20200713

徳島の海岸と漁村を巡って 10: 日和佐城と遊歩道






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今回は、既に訪問した日和佐の町を見下ろす日和佐城を目指しました。
今回で、徳島海部郡の漁村と海岸の旅は終わります。
訪問したのは2020年4月23日と24日、快晴に恵まれました。


 

< 2.大砂海水浴場 >

鞆浦から北に一つ大きな岬を越えると、大きな浜が見えました。
ここは海水浴場です。

上: 砂浜の全景。
下: 砂浜の東端。
遠方に見えるのが越えて来た岬です。




 
< 3. 大砂海水浴場の東側に続く海岸 >

下: 沖の島は手羽島です。
これからこの島に渡るために、牟岐港に向かいます。

 

< 4.牟岐町 >

牟岐川の河口に牟岐漁港があります。
河口の右岸に、手羽島との連絡船乗り場があります。
乗り場に行くと、残念ながら渡れないことがわかりました。
一日の船便も少ないのですが、コロナ対策の為に、よそ者は年寄りの多い手羽島への渡航は出来ないとのことでした。
私も年寄りだが、行こうとした自分の愚かさに恥じ入りました。

上: 牟岐川の左岸。


 
< 5. 牟岐駅 >

日和佐までは一度海岸を離れて山間を走ります。

上: 牟岐駅


 
< 6. 日和佐城 >

上: 手前の奥潟川が奥の北河内谷川に合流し、日和佐漁港に至る。
これを見下ろすように右手の山頂に日和佐城が見える。

下: 山頂に来てみると大規模な改修工事中でした。

日和佐城は、かつて山頂にはあったようですが、この写真の物は再現されたものではない。
本当の城の築城時期は、既に紹介した海部城とほぼ重なるようです。
室町時代末期、この地域(宍喰、鞆浦、日和佐)は阿波の三好勢と土佐の長曾我部が衝突する最前線でした。
この緊張した状況が築城に向かわせたのでしょう。
後に長曾我部がこの地を攻略するが、戦国時代を経て阿波は蜂須賀家、土佐は山内家に支配された。


 

< 7. 海岸沿いの遊歩道 >

上: 日和佐城の横を通る遊歩道
全長12kmもあります。

下: 私は番号1から2までの途中を往復しました。
以下の写真は撮影順に並んでいます。

 

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< 9. 日和佐の町を見下ろす >

上: 中央に北河内谷川、左に厄除けで有名な薬王寺の朱色の塔が見える。

下: 手前に北河内谷川が左から右に流れている。
眼下の町が日和佐の中心部です。


 
< 10. 大浜海岸 >

上: ウミガメが来ることで知らている大浜海岸。

下: 大きな洞穴は恵比須洞です。



 
 < 11. 遊歩道から大海原を望む >


これで今回の旅行記を終わります。

次回から、吉野川沿いのかつての商家の町並み、剣山登山、祖谷渓のかずら橋と平家落人の里を紹介します。


20200710

中国の外縁を一周して 44: 新幹線で昆明へ 2






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今回は、新幹線の麗江-昆明間の後半の景色を紹介します。
なかなか見ることのできない中国奥地の景観が広がります。




 
< 2. 新幹線のルート、上が北 >

今回は、鹤庆駅から昆明駅までの車窓風景です。
これは今回乗車のほとんど全区間ですが、鹤庆駅から上関駅までの後半はトンネルが多かった。

数年前、新幹線が出来る前は寝台車だけがこの区間を運行していたので、昼の景色を眺めることは出来なかった。
バスはあるらしいが。

今回の旅行の目玉の一つが、東南アジアやインドに接する雲南(麗江・昆明)の訪問でした。
ここには多くの少数民族が暮らし、また古今に亘りアジア文化が行き交った結節点でもありました。
また中国の中原から見れば辺鄙な山岳地帯であった為、中華文明や中華帝国の影響があまり及ばなかった。
もっとも1世紀、諸葛孔明は雲南を平定し、13世紀、モンゴルのクビライも大理と昆明を征服していたが、あまりも遠方の為か、いずれも現地の王に統治させた。

