20200716

中国の外縁を一周して 45: 昆明を訪ねて 1





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最後の訪問地、昆明を2泊3日で巡ります。
訪れたのは2019年10月27日(日)~29日(火)でした。
今回は、昆明中心部の翠湖公園と飲食街・ショッピング街(昆明老街。南屏街)を紹介します。


 
< 2. 昆明の訪問地、上が北 >

上: 私が訪れた所
赤枠A:翠湖公園と昆明老街・南屏街、赤四角B:雲南省博物館、赤枠C:雲南省民俗村と滇池海埂公园、赤枠D:西山風景区の龍門石窟、
S:列車の昆明駅、H:ホテル、黒矢印:昆明空港(ここから直行便で帰国)
昆明へは新幹線(黒線)で来ました。
空港へはホテルの前からのリムジンバス(茶色線)で直行出来ました。

昆明内の移動は全て公共機関のバスと地下鉄を利用しました。
昆明の観光では、一切通訳ガイドを付けず、自ら全てを行うようにしました。
北京もそうでしたが、北京は2回目であったし、開封は狭い範囲の移動でしたので、ほぼ問題無く観光出来ました。
昆明で、帰国日、一度バスを乗り間違いしたが、無事リカバリー出来ました。


下:上記の赤枠Aの部分を拡大
赤枠E:翠湖公園、赤枠F:昆明老街、赤枠G:南屏街
黒矢印:昆明駅、H:ホテル、昆明锦江大酒店


 
< 3. 翠湖公園に向かう >

27日(日曜日)、16時過ぎにホテル近くからバスに乗り、公園の近くの通りで降車した。
高層ビルの住宅街を抜けると、公園の門が見えて来た。


 
< 4. 翠湖公園に入る >

公園の門の周辺には多くの市民がおり、さらに公園から多くの人が出て来た。
ここに来ると急に民族衣装が増えて来た。

私がここを訪問したいと思ったのは、この公園が市民の憩いの場であると知ったからです。
訪れてみると予想以上の光景を見て、得るものがありました。

上: 公園から一団が揃って出て来た。
何かが行われている予感がした。

下: 門を抜けて真直ぐ進む。


 
< 5. 広い公園内は踊り手で一杯でした >

様々な少数民族の衣装を身に纏った人々が、集団で踊りに興じていた。
それを見入る多くの市民が彼らを取り囲んでいた。

衣装の識別が分からないのですが、概ね5から6組の少数民族の違いがあるようでした。
遊牧民族系のシンプルな衣装から、山岳民族の刺繍が凝らされた極彩色の衣装までありました。


 
< 6. イ族のグループ >

頭の冠にぼんぼりを付けたのはイ族と思われます。
このグループは幾つにも分かれて大きな輪になって踊っていた。

私が感動を覚えたのは、老若男女が共に民族衣装に身を正し、公然と誇らしく踊っていることでした。
けっして見世物では無く、自らの出自を恥じることなく、和気あいあいと行っている。

私が中国に「民族差別が中国崩壊の導火線にならないか?」との疑念を抱いてやって来たが、ここには答えが明瞭に示されていた。
開封や蘭州の回族についても、見た限りでは問題を見つけることは出来なかった。
中国政府は少数民族の扱いをうまくやっていると感じた。
もっとも蘭州の西隣り、新疆ウイグル自治区のウイグル族やチベット族については分からなかったが。


イ族は中国全体で7番目に人口が多く、雲南省最大の少数民族で、雲南省の11%を占める。
もともと雲南省で、漢民族が占めるのは67%にしかすぎず、残りを27%を7つの少数民族で占めている。

彝族(イ族)は、かつて蔑称の「夷」が通称であった。
「夷」は漢民族の中原からみれば古来より蛮族の一つでした。
イ族は中国西部のチベット族、納西族、羌族の先祖古羌の子孫ともいわれる。
彼らは南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住している。
「羌」は成都で紹介した紀元前1千年紀の金沙遺址や三星堆遺跡の住民でした。



 
< 7. 公園内の中央の通りに出た >


 
< 8. 通りを進み橋に出た >

これで公園の中心を南から北にほぼ抜けた。
この公園には幾つもの池があり、幾つもの島を橋と道で結んでいる。


 
< 9. 橋の上から >

周囲は高級住宅街でしょうか。


 
< 10. 公園の北門を出て >

バスに乗るために雲南大学の前の通りに向かう。

上: 公衆トイレ
今回の旅行で始めて使った街中の公衆トイレ、駅や観光施設内のトイレは使っていたが。
事前に日本で、散策ルート上のトイレをチェックしていて、中国のトイレは急速に整備が進んでいることを知ってはいたが、良くなっている。
綺麗で、無料で、数も沢山あるようだ。

