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20170823

フランスを巡って 35: モンサンミッシェル 1





*1


これから、モンサンミッシェルを数回に分けて紹介します。
今回は、対岸のホテル街から城内入口近くまでの景観です。


この日の観光
観光したのは、旅行8日目、5月24日(水)、13時から17時です。
到着時は雲が空を覆っていたが、徐々に雲が無くなり晴れ間が見えて来ました。

13時前にホテルに着き、荷物だけを置き、シャトルバスの停留所まで歩いた。
シャトルバスは無料で、朝8時から深夜1時まで5~10分間隔でモンサンミッシェルとホテル街を結んでいる。
シャトルバスは2.5kmを走り、終点の橋の上で降りると、直ぐ前にモンサンミッシェルが全貌を現す。

モンサンミッシェルの観光は、最初に城内で自由散策と昼食時間があり。
私の自由時間は、修道院の入口前まで上り、そこから見晴らしの良い海に面した城壁に沿って下まで降りた。
昼食はツアーには無く、各自がレストランを探して入るか、途中休憩したドライブインで買っておいた食品を食べた。
私は後者で、サンドイッチを買って食べた。

その後、全員が城内入口付近に集合し、ガイドに従って登り、修道院を巡った。
修道院の見学を終えると、そこで散会し、シャトルバス停留所の集合時間までは自由散策となった。
この自由時間は島内の生活感が残る個所を降りた。

後は、シャトルバスに乗ってホテルまで戻った。


 

< 2. 衛星写真 >

上の写真: 対岸のホテル街から入場口までルートを赤線で示す。上が東。

下の写真: 赤線はシャトルバスを下車してからおおよその撮影場所。上が北。
赤線: 1回目の自由散策とガイドに従って2回上ったルート。
茶色線: 1回目の自由散策で下った城壁ルート。
青線: ガイドに従って入った修道院。
オレンジ線: 2回目の自由散策で歩き下ったルート。



 

< 3. ホテル街 >

上二枚の写真: ホテル街。
ホテルに荷物を置いて、シャトルバスの停留所に向かう。

下の写真: 走行中のシャトルバスから東側を撮影。
羊達が草を食む広大な草原が広がり、さらに遠くに対岸が見える。


 

< 4. 橋の上から 1 >

上2枚の写真: 長い橋の上を走るシャトルバスから東側を撮影。
干潟が広がっている。

下の写真: シャトルバスを降りて、橋の上から南側、ホテル街を望む。
バスはこの川沿いの左側を走って来た。


 

< 5. 橋の上から 2 >

上の写真: 橋の上から西側を望む。
河口の向こうに広大な田園地帯が広がる。

中央の写真: 17時に撮影。
観光を終了してホテルに戻る前に撮影。

下の写真: 13時半頃に撮影。
シャトルバスを降りて、観光前に撮影。



 

< 6. 左側を望む >



 

< 7. 中央と右側を望む >

上の写真: 中央の白いバンの向こうに城内への入口がある。


 

< 8. 右側を望む >

干潟を多くの人が散策を楽しんでいた。

この島はノルマン人との戦いや英仏戦争を耐え抜いた、如何にも難攻不落の要塞に思える。



次回に続きます。



20170605

フランスを巡って 5: 鷲の巣村エズ



*1

今日は、最初に訪れた期待に違わぬ鷲の巣村エズを紹介します。
このような険しい山頂に小さな村があるとは驚きでした。
この要塞化した村は、3千年に亘る戦乱に生き延びた証なのでしょうか


エズ村
訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。
ニース空港に到着しトラブルで少し遅れたが、無事観光バスで出発した。
エズに16:00前に到着し、約40分間徒歩観光しました。


 

< 2. エズの地図 >

上二つの地図: 地図の上が真北。
赤矢印がエズ村の位置です。

下の地図: エズの観光地図。
黄矢印は歩き始めた駐車場で、緑線は徒歩ルート、赤矢印は登り詰めた頂上です。
エズの頂上は427mある。
雲は多かったが、雨が降ることはなかった。

 
*3

上の写真: 駐車場辺りから、今から登る頂上を見上げている。

下の写真: 坂と階段を上がった先に要塞のような門が見えた。
ここをくぐると村に入る。


 
*4

石組の古い家並みが急な細い階段の両脇に続く。
所々に踊り場のような小さな広場がある。


 
*5

上に登っていくと民家が途切れ、視界が広がった。

上の写真: 左側(東方向、モナコ側)を見ると、深い谷を挟んで無数の住宅が張り付く尾根が見える。

下の写真: 右側(西方向、ニース側)を見ると、海岸に沿った山の斜面に村が見える。

ニースからバスで来る途中、小高い丘や斜面に建つ多くの住居を見た。
平地が少ないからのだが、それにしても不便だと思った。


 
*6

上の写真: 真下を見ると、エズの赤茶色の屋根、その向こうに地中海が広がっている。
クルーズ船も見える。

下の写真: 振り返って見上げるとサボテン公園が広がっており、その向こうに、頂上の展望台が見える。
サボテン公園は1949年に造られた。
元来、頂上には要塞があったのだが、破壊された後、今では公園として整備されており、入場は有料です。