実は、昆明を2日かけて観光することになったのは香港のデモのお陰なのです。
当初予定では、昆明南から桂林、広州経由で香港まで一気に新幹線で走り抜けるつもりでした。
ビザ無しの観光が15日以内なので、香港1泊を加えて中国の外縁を周るには、昆明南に夕刻到着し、翌朝早くには新幹線に乗車しなければならなかった。
私は30年ほど前、観光で香港と広州を訪れていたので、様変わりした様子を見たいと思っていた。

結果的に、昆明をゆっくり堪能することが出来ました。


 
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写真は撮影順に並んでいます。
ここらはまだ標高2200mほどはあるでしょうか。

 
 
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非常に緑豊かで、畑作も盛んなようです。
蘭州に至る車窓でもトウモロコシ畑が多く見られた。


 
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< 6. 洱海が見えた >

多くのトンネルを抜けた後、やっと大理古城に面する大きな湖、洱海が見えた。
湖の大きさは南北約42km、平均幅は約7kmでしょうか。
大理は白亜の三つの細長い仏塔で有名です。

上: 山の斜面、南面に多くの墓石が見られた。
これまで新幹線で中国を1700km通過して来たが、大規模な墓地を見るのは初めてでした。
北京―鄭州―開封の大平原、開封―洛陽―西安―蘭州の黄河沿いの平原から渓谷では、車窓から見えたのは数基からなる墓石が数個所だけでした。

ここは中原に比べ、墓石の形が違い、集団の大規模な墓地がある。
明らかに文化の違いを感じる。
遠目では分からないが、最も日本の墓石に似ているような気がした。
形は扁平な羊羹を立てようなもので、半数は上部が半円状になっていた。
そして全てが同じ向きに並んでいた。
これは白族(ペー)の墓地かもしれない。

中央と下: 雲が対岸を覆い、よく見えない。







 
< 7.洱海の終端 >

新幹線は洱海の東岸を走るのですが、大理古城は西岸にある。
東岸にも発展中の町がありました。

中央: おそらく島の見える方向の対岸に大理古城があるはずです。

下: この辺りが洱海の南端で、対岸の高層ビル群は大理の新市街、中心部でしょう。

ここからは線路が分岐し、私達の新幹線は昆明に向かいます。


 
< 8. 大理 >

ここはまだ湖の南端、大理ですが、一帯は盛んに建設、開発が進行中です。


 
< 9.風景が変わって来た >

古いタイプの民家は無くなり、住居が密集するようになって来た。
相変わらず渓谷を走り抜けるが、起伏のある丘にも住居がある。
距離的に半分ぐらい来たでしょうか。

下: 新たな墓石が見えた。
一つ一つの墓石が大きく、門型に見える。
ここの様式はまた異なる。


 
< 10. 南华站 >


 
< 11. 楚雄站 >

後、百数十kmで昆明に到着です。


 
< 12. 昆明に到着 >

ここも蘭州と一緒で、最果ての町と思っていたのですが、大都会でした。


次回に続きます。





20200707

徳島の海岸と漁村を巡って 9: 鞆浦を訪ねて 2






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今回は、鞆浦の漁港に沿って岬の手倉湾まで紹介します。


 
< 2. 散策マップ、上が南 >

赤線が散策ルート、Sがスタート、Eがエンドです。


 
< 3.漁協の近くから岬の方を望む >

以下の写真はほぼ撮影順に並んでいます。

上: 中央奥に漁港の開口部が見える。

下: 漁村の東半分。


 
< 4. 漁村の中心部 >

上: 左に2階建ての漁協が見える。
南の方を見ている。

下: 漁港沿いに、半時計周りにほぼ半周して、漁村の中心部を振り返った。


 
< 5. 漁村の終端 >

上: 中央の小山に海部城跡がある。

下: 右手に川に架かる橋がある。


 
< 6. 漁港の防波堤 >

上: 遥か遠くに見える島影は、牟岐港の先にある出羽島や大島です。
北東を見ている。

下: 写真の右手が漁港の開口部です。


 
< 7. 岬の突端にある手倉湾 >

上: 出羽島や大島が見える。

下: 漁港の開口部と牟岐方面を見ている。



 
< 8. 手倉湾から南を見ている >

上: 遠方の岬は宍喰浦の乳ノ崎だろう。

下: 船が見えたので拡大した。



 
< 9. 手倉湾の小島 >

漁師が岩礁で何か漁をしている。


 
< 10. 海部川の河口 >

大きな川です。
今回、訪問した海部郡では最も平野部が広いです。
川の右岸から撮影した。

上: 上流を望む。

下: 河口を望む。

次回に続きます。



20200701

中国の外縁を一周して 43: 新幹線で昆明へ 1





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これから数回に分けて、新幹線から見た麗江―昆明間の景色を紹介します。
思ったより緑豊かな渓谷と盆地が広がっていました。