昔、奥地の桂林や客家土楼の観光で経験した酷いトイレは今回の旅行ではなかった。


 
< 11. バスに乗って >

繁華街に向かう。


 
<  12.昆明老街周辺 >

昆明老街の一つを北から南に向かって歩いた。
数本ある中で、ここが最も古い佇まいが残っているようでした。
ここで夕食をとることにした。

上: 通り

中央: この店に入る

下: 店の中のテーブル席
開放的で凝った店内でした。


 
< 13. 店の中 >

上: 厨房の様子

中央と下: 頼んだ料理
中華料理と言っても、今回の旅行では私が日本でよく食べる中華料理にはほとんど出くわすことはなかった。
味も見栄えも様々で、けっこう楽しめた。



 
< 14. 店を出ると >

店を出たのは19時前、辺りはもう暗くなっていた。
1kmほど歩いて南屏街まで行く。

下: 繫華街の中心、南屏街。
幾つかのショッピングセンターやデパートを覗く。
出たのは20時頃でした。

ここは歩行者天国になっており、近くのバス停でバスを待つ。
バスは頻繁に来るのですが、思う行先のバスがなかなか来ない。
さすが大都会です。


 
< 15.バスに乗ってホテルへ >

やっとバスに乗り、ホテルに近いバス停を降りて、ホテルに向かう。
ホテルに到着したのは21時頃でした。

下: ホテル
便利で居心地が良く、高くないホテルでした。


公園の踊りのビデオで、約10秒間ほどです。





次回に続きます。



20200713

徳島の海岸と漁村を巡って 10: 日和佐城と遊歩道






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今回は、既に訪問した日和佐の町を見下ろす日和佐城を目指しました。
今回で、徳島海部郡の漁村と海岸の旅は終わります。
訪問したのは2020年4月23日と24日、快晴に恵まれました。


 

< 2.大砂海水浴場 >

鞆浦から北に一つ大きな岬を越えると、大きな浜が見えました。
ここは海水浴場です。

上: 砂浜の全景。
下: 砂浜の東端。
遠方に見えるのが越えて来た岬です。




 
< 3. 大砂海水浴場の東側に続く海岸 >

下: 沖の島は手羽島です。
これからこの島に渡るために、牟岐港に向かいます。

 

< 4.牟岐町 >

牟岐川の河口に牟岐漁港があります。
河口の右岸に、手羽島との連絡船乗り場があります。
乗り場に行くと、残念ながら渡れないことがわかりました。
一日の船便も少ないのですが、コロナ対策の為に、よそ者は年寄りの多い手羽島への渡航は出来ないとのことでした。
私も年寄りだが、行こうとした自分の愚かさに恥じ入りました。

上: 牟岐川の左岸。


 
< 5. 牟岐駅 >

日和佐までは一度海岸を離れて山間を走ります。

上: 牟岐駅


 
< 6. 日和佐城 >

上: 手前の奥潟川が奥の北河内谷川に合流し、日和佐漁港に至る。
これを見下ろすように右手の山頂に日和佐城が見える。

下: 山頂に来てみると大規模な改修工事中でした。

日和佐城は、かつて山頂にはあったようですが、この写真の物は再現されたものではない。
本当の城の築城時期は、既に紹介した海部城とほぼ重なるようです。
室町時代末期、この地域(宍喰、鞆浦、日和佐)は阿波の三好勢と土佐の長曾我部が衝突する最前線でした。
この緊張した状況が築城に向かわせたのでしょう。
後に長曾我部がこの地を攻略するが、戦国時代を経て阿波は蜂須賀家、土佐は山内家に支配された。


 

< 7. 海岸沿いの遊歩道 >

上: 日和佐城の横を通る遊歩道
全長12kmもあります。

下: 私は番号1から2までの途中を往復しました。
以下の写真は撮影順に並んでいます。

 