 
*7

上の写真: 要塞跡の頂上。 
ほぼ360度、見渡せる。

下の写真: 村の教会を見下ろした。
その向こうに私達が登り始めた駐車場が見える。


 
< 8. 先ほどの教会 >

帰国後、調べてわかったのですが、この教会の十字架がエジプト様式だそうです。
エジプト様式の十字架は中央上部の突き出し部分がリング状になっています。
私の写真では確認できなかった。
かつて北アフリカの人々がこの地に足跡を遺したのだろう。


 
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上の写真: 教会の前の広場から頂上を見上げた。

下の写真: 下っている。


 
*10

上の写真: この要塞化した村には、いくつもの門、トンネル状の通路があった。

下の写真: モナコに向かうバスから撮ったエズの全景。
西側を見ている。


エズの歴史
観光ガイドの説明では地中海に沿ってこのような鷲の村が多く作られたのは、サラセン人(イスラム勢力)の侵入に備えたからだと言うことでした。
それを聞いて私は少し驚き違和感を持った。
帰国後、この地域に何があったかを調べました。

大きな流れを見ます。
エズ周辺は紀元前2000年頃に居住が始まり、やがてギリシャ人が植民し、ニースなどが出来た。
紀元前後からローマ人が支配したが、衰退後、ゲルマン人、次いでフランク国が支配した。
しかし9世紀のフランク王国の分割後、フランス勢、ドイツ勢、イタリア勢、スペイン勢がこの地を奪い合い、領主は小刻みに変わり、境界は大きく東西に動いた。
この地が、今のフランス領に確定したのはナポレオンが負けた後の1861年のウィーン会議以降のことです。

エズについて
973年、中部フランク王国の流れをくむプロヴァンス王国が約80年間のムーア人(北西アフリカのイスラム教徒)支配を断った。

1338年まで、エズイタリア勢のサヴォイア家の管轄下にあった。
サヴォイア家は西隣りのニースに備えるためにエズを要塞化した。

伝承によると1706年、フランス王ルイ14世(太陽王、ヴェルサイユ宮殿建設)の兵士がエズを破壊したと言う。

この辺りは地中海交易の要衝の地であり、両サイドを大国に挟まれた険しく狭隘な地であった為、長く帰趨が定まらず戦乱に巻き込まれることになった。
こうして、この地には多くの鷲の巣村が生まれたのだろう。


次回に続きます。








20161214

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 16: ナルヴァ城




*1

今日は、エストニアとロシアの国境にあるナルヴァ城を紹介します。
この小さな城は素晴らしい景観に恵まれるだけでなく、バルト三国を象徴する歴史を秘めていました。
訪れた時は夕暮れが迫っていたが、秋晴れでした。


ナルヴァ(Narva)について
エストニアの都市ナルヴァは、かつて「バルト海の真珠」と称される美しい街並みを誇った。
しかし第二次世界大戦時、ソ連の爆撃で歴史的な街並みの多くは失われた。
人口は約66000人で、人口規模ではタリン、タルトゥに次ぐエストニア第3の都市です。




< 2. ナルヴァ城の外壁 >

この城はナルヴァ川を挟む検問所の直ぐ横にあり、ナルヴァの町をナルヴァ川の対岸のロシアから守るように立っている。
この城も第二次世界大戦で半壊状態になったが、修復されて博物館になっている。



 

< 3. ナルヴァ城(ヘルマン城) 1 >

上の写真: 城壁をくぐると左手にレストランがある。
この建物の直ぐ右手の木の向こうにレーニン像が立っている。
後に、このレーニン像がこの町の複雑な事情を教えてくれることになる。

中央の写真: この中心的な城は博物館になっているがツアーでは入場しなかった。

下の写真: この城の向こうに、対岸のロシア側の城(イヴァンゴロド要塞)が見える。


ナルヴァ城について
ここに最初に城を築いたのはデーン人(デンマークに居たノルマン人)で、1256年でした。
そして14世紀の初めに最初の石の城が完成した。
その後、ドイツのリヴォニア騎士団がこの城を1346年に購入し、その後長く所有することになった。


この地の観光情報
*ナルヴァ市の広報HP: ナルヴァやナルヴァ城の紹介もあり、英語表記選択可。

*ナルヴァ博物館HP: ナルヴァ城、博物館の紹介、英語表記選択可。

*ナルヴァ土塁の解説: 絵図などの資料が豊富、但しエストニア語表記?