 
< 2. 鉄道ルート、上が北 >

上: 今回の15日間の中国旅行の経路です。
ピンクが日本との国際線、赤が国内フライト、黒が新幹線です。
新幹線は三回乗りました。
北京-開封は大平原の穀倉地帯、開封―蘭州は黄河沿いの険しい山間を抜けて来ました。
今回の麗江―昆明は高原地帯の山間を走ります。

下: 今回の鉄道ルート。
麗江を2019年10月27日、11:04発、乗車は2時間20分です。
途中、観光地の大理が湖の対岸に見えるかもしれません。


 
< 3. 麗江駅 >

上: 新幹線の麗江駅の正面。
ホテルからここまではタクシーで来ました。

下: 麗江駅の広場。
中国の新幹線駅は広場がやたらに大きくて歩くのが辛い。


 
< 4. 最初の関門 >

中国では、駅舎に入るには先ず切符とパスポートが必要です。
そして、ここでも上記のチェックと荷物検査が最初に行われます。

上: 荷物検査を無事通過した後、振返った。

下: 1階正面。

昆明行きは2階に行かなければならない。


 
< 5. 二階へ上がる >

上: 二階へのエスカレータ。

下: 二階の待合室。


 
< 6. 改札 >

上: 改札口。

下: 乗客が並び始めた。


 
< 7. ホームに入る >

上: 改札を抜けて右を見た。
新幹線はホームの右側に停車していた。

下: 改札を抜けて左を見た。
実に、巨大なホームだ!


 
< 8. いよいよ乗車 >


 
< 9.車窓の風景 >

これから車窓の風景を撮影順に紹介します。
撮影は進行方向右側の景色になり、写真の左側が進行方向です。

始め鬱蒼とした木々で覆われた山並みが続きました。
しかし、出発から数分を過ぎると渓谷を走るようになりました。


 
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畑作地帯と点在する集落が続きます。
西安から蘭州間の黄土高原に比べると、こちらの方が水にも恵まれ土壌も肥えているようです。



 
< 12. 養殖池か >

麗江の古城忠义市场で見た新鮮な魚類は、このような池で養殖されていたのかと一人納得した。


 
< 13. 鹤庆站でしょうか >

発車後の21分後に通過した駅です。
約30kmほど来たでしょうか。


次回に続きます。




20200628

徳島の海岸と漁村を巡って 8: 鞆浦を訪ねて 1





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今回から、2回に分けて鞆浦漁港を紹介します。
小さな漁港ですが、地の利を生かした良い漁港だと思いました。


 
< 2. 宍喰から鞆浦へのルート >

上: 宍喰から鞆浦へのルート、上が北。
赤枠が既に紹介した宍喰の散策範囲です。
オレンジ線がドライブルートです。
黄枠が鞆浦です。

下: 鞆浦、上が南(上図と向きが逆)。
オレンジ線が宍喰からのドライブルート。
黄枠が鞆浦の今回紹介する散策ルート。
赤枠が次回紹介する手倉湾。
黒矢印は漁協、黄矢印は海部川の撮影地(次回)、赤矢印は宍喰浦(那佐湾)の撮影地。
赤四角は海部城跡。


 
< 3.那佐湾と宍喰浦 >

上: 左の宍喰浦に挟まれた那佐湾の向こうに宍喰が見える。

下: 宍喰浦。


 
< 4. 鞆浦漁協 1 >

ここに到着したの9時45分でした。
競りが行われており、様々な魚種が見られました。
訪問した時間が異なるからかもしれませんが、鞆浦の方が由岐、日和佐、宍喰の漁港よりも大きな魚が沢山獲れているようでした。