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< 9. 日和佐の町を見下ろす >

上: 中央に北河内谷川、左に厄除けで有名な薬王寺の朱色の塔が見える。

下: 手前に北河内谷川が左から右に流れている。
眼下の町が日和佐の中心部です。


 
< 10. 大浜海岸 >

上: ウミガメが来ることで知らている大浜海岸。

下: 大きな洞穴は恵比須洞です。



 
 < 11. 遊歩道から大海原を望む >


これで今回の旅行記を終わります。

次回から、吉野川沿いのかつての商家の町並み、剣山登山、祖谷渓のかずら橋と平家落人の里を紹介します。


20200710

中国の外縁を一周して 44: 新幹線で昆明へ 2






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今回は、新幹線の麗江-昆明間の後半の景色を紹介します。
なかなか見ることのできない中国奥地の景観が広がります。




 
< 2. 新幹線のルート、上が北 >

今回は、鹤庆駅から昆明駅までの車窓風景です。
これは今回乗車のほとんど全区間ですが、鹤庆駅から上関駅までの後半はトンネルが多かった。

数年前、新幹線が出来る前は寝台車だけがこの区間を運行していたので、昼の景色を眺めることは出来なかった。
バスはあるらしいが。

今回の旅行の目玉の一つが、東南アジアやインドに接する雲南(麗江・昆明)の訪問でした。
ここには多くの少数民族が暮らし、また古今に亘りアジア文化が行き交った結節点でもありました。
また中国の中原から見れば辺鄙な山岳地帯であった為、中華文明や中華帝国の影響があまり及ばなかった。
もっとも1世紀、諸葛孔明は雲南を平定し、13世紀、モンゴルのクビライも大理と昆明を征服していたが、あまりも遠方の為か、いずれも現地の王に統治させた。

実は、昆明を2日かけて観光することになったのは香港のデモのお陰なのです。
当初予定では、昆明南から桂林、広州経由で香港まで一気に新幹線で走り抜けるつもりでした。
ビザ無しの観光が15日以内なので、香港1泊を加えて中国の外縁を周るには、昆明南に夕刻到着し、翌朝早くには新幹線に乗車しなければならなかった。
私は30年ほど前、観光で香港と広州を訪れていたので、様変わりした様子を見たいと思っていた。

結果的に、昆明をゆっくり堪能することが出来ました。


 
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写真は撮影順に並んでいます。
ここらはまだ標高2200mほどはあるでしょうか。

 
 
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非常に緑豊かで、畑作も盛んなようです。
蘭州に至る車窓でもトウモロコシ畑が多く見られた。


 
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< 6. 洱海が見えた >

多くのトンネルを抜けた後、やっと大理古城に面する大きな湖、洱海が見えた。
湖の大きさは南北約42km、平均幅は約7kmでしょうか。
大理は白亜の三つの細長い仏塔で有名です。

上: 山の斜面、南面に多くの墓石が見られた。
これまで新幹線で中国を1700km通過して来たが、大規模な墓地を見るのは初めてでした。
北京―鄭州―開封の大平原、開封―洛陽―西安―蘭州の黄河沿いの平原から渓谷では、車窓から見えたのは数基からなる墓石が数個所だけでした。

ここは中原に比べ、墓石の形が違い、集団の大規模な墓地がある。
明らかに文化の違いを感じる。
遠目では分からないが、最も日本の墓石に似ているような気がした。
形は扁平な羊羹を立てようなもので、半数は上部が半円状になっていた。
そして全てが同じ向きに並んでいた。
これは白族(ペー)の墓地かもしれない。