Wikipediaナルヴァ城(Hermann Castle):英語表記のみ。




< 4. ナルヴァ城 2 >

中央の写真: ナルヴァ川の対岸にロシアの城塞が対峙している。
左の橋は、私達が通過して来た国境の橋で、その右手の建物はロシア側の検問所です。

私達がバスに乗って橋を通過する時、多くの一般人が徒歩で行き来するのを見た。
彼らはロシア人で、エストニア側のスーパーなどでショッピングする為だそうです。

下の写真: ナルヴァ川の上流側の岸から二つ城塞を写しているライブカメラの映像。
この写真は2016年12月13日、8時10分のもので、現地気温マイナス12℃と表示されていた。
日本との時差はマイナス7時間です。

ライブカメラ: NARVA CASTLE AND IVANGOROD FORTRESS




< 5. ナルヴァ川 >

上の写真: 対岸はロシアです。
下の写真: 川の右手はエストニア側です。

低くなった陽の光を浴びて黄葉が輝き、空と川面はあくまでも青く映え、冷たい川風が吹き抜けていきます。
心洗われる一時でした。



エストニアの歴史について


 

< 6.ナルヴァとエストニアの歴史 >

上の写真: ナルヴァ城を矢印で示しています。
写真上側はおおよそ東方向で、中央を流れるナルヴァ川の左が下流で、下側がエストニアになります。 

中央の写真: ナルヴァ城(ヘルマン城)を矢印で示しています。
かつてエストニアの都市ナルヴァは大きな城壁で囲まれていた。
私達が見たのは、破壊後のほんの一部なのです。

対岸の城塞はロシア側のイヴァンゴロド要塞で、1492年にロシアによって造られた。


下の写真: これはエストニアの支配者の移り変わりを示す年表です。
年表を見ると、支配者の移り変わりに驚かされる。

13世紀から西欧各地のキリスト教団(司教と騎士団)とデンマークが支配し、
16世紀からスウェーデンとポーランドが、18世紀からロシアが支配した。
さらに20世紀に入ると、一度独立を果たすが、ドイツ軍とソ連による支配を受けた後、再度独立を果たし、今に至っている。

バルト三国の数奇な運命は、バルト海に面し、ロシアに繋がっていることによる。
端的に言えば、これらの国は西欧のキリスト教団の侵略を受けた後、西欧(ドイツ)の商人によって栄えた。
これがヨーロッパ化とキリスト教化を生んだ。
これらの国が小さく南北三つに分かれたのは、北欧(スウェーデン、フィンランド)と東欧(ポーランド)の文化が両側から影響したからです。

バルト三国は各々の異なる言語を持つが、幸いなことにキリスト教徒の国で共通し、周辺国もキリスト教国(正教会)です。
但し、北部はプロテスント、南部はカトリックと異なる。




 

< 7. ナルヴァの戦い >

上の絵: 1700年のナルヴァの戦いの絵と思われる。
これは大北方戦争中(1700年~1721年)、ロシア軍がナルヴァに進攻しスウェーデン軍との戦いです。
右手遠方に城塞が見える。

ロシア帝国が、サンクトペテルブルグ発展の端緒になる城塞建築はこの大北方戦争の為でした。

下の写真: ナルヴァ城での戦闘シーンの再現のようです。




< 8. ナルヴァの俯瞰図 >

上の絵: これも1700年のナルヴァの戦いの絵です。
ロシア軍がナルヴァ城を取り囲んでいる。

下の絵: 繁栄している19世紀半ばのナルヴァの様子らしい。



 

< 9. エストニアの歴史地図 >

上の地図: 1260年の支配地図。
13世紀になると西方から騎士団や十字軍が侵攻して来て、エストニア軍は戦うが破れ、エストニアはローマ教皇の下、6つのキリスト教団の司教領、リボォニア帯剣騎士団などに分割された。

下の地図: 1260年~1410年の支配地図。
これはバルト三国の支配を争った一方の勢力であるドイツ騎士団(チュートン騎士団)の支配地域を示す。



 

< 10. バルト三国の歴史地図 >

上の地図: 1560年~1711年のエストニア。
スウェーデンに分割支配された。

下の地図: 現在のバルト三国。


あとがき
私はなぜレーニン像がナルヴァ城の中庭に立っているのか不思議に思った。
その像の下半分が写真3の一番上の写真に微かに見える。
バルト三国は第二次世界大戦後の独立に至るまで、ソ連に辛酸を舐めさされた。
その彼らがレーニン像を撤去しないことに疑問を感じた。

実は、ナルヴァのエストニア人は大戦時、ドイツ軍によって強制避難させられ、ソ連占領後も帰還を許されなかった。
その後、ナルヴァは工業で栄え始めると、ロシア語系住民が大挙移住して来た。
そして現在、ナルヴァの人口の95%はロシア語系住民が占めている。
ソ連の爆撃で廃墟となった町をロシアの人が再建して来たのです。