素人の見立てですが、この港は大きな海部川上流の栄養が海に注ぎ沿岸漁業に恵まれ、また大きな河口は上流の材木の切り出しと海上運搬に有利に働いたことでしょう。

 
< 5. 鞆浦漁協 2 >

魚を入れる大きなコンテナや陸揚げ用のコンベヤなどが目立ちました。

下: ブリでしょうか。


 
< 6. 漁協の2階の展示物 >

トイレを借りに2階に上がりました。
漁に関する幾つかの展示がありましたので紹介します。

上: 鞆浦大式、定置網の一種。
元々は富山湾で生まれた定置網で、後にこちらでも使われるようになったらしい。
徳島県内では最大の定置網のようで、全長1300mもある。

下: 定置網漁の写真のようです。

漁協の人に聞きました。
遠方に出る漁としては高知沖まで行っているが、徳島ではこの鞆浦だけが行っているとの答えでした。
大きな船を見ることが出来ませんでしたが、大きな屋根付きのドッグがありました。
漁協の魚を見て、多いですねと聞くと、ここでも「少ない」との返事が返って来た。


 
< 7. 漁協の周辺から散策を始める >

上: 漁協の階段から南西方向を見下ろす。
川が見え、その先に従来の漁村が広がる。

下: 漁協の西側を見る。
この山に海部城跡がある。
山の手前のこの一帯だけは新築の家が多い。
若い漁師に古い町並みの事を聞くと、最近引っ越してきたばかりなので知らなかった。


 
< 8. 川の橋から >

上: 網袋を持った一人の漁師が漁協へ急ぐ。
網袋の中は、さざえかウニのようでした。
重そうなのでさざえかな?
下の写真の船から一人の漁師が下船して、歩き出した所です。
この奥の山が、海部城跡のある山です。

下: 川の上流を見ている。
川の右も海部城跡のある山です。


* 海部城と鞆浦について :

実は海部城が出来た16世紀(室町時代末期)、この山は河口に浮かぶ島だったようです。
ここは海と川を監視し、守るには最適な場所だったでしょう。
後に埋め立てられが進み、今は大きな海部川とこの小さな川に挟まれるようになった。
これを築城したのは海部氏ですが、元々は宍喰を拠点にしていたが、こちらに転居したようです。
海部氏は三好(阿波国と畿内を領有)に属していたが、高知の長曾我部との最前線となり、後に攻められ落城した。

今は、鞆浦を含む海部町と宍喰町が合弁して海陽町となった。
古い時代、海部は海運力と上流の木材業で発展した。
15世紀の兵庫の港(兵庫関)への入港記録「兵庫北関入船納帳」によると、海部船籍は全国10位であった。
阿波(徳島)では海部54隻、宍喰20隻、平島(阿南?)19隻で、海部が圧倒的に優位であった。
また同じ記録によると、当時、海部(鞆浦)と宍喰の木材の扱い量は阿波の約半数であった。
如何に、この地域の海運力が秀でていたかがわかる。
また室町時代から「海部刀」がこの地で生産されていた。



 
< 9. 街歩きを始める >

橋を渡って真直ぐ通りを進むと巨石が右手に見えた。

上: 大岩慶長・宝永地震津波碑
大きな石の表面の二ヵ所に碑文が見える。
左が慶長地震津波碑、右が宝永地震津波碑。

慶長地震津波碑: 1605年、高さ約30mの津波が7回来て、男女百人あまりが海に沈んだ。

宝永地震津波碑: 1707年、高さ約30mの津波が三度来たが、死者は出なかった。

本当に、徳島南部の海岸は幾度も巨大津波の被害に遭っていた。

不思議に思うのは、東北大震災の福島原発事故で、巨大津波を国も電力会社も想定外として平然としていたことです。
おそらく地元の漁港には幾つも巨大津波の碑が建っていたことでしょう。
一部の歴史学者は指摘しても、他に問題視した人はいなかったのでしょうか?


 
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上: 港に面した広場の中央にあった建物。
民家ではなく、郵便局などの公共の建物のようでした。

下: 日蓮宗 吉祥山 法華寺
上記の建物から東方向に延びる道の奥には寺があった。


 
< 12. 古い民家が軒を並べる >

しかし、東由岐ほどには古い漁村の民家を見なかった。


次回に続きます。