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今日は、最初に訪れた期待に違わぬ鷲の巣村エズを紹介します。
このような険しい山頂に小さな村があるとは驚きでした。
この要塞化した村は、3千年に亘る戦乱に生き延びた証なのでしょうか
エズ村
訪問したのは2日目、5月18日(木)でした。
ニース空港に到着しトラブルで少し遅れたが、無事観光バスで出発した。
エズに16:00前に到着し、約40分間徒歩観光しました。
< 2. エズの地図 >
上二つの地図: 地図の上が真北。
赤矢印がエズ村の位置です。
下の地図: エズの観光地図。
黄矢印は歩き始めた駐車場で、緑線は徒歩ルート、赤矢印は登り詰めた頂上です。
エズの頂上は427mある。
雲は多かったが、雨が降ることはなかった。
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上の写真: 駐車場辺りから、今から登る頂上を見上げている。
下の写真: 坂と階段を上がった先に要塞のような門が見えた。
ここをくぐると村に入る。
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石組の古い家並みが急な細い階段の両脇に続く。
所々に踊り場のような小さな広場がある。
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上に登っていくと民家が途切れ、視界が広がった。
上の写真: 左側(東方向、モナコ側)を見ると、深い谷を挟んで無数の住宅が張り付く尾根が見える。
下の写真: 右側(西方向、ニース側)を見ると、海岸に沿った山の斜面に村が見える。
ニースからバスで来る途中、小高い丘や斜面に建つ多くの住居を見た。
平地が少ないからのだが、それにしても不便だと思った。
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上の写真: 真下を見ると、エズの赤茶色の屋根、その向こうに地中海が広がっている。
クルーズ船も見える。
下の写真: 振り返って見上げるとサボテン公園が広がっており、その向こうに、頂上の展望台が見える。
サボテン公園は1949年に造られた。
元来、頂上には要塞があったのだが、破壊された後、今では公園として整備されており、入場は有料です。
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上の写真: 要塞跡の頂上。
ほぼ360度、見渡せる。
下の写真: 村の教会を見下ろした。
その向こうに私達が登り始めた駐車場が見える。
< 8. 先ほどの教会 >
帰国後、調べてわかったのですが、この教会の十字架がエジプト様式だそうです。
エジプト様式の十字架は中央上部の突き出し部分がリング状になっています。
私の写真では確認できなかった。
かつて北アフリカの人々がこの地に足跡を遺したのだろう。
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上の写真: 教会の前の広場から頂上を見上げた。
下の写真: 下っている。
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上の写真: この要塞化した村には、いくつもの門、トンネル状の通路があった。
下の写真: モナコに向かうバスから撮ったエズの全景。
西側を見ている。
エズの歴史
観光ガイドの説明では地中海に沿ってこのような鷲の村が多く作られたのは、サラセン人(イスラム勢力)の侵入に備えたからだと言うことでした。
それを聞いて私は少し驚き違和感を持った。
帰国後、この地域に何があったかを調べました。
大きな流れを見ます。
エズ周辺は紀元前2000年頃に居住が始まり、やがてギリシャ人が植民し、ニースなどが出来た。
紀元前後からローマ人が支配したが、衰退後、ゲルマン人、次いでフランク王国が支配した。
しかし9世紀のフランク王国の分割後、フランス勢、ドイツ勢、イタリア勢、スペイン勢がこの地を奪い合い、領主は小刻みに変わり、境界は大きく東西に動いた。
この地が、今のフランス領に確定したのはナポレオンが負けた後の1861年のウィーン会議以降のことです。
エズについて
973年、中部フランク王国の流れをくむプロヴァンス王国が約80年間のムーア人(北西アフリカのイスラム教徒)支配を断った。
1338年まで、エズはイタリア勢のサヴォイア家の管轄下にあった。
サヴォイア家は西隣りのニースに備えるためにエズを要塞化した。
伝承によると1706年、フランス王ルイ14世(太陽王、ヴェルサイユ宮殿建設)の兵士がエズを破壊したと言う。
この辺りは地中海交易の要衝の地であり、両サイドを大国に挟まれた険しく狭隘な地であった為、長く帰趨が定まらず戦乱に巻き込まれることになった。
こうして、この地には多くの鷲の巣村が生まれたのだろう。
次回に続きます。
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