説明してくれた現地ガイドもロシアからの移民を親に持つていたのです。
彼は複雑な気持ちだと言っていた。

このような民族の混住がロシア周辺で起こり、紛争の火種になっているのかと思うと怖くなった。

次回に続きます。







20161007

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 1: はじめに





< 1. 霧に包まれたビルニュス歴史地区 >


私達はバルト海に面する国々を訪れました。
大国ロシアとヨーロッパの端にある小国バルト3国、ポーランドを巡りました。
サンクトペテルブルグの黄葉と黄金に輝く宮殿、世界遺産の中世の街並み、ユーラシア大陸の自然を愉しみました。
今日は、この旅行の概要を紹介します。


旅行の概要
旅行の日程は2016年9月28日から10月5日です。
(株)ジャンボツアーズのツアーに参加しました。
モスクワに飛び、地図の赤丸の各都市に6泊し、黒丸を含めて7箇所を観光し、ワルシャワを発ちました。
添乗員が同行し、各地では現地ガイドの説明を受けました。


 

< 2. 訪問地の地図 >

モスクワとサンクトペテルブルグの間は新幹線で移動しました。
サンクトぺテルブルグからワルシャワまでは観光バスで移動しました。
総距離は2200kmを越えます。


この旅行の目玉
丸印の観光地について
No1: クレムリンを中心にモスクワ観光。
No2: 2つの宮殿とエルミタージュ美術館を含むサンクトペテルブルグ観光。
No3: 国境の河岸に立つナルヴァ城観光。
No4: エストニアの首都タリン、バルト海の交易で栄えた旧市街地を徒歩観光。
No5: ラトビアの首都リガ、ロシアとヨーロッパの中継貿易で栄えた旧市街地を徒歩観光。
No6: リトアニアの首都ビリニュス、苦難の歴史を生き抜いた旧市街地を徒歩観光。
No7: ポーランドの首都ワルシャワ、破壊から蘇った旧市街地を徒歩観光。


秀逸だったこと
至る所で黄葉が見頃を迎えていた。
新幹線と観光バスの車窓から眺めは、ユーラシア大陸の大平原を堪能させてくれた。
5つの都市で、一つの巨大デパート、3つの大型スパー、一つの中央市場を訪問し、買い物をした。
現地ガイドとの説明や対話を通じて、この国の歴史を身近に感じることが出来た。



 


< 3. モスクワ >

上の写真: クレムリン。
下の写真: 赤の広場近くの通り。




 


< 4. サンクトペテルブルグ >

上の写真: エルミタージュ美術館。
下の写真: エカテリーナ宮殿。


 


< 5. ペテルゴーフとナルヴァ >

上の写真: ペテルゴーフにあるピュートル大帝の夏の宮殿。
下の写真: エストニア側のナルヴァ城から見た対岸のロシア側の要塞。


 

< 6. 丘から見下ろしたタリンの旧市街 >

街の向こうにバルト海が広がり、その先にフィンランドの首都ヘルシンキがある。



 

< 7. リガ >

上の写真: アールヌーヴォーの街並み(ユーゲントシュティール建築群)。
下の写真: ブラックヘッドの会館。



 

< 8. ショッピング >

上の写真: サンクトペテルブルグのホテル近くの大型スーパー。 
下の写真: リガの中央市場。


 

< 9. ビリニュスの夜景 >

上の写真: 大聖堂。 
下の写真: 旧市街地への散策の帰り道。




 


< 10. ビリニュス >

上の写真: 聖アンナ教会。
下の写真: 聖ペテロ・パウロ教会。



 


< 11. ワルシャワ 1 > 

上の写真: 旧市街地の王宮広場。
下の写真: ワジェンキ宮殿。



 


< 12. ワルシャワ 2 >

上の写真: ランドマークの文化科学宮殿。
下の写真: 旧市街で出会った笑顔が素敵なグループ。



 

< 13. 車窓からの眺め 1 >

上の写真 : 新幹線から。
中央の写真: 観光バスからペテルゴーフ近郊。
下の写真 : ペテルゴーフとナルヴァの間。



 


< 14. 車窓からの眺め 2 >

上の写真 : ナルヴァからタリンの間。
中央の写真: タリンからリガの間。
下の写真 : ビリニュスからワルシャワの間


思ったこと
バルト3国とポーランドの旧市街の街並みに、かつての繁栄と苦難の歴史が刻まれていた。
それはこの地域がロシアとドイツに挟まれたバルト海沿岸であったことによる。
さらにこの地域の自然とスカンジナビア半島の影響が民族形成を複雑にした。

旧市街を歩き、バスの車窓の景色を眺めながらこれらの国々の成り立ちに思いを巡らした。


次回より、この旅行記の連載を始めます。