に語っている。
彼は反戦の英雄に祭り上げられたことに当惑していた。

「私が戦争に反対だから現地を離れたとみんなが考えていた。
私はただ戦争がうまくいっていないと考えただけだった。
最後の最後まで私は戦争が非道徳的だとは思いもしなかった」

前回紹介した、大統領によって配転されかけたニューヨーク・タイムズの記者も語っている。
彼も含めて特派員が問題にしたのは、米国の介入そのものではなく、介入の有効性であった。
とくに南ベトナムの腐った傀儡政権を米国が支援することだった。

「戦争が順調に推移しており、最後には勝利におわるだろうと信じることが我々の望みだった。
しかし我々の感じたものを否定しない限り、そう信じることは不可能だった」

たとえ記者に真実を求め批判的視点があっても、その多くは米国にとってのものになる。



戦場カメラマンの岡村

< 4.戦場カメラマンの岡村 >

戦後、特派員が振り返って
前述のニューヨーク・タイムズの記者は言う。
「・・インドシナ戦争の単なる派生物でしかないものを、ニュースとして取材するため毎日追いかけていたところに問題があった。
そこでそれぞれの記事に一段落を設け、次のような文を入れるべきだった。
『これらすべては何の意味もないくだらない事項である。
なぜなら、われわれはフランス軍の轍を踏み、彼らの経験にとらわれているからである』・・」

ある老齢の記者は言う。
「検閲制度が無いため、現地報道官は口をつぐみ、記者は得るものがなかった。
ベトナムと比べ第二次世界大戦では独創的な報道があり、記者はバーで多くの時間を費やすことはなく・・・」


ピューリッツァー賞「戦争の恐怖」

< 5.ピューリッツァー賞「戦争の恐怖」>

最も詳しい報道がなされたのはベトナム戦争であった。
一時は最大700名に上る特派員がいた。
検閲制度はなく、特派員は自由に行動出来たと言える。
しかしカンボジアの戦争は1年間にわたり隠されていた。
爆撃機の同乗が禁止され、パイロットにかん口令がしかれてしまえば、遙か彼方のジャングルで爆撃されていることを確認することは無理だった。
さらに米国のほとんどの記者はフランス語とベトナム語が出来なかった。

極論すれば
記者達は、過去の遺物のドグマ-共産主義封じ込めやアメリカの正義を信じ、その視点でしか真実を切り取ることしか出来なかった。
またジャングルでの最新兵器による戦争や現地の人々に肉薄する記事は書けなかった。

次回、真実の報道と国民の関係を追います。