中央と下: 雲が対岸を覆い、よく見えない。







 
< 7.洱海の終端 >

新幹線は洱海の東岸を走るのですが、大理古城は西岸にある。
東岸にも発展中の町がありました。

中央: おそらく島の見える方向の対岸に大理古城があるはずです。

下: この辺りが洱海の南端で、対岸の高層ビル群は大理の新市街、中心部でしょう。

ここからは線路が分岐し、私達の新幹線は昆明に向かいます。


 
< 8. 大理 >

ここはまだ湖の南端、大理ですが、一帯は盛んに建設、開発が進行中です。


 
< 9.風景が変わって来た >

古いタイプの民家は無くなり、住居が密集するようになって来た。
相変わらず渓谷を走り抜けるが、起伏のある丘にも住居がある。
距離的に半分ぐらい来たでしょうか。

下: 新たな墓石が見えた。
一つ一つの墓石が大きく、門型に見える。
ここの様式はまた異なる。


 
< 10. 南华站 >


 
< 11. 楚雄站 >

後、百数十kmで昆明に到着です。


 
< 12. 昆明に到着 >

ここも蘭州と一緒で、最果ての町と思っていたのですが、大都会でした。


次回に続きます。





20200707

徳島の海岸と漁村を巡って 9: 鞆浦を訪ねて 2






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今回は、鞆浦の漁港に沿って岬の手倉湾まで紹介します。


 
< 2. 散策マップ、上が南 >

赤線が散策ルート、Sがスタート、Eがエンドです。


 
< 3.漁協の近くから岬の方を望む >

以下の写真はほぼ撮影順に並んでいます。

上: 中央奥に漁港の開口部が見える。

下: 漁村の東半分。


 
< 4. 漁村の中心部 >

上: 左に2階建ての漁協が見える。
南の方を見ている。

下: 漁港沿いに、半時計周りにほぼ半周して、漁村の中心部を振り返った。


 
< 5. 漁村の終端 >

上: 中央の小山に海部城跡がある。

下: 右手に川に架かる橋がある。


 
< 6. 漁港の防波堤 >

上: 遥か遠くに見える島影は、牟岐港の先にある出羽島や大島です。
北東を見ている。

下: 写真の右手が漁港の開口部です。


 
< 7. 岬の突端にある手倉湾 >

上: 出羽島や大島が見える。

下: 漁港の開口部と牟岐方面を見ている。



 
< 8. 手倉湾から南を見ている >

上: 遠方の岬は宍喰浦の乳ノ崎だろう。

下: 船が見えたので拡大した。



 
< 9. 手倉湾の小島 >

漁師が岩礁で何か漁をしている。


 
< 10. 海部川の河口 >

大きな川です。
今回、訪問した海部郡では最も平野部が広いです。
川の右岸から撮影した。

上: 上流を望む。

下: 河口を望む。

次回に続きます。



20200701

中国の外縁を一周して 43: 新幹線で昆明へ 1





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これから数回に分けて、新幹線から見た麗江―昆明間の景色を紹介します。
思ったより緑豊かな渓谷と盆地が広がっていました。


 
< 2. 鉄道ルート、上が北 >

上: 今回の15日間の中国旅行の経路です。
ピンクが日本との国際線、赤が国内フライト、黒が新幹線です。
新幹線は三回乗りました。
北京-開封は大平原の穀倉地帯、開封―蘭州は黄河沿いの険しい山間を抜けて来ました。
今回の麗江―昆明は高原地帯の山間を走ります。

下: 今回の鉄道ルート。
麗江を2019年10月27日、11:04発、乗車は2時間20分です。
途中、観光地の大理が湖の対岸に見えるかもしれません。


 
< 3. 麗江駅 >

上: 新幹線の麗江駅の正面。
ホテルからここまではタクシーで来ました。

下: 麗江駅の広場。
中国の新幹線駅は広場がやたらに大きくて歩くのが辛い。


 
< 4. 最初の関門 >

中国では、駅舎に入るには先ず切符とパスポートが必要です。
そして、ここでも上記のチェックと荷物検査が最初に行われます。

上: 荷物検査を無事通過した後、振返った。

下: 1階正面。

昆明行きは2階に行かなければならない。


 
< 5. 二階へ上がる >

上: 二階へのエスカレータ。

下: 二階の待合室。


 
< 6. 改札 >

上: 改札口。

下: 乗客が並び始めた。


 
< 7. ホームに入る >

上: 改札を抜けて右を見た。
新幹線はホームの右側に停車していた。

下: 改札を抜けて左を見た。
実に、巨大なホームだ!


 
< 8. いよいよ乗車 >


 
< 9.車窓の風景 >

これから車窓の風景を撮影順に紹介します。
撮影は進行方向右側の景色になり、写真の左側が進行方向です。

始め鬱蒼とした木々で覆われた山並みが続きました。
しかし、出発から数分を過ぎると渓谷を走るようになりました。


 
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畑作地帯と点在する集落が続きます。
西安から蘭州間の黄土高原に比べると、こちらの方が水にも恵まれ土壌も肥えているようです。



 
< 12. 養殖池か >

麗江の古城忠义市场で見た新鮮な魚類は、このような池で養殖されていたのかと一人納得した。


 
< 13. 鹤庆站でしょうか >

発車後の21分後に通過した駅です。
約30kmほど来たでしょうか。


次回に続きます。