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今日は、陽光溢れる粋なプロヴァンスの古都を紹介します。
ここはかつてプロヴァンス伯爵領の首都だった。
またセザンヌの生誕の地であり、晩年を過ごした所でもあります。
エクス・アン・プロヴァンスとセザンヌ
< 2. エクス・アン・プロヴァンスの地図、すべて上が北。 >
エクス・アン・プロヴァンスの旧市街にはセザンヌに関わる所は多いが、郊外にも彼が頻繁に訪れた所がある。
上の地図: セザンヌが良く行き来したところ。
エクス・アン・プロヴァンスの旧市街から北側に赤字Sの「セザンヌのアトリエ」がある。
また中心部から東側に赤字Bの「ビベミュスの石切り場」があり、その手前に彼が一時住んだ「シャトー・ノワール」がある。
黒の矢印にサント=ヴィクトワール山がある。
赤字の「セザンヌの道」はセザンヌがキャンバスを背負って歩いた道で、「トロネの道」と同じだと思います。
これらの地名は彼の画題に出てくる。
下の地図: 旧市街の徒歩観光のコースを示す。
徒歩観光はSのド・ゴール広場(ロトンドの噴水)から始まり、赤線のミラボー通りを進み、左に折れて、奥にある5番のサン・ソヴール大聖堂まで行き、入場した。
この間、12:00に始まり、12:40で終わった。
ここから皆は自由となり、昼食も各自取ることになる。
私達は6番のレストランで昼食をとり、青線を通り、集合場所のSに戻ったのは13:40でした。
< 3. セザンヌの描いたサント=ヴィクトワール山の絵の変化 >
上の写真: 「サント=ヴィクトワール山」1885-1887年。
中央の写真: 「ビベミュス(の石切り場)から見たサント=ヴィクトワール山」 1897年。
下の写真: 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」 1904-1906年。
彼は1880年代からエクス・アン・プロヴァンスで隠遁生活を続け、印象派からの脱却を模索していた。
そして幾つものサント=ヴィクトワール山を描いて行くうちに、やがてピカソのキュービズム(立体派)の前兆となる画境に達した。
町の散策
旅行3日目、5月19日(金)。
素晴らしい天気でした。
< 4. ミラボー通りを進む >
上の写真: ミラボー通りを進む。
進行方向の右手の一角に、セザンヌの母が住んでいたアパートがある。
この通りの突き当りの向こうにはセザンヌの生家がある。
下の写真: ロトンドの噴水を振り返った。
< 5. ミラボー通り >
左上の写真: 温水が湧き出る泉。
紀元前、ローマの将軍セクスチアスが湧き水の多いこの地を「セクスチアスの水(アクアエ・セクスチアエ)」と呼んだことに由来する。
右上の写真: カフェが並び、テラスでくつろぐ人々。
左下の写真: 地図の1番。
セザンヌやゾラが通ったカフェのレ・ドゥー・ギャルソン。
右下の写真: 地図の2番。
ここはセザンヌの父が働いた帽子店だった。
私達はこの建物の左の道を入って行った。
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至る所に大小の広場があり、木々が青々と茂り、噴水があり、市が開かれていた。
陽射しは厳しいが、陰に入ると涼しい。
< 7. 市庁舎広場の市、地図番号3 >
魚介類やチーズ、野菜などを売っていた。
< 8. 市庁舎広場 >
上の写真: セザンヌが結婚式を挙げた市庁舎。
下の写真: 広場中央に巻頭写真の噴水がある。
広場は凄い人出でした。
< 9. 大学と大聖堂 >
上の写真: 地図番号4.
セザンヌが入学した法学部、しかし中退した。
下の写真: 地図番号5.サン・ソヴール大聖堂。
彼がよくミサに来たところで、彼の葬儀も行われた。
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左の写真: 名物のお菓子カリソンを買った店。
右の写真: 通りの建物を見上げた。
柱の彫刻が往時を偲ばせる。
< 11. 昼食で入ったレストラン >
上の写真: 地図番号6.市が開かれている広場に面したレストラン。
看板のメニューに、本日のお薦め「plat du jour」が13ユーロとあったので入った。
注文は出来たはずだが、料理が来るのに時間がかかったので不安だった。
出て来た料理は2品が載ったワンプレートとデザートです。
店員の対応は問題なく、店を出る時は、笑顔で手を振ってくれた。
< 12. レストランの中から >
フランスで初めてテラスで食事をした。
周りを見ていると飽きないが、集合時間が気になり出た。
< 13. ロトンドの噴水に戻る途中 >
ほんとうにこの町は賑わっている。
観光のメッカなのだろう。
< 14. ロトンドの噴水 >
こうしてセザンヌの所縁の地を訪ね、プロヴァンスの陽を浴びながら古都を歩き、自らレストランに飛び込み、愉しい時間を過ごした。
次はアルルに向かう。
エクス・アン・プロヴァンスについて
紀元前102年、エクス一帯でガイウス・マリウス指揮下のローマ軍がゲルマン人を撃破した。
これを記念して聖なる勝利の山としてサント=ヴィクトワール山と名付けられた。
この山は、この町の守護神とみなされた。
4世紀にはガリア・ナルボネンシス(ローマの属州)の首都となったが、5世紀には西ゴート族によって占領された。
その後も、フランク族、ロンバルド族らの侵攻を相次いで受け、8世紀にはサラセン人(イスラム帝国)に侵略された。
12世紀になると、アンジュー家(フランス系)やアラゴン家(スペイン系)の下で文化的な中心地となり、とりわけプロヴァンス伯でもあったルネ・ダンジューの時代(15世紀中頃)の繁栄が知られる。
1486年に、プロヴァンスの他の地域とともにフランス領となった。
次回に続きます。
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